カテゴリー別アーカイブ: 2009 Espagne–France–Italie

3月16日 EURと教会巡り

観光最終日。
しかしローマに向かうわけに行かず、ここでEURを見ておかなければならない。ムッソリーニの構想による万博都市で、現在はニュータウン化している。「EUR」と名のつく駅は3つある。とりあえず「EUR Fermata」で降りる。
駅を降りると地図があるが、現在地が全くわからない上に、目的の場所もよくわからない。そのため、行ってみればなんとなく手がかりがつかめると思って「EUR PalaSport」駅へ移動する。駅前には湖があり、水面に張り出している板の薄さとか、階段とか橋とかいちいちかっちょよい。あちらこちら歩くと、目的の建物のファサードが見える。あとは写真参照。

かっこいい

かっこいい

かっこいい

かっこいい

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テルミニ駅に戻り、ミケランジェロ設計の「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会」へ。
その後、近辺を散策しながら、旧市街にある「サンタ・マリア・マッジョーレ教会」。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会

サンタ・マリア・マッジョーレ教会

地下鉄に乗ってコロッセオへ。運良く10分待ちぐらいで入れる。

フォロ・ロマーノの前を通って「Giotto」と書いた看板の建物へ。しかしこれが食わせ物で、よくわからない無料の美術館(市庁舎?)の中をたらい回しにされて「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」の頂上へ。そしてわからないうちに「サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会」へ。「聖幼な子」は見れたが一向にジョットーは見つからない。そして一回降りて外に出ると、別の建物でジョットーの展覧会がやっていた。思わず時間を食ってしまい、既に夕方である。

未来派グループ

ヴェネツィア広場の前を通りながらパンテオンに流れる。このドームが鉄骨なしのコンクリートでできているとは信じ難い。

そして「サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会」にカラヴァッジョを見に行ったのだが、なんと修復中で見れず。まあこんなものだと今回の旅行の観光を終了する。

最後にナヴォーナ広場ぐらい見ておくかと思い、歩いて行くと古版画屋を発見する。観光客向けではないのか、物も良く、レンブラントの銅版画なんてものも飾ってある。ついつい1時間ぐらい費やしてしまった。途中、外から発狂気味のおじさんの声が聞こえ、店番の女性と談笑する。祖母に送る物を買って店を出て、ナヴォーナ広場をチラ見してホテルに帰る。結局、バチカンもルネサンスもろくに見れなかったが、ローマの現物をいくつか見れたことは学習の助けになるし、ぜひもう一度時間をとって来てみたい。都市的イメージの源泉を遡れたのが一番よかった。

3月15日 街道好きの受難

いよいよ観光できるのもあと2日である。固いパンの食べ過ぎでヨーロッパに飽きかけた前回に比べると、短い。パンで思い出したが、イタリアのパンはまずい。というか水分が少なく、固くて素朴だ。風土なのかもしれないが。
今日は昨日綿密にチェックした休館日・開館時間表をチェックしながら行動するはずである。何しろ観光最終日は月曜日だからだ。
まずは、という感じでフォロ・ロマーノに向かう。地下鉄駅で降りるとすぐ目の前にコロッセオがある。小学生の頃に絵に描いたことがあったものが眼前にあると感慨深いが、本物はそれほど神々しさはない。もちろん僕のロマンチックな夢よりも実用的だったということだろう。
フォロ・ロマーノはまさにピラネージの世界だ。ガウディ以来の「マジ?」という感覚が襲う。丘に住んでいたローマ人が、紀元前6世紀頃から湿地の低地を干潟して作ったもので、古代人がこれだけのボリューム、これだけのシンボリズムのなかに暮らしていたと思うととてつもない。そして、エブラールやらジュリアン・ガデやらプロストやら、20世紀はじめのヨーロッパの都市計画家がローマ賞として滞在して復原を行い、それを後の都市計画に活かそうとしていたことを思い出すと、都市に関わろうとするものとしてここを見れたことは非常に感慨深い。
フォロ・ロマーノを歩いていると、小学生の団体がサッカーをしている。どうしてここでサッカーをしなきゃいけないのだと頭に来るが、生徒がアホなら先生もアホで、ヘラヘラ笑って注意しない。見た目からして欧米人だが、こいつらにはアホが蔓延しているのだなと差別してやる。パンテオンでもギャーギャー騒ぐ馬鹿学生がいたが、外部の人に注意されるまで先生は止めなかった。「軽率にローマに来るな!」とでも言ってやりたかった。
パラティノの丘、ドムス・アウグスタナなどを見て結局2時間ぐらいそこにいたことになる。
次はフォロ・トライアーノへ。言わずもがな、トラヤヌスの戦勝記念柱があるところだが、記念中にはあまり近づけず、肝心の碑文は見れなかった。

