9月末、久しぶりに風邪を引く。熱にうなされながら、ナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎討ちははたして本当に「名勝負」だったのかとか、波田陽区と堺すすむの圧倒的な違いについて考えたりとかした。
先日再見した『エドワード・ヤンの恋愛時代』のパンフレットを読むうちに、推薦文を書かれている温又柔という方のことが気になり著書を買ってあったので、寝ながらページを手繰る。幼少期に台湾から日本に移住し、日本語を母語とする方だが、中国語を流暢に話せないことで被る様々な躓きをきっかけに「国語」とは何かを問うたり、国籍や国民というアイデンティティに対するジレンマを綴ったエッセイである。台湾が日本の植民地であったことを忘れられることが本当の「日本人」である条件なのかもしれない、といったような一文を読んで思い起こされるのは、最近、台湾に行った知人たちが口を揃えて「日本語が使えてよかったです」と無邪気に言うことへの違和感である。「外国で日本語が使えること」に対して何かしらの罪悪感を感じないのだろうか、と最初は思った。私が10年ほど前に台湾に旅行した時はそこまで日本語で話しかけられなかったし、日本統治時代の遺構などを見るにつれて否が応でも加害意識が募っていったから、そもそも日本語を積極的に話そうなんて思いもしなかった。しかし知人らも日本統治時代を知らないわけではないだろうから、かの国における日本語感覚に何か変化が起きているのかもしれない、と思うことにした。
ところで来月私は台湾に行くことにした。10年前以来3度目である。エドワード・ヤンの回顧展なるものが未亡人の監修で行われており、スケジュールを見たところどうやら最終日に滑りこむのが不可能ではないということがわかったので、勢いでチケットを取ったのである。しかしチケットを取った瞬間からブルーになってきた。なぜなら前回私はかなり絶望して帰ってきて、言葉が話せない限り、これ以上この国の上辺だけ見ていても何もわからない、次に来る時にはもっと語学的知識と目的意識を持って来なければいけないと思ったからである。台湾の人々が日本に対してどう考えているか知りたいという思いもあるのだろう(大して気にしていないかもしれないが)。しかし私の語学的知識は10年前と1mmも変わっていないので、志半ばでまた台湾に来てしまうことになる。情けないながらも、きっかけをくれたエドワード・ヤンに感謝して、三たびお邪魔することにした。
ところで温さんは呉念眞が監督した『多桑 ToSan』を最近見たという。私はこれが見られるものなら台湾まで行くほどの意気込みなのだが、少なくとも日本で上映される機会はまだない。温さんはどのように見たのだろうか。なにしろ呉念眞は私の理想の大人なのである。こういうことを書くと「YouTubeにありますよ」とかいうやつが出てくるだろうけど、そういうことではないのだ。これは神聖な儀式なのだ。暗闇の中で『多桑』の光を浴びる日はいつだろうか。できることならば、フィルムで上映してほしいものである。
月別アーカイブ: 2023年11月
ヨーロッパ再訪記
随時更新
8月某日 3年半ぶりの匂い
8月某日 ギメ博物館再訪 その1
8月某日 3年前の後始末
8月某日 地図と皿
8月某日 国立図書館の「ミュゼ」
8月某日 ギメ博物館再訪 その2
8月某日 不在のジュネーヴ
8月某日 見知らぬ町の景色
8月某日 地名の喚起力
8月某日 スイスのジミ・ヘンドリクス
8月某日 旅の小休止
8月某日 休止の終わり
8月某日 一番長い日
8月某日 岩絵地図
8月某日 岩絵公園おかわり
8月某日 ボドニ博物館
8月某日 パルマの教会群
8月某日 アッシジへ
8月某日 ポルチウンコラ
8月某日 巨人庭園
8月某日 イタリア地図史博物館
8月某日 パリへの帰還
