5月映画日記-2

5月某日
まさかオンラインにあると思わなかったロッセリーニ『ロベレ将軍』。デ・シーカ演じるしがない詐欺師がゲシュタポに逮捕されるが、パルチザンの指導者的存在「ロベレ将軍」の望まれざる射殺を隠蔽したい当局の申し出によって、将軍の身代わりとして刑務所に入ることを持ちかけられる。元来人を騙すことが得意な詐欺師はいかにも将軍然として振る舞いはじめ、同じ刑務所に幽閉された民衆たちに受け入れられていく。しかし一斉検挙された新規囚人のグループの中に紛れたパルチザンのリーダーを見つけ出すというミッションを与えられ、私益と良心との間で葛藤した詐欺師は、無実の解放か、将軍として銃殺されるか究極の選択を迫られる。
状況はかなり滑稽なはずで、やりようによってはヒッチコックのようなサスペンスにもルビッチのようなコメディにもなるだろうが、どちらにも転ばないのは節度であるのか、世論が許さなかったのか、「現実」に固執したためなのかはわからない。今更言ったところで始まらないが、思い切りフィクションに振ってしまった方が真なることを伝えられるのではないかと思う。

5月某日
ホン・サンス『よく知りもしないくせに』。これはさすがに画を捨てすぎだろうとは思ったが、済州島で先輩の画家とその奥さんである自分の元カノが出てくるところから引き込まれてしまった。画家の家の脇に干上がった川底を見つけた「監督」が、自分のために料理をしてもらっている最中であるにも関わらず嬉々として海に向かって駈け出してしまうという、ほとんど無意味に近い逸走が、近年見かけることのなくなった優雅な振る舞いとしてやにわに感動的である。非常に個人的なことだがこの「監督」演じる俳優の髪型だか顔だか姿勢だかが自分を思わせるところがあり(動きは八嶋智人だけど)、自分の写しのような人間がふらふらと女に棚引いたり、未練がましく元カノの影を追い求めたりするのがなんともむず痒い。
同日、ホン・サンス『ハハハ』。同じ町に里帰りした男2人が飲みながら思い出話を語り合うが、お互い同じ場所、同じ友人、同じ女について話しているのに全く気づかない、という仕掛け。思い出の部分がカラーの動画であるのに対し、その思い出話をしている「現在」の部分がモノクロ静止画で示し出され、それがどうにもボラギノールのCMを想起させて笑えてしまう。監督のあずかり知らぬところで日本人だけがクスクス笑って申し訳ない。それにしても『よく知りも』から1年でこの画面の変わりばえはいったいなんなのか。俳優も抜群にいいし(名前を覚えられる気がしないが)、往年のホウ・シャオシェン映画を思わせるような情感ある画面が続く。統営と呼ばれる、湾を山が囲んだ形の街が何よりすばらしい。ここまで政治性も社会性も皆無で、純粋に惚れた腫れたの話しかないのは爽快なぐらいで、むしろ映画にそのようなものを乗せようとするほうが不純なのではないかと反省させられるぐらいである。この人はおそらく世界中どこに行っても映画一本ひねり出してしまうのだろうな。

5月某日
ホン・サンス『次の朝は他人』。地方に引っ越した「監督」が久しぶりにソウルを訪ね、最小限の場所に行くだけで人に会わないようにしようと冒頭で宣言するものの、案の定というべきか、酔っ払って元カノの家に押しかけて泣き出したり、その元カノに瓜二つのバーのママに会って靡いてしまったりで、結局色々やらかしてしまうという話。冒頭、酒場で飲み交わした見ず知らずの3人の映画学生に「いいところに連れて行ってやる」と言ってタクシーで遠方に連れ出すものの、急に「俺の真似をするな!俺につきまとうんじゃない!」と言って逸走してしまう監督。劇中の学生たちと一緒に完全に呆気にとられる観客。いきなり「監督」の信憑性は不確かさの方に振り切られる。毎日同じ通りで出くわす女性。昨日いきなりキスされておきながら覚えがないと言うバーのママ。懐かしげに話しかけてくる見覚えのない男。ファンだと言って写真を撮らせてくれと言う女性。知ってること/知られてることという主題を巡って「監督」はソウルを歩き回る。

