9/30 ベルギーのコレクションとストックレー邸

ブリュッセル廻り最終日。
朝からサンカントネール公園に行き、王立美術歴史博物館へ。中南米の美術展。この地方のものは初めてめて見る。相当な数だったが、これもレオポルド2世のコレクションだろうか。石・木を中心とした中米のもの、金・銅・石を使用したボリビア・チリなどのもの。常設展はイースター島のものや、博覧会の遺産であるメキシコや中国、イタリアなどのものなど。
昼は前も行ったシノ・カンボジアン料理へ。店員さんに「ストックレー邸は知っていますか、近いですか遠いですか」と英語とフランス語が混じったわけのわからない言語で訊いてみると、歩いて10分ほどだと言う。飯を食った後歩き始めると、写真で見たことのある建物に10分ほどで着く。ホフマンの建築についてはウィーンの工作連盟ジードルンクしかろくに知らなかったし、それも感動とともに見たというよりは、ふーん、といった感じで背景を知らずに見ていたが、遥か僻地で同じ人のものを見ると何やら感慨深い。大理石の板張りと銅の縁取り、各所に立つ像。
オトレの「世界都市」計画のひとつの立地候補であったテルヴューレンがトラムで一本なので、行ってみることにする。森林を抜けて20分ほど行くとテルヴューレン駅に着く。近くには公園があり、「都会人のオアシス」とガイドブックには書いてある。池を中心とした公園で、まわりを家族などが歩いている。芝生が綺麗だが、例のごとく犬糞だらけ。歩いていると王立中央アフリカ博物館なるものがある。オトレも当時植民地だったコンゴの博物館を作る計画をしていたが、間接的に関係したものだろうか。行ってみると、蝶の小さな企画展がやっていて、常設展は南米の調査をした人たちの銅像が並んでおり、彼らが持ってきたものたちを集めた自然史博物館、民俗資料館などを併用した総合博物館。実は道路を挟んで向かいの敷地にV.ブルジョワによる世界都市を誘致していた。当時のシェマによるとこの博物館は「コンゴ博物館」である。しばらく歩いてトラムに乗って市街に帰り、ブリュッセル公園近辺を歩き、次の日からパリ行きなので早めに寝る。
写真は↓をクリック

 

 

9/29 モンス・ムンダネウム2日目

再びモンスのムンダネウムへ行くため、朝7時頃ホテルを出て、デン・ハーグHSからブリュッセルに戻り、駅でスーツケースをロッカーに入れてモンスへ。
グラン・プラスでは花市が開かれていた。ムンダネウムへ行って、どこに何があったかを思い出しながら、コピーと撮影を繰り返す。昼食はこの間と同じサンドイッチ屋。きさくな親父。この街の人たちはやさしくて陽気だ。資料の方はN.O.P.関連や様々なシェマ、「OPBOUWEN」に載ったアントワープ都市計画などが見つかる。17時頃帰る。