ホテルのあったLaurentina駅

フォロ・ロマーノ

フォロ・トライアーノ、トラヤヌス帝のマーケット

地下鉄でテルミニに戻り、カラカラ浴場へ。浴槽が2,000から3,000設置できたというからそのボリューム感覚や恐ろしい。当時のタイルが少し残っていた。

カラカラ浴場

カラカラ浴場からは、「アッピア旧街道」と呼ばれる、紀元前4世紀に作られた道が残っていると言う。旧街道と聞いて僕の食指が動かないはずは無く、今日の予定はそこだけに定めて歩くことにする。しかし道の途中までは新しく舗装された石畳で、5キロ程歩かないと本来の光景には達せないという。

アッピア旧街道へ

街道を1時間ほど歩くと、「サン・カリストのカタコンベ」がある。初期キリスト教徒の共同墓地で、深さ4レベル、長さ20kmに渡る、周辺で最大のものである。アジア顔のガイドさんの話を聞きながら回る。ここは火山岩だから彫りやすく、埋めても無臭だそうだ。まず部屋を作りそこに棚状に穴を掘って埋葬し、フロアの部屋がいっぱいになると、どんどん地下へと掘り下げていったという。当時の碑文や埋葬品のかけらを見ながら思いを馳せる。
カタコンベを出た後、また街道を南下する。しばらくすると舗装が荒くなり、道脇にはローマの象徴であるマツが並び始め、突如として紀元前・紀元数世紀のレンガや石の量塊が出現する。ピラネージだと思いながら合計2、3時間歩く。どうせバスの駅か何かにぶつかるだろうと思って歩いていたが、一向に見つからない。日も暮れかけてきたのでやばいと思って引き返す。途中でバス停があったがいつ来るかわからないし、この際歩いてしまおうと思って結局カラカラ浴場まで引き返す。合計で5時間ほど歩いたのではないだろうか。靴が合わなかったのか、膝裏の筋肉が痛み始め、最後は引きずるようにして歩く。翌日にも響いた。

サン・カリストのカタコンベ

テルミニ駅に戻り、旧市街のスーパーでピザを買い、ホテルに帰って食べる。いつも通り写真を転送しながら寝る。

3月14日 ローマ!

今日はローマに泊まらなければいけないのだが、ミラノに後ろ髪が引かれる思いがするので、昼過ぎまでは残ることにする。
まずは「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ」に次ぐミラノの代表的美術館「ブレラ絵画館」(大きさから言えば一番だろう)へ赴く。中世からバロックの宗教画、マンテーニャの「死せるキリスト」をはじめ、ラファエロ「聖母の婚礼」(修復中)など。企画展と言えるのかわからないが、カラヴァッジョが4点公開されていた。「果物かごを持つ少年」「コンチェルト」「エマオの晩餐」(同名2点)である。やはり次に来るときはイタリアに1ヶ月ぐらいは割いてフィレンツェ、ヴェネツィアを含む各都市を回らなければいけないなと思う。そんな機会があるかどうかは別にして。
その後、歩いて「アンブロジアーナ絵画館」へ。ここではレオナルドの「音楽家の肖像」、カラヴァッジョ「果物かご」、ラファエロ「アテネの学童(デッサン)」。ルクレツィア・ボルジアの髪の毛なんて珍品もあった。やたら金持ち趣味の美術館だが、物は良い。
ホテルで荷物を受け取り、ミラノ中央駅からエウロスターでローマへ。
ローマの駅が近づくと、新古典主義の駅舎が見え興奮する。フラットな石屋根の薄さ、モザイク、ガラスタイルのアーチ屋根、無柱のホール空間、やたらかっこいいのである。やはりムッソリーニは美意識が高すぎたのだと確認する。
その日はミケランジェロの「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会」に滑り込むも、ほぼ真っ暗。やってるはずのディオクレティアヌス浴場跡は閉鎖されていた。
近くのスーパーで買い物し、地下鉄終点のEURのホテルへ行き、部屋で夕食。いつも通り写真を転送しながら睡眠。テレビでランボーの最新作をやってたのはこの日だったか。「戦場にポリティカル・コレクトも糞もない。敵か見方だけだ」とでも言いたげなスタローンは現代映画らしからぬ血みどろの風景を映し出していた。ビールにはアクションが合う。