5月某日
DVDも持っているのにオンラインでトニー・スコットの『マイ・ボディガード』をつい見始める。トニー・スコットは偉い。現代アメリカでこんなに人間を信じた映画監督がいただろうか。挫折した人間が、ふとした相手と知り合うことで再び輝き奇跡をものにする。ノーベル賞ものではないかと一人で思う。

5月某日
J・P・メルヴィル『恐るべき子供たち』。非常にオリジナルなスタイルだなとは思うが、原作者コクトーによるナレーションがバシバシ入るのが原因か、入り込めず。母国語ではない言葉の映画を見ることは想像以上に難しいことなのではないか。ベッドに横たわる弟に話しかける姉を、仰瞰で捉えるショットが非常に鮮烈。

5月 映画以外日記

5月某日
『ペスト』には、人々はやがて未来について考えるのをやめたというようなことが書いてあった。前向きに生きようとしないと希望を持てないとはいえ、いつやってくるのかわからない未来を前提とするのは辛いものである。未来が無ければ過去しかない。ペストの街の映画館では同じフィルムが繰り返し上映され、劇場でも同じ戯曲が上演され続けた。それでも観客はいっぱいだったのである。確かにこれは過去のものを見直すのに最適な時間である。むしろこれまでは何をあんなに新しさを求めていたのだろうかとすら思わされる。ある種のヨーロッパ人のように古典を至上としてそれを反芻し続けるのもそれはそれとして理のあることであろう。しかし積極的に未来を描かなくても、過去と現在を蹂躙し私腹を肥やそうとする奴がいるのだから人はやはり戦わなければならないのだ。

5月某日
当初は海外の友人にも積極的に連絡を取っていたが、常に自粛を迫られて内向きになっているからなのか、あるいはそれぞれが疫病の流行曲線の異なる時期を生き、それぞれのドメスティックな状況を戦っているのだからそっとしておくべきだと思うからなのか、あるいは何かしらの嫉妬や憐れみの感情からなのか、いつしか連絡をするのも億劫になった。フランスは外出禁止令が解除になったそうで、それが本当にコロナ終息を意味しているのなら喜ぶべきことだろうが、未だに1日400人も新規感染者がいるし気軽におめでとうとは言えない。寧ろ疑念しか湧かない。個人の自由を徹底的に奪うのが疫病であるなら、自由について希望を持つことを不謹慎だと思うように人はいつしか飼いならされていく。日本も外出自粛「要請」しかなく経済的支援もいまだろくに行き渡っていないにも関わらず、自己防衛のおかげでかなり感染者が減ってきたし、マスクや除菌グッズも市場に出回ってきて、医療現場が今どうなっているかはわからないけれども、懐疑的な私ですらもう外に出ても良いのではと思うようになってきた。しかし外に出てみれば世の中は思った以上に停止していて、そういう気持ちになった自分を反省してみたくもなるし、果たしてこのまま新規感染者が0になったところで諸手を挙げて祝おうという気にはなれないだろう(友人とコーヒーを飲んだりはするだろうが)。むしろ『ペスト』のコタールのようにこの状況が止むのを恐れてすらいる。この不思議な感情はなんだろうか。それに何か本当に社会のシステムが変わろうとしているとすら感じられる。それは「コロナ後の新しい社会秩序」とかではない、得体の知れないもののような気がする。私には大企業の空気など想像すらできないが、毎日終電が当たり前だった会社ですら数ヶ月先のテレワークの連絡が聞こえてきているし、大学も今のところ前期はオンライン授業で突き通すようである。私には日本社会がもっとどうしようもなく変わりそうにないものだと思われていた。しかし本当に根本的なものが変わろうとしているのか。そしてそれに自分自身が置き去りにされようとしているという感覚もある。果たしてどうなるのか、想像がつかない。

5月某日
家にいるのがあまり好きではないのだが、家にいなくてはならないのであれば少しでも快適にするしかない。引っ越して以来放置してあった本やCDを処分し、本棚を移動、ストレスフルだった場所を機能的に改善する。シンクの錆や鍋の焦げ付きを掃除し始めたら何かと気になり始め、ハイターや金属磨きなどを買って磨き始める。良い労働になったが妻には狂気を感じると言われた。