9/28 海岸とフェルメールとゴジラ

今日はアムステルダムでの夜8時からのY先生の講義まではハーグを見る時間を取っておいたので、朝早く起きて、海岸があるスヘーフェニンゲンまで散歩しようと歩き始める。まず、近くのハーグ平和宮へ。1913年にカーネギーの寄付によってできたものらしい。中には入れなかったが、隣に炎を中心とする円環状の石のオブジェ。ひとつひとつの石が世界中の国から運ばれたものらしく、炎を中心に一周して世界平和を祈るというシロモノ。内部の建材もそうらしい。
しばらく北に歩くと、スヘーフェニンゲン森林公園。単なるだだっぴろい散歩公園だった。しばらく歩くとヨーロッパの建築のミニチュアが集まっているテーマパーク「マドローダム」の正面に出たが、もちろん入らず。1時間半ぐらい歩くと砂浜に着いた。もちろん9月も終わりなので寒く、日焼けしようなんて人は全くいないが、一大リゾート地となっているらしく、どでかいホテルや、海岸に沿ってずらーっと並んだカフェがそれを物語っている。
しばらく散策した後、トラムに乗ってマウリッツハイス美術館へ。大きな美術館かと思いきや、最上階のフロアのみ。それでもフェルメ−ルの「真珠の耳飾りの少女」「デルフトの眺望」、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」をはじめとして、ファン・アイク、ヤン・ステーン、ホルバイン、ルーベンスなどが揃っていた。「真珠の耳飾りの少女」は複製物で見るほどターバンが青くなかった。見たいものは見れたが期待以上のものはなく、美術館を後にし、ビネンホフの広場でアイスを食べながら一服し、一旦ホテルに戻って荷物をとり、HS駅に行って切符を買い、アムスへ移動。
会場だと聞いていた場所に行くと、「移転したのでトラムに乗って移動してくれ」との表記。一緒にその張り紙を見ていたオランダ人か何かが「図書館はどこなんだ」と聞いてきたが、そこまでは知らない。Y先生に電話で移動を確認した後、トラムに乗って移動。会場で先生と奥さんと再会。会場は大学の講義場で、セッティングをされていた。準備完了と思って3人で休憩所で本などを見ていると、「マイクがない」とのトラブル発生。15分遅れぐらいでようやくマイクがセッティングでき、Y先生の講義開始。丹下健三の博論からメタボリズムと東京の戦後復興、東京計画1960を中心に、ビルの高さの規制撤廃と同時に、丹下さんのライバルであるゴジラの身長も伸びていったというユーモアを交えて1時間半の講義を(英語で)されていた。講義の後、芝浦のOBでアムスで都市計画の仕事をされているK. M.さんたちとお話をした後、僕は終電近い電車でアムスからハーグへ帰り、ホテルに帰って寝る。
写真は↓をクリック

ハーグ平和宮

その円環状のオブジェ

スヘーフェニンゲンの海岸

マウリッツハイス美術館

フェルメール「デルフトの眺望」

フェルメール「真珠の耳飾りの少女」

レンブラント「テュルプ博士の解剖学講義」

ホルバイン

デン・ハーグ中央駅

アムス到着

9/27 デン・ハーグのアルンツ

ハーグの市立美術館にアルンツの資料を見せてもらいに行くため、朝8時15分に今日もY先生のホテルに集合。3人でガラガラとスーツケースを転がしながらメトロに乗り、南駅へ。ハーグ駅の切符を買い、ICに乗り込む。奥さんは今は建築家だが大学のときに美術史専攻だったそうで、先生と建築から絵画を横断した話をしたりして、隣にいるとすごく勉強になる。2時間強、色々と話をしているとハーグのHS駅に着く。
とりあえずスーツケースを預けなければいけないのでロッカーを探すと、Maestroというブランドのカードか、PINカードというプリペイドカードじゃないと使えない、という不便なシステム。奥さんがほうぼうで聞いてようやく買えたカードで預けると、受け取りに必要なカードが出てくる。ようやく預けられたのでまずは昼食と、近所のサンドイッチ屋のようなところに入るとHaring(ニシン)の酢漬けか何かを尻尾をつまんで持ち上げて食べる人の姿。これがオランダ名物らしい。僕はそれをコッペパンに挟んだようなものを食べた。
美術館の待ち合わせまで時間があるので、近くの建築を見ながら歩こうということで、歩き始める。僕は後ろからひょこひょこついていった。リチャード・マイヤーの白無垢の巨大な市庁舎、レム・コールハースの国立ダンスシアターとトラムSpui駅などを見た。2時間ぐらい歩いていたような気がするが、美術館には15時頃ようやく着き、奥の部屋に通される。
今回の目的は1920年〜1930年代のアルンツの版画資料を見ることだったのだが、Reading大学で見たようなISOTYPE時代のはっきりとした抽象形態のものだけではなく、初期の影のようにぼけたものや、後期の洗練されたシャープな線のものまで百点ほどを見た。ここはさすがに整理されていたが、詳しい人は今はいないよう。回顧展の図録をコピーして送ってもらえることになったので記録する必要はないだろうとのことで、美術館を後にする。帰りにはベルラーヘの教会を一件見て、駅で先生夫妻とお別れして、僕はトラムでハーグのホテルへ。最初、逆の方向に乗ってしまい、あらぬ郊外へ行ってしまった。

