人はいつ「腐る」のか

思うところあって、大学院生の時(2006年)に初めて一人でヨーロッパに行った時のブログ記事を再公開した。この時書いていたブログエンジンはWordpressじゃなくてMovableTypeだったのだが、今のシステムに移植後、さすがに書いていることに責任が取れなくなったので、非公開にしていた。しかし今改めて読んでみると、この時は何も知らなかったけれども、見たこと感じたことに無理に結論を出そうとせず、ありのままに受け止めようとしていることに我ながら好感を抱き、この度再公開することとした(そんなにもったいぶるような内容では全くないが)。過去の記事に上がっている写真は今の標準からすれば非常にサイズの小さいものだったので、パソコンから掘り起こして手動でアップロードし直した。さすがに枚数が多すぎるだろうというところは削ったが、変なところを撮っているのも含めて、ほぼ同じものを使っている。
というのも、2月に珍しく風邪を引いて(コロナにはなったが風邪はここ数年ほとんど引かないのだ)寝ているのにも飽きたので、Macの「写真」アプリで昔の写真を見直してみたのだが、こういう個人的な写真を単なる体験として記述し、公開するメディアってほとんどないよなあ、と思ったからである。Instagram等に上げても全て「いいね」の対象となってしまい、あちら側に消費され消える運命にある。「俺、こんな写真撮ったんだぜ、見てくれよ!」っていうさもしい根性ではなくて、自分が自分のために写真をまとめて、見たい人だけ見てくれればいい(チラッ)、というささやかなメディアがブログ以外に無い。そしてそんなスタンスが私には心地よいのである。
17年近く前の自分の文章を読んでみると、自分が旅行先であるヨーロッパ世界をとても瑞々しいものとして感受していることにハッとさせられる。前年にも一度友人と渡欧しているのだが、世界には知らないものが無限にあるという感覚と、今その入口を開けようとしているという瞬間の気分の高揚が、拙い文章と写真から伝わってくる。写真のExifデータを見ると、往年のデジコン「Coolpix S8」なんぞで撮っている割には悪くない。それは当時のカメラ開発者の感覚がまだフィルム的なものだったのかもしれないし、撮影者の情動の動きがよく出ているからかもしれない。
それにしても、いつから人は世界に高を括るようになってしまうのか。あれこれの知識と結びつけて「大人」であろうとするよりも、目にしたものを「変わってるなあ」とだけ観察して、それに身を委ねるだけで本当は良いのではないのだろうか?この頃は当然怖いもの知らずだったし、実際こんなブログを誰も読んでいなかったわけだから、間違ったって気にすることはなかった(だってまだmixi現役の時代で、iPhoneすらなかった)。今ならネット上で何かを書いたらすぐに「それは違う」と飛んでくる。人は間違ったり道に迷ったりするきっかけを失ってしまっているのだ、と言えば大袈裟だろうか。もっと勝手に思ったことを言える自分に戻りたいものである。
それに、ヨーロッパ世界もこの頃は今よりもはるかに牧歌的だったのかもしれない。EU以前のことは体験していないが、今のように荒んではいなかった。EUに限らず、世界がこんなにガツガツしてはいなかった。しかしこのようなノスタルジックな物の見方もまた、老人的だろうか。今を積極的に享受しようという瑞々しい学生の眼差しに、嫉妬を覚える日々である。