8月某日 最後の再会
8月某日 あまりにもな別れ
旅の振り返り
旅の振り返り
今回の旅の第一目的は、パリに残してきた荷物を処分することであったし(実際は一時間で終わったが)、色々と世話になった友人たちに(コロナ禍のドタバタでろくな挨拶もせずに別れて以来)久しぶりに会って、お礼参りをすることであった。そういった点においては、目的を達成することはできたと思う(一部の友人には会えなかったが)。でもせっかく行くのだから、締め切りに追われずにゆっくりヨーロッパを見直そうと思っていて、特にギリシャやあるいはトルコあたりまで遡って見ていきたいと思っていたのだが、7月の終わりに「40度の猛暑」というニュースを聞いて、夏に地中海に行くのはやめておこうという決断をした。そして7月末までは学務と課外研究旅行が切れ目なく入っていたので、結果として目的地を考えながら旅をすることになって、旅そのものが一つの思考のプロセスになっていった。カモニカ渓谷の岩絵地図などは碌な資料がなかったこともあり、一度この目で見たいと思っていたから、この旅一番の興奮をもたらした(結果として、洞窟壁画から石器・青銅器・鉄器文化に至るまでの図像の変遷を辿らなければならないという思いは強くなったが)。ルネサンスの先駆けとも謂われるジョットーと、その主題となった聖フランチェスコを訪ねてアッシジに行けたことも、今後の考える糧となるだろう。そして最後にアクシデント的に訪問できたイタリア地図史博物館でも、近代西欧地図学の凄みに改めて衝撃を受けた。
しかし帰ってきてから妻が酒の席で「この人あんまり楽しそうじゃないんですよ」と私を指差しながら言っているのを聞いていてふと思ったのだが(まあもともと無表情ではあるのはさておいて)、ヨーロッパについてはある程度こちらの知識も成熟してきているので、未知のものに接する体験があまりなかったのは事実である。パリでもアジアの宗教美術ばかり見ていたし、無意識に何か別のもの、もっと根源的な問いに対する事例を求めているのかもしれない。2004年に初めてヨーロッパに行って以来(もう19年か…)、基本的にはずっと近代のことばかり考えてきたから、もっと視野を広げないといけないフェーズに来ているのであろう。情報が溢れ返りすぎている(かといってアプリやGoogleに頼らずに旅行するのもかなり難しい)のと、グローバリズムのおかげでどこに行っても同じような光景を目にすることになるので、旅自体がつまらないものになっているのも確かである。とにかく、ここからは少し頭を切り替えていこうと思った旅であった。
8月某日 あまりにもな別れ
朝6時に友人宅を出て、RERの通っている駅まで20分ほど歩く。空港には時間通りに着いたが、セルフ・チェックインの端末で搭乗券を発行しようとすると、「すみません、搭乗券を発行できません。係員に尋ねてください」と出る。スーパーマーケットのセルフ・レジでも結局スタッフを呼ぶ羽目になることがよくあるので、何のために機械があるんだろうね、と思いながら係員に尋ねると、「もう一回やれ」と言われる。もう一回やってみても案の定同じことが再現されるだけなので、係員がスタッフ専用の端末で搭乗券を発行し、「あそこで荷物を預けろ」とセルフの荷物預けカウンターに並ばされる。順番が来て、今発行された搭乗券と、今発行された荷物のタグのバーコードをスキャンすると、「すみません、荷物を預けられません。係員に尋ねてください」と出る。係員に尋ねると、「こうやってやるんだ」と自らスキャンしてみせるが、結局同じエラーが出る。馬鹿かと思いながら見ていると、「あっちの有人カウンターで預けろ」と言われ、犬やゴルフバッグを預けようとしている人たちが並ぶ列に並ばされる。いい加減にしろと思いながら待っていると、別の女の係員が「あなたたち!何してるの!そっちじゃないわよ!」