渋谷にてセルゲイ・ロズニツァ監督『バビ・ヤール』。画面が驚くほど台形で全く集中できなかったのだが、それを差し引いても『ドンバス』ほどクリティカルな映画ではなかったように思える。フッテージの繋げ方は見事だし、そこに新しい音響を被せてさも自然なように見せかけているところは方法論としてなかなかポレミカルだと思う。つまりこれは事実の純粋素朴な写しなどではなく、映画空間の中で新たに構築された、別の事実なのである。ドキュメンタリー映画であれ劇映画であれ、キャメラの前にあるものをフィルムに写しとってそれを繋げたものであるという点においては全く同じであり、何の解釈も入り込まない客観的なドキュメンタリーなどありえない。それを逆手にとって、と言ってよいかはわからないが、監督がその客観性と解釈との狭間を最大限に拡張しようとしていることはよくわかる。
このご時世にナチとそのプロパガンダに乗ったウクライナ人によるユダヤ人虐殺についての映画を公開する、という時事性が当地での反発を買ってしまったようだが、冷静に見れば、誰もがホロコーストの加担者たりえ、またその加担者に対する処刑者たりえるということを淡々と実証したにすぎない。もちろん「このご時世」に「冷静」になること自体がアカデミックでシネフィル的な態度だというのだろうが、決してウクライナ人を糾弾しようという映画ではないことは確かである。
本作公開をきっかけに監督の《群衆》ドキュメンタリー3部作がAmazonで見られるようになったらしい。問題はいつ見る時間を作るかであるが、電子空間は渋谷に行くよりも億劫である。
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香も高きケンタッキー
渋谷にてジョン・フォード監督『香も高きケンタッキー』。蓮實氏が煽りに煽ったこの作品をついに見る機会がやってきた。上映一時間半前に着いたが整理番号は既に60番台。その30分後には満員御礼であった。
オープニング・クレジットのキャスト一覧に「われわれ馬たち」という見出しの下にまず馬の名前が並び、続いて人間のキャストたちが「人間と呼ばれる生き物たち」という見出しの下に列挙されているところからも早くも傑作の予感がするのだが、本当に馬の一人称で語られる72分。競走馬の一生における冷酷な現実も見せながら、失敗の人生(馬生)などないのだという、フォード節の詰まった牝馬二代記。馬と馬の再会に涙させられる映画があったとは。ジョン・ファレル・マクドナルドのような人が映画には必要なのだよね。
無伴奏サイレントで馬と人間の一喜一憂を黙って見つめる時間の尊さを噛み締めた一日であった。