ブレラ絵画館

アンブロジアーナ絵画館

ローマでも未来派展がやってるらしかったが、行けず。

3月13日 コモ、記憶のマテリアル

この日は、ファシズム建築の本拠の一つであるコモへ向かう。イタリア北部の湖水地方でコモ湖がありリゾート地として有名である。
コモはコモでも駅がいくつかあって、ファシズム建築のことなど当然「地球の歩き方」には乗っていないので(癪に障っても「ヨーロッパ建築案内」買っとけば良かった)どの駅かわからず、とりあえず終点の「Como Lago」で降りれば何とかなるだろうと高をくくる。ホテルのあるBovisa駅からLeNORD線に乗る。電車が駅に近づくにつれ、徐々に合理主義っぽい建築物が目に入り始めると、あっけなくも「カサ・デル・ファッショ」が目の前に現れる。本物はそんなに緊張感が無い、と感じる。
とりあえず駅を降り、「カサ・デル・ファッショ」に行く。後ろを向けばドゥオーモが見え、そちらへ歩く。ドゥオーモは昼休みらしく入れなかったので、周りを歩いていると「i」がある。数年前にテラーニ生誕100周年が行われたのは聞いていたから、通じるだろうと思って「テラーニを見て回りたいんだけど」と言うと、「テッラーニー」と言っておばちゃんはテラーニ関連の地図をくれる。カサ・デル・ファッショは前日に予約しておけば入れたみたいだが、特にそんな気も起きなかったので、町にあるファシズム建築を見て回ることにする。
サンテリア=テラーニの「戦没者慰霊碑」を見にコモ湖岸に向かう。ヨットやボートなど、確かにリゾートらしき雰囲気が垣間見える。湖岸の緑地帯に入ると、情報に無いモニュメントが見える。一見、リベスキンドかカラヴァンのようである。見れば三つの階段が放射状に置かれ、その中心部には三枚の鋼板が組み合い、地面に向かって斜めに刺さっている。それぞれの鋼板には何か文字が書いてあるが最初は何かわからなかった。しかしその鋼板に向かう道の脇には各国語でナチやファシズムに抵抗した者達の「最期の言葉」が記されている。これはどうやら、慰霊碑らしい。サンテリア=テラーニのものとは別の、である。そして鋼板に向かう全部で3つあるうちの一つの道の脇には4本の鋼柱に挟まれたいくつかの石が縦に並び、その横にはどうやら強制収容所があった場所の名前らしきものが記されている。そして、後ろを振り返ると「HIROSHIMA」と書かれたモニュメントの中に広島のものらしき石が挟まれている。やはり、ファシズムと第二次大戦の記憶を持つマテリアルを使った慰霊碑なのだ。この「記憶を持った素材」と鋼板の使い方はカラヴァンに通ずるものを感じるし(どちらかと言えばカラヴァンは「記憶を持った場所」であるが)、派手さは無いもののリベスキンドに通ずるものも感じる。「i」でもらった地図にも何も無いしなあと諦めたが、帰国してから調べると「Gianni Colombo」というミラノの彫刻家の作品で、「ヨーロピアン・レジスタンス慰霊碑」と言うものらしい。先に言うのもなんだが、コモで見た他の建築よりも胸を打つものであった。
その後、一応テラーニを巡礼する。