と言ってくる。完全に頭に来て、「あっちに行ったけどうまくいかないんだよ!てめえの会社の糞みたいなシステムをどうにかしろ!」とキレる。テストもろくにしていないポンコツなシステムを実用するから結局人間が対応する羽目になって、しかもその人間はもう頭を使わなくてもいいよう仕込まれているから全く使えず、客がキレる羽目になる。なぜこんな国が先進国ぶっているのか。「ごめんなさい」の一言も言えないエゴの塊ばっかり生み出して、「議論」という名の罵り合いしかできない。こんな国は本当に滅びればいいとすら思った。空港というところはおしなべてストレスフルなのであるが、それにも限度があるだろう。
機内ではあまりにも暇だったので『ロッキー』の続編である『クリード』を見る。決して冴えた監督ではないと思うが、やるべきことを心得ているとは思う。主人公からは「貧しさ」というステレオタイプを除去し、ドブ板物語になることを避けたのが懸命といえるだろう。なにしろクリードを応援する恋人役と母親役の女優が良いし、「自分が生まれたことが過ちではなかったことを証明したい」と言って敵に立ち向かっていくクリードには思わず涙腺が決壊した。パンチをもらいすぎだし、こんな腰が引けたボクサーがいていいのかとは思ったが。
羽田に着いて外に出ると、文字通りまとわりつくような湿気。日本にいた友人たちには申し訳なく思う。
8月某日 最後の再会
いよいよヨーロッパ旅行も最終日で疲労の極みであるが、今日はケルンの友人がわざわざ我々に会いに来てくれるとのことなので、眠い目を擦って北駅に向かう。彼女とは3年前、コロナ到来直前の『ベニスに死す』状態のパリで会って以来で、久々の再会となる。ケルンは25度ぐらいだがパリは35度ぐらいになるのでTシャツで来たらしい。私の用事があった2区の調理道具屋の近くまで歩き、朝食がてらカフェで近況報告に花を咲かせる。
そのあとはルロワ・メルランやBHVのブリコラージュを冷やかしたりしながら、我々の住んでいたシテ・デザールの近くまで歩く。なじみのカフェに行こうとしたが、「コーヒーだけならあっちに座ってくれ」とタトゥーだらけの店員に英語であしらわれ、頭に来たので別の店で昼食を取る。
彼女は18時の電車で帰らなければならないので「もうあと3時間だ!」と焦りながら、結局ずっと散歩をし続け、最終的には北駅まで歩いてしまった。
彼女と別れた後は、最後の買い物をして友人宅に帰る。最後の夕食はバスマティライスと、ココ・ド・パンポル(豆)のスープ、ベルガモットとフェンネルの煮物、チュチュカ、きゅうりのヨーグルト和え、クレポネだった。
明日は朝6時には出発しなければならないので、事前に別れの挨拶を告げ、荷物のパッキングの目処だけ立てて床に就く。
8月某日 パリへの帰還
朝5時過ぎのトラムでフィレンツェ空港に向かう。トラムの駅ではおじさんがティッシュも使わず鼻をかみ、地べたに鼻水を叩きつけていた。そこに泥酔した男がラップを歌いながらやってきて、脳が死滅するような光景が展開する。
格安の航空会社vuelingのカウンターに行くと、おねえさんがワンオペで回していて、朝5時半にもかかわらず長い列ができている。そこにプライオリティーを持った人がやってくるので、全く順番が回ってこない。40分ぐらいしてようやく別の職員が来て、荷物を預けることができた。搭乗口に向かう途中では朝6時なのに全ての店が空いていて、グッチだかフェラガモだか知らないが、女性がブランド物の試着をし、店員がそれを眺めてお世辞を言っていた。繰り返すが、朝6時である。
パリに着いてその足で友人宅に荷物を預け、一緒にマルシェに向かう。3年ぶりに見るマルシェの人々はあまり変わっていなかった。セイダカアワダチソウのような黄色い花がまるでミモザのように咲き誇っていて、印象的だった。心から植物を好きな人が育てた野菜を見ると、生き返るような心地がする。