リチャード・マイヤーのデン・ハーグ市役所

レム・コールハースのトラムSpui駅

途中で通ったデパート

ベルラーヘのFirst Church of Christ, Scientist

9/26 モンス・ムンダネウム初訪問

朝8時にY先生の泊まっているホテル前集合。今朝はグッと冷え込んだ。自分のホテルからは徒歩5分。レセプションから電話をしてもらうと、5分ほどで奥さんと降りてこられる。先生は30年前、大学院にいたときにヨーロッパをまわり、その時以来のブリュッセルだそう。ルイーズ広場からメトロで中央駅へ行き、僕と先生は二人でモンスへ。
車内で丹下さんとISOTYPEの新事実などを聞きながら、50分ほど乗っているとモンスへ着いた。ブリュッセルよりはまた5度ぐらいは寒かった。街は石畳で坂が多く、15世紀のゴシック式の巨大な教会があり、途中まで全く人がいなかったが、グラン・プラスでは店々が椅子という椅子を広場に並べていて、「こんなに人がいるのか?」と談笑しながら歩く。20分ほど歩くと道に「MUNDANEUM」の横断幕がかかっている。入口は閉まっていて、チャイムを押すと5分ほど中からカチャカチャカチャカチャやった末にようやく扉が開いた。5人ほどの女性スタッフが迎えてくれて、「マダム・マンフロワに会いたいんですが」と言うと、ミュージアムの奥に通される。マダムは中庭にいて、快く迎えてくれ、アルシーヴは中庭を抜けた建物にあるとのこと。
アルシーヴのある部屋に通されると、僕たちが今日来ることを忘れていたらしいのだが、10ほどの箱が用意されており、後から色々出してくるから、それから先に自由に見ていいとのこと。とりあえず片っ端から開けるか、ということになりひっぱりだすと、その箱たちは「Encyclopedia Universalis Mundaneum」という名前で、往復書簡やスケッチがプロジェクト別に入っており、ノイラートと別れた後にもオトレはノイラートのダイアグラムの模写を行っていたことが判明。また、十進分類法によるまさに円環知のダイアグラムや、コルビュジエとのジュネーヴの世界都市計画の後の、テルヴューレン区、アントワープなどの世界都市計画などの図面や組織図などが出てきてやたらと面白いのだが、肝心のコルビュジエの計画がない。で、どこにあるのかと訪ねるとその箱たちがしまわれていたらしき部屋に通されたが、その箱の量に驚愕したというか愕然としたというか、数百という箱がその部屋の棚には並んでいた。それらは「世界都市」「UAI」「国際博物館」といった分類で仕分けされて、その中で色々とサブ・カテゴリが並んでおり、とりあえず「世界都市」の「創始」と「ジュネーヴ」と「建築家の往復書簡」などを持ってきて、作業部屋で開ける。アンデルセン=エブラールの世界コミュニケーションの立地をアメリカやスイスなどに具体的に当てはめた企画書や、コルビュジエ直筆の往復書簡などが見つかる。しかしまあその物量や膨大で、しばし途方に暮れる。
昼食に外に出ると、裏にはなにやらリノベーション風のミュージアムかシアターのようなものがあり、日本では信じられない斜め下りの全面ガラスカーテンウォールの建物。昼食は軽めに済ませようとサンドイッチ屋でモンス風サンドイッチを買ったが、まわりにはいつの間にか学生風の人たちがたくさんいた。この街は謎だ。
マダムがコレクションを紹介してくれるらしく、ついていくと、世界中の絵はがきを収集した部屋(ブリュッケ関係)が一室、世界中の新聞を収集した部屋が一室、世界中のポスターを収集した部屋が一室、3階吹き抜けの壁という壁に書誌カードの棚が積まれたミュージアムなど、オトレの蒐集魔っぷりがまさにそこに。
そうこうしているとY先生は帰らなければならない時間になって先にお帰りになられ、僕はとりあえず箱に戻しながらそれらをデジカメで撮る。かの有名な『ドキュマンタシオン論』もオリジナルを見せてくれたので、全コピー。そんなこんなで一日目は終わった。
帰りにマダムと一緒に駅まで歩きながら、拙い英語でモンスのこと、ムンダネウムのこと、一緒に部屋にいた学生風の人たちのこと(フラマン人らしい)、今度出たフランソワ・レヴィの本のことなどを話す。マダムはここから50kmのトゥルネーという街に住んでいるらしく、そこも古い街らしい。マダムの電車の方が先に来たので別れ、僕は駅のワッフル屋で軽食をとろうと「Un Gaufre, s’il vous plaît」(ワッフルひとつください)と言うと、最初は「いくつ?」というので「Un」というと「Un じゃなくて Uneだ」と鼻ピアスしたお姉さんに言われ、ふたりで笑う。昨日もビールの男性と女性を間違えた。
ブリュッセルに戻り、近くのブラッスリーで夕食を食べて、写真を整理したりしながら寝る。復元作業は終わるが同じファイルがいくつもあり、どれが最新かをチェックする作業が始まる。これがまためんどくさい。

