『ハリケーン』

ジョン・フォードの映画においては、酔っぱらいが話すことこそ真実である。

フォードをレイシスト扱いした『ボーリング・フォー・コロンバイン』の監督は恥を知るべきだ。

勝手にミュージアム部

「勝手にミュージアム部 第1回」
8/10(日)
17:30開場/18:00開演
入場料1,000円
@大崎l-e

勝手にミュージアムを作ろう。 これはミュージアムの展示内容、展示装置、展示物の配置、その背景にある科学的知見など、日々ミュージアムの要素について考えていることを、何らかの形にして誰かが発表するフォーマットです。こういう展示装置があったらいいのに!自分の好きな◯◯についてのミュージアムがあったらいいのに!◯◯のことが好きだから自分で作っちゃった!ミュージアムのルーツを調べてみた!などなどアプローチはなんでも構いません。「ミュージアム」という言葉も限りなく拡大解釈してもらって結構です。モノでもパフォーマンスでもプレゼンテーションでもOKです。実際ミュージアムを建てるのは大変ですが、勝手にミュージアムを構想してしまいましょう。

とりあえず第1回は企画説明とともに、企画者の2人が何かを作って発表します。

第1回テーマ: 大田暁雄「勝手に植物学」 谷田 幸「勝手に印刷術」


個人的な体験の話になりますが、きっかけはベルリンの植物園でした。その植物園には植物博物館が併設されているのですが、手作り感たっぷりの生態系ジオラマやボタンを押したらランプが点くレリーフ地図等々、はっきり言って、学芸員にも見放されているとしか思えないような古くさい展示物ばかりで、最初は正直落胆しました。 しかしその中に、植物の細胞や花の構造を解説するための紙で作られた模型がありました。これがとんでもなく凝っていて、折り紙を自国の文化と思ってやまない日本人から見ても、どうなっているかわからない。 というか、こういう紙の折り方の文化があったのか、と瞠目させられる代物でした。けれど本当に驚いたのは、この作者は自らをアーティストとして主張し、作品(=模型)を芸術めかして煙に巻くことなく、ただ植物のことを深く知ってもらいたいがためだけに、名前すら出さずこれを作っていることにあります。果たしてそれが何十年前に作られた代物なのか見当もつきませんが(他の展示物を見ればそう新しくはないはず)、それを見た時、思わず私の心の中に「愛」という言葉が浮かびました。植物への愛、博物館への愛、来訪者への愛、技術への愛。愛にも色々あると思いますが、これは愛以外のなにものでもない。もちろん愛だけでそれが作れるとは毛頭思いませんが、自我の主張や目新しさが前面化することなく、「伝える」ということただ一点のためだけに努力と工夫の全てをつぎ込むということが、まわり回って芸術になるのだということにその時気付かされたのです。 ベルリンの自然史博物館を訪ねたときも同じようなことを感じました。顕微鏡写真やルーペなどを使って作った虫の巨大彩色模型の数々はものすごい完成度で、そこに添えられた作者である博士の顔からは、楽しみながら作っているとしか思えないことが伝わってきます。また、次の間に並んでいた鳥たちの剥製は、それぞれの生活や生態環境がわかるように、止まり木の種類が変えてあったり、同じ木の中での高低の棲み分けがつけられていたり、食べものの調達方法や巣の形など、外の要素をうまくジオラマとして取り入れられたりしていました。なおかつ剥製のポージングが格好いい。これは非常に教育的です。その他にもここには壁面一杯に、まるで博物図譜から飛び出してきたような、立体の模型や剥製で埋め尽くされたディスプレイがあったり、イームズの『パワーズ・オブ・テン』よろしく銀河系のズームアップとズームインで宇宙の誕生と構造を体験できる装置があったり、来訪者の理解のためにありとあらゆる工夫をしていました。 こうした科学的な説明のために作られた模型や装置を仮に「科学的視覚化」と呼ぶとすると、芸術が科学を「ネタ」として利用することなどしなくても、科学的な説明に徹底すれば、それは既に芸術になっているのだということなのです。 この企画はその時に思いついたことです。展示を見ていて、「いまいちわからない!」「ここにこういう説明装置があったらいいのに!」と思うことは多々あります。また「どうしてこういう並び方なの?」「これとあれの関係をもっと知りたい!」「こういう見せ方はどういう理論の影響を受けているの?」とか思うことも。ミュージアムの展示物に直接関わる機会はほとんど無いけれども、だったら勝手に作っちゃえばいいじゃん! ということでタイトルは『勝手にミュージアム部』です。愛だろ、愛。 (大田暁雄)