その後友人の言葉に甘えてニョッキを食べ、昼過ぎから買い出しに出かける。まずは本屋で友人が関わったエリゼ・ルクリュとニコラ・ブーヴィエの本を買い、その後は食料品店をはしごしてお土産を買い込む。
夜はチュチュカ、きゅうりのベジヨーグルト和え、じゃがいものガレットなどをいただく。イタリアではさぞやうまいものを食ったのであろうと言われたのだが、ほとんど食いっぱぐれる旅であったので、血の通ったご飯が非常にありがたかった。
8月某日 イタリア地図史博物館
イタリア旅行もついに最終日であるが、早朝からオンラインで面談と打ち合わせをこなす。そうしていると数日前に訪問の申し込みをしていたイタリア地図史博物館の方から返信があり、来ても良いとのこと。ただし閉館が13時なので、急いで向かう。しかし方々で工事がやっていて、近くに着くはずのバスがあらぬ方向に走り出し、途中で飛び降りる。工事で半分封鎖された道を延々と歩き、10時半に博物館に着く予定が、一時間も遅れてしまった。
博物館は軍の施設のようで、入り口で迷彩服を着た青年にIDをチェックされる。メールには「私を呼び出して」と書かれていたので、それを彼に伝えたが担当者女史の内線番号がわからないらしく、一悶着ある。結局、たまたま通りがかった同じ部署の人が彼女に直接伝えてくれて、わざわざ迎えに来てくれた。海外でのこのような悶着はよくあることで、嫌いではない。
博物館の入り口では、いきなりカッシーニ家のジョヴァンニ・マリア・カッシーニによる巨大なイタリア全土地図を見せられる(ちなみに彼はピラネージの弟子らしい)。「幾何学的にあまり正確ではない」と言っていたが、それでも非常に精密な地図である。1860年代の制作であるにもかかわらず、海に怪物がいるのが印象的であった。海上には船のデッサンがあり、マストの先からひたたれのようなものが垂れていて、「これは何?」と尋ねると、「私が思うには風の方向を示しているんじゃないかな」と言われる。
次に大判のフィレンツェ地図、ナポリの景観地図、パドヴァの巡礼地図を見て、「この博物館はとっても小さいんだけどね」などと謙遜されるが、その後、カッシーニ時代の測量器具や、空中写真から地図を興す器具、ローマ時代の測量器具などが置かれた廊下に通される。既に小さくも何ともない、と思いながらついていくと、その廊下の突き当たりで、ヴェネツィアはマルチャーナ図書館に実物のある「フラ・マウロ図」の精細な写しを見せられる。写しでもかなり興奮するのだから実物は相当なものであろう。さらに「フラ・マウロ図」の隣の扉から入る部屋には、壁面の本棚にずらっと本が並び、奥にはカッシニ家の作った地球儀と天球儀が置かれ、その間には銅版画地図とその原版が置かれている。地図の銅版画原版を見られることはほとんどないので、「えっ、こんな原版をコレクションしているのですか」と尋ねると、「そうね。でも原版の前で喋ったり、触ったり、息を吹きかけただけで錆びちゃうから、展示や保存が難しいの。」とのこと。いつかじっくりお目にかかりたいものである。
最後にはガラスキャビネットに貴重な地図学書がずらっと並んだ廊下を見て、「ここで終わりよ」と言われる。もっとじっくり見たかったが、時間も時間であるし、いずれ研究の名目で来られたらと思う。
女史の説明によれば、ここはイタリア統一時にそれまでトリノにあった地図学制作部門を首都であるフィレンツェに移設したもので、首都がローマに移った際もここに残すこととなったという。軍と民間の半々の施設らしく、彼女は民間から雇われているらしい。私のようなマニアックな人しかこなさそうな施設だが、「結構来るわよ。授業で学生さんがよく来るし」とのこと。世に地図の博物館はもっと増えてほしいと思うので、とても嬉しかった。
それにしても1時間で超濃密なものを見たという思いが残る。