ミラノに戻って美術館回りをつづけることに。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ記念科学博物館」に閉館1時間前に滑り込む。いきなり入った部屋が各種印刷機械・製紙機器の歴史を展示した部屋で、「フェストスのディスク」(レプリカ)、「シュメールの板」「北エトルリア碑文」などレプリカであっても初めて目にするWriting Spaceの資料があった。
他の部屋には時計の歴史、音楽の歴史、通信の歴史などが実物をもって展示されており、やはり日本とは教養として見ているものが歴然としていることに茫然。いくら情報が国際化してると言ったって、それは依然として限られたものである。そして、加えてレオナルドが設計していたものを模型に起こしたものが廊下にはズラリと並ぶ。時間を取って見に来たら果てしなく面白いところだが、今回はコモに足が向いてしまったのでしょうがないのだ。
科学博物館の後は、夜までやっている王宮を再訪し、「マグリット 自然の神秘」展を見る。ベルギーのマグリット美術館から来ているもののようだが、ベルギーにあれだけいたのに一度も詣でなかった自分はやはりアホなのだ。
昨日の未来派展でも感じたが、平気で時間軸を混ぜ合わせる展示方法は、流行ってるのかもしれないがあんまり成功しているとは言えない。同じテーマやモチーフを異なる年代で扱っている物を横に比較するのは良いのだが、慎重にやらないと混乱をきたすのだ。とはいえマグリットそのものはすこぶる面白かったのだが。展示されていなかったと思うが、裸婦が瓶詰めになったボトルを手にするマグリットのセルフポートレイトがベストだった。あんなポートレイトを撮ってみたい。

ようやく見つけたスーパーで某フタ収集家のためにフタ基準でビールを買い込み、ケバブを買って晩餐。翌日はローマに向かわなければならない。

3月12日 ミラノの未来派

朝、起きたら6時過ぎててびっくりする。だってミラノ行きの飛行機は8時半なんだもの。イーストウッドのおかげで飲み過ぎたのだ。
取る物も取り敢えず、散らかしている物はスーツケースに放り込んで出発する。格安航空会社easyJetが40分前までチェックインできたおかげでなんとか間に合う。
飛行機から町を眺めていたら、未来派が「イタリアは田舎だ」と行ったのがよくわかる。アルプスを超えるだけで、そこはヨーロッパでありながら地中海世界に変貌する。ミラノに着いたのは10時過ぎ。イタリアは、暑い。スペイン並だ。とりあえずマルペンサ空港から中央駅へ移動し、コインロッカーを探すが、無い。駅中が工事しているのが原因か。じゃあ観光地まで行けばあるかと思い、ドゥオーモまで行くが、ない。しょうがないからインフォメーションで聞いてみると、「中央駅にしかない」と言う。いやいや見つからなかったぞと思い、もう諦めて一旦宿に行くことにする(この時点でドゥオーモの外観とギャラリアは見た。
Bovisaという駅で降り、宿へ行ってチェックイン。カードがはじかれたらしく予約がキャンセルされていて、特別価格では泊まれないらしいが、もう動き回りたくないので通常価格でここにする。
とりあえず昼飯を、と思い目の前のケバブ屋に飛び込む。「ボン・ジョルノ」とか言ってみる。でも向こうは何言ってるのかわからないので「ドネル・ケバブ」と言う。「持ち帰り」とか「水」とかをフランス語のイタリア風読みで言ってみると、なんとなく通じる。トルコ人はいいやつだ。近いこともあり、ここから4食連続で僕はケバブを食べた。「ケバブ屋のトルコ人は2回目で友達になれる」理論を見出す。やつらには差別的な視線が全くない。すばらしい〜。
ケバブを満喫した後、ドゥオーモに戻ってドゥオーモの内部を見学する。その後、徒歩で上に登って屋根へ。
ふと見ると、ドゥオーモすぐ側の王宮で「未来派」展をやっている。他にも2つ展示をやっていて、「侍」と「マグリット」だ。今日は他に行けるところも無いし、これは行かなければと思い、未来派展に入る。
未来派展は、未来派のひとつの拠点であったミラノであることを強調し(ローマに行ってわかったが、そちらでも同時に未来派展をやっていた)、所謂自由詩よりもボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、バッラの未来派以前の絵画的修養(色彩分離(点描)やセザンヌ的絵画)を多く紹介し、それが未来派的な運動表現(といっても各々の指向は分節されるが)にどう変わっていったかという経緯に重点を置いている。また、もちろんデペロの機械人間美学の作品も多い。その点数たるや日本で待っていても永遠に来ないだろう数だから、非常に刺激的である。が、同時に、20年代以降の未来派がいかにつまらなくなっていったかを目の当たりにもできる。あと、現代の未来派みたいなのも展示していたが、いただけなかった。何はともあれ、ミラノで未来派展を見れたということに幸運を感じたい。