5月某日
朝から近所の地主のジジイの怒声が聞こえてくる。ベランダから見れば誰にというわけでもなく怒って回っている。ある日突然嬉々として大木を切り倒したり、道行く人にガン飛ばしている親爺で、私も何度か因縁をつけられたことがある。なんともない時もあるから単に虫の居所が悪いのか発作的なものなのかよくわからない。あとで近所を歩いてみれば、その大木を切り倒していたところに新しい家が建つらしい。朝8時きっかりから草刈機の音が響く日々が始まる。

5月某日
前日朝まで起きてたため昼過ぎに目が覚めると、3度程ガラスを激しく叩く音がした後に割れる音がし、子供の泣き声と共に大家さんを呼ぶ声が。ベランダから見ると、外に子供2人が飛び出してきていて、1人が手から血を流し叫んでいる。妻が先に救急箱を持って降りていって、完全に寝起きだった私は後から掃除道具を携えていったところ、真下の家の3兄弟の子が手当てをしてもらいながらふさぎこんでいる。親も不在の模様。隣の家の奥さんも駆けつけて手当てをし、私は家に上げてもらってガラスの掃除。遊んでいて窓をぶち破ったらしいが、そこそこ丈夫なガラスなんだけどな。大家さんが車で公立病院まで連れていったが大事なかった模様。あとで妻と「下のお家、物が全然なかったね…。うちはなんでこんなに多いんだろう…。」と嘆息する。

5月某日
カミュ『異邦人』読了。遅読なのでこんな薄い本を読むのでさえ3日かかる。原文は読んでないが複合過去ばかりで書かれているらしく、確かに他人の日記を読んでいるような、回顧的で単純な一人称の文章が続く。カミュが果たして文体で評価されるような作家なのか、説話で評価されるような作家なのか、あるいはその精神や問題意識によって評価されるのかは私にはわからない。ただ日記としての感想を記す。母親が死んでも大して動揺せず、翌日偶々再会した同僚の女と関係を結び、フェルナンデルのコメディ映画を見たり女衒の知人の諍いに首を突っ込んでみたのちに、行きずりで人を殺してしまったというだけの話だが、生に不必要に意味を与えずただ自分に正直でいただけなのに、検事や弁護士によって自分が不在のまま自分の物語が作り出され、特に脈絡のなかった行動の全てが動機あるものとしてつむぎ直され、ギロチン刑を宣告される。前半の地中海の太陽溢れる欲望の世界が、衝動的な、しかも憎しみや逆上ではなく「太陽のせい」という理由だけで行われてしまった殺人を機に一転し、全てが巻き戻されてネガティヴなものとして語り直されていくところは衝撃的である。死刑を宣告されたムルソー氏にあくまで超越的な神を前にした悔悛を迫る神父を執拗に拒絶し、最終的には胸ぐらを掴んでキリスト教の誤謬を問いただすところは『ペスト』にもつながる主題である。思えば泣くという行為は人間の根源的な表現欲求でもあるし、後から社会的に学習した慣習的行動であるとも言える。子供の頃、いつものようにマンションの駐車場で遊んでいると、螺旋の非常階段を降りてきたいとこのお姉ちゃんに祖父が死んだと告げられた。この時私は特に泣いたりはしなかったし、悲しかったかどうかもわからない。それは死ぬということがどういうことかわかっていなかったからかもしれないし、祖父とそんなに親しく遊んだわけでもなかったからかもしれない。しかし長く一緒の時間を過ごした祖母が高校の時に他界した際も、喪失感はあったがその場で号泣したりはしなかった。人が死んだら悲しくて泣くものだというのはよく知っていたにも関わらず、そのような感情に要約できたものではなかった。私はずっと泣き虫で保育園時代はずっと泣いていたが、なぜか昔から死ぬことについては達観していて(手塚の『火の鳥』を読んたからか?)、縁起でもないけれど今近しい人が死んだとしても果たして泣く自信はない。映画を見て泣くことはやがて憶えたにも関わらずだ。他人から見れば冷血なのかもしれないが、私は私なりに受け止めていて、未だに忘れられない死を日々思い出しては考え込む時もある。『異邦人』のムルソーも母を養老院にやることが最善であったし、母はそこでかつてなく幸せだったのだから悲しむことはないと考えていた。現代社会で生きていくにはある程度自分の人生を物語化して語らなければいけない。私はここでこう考えてこうしたのだと論理立てなければいけない局面が多々ある。あるいは論理立てて行動した方が効率が良いだろう。しかし人間の行動などその場任せのものではないのか。人生で起こるハプニングにその場その場で思いついて行動したことの集積に過ぎない。その人生全体に意味を持たせられる人間などそうはいないだろう。ムルソーは恋人に「私を愛しているか」と問われ、「それはわからないが、君が結婚したいというのならそうしたいと思う」と返した。しかしそのようなことを口にする勇気が私にはないだろう。なんという率直で自由な男だろうか。『ペスト』のタルーが死刑を目撃した時の嫌悪感をきっかけに検事の親父と社会を憎み始めたと語り始めた時も、最初は「それを言ってしまってはおしまいじゃないか」と思った。しかし早急に死刑に対する賛否だとか自然法と実定法とかいう話になるのではなく、人間本来の生というものはそのように奪われて良いものなのか、そして社会という名の下に、しかも代理人の手を持って、人の生を抹殺しても良いのかという地点にまで戻してくれる。少なくともカミュの2作品は私にとってこのようなことを考えさせた。