地図史博物館が想定より早く終わり、14時閉館のStibbert博物館に滑り込みそうなので、炎天下の中ずんどこ歩く。最後の上り坂がきつく、最終入館時刻の10分前になんとか辿り着いたが、受付の婦人に「あと1時間で閉館よ。そして展示はものすごく広いわ」と冗談混じりに脅される。ここは武器・甲冑がずらっと並んでいる恐るべき博物館で、ヨーロッパだけではなくペルシャや日本の鎧兜までかなりの数が並んでいる。日本でもここまでの数が一堂に介している場所はそうそうないのではないだろうか。父が英国人のフレデリック・スティッベルトが、東インド会社の司令長官だった祖父から莫大な遺産を受け継ぎ、このコレクションを成したらしい。庭には小さなグロッタもあり、甲冑好きの友人のために来たが、なかなか興味深い場所であった。
もはやイタリアでやることもやり尽くしたので、昼飯を求めて街の中心を彷徨い歩き、教会のファサードだけ見たりして、前回の訪問を思い出そうとする。前回は一週間いたのに、記憶の彼方である。イタリア最後の日であるからレストランぐらい入ろうと思っていたが、目当ての場所は例の如くバカンスのためどこも閉まっており、巨大なスーパーに行ったが、もう出来合いのパスタなんか食べる気がせず、イタリア人までこんなものを食っているのかと怒りすら湧いてきて、何も買わずにホテルに帰る。こんな均一なものばかり見ていたら脳みそが腐るんじゃないか。
8月某日 巨人庭園
今日は朝食を食べる暇もない早い時間からアッシジを出発し、フィレンツェに移動した。もうここからはパリへの帰り道なので、フィレンツェはその経由地点にすぎない。数年前に行ったところであるし、とにかく観光客に揉まれるのが耐えられそうにないから、教会や美術館などは巡らない予定である。
予約したホテルはフィレンツェのS.M.N.駅と空港を繋ぐトラムのちょうど間にあるようで、最終日の空港移動に便利そうであった。チェックインを済ませて、さて何をしようかと考えて思い至ったのが、フィレンツェの北の方にある巨人の彫刻がある庭園(Villa Demidoff)である。非常にアクセスが悪そうだが、Google先生に聞くと、2本のバスを乗り継げば行けるらしい。便利すぎて何の旅情もないが、時間もないのでたまにはその便利さに負けてみる。
庭園はバスの終点であるPratolinoにある。途中でフィレンツェ市内からは飛び出し、車内に残されたのは、我々と現地人らしきおばさん一人だけであった。こんなところにまで来るアジア人もそうはいまい。物数寄万歳である。
バス停から庭園までは歩いて10分ぐらいで着く。イタリアの夏の太陽が燦々と照りつける中、庭園に入る。広大な敷地の中、ベルギーのアトミウムのようなエコ実験施設を過ぎると、蓮の花の咲き誇る池の向こうに髭の巨人「Colosso dell’Appennino」はいる。海底での長い眠りから覚めたかのように岩や植生と一体化した彼は、泉に水を吐き出すのであろう巨大な亀の頭を押さえつけている。それはアペニン山脈を象徴しているらしく、16世紀に彫刻家Giambolognaによって考案されたという。巨人の下にはグロッタがあるらしく、ぜひ入ってみたいと思う。
庭園の各所には多孔質の石灰石で作られた彫刻が置かれており、それが海を思わせる。同じく園内のグロッタには牡蠣やホタテの貝殻も埋め込まれており、まぐわいないし女性期の隠喩、すなわち生命が生まれる場所という意味合いが込められているのであろう。また、オリジナルのプランには巨大な水路が貫き、パースペクティブを提供していたようで、すでに水路は消失しているがその面影を見ることはできる。そもそもここはメディチ家の別荘の一つで、ボーボリ庭園やウフィッツィ宮で知られるブオンタレンティが設計したものらしいが、そのほとんどが後世に改修されてしまったらしい。イタリア人のこのような大胆さと、人を驚かせようという精神に私は惚れる。