それにしてもやつらは本当に「アリーヴェデルチ」って言う。真似して言ってみる。

3月11日 ミナールとグラン・トリノ

この日はEcole des Ponts ParisTech図書館でミナールの調査をする。また、寺さん夫妻と過ごす最後の日であった。
朝、図書館に行くためパリのリヨン駅からRERに乗ってマルヌ・ラ・ヴァレ駅に行く。ところが、駅が違ったのである….。
大学住所を見て「マルヌ・ラ・ヴァレ」と書いてあったので疑いなくそこに行ったのだが、そこはただディズニーランドがある町であった。慌ててMacを広げてアクセスマップを確認すると、住所はマルヌ・ラ・ヴァレではあるが最寄り駅は20分前に通り過ぎたノワシー・シャンという駅だったのだ。で、慌てて戻ると確かに「シテ・デカルト」と呼ばれる大学都市だった。
大学図書館に行き、担当の方に取り次いでもらい、資料を見せてもらう。隣のおじさんもなんとミナールを見ていたが、この辺の話はカメレオンの時にでも話す。

4時頃終わり、パリに戻ってとりあえずパヴィヨン・ドゥ・ラルセナルに行く。

パヴィヨン・ドゥ・ラルセナル。最近増えている都市ミュージアムである。

ありがちな都市模型。正直、北京の方が凄みがあった。

「アルセナル」の名前の通り元は兵器庫だったらしいが、内装は潜水艦のよう。フランスの現代デザインは好きではないが、ここも例に漏れない。ただ、歴史の勉強にはなるんだろうけど。
二階は最近パリを走るトラムの展示。フランス語わからないとダメなパネルばっかりで全然わからない。一階でカメラの電池が切れたので写真は無い。
三階はイスラム文化研究所のコンペの展示。「いわゆる」建築プレゼンテーション。
都市ミュージアムはもちろん存在するべきだが、展示があまり良くなかった。
その後、カルティエ財団に行こうと思っていたがどうでもよくなって国立図書館BNFに黄昏に行く。

閲覧室までは行かなかったが、この建築は悪くない印象。あんまりありがたがろうとは思わないけど。ここに行く途中に通った橋の周辺も大々的に再開発やってたけど、ただ奇をてらっただけの建物が羅列する。明らかに下らない方向に進んでいる。

図書館の後は宿に戻って寺さん夫妻と合流し、近所で見つけたというラーメン屋に行って、パクチーたっぷりのラーメンに興奮し、シメに「グラン・トリノ」を見る。これについてはもう書いたので省く。
最後の夜はワインで酔っぱらいながら3時ぐらいまで映画の話をしてた気がする。とても良い夜でした。

