停止の4月

4月上旬
仕事が延期になり、大学の開講も延期、前期の授業はオンラインで行うことに決定する。やるとなれば最善を尽くすしかないが、この際だから授業のやり方を一新したいところ。一番の障壁は自分の中の保守性である。
依然時差ボケは続き、夕方朦朧と起きて深夜に調子が出るような日々を過ごす。いっそのこと徹夜を試みた翌日に「治った」と喜んでみたものの、またすぐ元どおりに。10日を過ぎる頃ようやく復調する。あっちに行くときは数日で適応するのに、こっちに戻った時は長くて1ヶ月も引きずるのは一体なんなのか。
仕事と確定申告をしながら大瀧・山下(・萩原)の「新春放談」を片っ端から聴く。植木等の『スーダラ伝説』には「地球温暖化進行曲」という傑作が入っていると聞いて即発注。また、毎年この番組のたびに「新作はまだか」といじられる大瀧仙人がある年「実はもう録音したものがあるんだ」と発言して山下・萩原両氏を驚かせ、戸惑う2人を前に「それでは」と音源を流してみたら、最初のカウントの部分だけで終わり、という伝説の回を初めて聞いた。しかもそのカウントも使い回しではなくちゃんと新録である。山下氏の「Born to be wild」のカラオケを含め、その年は所謂「神回」である。
数日後、件の『スーダラ伝説』が届く。噂に違わぬ傑作の「地球温暖化進行曲」だけでなく、『植木等的音楽』に収録された「新・二十一世紀音頭」の前身「二十一世紀音頭」も入っている。眼福ならぬ耳福。現代にはスーダラが足りない。

4月中旬
ある日、何を思い立ってかコッポラの『ゴッドファーザー』三部作を見始める。恐らくマーロン・ブランドとアル・パチーノが見たかったからなのだが、コンシリエーレ役のロバート・デュヴァルが義理の父に似ていることに気づき、すっかり見入ってしまう(パートIII最大の欠点は彼の不在だ)。何はともあれとにかく俳優が素晴らしい。ジョン・カザールはこの映画デビューから6年でこの世を去ってしまったのか。儚い。

4月下旬
カミュ『ペスト』読了。カミュはフランス語の先生が「『星の王子様』なんか読むより『異邦人』を読んだ方がよっぽど勉強になる。」と折に触れて言っていたのだが、結局読まずじまいでここまで来てしまっていた。しかし『ペスト』は原文が今手に入らず翻訳で読んだわけでどこまで味わえたかわからないけれども、感染症流行という現象の刻々とした描写として十分に驚くべきものである上に、より抽象的に読めば「ペスト」という名を借りた群集による個人の抹殺、社会に潜在する全体主義に対する痛烈な批判になるというものだった。社会のために誰かを死刑になることを黙認する。そのような社会に我々は参加している。感染症流行という状況においてはそれが明確に現れる。
そんなものを読んだ直後に見るべきものではないと知りつつも、つい勢いでソダーバーグ『コンテイジョン』を見てしまう。いかにもソダーバーグらしい中途半端さだが、ローレンス・フィッシュバーンが見れたのはよかった。