5月映画日記1

5月某日
悪癖がぶり返してステイサム映画を4本立て続けに見る。暇なのかって?暇だよ。
未見だった『メカニック:ワールドミッション』は前作とあまりに変わりすぎていて本当に見たのか不安になり、つい再見する羽目に。前はそこそこストイックな路線でやっていたのに、普通のできの悪いステイサム映画になってしまったじゃないか!コンセプトは大事にしてくれ。「ジェニファー・ロペスの出てるやつ」(『パーカー』)に続き、「ジェシカ・アルバの出てるやつ」として記憶にしまわれるだろう。
一方、フランスにいた時にポスターを見かけて悪い予感しかしなかった『SPY/スパイ』は意外に良作だった。太っちょのCIA分析官メリッサ・マッカーシー(きっとアメリカでは有名なコメディエンヌなのでしょう)が、パートナーの調査官でイケメンプレイボーイのジュード・ロウに代わって現場の調査任務を行うことになるが、意外な身体能力を発揮して、というコメディ映画。007のパロディとマッカーシーの自虐ネタが散りばめられ、合間にステイサムがステイサムのパロディをする。今までしっくり来たことのなかったジュード・ロウもチャラ男役がハマっている。あんなにデブネタやってもいいのかとアメリカのポリコレ像が歪むが、自虐だからいいのかしら。

5月某日
友人とステイサム情報を交換していたら、昨日キアヌ・リーヴス主演の『コンスタンティン』を見たと言われたので早速見てみることに。造形美と衒学的な台詞で2時間。シリアスなシャマランというか、エヴァンゲリオンというか…。ティルダ・スウィントンにあの格好させたかっただけじゃないのか!というぐらいハマっていた。レイチェル・ワイズがここでも堅実な仕事をしている。
その勢いで最近やたらとネット上で見かける『ジョン・ウィック』に手を出す。犬を殺された元殺し屋のキアヌ様が、ロシア系富豪のどら息子に復讐するため、拳銃を拳法みたいに使って何十人も殺しまくる。中学生が考えたような殺し屋世界の設定の中で、ユーモアもサスペンスもなくただただ血しぶきが飛ぶ。惰性で『チャプター2』も見始めたが、20分でギブアップ。本当に具合が悪くなる。今まで『ダークナイト』ほど退屈な映画を観たことはなかったが、それと並ぶかもしれない。『サムライ』の爪の垢でも煎じて飲めとは言わないけど、ジョン・ウーぐらいの爽快な馬鹿馬鹿しさは欲しい。