素晴らしきチャイニーズ・グローバリズム!世界中に進出しつつ、リージョナリズムに根付いた味を出す。そして安い。

3月10日 唯「影」的な修道院 Couvent de La Tourette

この日は朝からコルビュジエのラ・トゥーレット修道院を見に行く予定である。
その朝からいきなりハプニングがあったが、とりあえず着けたので今となってはどうでもよいことだ。全てはフランス国鉄が悪い。つくづくJRはがんばっていると思う。
朝10時過ぎ、最寄り駅のラルブレール駅に到着する。しかし今回、地図も何も持ってきていない我々は、とりあえず進行方向を決めなくてはならない。フランス国鉄は最低でも、フランスの田舎の人達は本当に優しい。ツーリスト・インフォメーションの場所を教えてもらい、町の中心にいくと、ラ・トゥーレットは今来た道を戻ってひと町越えた2km先にある言う。この2kmというのが曲者で、山道をおそらく直線距離で2kmである。「ラ・トゥーレット修道院」と書いた矢印のある聖像で曲がったが、そこがまだ中間地点で、実際45分ぐらいは歩いたんじゃないかと思う。
ようやく着いて、レセプションで入り口のキーを貰う。修道院には今の時期、誰もいないという。

研究室ではない。

写真にいちいちコメントを入れようと思っていたが、こうしてアップロードしてみると言葉はほとんど必要なく、宗教性の無い、唯光的(あるいは唯影的)な修道院である。モデュロール、コルビュジアン・カーブ、数列、カラー・コンポジション、ブルータリズム、闇と採光といったあらゆるコルビュジエ的建築言語をコラージュしたかのような建築。外観はほとんど宗教建築に見えず、ひたすらファンクショナルであり、伝統的審美眼によるファサード配慮はほとんどされていないように思える。修道僧の住居部分はほとんどユニテ・ダビタシオン、あるいはシテ・ユニヴェルシテールのようなユニットである。それに対し、宗教建築にとって重要な螺旋階段部分は絵画的・彫刻的なカーブを用い、野蛮である。最重要部のクリプトはロンシャンで使った彩色採光窓(「光の大砲」)を使いながら、より瞑想的、しかしファンクショナルである(ドアはほとんど潜水艦のそれである)。
それぞれが矛盾しあっているようで、調和とギリギリの間を保っている。コルビュジエの求めた個人的生活と共同生活の調和がそれだったのだろうか。微妙に判断しかねるものを残した建物だった。
ラ・トゥーレットを見た後は、リヨンに戻り荷物を取って、その日のうちにTGVでパリ入りする。
しかしこのカメラは「曇り」のホワイトバランスが悪い。

3月9日 リヨンへ

ベンヤミン巡礼から一夜明け、今日は電車で国境を越えてリヨンまで移動する。
下調べした通り、非常に乗り換えが複雑で、予定通り行くか不安である。
朝、駅に行くと、調べておいた時間の電車がない!ところが3分後に予定に無い電車があることがわかり、ホームに急ぐ。
といっても、ひと駅先のフランス側国境駅セルベールに移動するだけだ。次の電車はほぼ二時間先。切符を買おうと思うが窓口も自販機も閉まっている。システムの入れ替えらしい。何も月曜の朝からやることはあるまい、とフランス国鉄の手際の悪さにいきなり立腹する。だいたい、あの不穏な発車ジングルが嫌いなのだ。
暇なので町を散策する。一山越えるとここは完全にビーチで、熱海さながら海沿いにはホテルや土産物屋が立ち並ぶ。プイと入った土産物屋で絵はがきと陶器のにんにくおろし皿を買い、散策して駅に戻る。
セルベール→ナルボンヌ→モンペリエと乗り継ぎ、リヨンまでTGVに乗る。ナルボンヌ付近で見た湿地帯は絶景だった。リヨンではペラーシュ駅近くのホテルに泊まる。
夜まで旧市街を散策。今日は月曜日なので教会に入ったり、店に入ったりして過ごす。リヨンには昔の因縁があるがここでは割愛する。今回も月曜の夕方から見始めたためあまり見れないので、つくづく縁のない町あと思う。夜はブションでご飯。ホテルのテレビではメル・ギブソンの新作らしきものがやっていた。しつこいアクションをやるなあ、と思いながら沈睡。