夕方ホテルに帰るが、日曜かつバカンスという論理式の結果どこもやっておらず、少し歩いたピザ屋に行く。太ったおかみさんに「今立て込んでるから50分はかかる」と言われるが、他に選択肢もないので待つこととする。待っているとフードデリバリーやら電話で持ち帰り予約の客がひっきりなしにやってくる。ウディ・アレンを思わせる背の低い旦那さんは、注文を間違えてしまったために、ピザを焼いている太った息子とおかみさんに怒鳴られてしまい、店内は阿鼻叫喚の様相を呈する。居心地の悪さを感じながら無の境地で待っていると、30分ほどでピザを渡された。しかしホテルに帰って開けてみるとなぜかサラミが乗っていて、絶望に絶望を重ねる夜であった。
Teatro Puccini
8月某日 ポルチウンコラ
今日は本格的にアッシジの街を見る日である。
ホテルの朝食は、甘いクロワッサンとケーキだった。やはりイタリア人は甘党なのだろうか。別に期待していなかったが、マシンで提供されるコーヒーはドブ水のような味だった。インテリアといい、朝食の提供方法といい、昭和のホテルを思い出す。
昨日と同じサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会横の停留所からバスに乗り、昨日と同じサン・フランチェスコ教会近くの停留所で降りる。朝だから上堂は静かなもので、静寂の中ジョットーを鑑賞する。他に誰もいないというのは最上の価値である。
以降は詳細を書くときりがないが、サン・ルフィーノ教会、新教会、サンタ・マリア・マッジョーレ教会などを巡る。
最後に下の町に降りて、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会を拝観する。ポルチウンコラという小さな礼拝堂があり、それを覆うように聖堂が建っている。サン・ルフィーノ教会にはサン・フランチェスコの最期を描いた絵があり、そこでは洞穴のような場所で弟子に囲まれて横たわるサン・フランチェスコが、山の上の旧市街を指差していた。その洞穴のようなところがこのポルチウンコラなのだろう。本当に小さい空間だった。
予定を消化したのでホテルに戻り、ベッドに寝そべりながら調べ物をしていると、シモーヌ・ヴェイユがポルチウンコラで啓示のようなものを受けたということを知る。私には啓示は降りてこなかったが、何か感じるものがあるのもわかる静謐な空間であったと思う。
日記をつけながら、旅とはいったい何であるかを思う。旅で何かを完全に理解したという経験は実は少ない。旅とは、何かを考えるきっかけを得るためにするものではないだろうか。「見聞を広める」とはよく言うが、より正確に言えば、自分は新しいことを考えるぞ、という目的意識を持って旅先を決め、そこから得た気づきをもとに、新たなことを考えていくプロセスの一環なのである。その気づきが考察に変わるには数年ないし数十年かかることも珍しくない。仮説を確信に変えるための旅も必要だろう。だから、今の時点で無理に何かを日記に綴る必要はないのだ。何しろそろそろ疲労していて言葉を紡ぐのも億劫になる頃なので、あとからまとめる気力もないのである。
そういえば書き忘れていたが、私の中で「アッシジ」という地名は、手塚治虫の『ブッダ』に出てくる「アッサジ」という人物(ブッダの弟子)と重なっていて、音以外に何のつながりもないけれども、何か仏教的な価値観が聖フランチェスコに通じているのではないかと思ってしまう。「アッサジ」はわが幼少期の精神を形成した漫画の一つ『三つ目がとおる』の写楽保介と同じ造形をしており、すっとろくてブッダの足ばかり引っ張っているのだけれども、自分の死期を予知し、自己犠牲をもって罪を償うという人物である。同じ『ブッダ』には虫を踏み殺さないように四つん這いで歩く人物も登場し、私の中でそれらが混然となって聖フランチェスコ像が形成されてしまっている。とんでもない勘違いであるとしても、強ち間違ってはいないのではないかと思っている。