モンス駅前

聖ウォードリュ教会

石畳の坂

9/25 元・世界宮殿とストローヴェン

9月25日
遅めに起きてホテルをチェックアウトし、ロジェ広場からメトロに乗ってルイーズへ行き、オトレ邸の目の前のホテルにチェックインする。ちょっと高いがロケーションで選んだ。かといって別に妙な郷愁もわかなかったが。
再びルイーズからメトロに乗ってシューマン駅で降りる。この辺りはおとといのバスツアーで通ったところのようで、EU委員会本部などの現代的な馬鹿でかい建物があり、ブリュッセルの中心部とは全く違う様相。目的のサンカントネール公園へ。オトレが展示をしていたパレ・サンカントネールの右翼を見に行くため。公園に入ってみると、奥に高い門のようなものがあり、その左右にまさに翼のように建物が建っている。公園の入口から門までは直線的に道が延びており、とてつもなくだだっ広い。これだと思って感動しながら写真を撮って、門の向こうに行ってみるか、と思って行ってみると、それとは違う倉庫のような建物があり、こっちが本当だったと落胆する。オトレの世界宮殿だった建物は現在はAUTOWORLDという自動車博物館になっており、創世記から60年代ぐらいまでの自動車が数百台というレベルで展示されていた。モノクロ映画に出てくるやつだ!機械時代の最先端を争っていたやつだ!などと思いながら、折角なので「いつか20世紀初めの車を描いたりする機会があるかもしれない」と思って撮りまくる。僕は違うが、車好きにはたまらない場所だろう。

シューマン地区のEC関係の建物。

サンカントネールの門

世界宮殿はこれかと思ったが、

こっちだった。

内観(現オートワールド)

こんな車がたくさん。

サンカントネール公園を後にし、近くの中華系カンボジア料理屋(?)でココナッツ系の炒め物を食べる。安い店だが実はここが今回の旅行で一番口に合った。

なぜかいつまでたってもトラムが来ないので、メロード駅からメトロに乗ってルイーズ駅に行き、ホテルに帰ってから、昨日「明日来い」と言われたaamに行くと、「今日はやってないよ。明日だ」と言うので、もういいやと思ってホテルに帰る。
その後は再びシューマン駅に行き、近くのアールヌーヴォー建築を2時間ぐらい歩いて廻る。Gustave Strauvenの建物を3つぐらい見て、エェトヴェルド邸の前に出て、ぐるっと廻ってまたシューマン駅に戻り、再びサンカントネール門をくぐり、夕食を食べた後メロード駅からメトロでルイーズ駅に行き、ホテルに帰る。