セルベール

ここも崖の町。

モンペリエでの乗り換え。

リヨン到着。

ミニチュア博物館。

サン=テグジュペリ記念碑。

日本の漫画も売っている。

3月8日後半 匿名の記憶

ベンヤミンのオマージュ
ここからの文章は、後から書いた物で、訪問当時知り得ていた情報とは異なり、再構成されたものである。
まずは、事実関係を整理する。柴田育子氏「ポル・ボウ紀行」に依る。
ベンヤミンはナチスが政権奪取した1933年にベルリンからパリに亡命し、第二次大戦勃発後、そこで二度「敵国人」として強制収容所に入れられたが釈放され、執筆活動に励んでいた。しかし1940年6月14日にパリが陥落し、フランスが降伏。これによってフランスに亡命中のドイツ人(ユダヤ系含む)はドイツの強制収容所に入れられる危険が迫り、さらなる亡命をしなければならなくなった。彼らの多くにとってその目的地は合衆国であり、ベンヤミン自身の場合、アドルノらが所属していた研究所(組織自体が亡命済)が引受先となるはずであった。
亡命ルートはマルセイユからの船経由が有力であったが、占領地域を隠れて南仏に至ること自体が既に困難となっており、さらに合衆国入国ビザ、フランス出国ビザ、通過ビザを揃えなければならず、それに加えて便の少ないマルセイユ=合衆国の船便チケットを手に入れる必要があった。
この状況を回避する非合法ルートは、フランス=スペイン国境に連なるピレネー山脈を越え、スペイン側の国境町であるポルボウに入り、そこから列車でマドリッド→リスボンに抜けるルートだった。フランスの出国ビザを得るより第二次大戦に直接参加していなかったスペイン、ポルトガルの出国ビザを得る方が容易だったことは想像できる。
ベンヤミンは既に、妹づてに合衆国入国ビザ、スペイン通過ビザを得ていた。しかしフランス出国ビザを持っていなかったため、フランス側の国境町セルベールから非合法に徒歩でピレネーを越え、ポルボウに入るルートを取ることにした。
「ベンヤミンの黒い鞄」の著者であるローザ・フィトコがバニュール・シュル・メールの村長に聞いたこの「密輸者の通るルート」で初めて道案内を行った時に同行したのがベンヤミンであった。フィトコの夫ハンスがベンヤミンと同じ収容所に入っていたためだという。ピレネー越えの前日、フィトコと同行者一行は、彼女がまだ道を熟知していなかったため、中腹の「空き地」まで下見を兼ねて行く。その時にベンヤミンが持っていた黒くて重い「命よりも大切な鞄」が有名な「黒い鞄」である。心臓の不調を考えた彼は、自分だけそこで一夜を明かすことを告げる。
そして翌日、再び再会した一行はピレネーを越える。ベンヤミンは自分で決めた「10分歩いて1分休む」というペースを守り、10時間を要し、ようやく越えた。スペイン入国ビザを持っていなかったフィトコは一行と別れ、元来た道を引き返す。
一行はポルボウの警察署に行ったが、なんと数時間前に出た調礼により、無国籍者のスペイン通過が禁止になったことが告げられ、町の宿に監置される。そしてその夜、ベンヤミンは大量のモルヒネを打ち、自殺する。
その後、ベンヤミンの死に感銘を受けた警察署長が、残りの一行に通過を許可する。
以上が事実関係の整理である。