8月某日 アッシジへ
旅の最後の目的地であるアッシジに、朝も7時台の電車で移動する。イタリア国鉄のシステムもすっかり電子化されていて、スマホで切符を買ったりチェックインしたりできるようになっている。それもそれでややこしくて、「ようやく慣れたかなあ」と思っていた頃だったのに、車中で妻がEチケットを見ながら「最後の乗り換えは電車じゃなくてバスではないか」と言い始める。「そんなバカな」と思ったが、確かにそこにはバスと書いてある。はるか昔、ラ・トゥーレットに行く際にリヨン駅でTさん夫妻と構内を疾走し、バスに飛び乗った苦い思い出が蘇る。スマホで調べると、イタリアの特急に乗った人専用の接続用バス(名前はフレッチャ「リンク」)で、フィレンツェ駅周辺の「どこか」から発車するらしい。その「どこか」は着いてみないとわからず、直前まで不安だったものの、フィレンツェ駅に着いたら看板を持った職員が立っていて、出口を出てすぐのロータリーに発着することを教えてくれた。無事にバスに乗り込み、アッシジまで揺られることとなった。
途中、海のようなものが見えて、「え、そんなに海に近いはずは…?」と思ったら、ラーゴとのこと。中部イタリアにもこんなに大きな湖があったのですね。
昼過ぎにアッシジ駅に到着する。だいぶ南下したこともあり、やはり暑い。炎天下の中、ホテルまで20分は歩く。宿に着いてみると団体客や合宿生が泊まりそうなところだったが、まだ部屋の準備ができてないので2時まで時間を潰してくれと言う。早く到着した我々が悪いので、近くのカフェバーで茶をすることにする。店員のおじさんは英語を話さないが、色々気配りをしてくれて嬉しかった。ホテルに戻って案内された部屋は狭く、かなり質素なものだった。外の音は丸聞こえで、思わず、聖フランチェスコの気持ちになれるな、と呟く。
アッシジの中心は山手の方で、ホテルからは離れているが、バスで一本でたどり着ける。外から見ると大聖堂下の基壇部(おそらく修道院)がまるで砦のようで、チベットはラサの写真を想起させる。宗教の大本山とはかくあるものか。
到着したバス停はサンフランチェスコ大聖堂の近くなので、途上の気分の盛り上がりもなく、一直線に大聖堂に向かうこととなった。アッシジはもう少し静かなところだと思っていたが、それなりに観光客だか巡礼客だかでごった返し、お土産屋がズラーっと並んでいる。まあ高野山や比叡山みたいなものか、と思いながら大聖堂に出る。大聖堂前の広場は傾斜がついていて、左右のポルティコ状の回廊が遠近効果を引き立て、大聖堂へのヴィスタを構成している。
大聖堂は下堂と上堂の二層に別れていて、ジョットーによる聖フランチェスコの生涯を描いたフレスコ画があるのは主に上堂とのことだが、下堂の壁画・天井画もすでに相当なものである。私のアッシジへの興味はまず聖フランチェスコにあり、彼が動物を愛し、動物に説法をしたという逸話に惹かれていたということにあったので、ここに来て壁画を見たことには大きな価値があったと思う。ジョットーについてはここだけ見たところでたいそうなことは言えないが、思うに、まず聖フランチェスコという対象そのものがそれまでの中世キリスト教絵画にない主題を切り拓き、ジョットーも彼に向き合う中で新しい描き方を開拓しなければならなかったのだろう。明日もう少し静かな時間帯に再訪することにする。
なんとかと煙は高いところに登りたがるので、アッシジの町を高い方へ高い方へと登っていきながら、眼下の田園地帯の風景と、オレンジ色の瓦屋根を楽しむ。聖フランチェスコに師事した聖クララを祀った教会まで歩き、バスでホテル方面に帰る。