ここらはストローヴェン地帯。おとといのオルタのふたつの建物も近く。
ホテルに着くと、Y先生からメッセージが届いていた。しかし電話を受け取ったホテルのスタッフの字が汚すぎて読めず、別のスタッフのお姉ちゃんと「これは何と読むんだ」と一苦労。どうやら先生のホテルが変更になって、変更先はどこかは分かったのだが、電話番号が違っていた。結局ネットで調べてかけなおしたら、つながったが、先生は不在。明日のモンス行きはとりあえず明朝8時にホテル前集合とのこと。
ここ3日間はひたすら歩き続けた。日本にいたときは左膝の痛みが深刻だったが、いつの間にか気にならなくなっていた。

9/24 オトレ邸、フリーメーソン建築展、ミュゼ・オルタ

朝からアール・ヌーヴォー建築巡りの続き。ルイーズ地区からはじめる。なんといっても最初はオトレ邸(Hôtel Otlet 1894–1898)から始める。オクターヴ・ファン・レイセルベルグ(Octave van Rysselberghe)の設計で、インテリアはアンリ・ヴァン・ド・ヴェルド(Henri Van de Velde)。中には遺族か誰かが済んでいるので入れない。余り観光客は来なさそうなこの家を外からパシャパシャと写真を撮る。「AVOCATS / AVOCATEN」と書いてある札が取り付けられていることから、遺族も弁護士なのかもしれないし、ポール・オトレのものが残されているのかもしれない(だとしたら紛らわしいが)。

オトレ邸

ポール・アンカール自邸(Personal House of Paul Hankar, 1893)などを見ながら10分ほど歩くと、もうひとつのT. v. RysselbergheとH. V. d. Veldeによる建物、ドゥ・ブルッケール邸(Hôtel De Brouckère, 1896)に出くわす。外見は似ている。

アンカール自邸

ドゥ・ブルッケール自邸

ルイーズ通りを渡り、公園のようなものに行き当たる。しばらく歩くと市が立っていた。まだこの頃はフランス語に自信が無く、当たって砕けろ的な勇気も無かったのでじろじろと見ながら3往復する。
再びルイーズ通りに戻り、オルタのソルヴェイ邸(Hôtel Solvay, 1895–1898)へ。オトレとも関係があった化学者エルネスト・ソルヴェイの、甥アルマン・ソルヴェイの家。この辺りでは一番豪華。

ソルヴェイ邸

途中で通った、シェフらしき人が店頭で赤子と戯れていたレストランで昼食。手巻きピタみたいなランチ。その後、ヴィクトル・ブルジョワの世界都市計画の資料を貰おうと思ってアポなしで近代建築アルシーヴ(Archive d’Architecture Moderne, 以下aam)に行ってみる。とりあえずはミュゼがあるので入ってみると、ナポレオンのエジプト記が置いてあるし、それに影響を受けたかどうか、エジプトの建築や、太陽と月を配置した会議場などの展示がされている。何かと思えば、フリーメーソン建築の歴史展らしい。フリーメーソンが実態として何だったのかは知らず、それがエジプト信仰にある起源をもち、それが形としてこうやってまとまって提示されていることに、大きな衝撃を受けた。このミュゼの建物も関係あるらしい。

フリーメーソンのシンボル?

フリーメーソンの寺院

隣にBibliothèqueがあるみたいなので行ってみる。本屋があるので入ってみると、建築関係の本屋。安藤忠雄のごっつい本と、アルバースとモホイ・ナジを比較した本なんかが売っていた。玄関ホールに受付があるので「Libraryはどこか」と聞いてみると、本屋を差した。Library(Librairie)とBibliothèqueは違うものを指すらしい。で、「Bibliothèqueはどこか」と聞いてみると、今日は休みだから明日来い、と言われる。
まあしょうがないかと思って再びアール・ヌーヴォー巡りをしようとステファニー広場まで戻り、クノップフのアトリエの前を通ってミュゼ・オルタ(Musèe Horta, 1898–1901)へ。また吹き抜けの螺旋階段から天窓にかけてが美しい。非常に豪華な建物。内部の写真撮影は禁止。やはりこの人はジャポニズムの人なのか、中には日本趣味のものが置かれていたりした。