さよならアメリカ さよならニッポン

こういう時勢だからか、はっぴいえんどの「さよならアメリカ さよならニッポン」という曲が無性に聴きたくて。特に再結成コンサートの時の映像をいつまでも見ている(動く大瀧氏が見れる!)。解散アルバムのためにアメリカでレコーディングし、ヴァン・ダイク・パークスやローウェル・ジョージ(リトル・フィート)が参加した曲だが、作ってきた曲が無くなった大瀧が困って2つだけのコード進行の曲を弾いていたら、そこにヴァン・ダイクがやってきていきなり「プロデュースさせろ」と言い、短時間で作り上げた曲だという割に、それまでバッファロー・スプリングフィールドというアメリカのバンドに影響を受け、ロックに日本語を載せようとしてきたはっぴいえんどのメンバーが、実際にアメリカに来て感じた二つの母国への複雑な感情が音にも詩にも純粋に現れているように思われる。問題なのは、松本隆の詞である「さよならアメリカ」は受け入れやすいのだけど、その後に「さよならニッポン」が続くところである。アメリカだけでなく日本にも訣別を。しかも「日本」ではなく(海外から見たところの)「ニッポン」というところが、この曲の不思議などこでもない感じを作っている。単にことばの音だけで決めたのかもしれないけれど。
政治的な歌では決してないが、さよならアメリカさよならニッポンな状況が曲の発表40年後にも続いていて、妙に意味を重ねてしまうのが哀しい。でも例えばデザインにしても状況はあまり変わってないよなあ。しかしこれはいくらでも聴いていられるいい曲。

もんがいさんデー

今週日曜日にイベントあります。
自分の専門外だけど気になっていることについて調べて発表する「もんがいさん」というシリーズ企画の一環です。
私は「アルゴリズム的作曲」となっていますが、「アルゴリズム的◯◯」についての疑問・鬱憤をぶつける内容になりそうです。あ、でも批判的内容ではありません。
というわけでよろぴく。谷田さんと坂本さんの発表も楽しみ。

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2014/07/06
『もんがいさんデー』
谷田幸、大田暁雄、坂本拓也

15:00〜
1000円
@大崎l-e

第1限目 もんがいさん/谷田幸

『驚異の部屋からこんにちは:この世界と収集癖と』
第1回:Wunderkammer(1)

この世界のことを知りたいと思っています。
節操もなく、ありとあらゆることを。
そんなことは世界そのものがすべて過去となって定着し、
私が際限なくそれを眺めつくせるような存在でなければ難しいのは
わかっているのです。
でもそう思ってしまうのだから、
私は「そう思うようにできた」存在なのでしょう。

ならばひとまず、同じように世界をあまねく知ろうとした先人のことを
眺めてみることにしようと思います。
征服欲のままにではなく、好奇心のままにそうした人たちを。
何かひとつのことで世界を断じるのではなく、
欠片を集めることでこぼれ落ちるもののないように
世界を把握しようとした仲間のことを。

…てなわけで! 私のもんがいさんは
世界の欠片と収集癖が充満した《Wunderkammer=驚異の部屋》から
出発しようとおもいます。

第2限目 もんがいさん/大田暁雄
「アルゴリズム的作曲 algorithmic composition」

巷でよく「アルゴリズム的○○」と聞くようになりました。特にデザイナーである私の周辺では、論理的な手続きによってグラフィックや建築などの形態を作る「アルゴリズム的造形(algorithmic art / design)」が一般的になりつつありますが、その多くは形態の目新しさを追っただけのように見えます。
「プログラミング講座 pro·gram」では数学的アルゴリズムを使って音を鳴らしてみる、ということを数回やってきましたが、世の中には「アルゴリズム的作曲(algorithmic composition)」という言葉があるそうです。私は音楽の専門家では全く無いので(ここが「もんがいさん」たる所以ですが)、それは一体どういうものなのか、これまでどういうことが行われてきたのかについてほとんど知りません。
アルゴリズム的作曲とは何なのか、そもそもcompositionとは何なのか、果たして我々が聴いているのは音楽なのか、それともアルゴリズムなのか。コンピューターを使わなくても作曲行為自体がアルゴリズム的じゃないのか。それは果たして面白いのか。
答えは出ないと思いますが、実践を含め、アルゴリズム的作曲、引いては「アルゴリズム的○○」全般と「composition」について考える機会になればと思っています。

第3限目 もんがいさん/坂本拓也
“謎”探求その2

「人間の理解の外にある”モノ”」
UFO、超常現象、幽霊、神、悪魔、妖怪などは話題にしません。それも人間の理解の範疇だと思うので。