5月某日
お薦めアルゴリズムに促されるままに、見逃していた『ジャック・リーチャー:Never go back』を。やはりトム様が出るとそれなりに映画になるが、トム様の朦朧とした演技はもういいよ、とは言いたくなる。果たして前作が良かったわけではないが、マッカリー色が抜け、ロザムンド・パイクみたいな強烈なヒロインもいないので、こちらもコンセプトが希薄になってしまった。

5月某日
友人Kがテレ東でデンゼル主演の『イコライザー』を観たというので、公開当初見送っていた私も見る。ホームセンターの商品で戦うというゲームの規則は好きだけれど、意外と簡単に撃たれたり格闘で瀕死になって助けられたり、こういう映画には手際が必要なんだよ!と言いたくなる。せっかくの設定にもかかわらず道具の使い方にアイデアが感じられないのがなんとも残念。そもそも初老で腹の出たデンゼルにアクションやらせるのはどうなの?という懸念は最後まで払拭されない。世の中にはデンゼル映画というジャンルがいつしかできていたのだろうか。アントニオ・バンデラスを濃縮したみたいなロシアの刺客は、ひたすら気持ち悪いだけで強いのか弱いのか全くわからないまま終わった。メリッサ・レオが唐突に出てくる。
もう予想できるだろうがしょうもない私はその勢いで『イコライザー2』に手を出す。『1』で調子に乗ったデンゼルがほんとに水戸黄門みたいな世直しを始めてしまって、これはまた身内が痛い目を見るパターンではないかと心配していたところ、やはりデンゼルと心通わせた人は皆不幸になることに。CIA時代のチームメイトの前にひょっこり顔を出すところから少し面白くなってきて、ラストの嵐はなかなか見ものだったけれども、1のホームセンターみたいな路線ではなくなってしまってやたら残虐な復讐鬼に。今のアメリカではこういうのがウケるの?戦争ゲームのやりすぎじゃない?

5月某日
『ジョン・ウィック』に足らんのは『リミッツ・オブ・コントロール』なんだよと思ったか思わないでか、ジム・ジャームッシュ『パターソン』。どちらかというと苦手なほうのジャームッシュだし、朗読される詩の良さが全然わからなかったが(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩を知らないのが問題なのか)、あれだけシンプルな撮影でこれだけ魅せられるのは流石と思った。毎日郵便受けの傾きを直すところがリズムを作っていて良い。悪夢みたいな嫁の趣味に文句一つ言わないアダム・ドライバー、いい人すぎでしょ。

5月某日
友人からネトフリのドラマがどうとかアマプラのオリジナルがどうとか言われるが全く見る気になれず、時代劇専門チャンネルに入って『御家人斬九郎』の第1シリーズを見る。あれ、昔のテレビドラマなのに4:3じゃなくて16:9だ、というのが不思議でしょうがなかったが、リマスターの際にもとのキャメラマンの人が監修してフィルムからトリミングし直したらしい。いやあもう霧雨やら雪やら反射光やら撮影が素晴らしいし、演劇集団 円を中心としているであろう達者な俳優陣、よく練られた脚本、全くテレビとは思えない。6話や7話も良いが2話の丹波哲郎の回が最高である。私は子供の頃、両親が店で働いていたため学校から帰ると隣に住んでいる祖母の家に直行し、夕飯が供されるまでの間一緒に雪の宿や味ごのみなど食いながら夕方の時代劇の再放送を見ていたのだが(そのあとは相撲に流れる)、『水戸黄門』『大岡越前』『銭形平次』のループばかりで夜の時間帯の『鬼平』や『斬九郎』などは通ってこなかった。今と変わらずおバカだったので見てもわからなかっただろうが、妻は私の遥かに及ばない時代劇教養の中で育っており、隣で見ながら「ああ、この回覚えてる」とか、往年の時代劇俳優を見つけたりして喜んでいる。他の友人に時代劇の話を振ってみても思ってもほぼ全くと言っていいほど手応えがないので、我々は少々稀代な環境で育ったのであろうか。しかし高校には二言目には司馬遼がどうだとか隆慶一郎がどうだとかいう友達もいたし、そういう人は巷のどこに潜んでいるのだろうか…。