ミュゼ・オルタ

ミュゼ・オルタを出てステファニー広場から伸びているChausèe de Charleroiへ戻る。夕焼けに黒く映えるトラムの電線の網が美しい。アノン邸(Hôtel Hannon)という建物が近くにあり、見学可能な様なので呼び鈴を慣らすと気の良さそうなマダムが入れてくれた。全く期待していなかったがいい建物だった。中はギャラリーにもなっていて、写真展がやっていた。

アノン邸(外観をデジカメで撮るのを忘れた)

アノン邸ホール

日も暮れてきたので駆け足でこの近辺の建築を廻る。昨日行ったHenri JacobsのMunicipal School No.4やアンカールの建物などを見て回る。途中で色々話しかけられるが基本的にはコミュニケーション遮断。
メトロでホテルに帰って夕食のサラダを食べて、復元作業をしながら寝る。スプーンなどを貰うのを忘れて、めんどくさいので手で掴んで食べた。

Worker’s dwellings by Henri Jacobs

夕食

 

9/23 アール・ヌーヴォーツアーと王立美術館

旅行2日目。
待ちの概要を把握しようと予約していた9:40集合のアール・ヌーヴォー巡りのバスツアーに参加するため、De Brouckereまで散歩。途中でコンパクトカメラの電池が切れたので、スーパーを探すが売っておらず、時間が来たので諦めてツアーに参加。一眼レフを家に忘れてくるという失態をいきなり犯していたので、頼りになるのは出発前日に買ったデジカメ君だけである。
生憎、開始直後に小雨が降ってくる。ツアーは楽器博物館を通過してGustav StrauvenのBuilding with apartments and shops(建物名は地図「Brussels 2005 Living Art Nouveau」によるので英語)の前でバスを降り、Henri JacobsのMunicipal Schoolの館内見学。その後、Victor HortaのEetvelde邸の館内見学。EetveldeはHenri La Fontaineと同じベルギー労働者党POBのメンバーだったらしい。鉄骨が可能にした天窓は非常に美しい。中には坂東三津五郎だったかの歌舞伎絵など、日本か中国らしき物が置いてあったりした。アール・ヌーヴォーに日本や中国がもたらした影響は大きいことを物語っているであろうか。向かいの建物もHortaのデザインだが、こちらは外が石でできており、いかにも豪華なEetvelde邸と比べると、同じ設計者とは思えない。Eetvelde邸を見学した後はマンガ博物館へ移動。こちらもHortaのデザイン。ロビーで解散したので中を見て回る。展示自体は「タンタン」がたくさんあった意外は、日本人としては特に面白くなかった。
雨もやんだので、旅行先で適当に歩きまくる、という特技を早速行使する。適当に歩いていたら王立美術館に辿りついたので、入場。Léon Spilliaertという20世紀前半の画家の特別展がやっていた。象徴主義という属性をくっつけていいかはわからないが、その辺りと関係があったことは確か。なかなか見応えがあった。常設展は、オトレ邸を建てたOctave van Rysselbelgheと多分親族のTheo van Rysselbelgheや、James Ensor、Ferdinand Khnopff、René Magritte、Paul Delvauxなど。Khnopffがなにしろ凄い。ブリューゲルもあったが、ウィーンにあったのと、ここから日本に来ているのと比べると、どちらかといえば見劣りするが、下に写真を載せたやつが何やら凄い。
王立美術館の後はグラン・プラスなど観光名所を一通り通って北駅のホテルまで帰る。途中でフランスのガスコーニュ地方の物産展のようなものがやっていて、ワインを小さいグラスに一杯飲んだが、うまかった。ボトル一本5ユーロとかだから、安い。

“Building with apartments and shops” by Gustav Strauven

Municipal School by Henri Jacobs

Municipal School 内側

Van Eetvelde邸 by Victor Horta

Van Eetvelde邸の向かいにあるDeprez-Vandervelde邸

Van Eetvelde邸天窓

Van Eetvelde邸天窓

Van Eetvelde邸

ダリ

デルヴォー

バーン・ジョーンズ!