彼方に見えるのがピレネーの亡命ルート。

「赤い山」にはサボテンが自生する。

造作もなく見つかったベンヤミンへのオマージュ。

「白い共同墓地」

このキューブは何を意味しているのだろうか。

ベンヤミンの墓。おそらく今はそこに埋まっていない。

その後我々は町に入り、ベンヤミン・ルートを追ってみることに。

不意に入ってみた市政センターの廊下には当時の写真が展示されていた。

自殺を図った宿の跡。

我々は、市政センターでの写真を見た後、言い合わせることも無く口をつぐんだ。カラヴァンによるオマージュのガラス板にあるように、「名もなきものたちの記憶に敬意を払うことは、有名なものたちにそうすることよりも難しい。名もなきものたちの記憶に、歴史の構築は捧げられる。」と書いたベンヤミンの死が、国境を越えた幾多の名もなきものたちに溶け込むようにあったことは、出来過ぎとも言えるほどの事実である。著作が人生と化してしまっている。その後町を歩いた私たちは、オフシーズンでほとんど誰もいない町並みに、どうしても匿名のネガティヴな記憶がコノテートされているように見えてしまい、喪の気持ちに襲われざるを得なかった。「国境の町」。ただ単に、政治的なボーダーラインが引かれている。ただ単に、そこに地形的な境界がある。ただそれだけのことが、この町を他とは違う特殊な場所と化してしまう。その事実にただ唖然とするしかなかった。

3月8日前半 国境の町へ

朝8時頃起きて、今日は11時まで一人でバルセロナを見て回ることにしていたので、ホテルビュッフェの朝食を一人で先に頂く。奥さんが取ってくれていたホテルで、朝食の評判がいいらしいが、すごく美味かった。後で食べたイタリアのホテルの朝食なんかに比べると、唯一まともな朝食だった。

朝食後、一人でガウディのサグラダ・ファミリアを見に行く。駅を降りると「マジ?」という感じ。この「マジでこれ今ここに建ってるの?」という感覚は、これと古代ローマぐらいだった。ガウディは頭で理解していてわかったつもりになっていたが、実物が理論を凌駕しているとても良い例だと思う。アール・ヌーヴォーやモダニズム以前に自然形態が構造的合理性を持っていることを理解し、それに加えて決定的に美しいということ。前夜の話でヴィクトル・オルタとの比較をしていたが、オルタの超ブルジョワ指向の優美さと対照的に、form follows functionを地で行くガウディ。しかしやはり教会の作り方は踏襲していて、完成すると言われている2256年にはこんなものある部分は時代遅れの長物になってしまう辺りが皮肉と言うか滑稽と言うか。ファサードごとに彫刻のテイストが全然違うし、もはやこれはガウディのテキスト的解釈の痕跡として肯定していくしかないのだろうな。その後ミースのパヴィリオンを見に行くつもりだったが、どうでもよくなってエレベーターに登ったりしてじっくり鑑賞した。

ホテルで寺さん夫妻と合流し、ポルボウ(Portbou)行きの列車に乗る。そこは海岸のあるスペイン=フランスの国境の町で、現在は夏のリゾート地として知られているという。ネット予約可能のホテルが無かった為、オフシーズンのこの時期にその辺境の町でやっているホテルがあるかと不安を感じながら列車に揺られる。風景は徐々に乾燥していき、サボテンが自生し、構造とスラブだけが建てられたビル、そして彼方には山脈が見え始める。あれがピレネーだろうか。山の反対には海が見え始め、目に見えて風景は辺境化していく。と同時に我々は徐々に不安と巡礼の気持ちに包まれていくのだった。

数十分遅れで列車はポルボウに到着。時計は13時過ぎほどだったか。駅は広いが人影はまばら。駅は山際に建てられているため、駅前の道は階段と坂で構成される。荷物の多い我々はなんとかそこを降り、ほとんど閉店しているレストラン街・ホテル街を歩き回り、海岸の側にようやく一見のホテルを見つける。その後町を歩いたが開いているホテルは見つからなかったため、そこで即断した我々は正しかった。とりあえず部屋を取って荷物を置き、遅めの昼食をとることに。ホワイトアスパラガス、ムール貝、ワインとパエリヤなどを食べながら、「ここは久しぶりにまともなレストランだ」と言う寺さん達と、ベンヤミン詣での前にこんな良い思いをしていいのかと笑う。サイゼリヤ以外で初めてまともに食べたムール貝は確かに美味く、磯の香りが鼻に抜ける。

この後時計が15時を回った頃、ベンヤミンへの巡礼となる。

ホテル前よりSants駅を眺める

生誕のファサード上部の樹

受難のファサード

ガウディのアトリエ屋根

ガウディの見ることのできた唯一の尖塔

PORTBOU駅

どうせ後でケバブの写真ばかりになるだろうから今のうちにうまかったものは載せておく。