2021年を振り返り

もうすぐ今年が終わるらしい。今年の思い出といえば、夏に蟻に追われて全速力で走る毛虫を見て、「毛虫も本気出せばあんなに速く進めるんだな」と思ったことぐらいだ。いや、本当は色々あったんだろうが、同じ街での生活ルーチンを繰り返すと、経験は「思い出」にまで消化されないようだ。まあそんなことはどうでもよい。

多分、学生と関わることがなければ最近の流行など追ってみようとは考えもしなかったと思うが、『鬼滅の刃』など読んでみながら、理解はするけれども魂としては理解しえず、どこかで聞いた「流行っているものをその時代の代表として理解しようとし始めたらおじさんである」というような言葉(超・意訳)を妙に納得したりした。仮に「流行っているもの」が時代の代表だとしたら、自分が若かった頃の代表は小室哲哉だということになるが、本当に「好きだ」と言っているやつなど今まで見たことはない。ただし、今流行っているものの中にも「面白い」と思えるものがあるのも事実である。しかし一方で、自分の若い時にあった文化だけを繰り返し味わうこともおじさん的症状だろう。若者に迎合するでもなく、自分の些細な少年期を反芻するでもなく「おじさん化」から免れるためには、現代を超えた歴史的観点を培い、そこから現在を逆照射することこそが必要なのだ、などと正論をぶっても始まるまい。おじさんはおじさんである(ゴダール風トートロジー)。まあ、こちとら子供の頃から「おじさんくさい」「老けている」と言われ続けているので、ようやく年齢相応に見られるのだなと思っていたのだけれど、最近はそれを通り越して「じいさん」と呼ばれるようになってしまった。はて、どうしてこんなことを書き連ねてしまったのか。

今年何をやっていたかというと、ほぼずっと書籍の執筆に費やしていた。家だと部屋もなく集中できないので、毎日喫茶店などに行って原稿と睨めっこする日々。子供の頃、地元のドムドムバーガーでいつも同じ席に座っているおじさん(多分近くの大手予備校の浪人生ではないかと思うが、子供にはおじさんに見えていた)がいて、その長髪の風貌から「宅八郎」「宅さん」と渾名されていたのだが、すっかり私も「宅さん」化してしまった。近所で噂されているかもしれないが、こちらものっぴきならないのでやめられない。元気しているかなあ、宅さん。これも何の話だ。