5月某日
時代劇で思い出したわけではないが山中貞雄『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』をDVDで。流石に丹下左膳が周りから浮きすぎだろと笑ってしまうが、いやはやそこがそうなってつながりますかという脚本がまず素晴らしいし、小津につながるような笑いもあり、飛ぶようなとんでもないチャンバラもあり、何より唄があるのがいい。子供と一緒に行った賭場で負けた帰りに左膳が刺客に襲われ、「坊主、目つぶって10秒数えてな」と数えさせているうちに相手を一刀のもとに切り捨て、目を開けた子供が唸る暴漢を見つけて「なんであのおっちゃん唸ってるの?」と左膳に聞いたところ、「博打に負けたのさ」と言うシーンがなんとも最高である。ジャンク映画を100本見るより1本見るだけで救われる映画があるのだ。

5月某日
疲れて早めに寝てしまい、深夜に起き出してヴィスコンティ『若者のすべて』を見る。父を亡くして南伊からミラノへと越してきた母と5人兄弟の家族が、ふとした娼婦との出会いから崩壊への一途を辿る。二時間で終わっても十分悲劇的なのに、残り一時間でさらに決定的な破滅へと追い詰めていくヴィスコンティの残酷さ。しかしこれがイタリア家族の愛でありまた宿命であるということか。ようやく見つけた半地下のアパート、アラン・ドロンの働くクリーニング屋、家族が引っ越す中庭のあるアパート、トラムが走るミラノの街。どれも忘れられない情景である。何と言っても次男シモーネを演じたレナート・シルヴァトーリが良く、ボクシングのシーンまで驚くほどリアル。湖畔での殺しのシーンは本当に素晴らしい。クラウディア・カルディナーレも『山猫』より断然良い。どうしてボクシング映画というのは切ない結末に陥ってしまうのだろうか。原題の『ロッコとその兄弟』の方がすっと腑に落ちる。
翌日同じくヴィスコンティの『家族の肖像』を。まさかヴィスコンティをオンラインで見る日が来るとは思わなかった。絵画に囲まれて静かに余生を過ごしたい「教授」のところに富豪夫人と2人の子供がやってきていきなり「上の階に住まわせろ」とゴリ押しし、渋々了解したものの実はその愛人のための隠れ家で勝手に改装を始めるやら事件に巻き込まれるやらという、見ているだけでも悪夢みたいな状況。しかし散々な迷惑をかけられても実はまんざらでもない教授は「老人というのは難しい生き物なのだ」とかなんとか言いながら、間借りを許してしまう。車椅子生活のヴィスコンティが移動できる範囲で撮られた室内劇として有名で、今更何を付け加えることもないだろうが、富豪夫人のファーだらけの俗悪な服、夫人と娘の愛人の共有、娘と息子と愛人との乱交趣味、夫がファシスト政治家であるにも関わらず左翼活動家を愛人に囲っているところなど、富裕階級の奇妙さ、エグさを描かせたら右に出るものはいない。人間の孤独さやその埋め合わせとしての愛、ないし性愛を建前なく曝け出させるところはほとんどファスビンダーと言ったら順序が逆だろうか。タイトルバックで延々と積み重なっていく心拍計の記録テープが教授が病床に就いているラストを既に予兆しているところとか、それに続くショットで教授が吟味している貴族の肖像画(=カンバセーション・ピース)が映画を貫くキーとなっているなど、至極古典的に映画的である。誰でもいいようで誰でもよくない一瞬のドミニク・ザンダとクラウディア・カルディナーレの使い方も良かった。これがなぜ日本でのヴィスコンティ・ブームを引き起こしたのかは想像だにできないが、昔の映画観客の方が今より遥かに寛大で教養があったのだろうと思わされる。

当然ながらフィルムはフィルム上映の方がいいし、映画館の方がスクリーンが大きくて音響も良いのだが、このように映画館に行けない状況になると、不特定多数の他人と一緒に多少の欠点など許容しながら笑ったり泣いたりするということが、映画体験のかけがえのない要素なのだと気づかされる。初めて落語を寄席で聴いた時のあの暖かさに似たようなものが、それほどではないにせよ映画にもあるのかもしれない。もちろん観客が1人という時もままあるのだが、それはそれで緊張感があって良いものである。言うても詮無きことだが。