クノップフ

同じく

ブリューゲル

まだデジカメを使いこなせていないので、ゆがみ、露出、ふざけたフレーミングなどは後々の写真で改善されます….。
もう一回撮りにいきたい…。

9月22日 成田発ブリュッセル着

空の旅というのは豊富な視覚的体験に満ちているのではなかろうか。入出国のX線検査に始まり、あの「雲」と呼ばれる、触感がありそうでなさそうなものを眼下に見ることができる時、人は、地図、写真、映像を抜きにした、本当の鳥瞰的な特権的観察点に立つ。雲の合間に広がるロシア北西部の湿地らしき異様な地表の中に、点々とした家屋らしきものが見える時。グレート・ブリテン島の上空に広がる、絨毯のような雲を目にした時。自らと太陽の間に地球を置いたときに見える「夜」という名の影が地表に広がり、その中に人が作ったいくつもの光の連なりを目にした時。地表と空を隔てているグラデーションの断絶を目にした時——人は自らを乗せて移動する「飛行機」という発明品が、単なる移動を可能にしているだけではなく、未知なるものの体験を可能にしていることを理解する。そして一瞬、自分は過去の権力者よりも最も高い位置に立っているのではないか、と思いたくはなるが、自らよりもはるか高い位置、いや、「高さ」といった概念が地球の引力を前提としているが、あの「宇宙」といったどこでもない場所に観察点を持つことのできる人々が存在することを思い出す。しかしそれにしてもこの視覚的体験は他にないものだ。宮崎駿でさえも描ききれていないと呟きたくもなる。
などとあれこれ思索を巡らしているうちにLondonはHeathrowに着き、乗り換えてBruxelles Aéroportに到着。三度も食事が出た。今回は久しぶりに、着陸に伴う高度低下による頭痛が出た。サイパン以来。食べ過ぎると良くないのか?
空港からはゲント行きの電車に乗り、北駅(Bruxelles Nord)へ。ホテルのある北駅の西側はもともと治安が悪かったらしいが、World Trade Centerなどで再開発されているため綺麗になっているが、代わりに何も無かった。ホテルでビールを飲んで寝る。

出発前夜の騒動

旅行のことについて書く前に、旅行前夜について書かなければならない。
その夜、オトレ関係のフォルダを開こうとしたら、フォルダが無い。ふと数日前にゴミ箱を空にしたら何百というファイルが消えていった光景が瞬間的に頭をよぎる。しかし私は落ち着き払っていた。ふと噂に聞いたことのある復元ソフト(サルベージソフト)をvectorで探し、即座にダウンロードする。しかし起動ディスクはサルベージできないため、CD-Rに焼いてから、CD起動で復元するとのこと。しかし、私のpowerbookにはDVDは読めるがCD-Rを焼く機能がついていないという反時代的な事実が判明。iPod起動も試そうとしたが、USBではなくFirewireでないとダメとのこと。時刻は出発前夜の深夜3時。飛行機は10:50発。急いで2人の友人にメールし、1人に焼いてもらうよう頼むが、うまくいかず。そこで思いついた、深夜でも起きていそうな友人、すなわち初台のM氏に連絡する。案の定起きていらっしゃった。神。焼いてもらっている間に僕は自分の荷物をまとめ、6時の電車でM氏の事務所を訪問し、CD-Rを受け取り、成田へ。BAはいつもどおり遅延になり、11:30頃離陸。出国前と約束していた某財団のレポートを書くことは叶わず、渡航先でまずサルベージを行わなければならないという悲しみを胸に、いつも以上に揺れる飛行機で眠りに就いた。
毎日ブログを更新しようかと思ってみたが、1つめのホテルではネットがつながらず、今日からのホテルではなんとかつながるが電波が不安定なので、気が向いたら更新する。まだサルベージが終わっていない。