逍遥

前期が終わる。授業期間中は負債がどんどん溜まっていくもので、授業が終わってようやく負債を返し切る頃にはすでに長期休暇の終わりが見えている。いや、正確に言えば負債を返し終わる日など決して来ない。一応息ができるぐらいになったら、あとはなんとか息継ぎしながらやりくりするしかない。
七月の終わりにU-Nextで小津『小早川家の秋』を見直す。小津が東宝に招かれて撮った晩年の作品だが、音声を消して見ると、座って立って振り向いて、家中歩いてまた振り返り、別の人がやってきては喋って切り返し……ということだけを律儀に、しかし過剰にやっていることがわかる。画面内にいる人物が次のショットに切り替わった時に画面内のどの位置に現れるかを正確に計算し、会話をしている複数人の人物同士のどこにキャメラが回り込むかについてはいつも以上に定石を破り、また動作のどのタイミングでどう次のカットにつなぐかという点においては超絶な職人芸を見せる。ほとんどが旧知のスタッフではないにも関わらず、細部にまで監督の意思が行き渡っている。小津は知れば知るほどおそろしい。尾行の撮り方もサイレント的な繰り返しの面白さで笑いを誘う。『浮草』に続いて昔の愛人宅に通う旦那役の中村鴈治郎も素晴らしいが、父親に嫌味を言う新珠美千代が以前から小津映画に出ていたとしか思えないほど素晴らしい。ここまで形式性を高めているのに逆に身体性が生き生きと感じられるという不思議。この映画を思い出すだけであと10年ぐらいは生きていける。そう思わされる映画だった。
採点・残務処理などを終え、青森と雲仙への旅行から帰り、卒業生たちと歌舞伎を観て、東京と残暑にうんざりしているうちに一週間が過ぎる。少なくとも東京にいないうちはインターネットやスマートフォンが無意識レベルで引き込もうとしてくる資本主義への依存サイクルに乗らなくて済んだし、AIがどうのとか万博がどうのみたいな意思の無い伝言ゲームを聞かなくて済んだ。東京に着いた途端に電車で今にも嘔吐しそうな酩酊した人たちに挟まれ、誰彼構わず無差別に訴えかけてくる広告に見つめられながら、心を殺して電車に乗る。今更かもしれないが、改めて経験するとうんざりする。
そうこうしているうちにお盆が過ぎ、9月になりそうなので、前期中に溜まった積読本を消化しつつ後期の授業準備に向かおうと決意する。しかし、いかに読まなければならなかろうとも、気の合わない本はどうしても気が合わないもので、何ページ読んでも1フレーズも刺さらない。お勉強でしかない本を読むよりも、映画の1本でも見に行った方が人生を前に進めるだろうと考え(いつもの口実)、ダニエル・シュミットの『書かれた顔』を見に行く。全てを描こうとして何も描けなかったあの惨憺たる歌舞伎映画の3時間よりも、坂東玉三郎が白粉を塗る様を手鏡越しに撮っているだけのこの映画のシーン数十秒の方が何億倍も面白いという事実。それは本物の歌舞伎役者を撮っているということに依存しているのではなく、映画にとっては「何」を「どう」撮るかという選択が全てであり、どの距離からどの角度でどこに焦点を当てて撮るのか、どこに照明を当て、どのようにフレーミングするか等々の映画的決断が、鑑賞者に何が伝えられるかを決定的に左右するという当たり前の事実に依るものである。別にこれが完璧な映画だと言うつもりはないし、むしろ歪で変な映画であると思うが、侯孝賢が言うように、映画は「部分」しか語ることはできず、しかしながらその部分から滲み出るものによって、行間を想起させることはできるという決意が、既に冒頭の数分から感じられるのである。そのような決意なしにいくらシーンを重ねたとしても、伝わるのは「話」だけであろう。
次いで、その侯孝賢がまだ37歳そこそこで監督した『冬冬の夏休み』のリマスター版を新宿まで見に行く。キャメラがまだ完璧とは言えないものの、「あの」というほかはない、誰もが知っている夏休みの時間が、子供の残酷さと大人の穢れ、そしていつでも隣り合わせの死の匂いと共に描かれる。永遠に続くような無駄な時間のように思えながら、それぞれのシーンが連鎖し合って紛れも無い映画的な体系へと昇華されていくところが見事である。それに、障害のある寒子(ハンズ)のような人間と、純真無垢な子供だけが生き物の死や人の苦しみを最も良く感じることができ、村社会の中では非常に弱い存在でありながらも連帯を結び、心を通わせていくというふうに描いたことが、何より素晴らしい。
8月の終わりに、日本地図学会の定期大会で小田原近くの入生田という場所へ。次の日から学校が始まるというにもかかわらず、夏休み的というしかない山、川、太陽、青い空、といった風景である。分科会もなく参加者全員が同じ発表を聞くというのを丸2日続けるスタイルで、全くわからない発表も多かったが、未知の領域の話を聞くというのも非常に新鮮であるし、何より分野の分け隔てなく「地図」というメディアだけをめぐってこれだけの人々が意見を交わし合う環境が存在するという事実が、今日貴重だと感じられた。これも横断的な視野を持った懐の広い先生方と、故・野村正七先生のおかげだろう。個人的には、日本の地図教育のあり方について抱いていた疑問を共有できたり、新しい知り合いもできたりして、非常に有意義であった(翌々日の授業準備のために懇親会にも行かずドトールに籠る羽目にはなったが)。
その他、4月から観た映画、展覧会を備忘録的に(既に書いたものを除く)。
佐藤そのみ『スリーピングスワン』/ジョン・フォード『月の出の脱出』/小田香『GAMA』/アニエル・ヴァルダ『冬の旅』/井口奈巳『犬猫(8mm版)』『だれかが歌ってる』『左手に気をつけろ』/サタジット・レイ『音楽サロン』『エレファント・ゴッド』/ペドロ・コスタ『骨』/アントニオ・レイス『トラス・オス・モンテス』(以上、映画館)
小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』/『機動戦士ガンダムジークアクス』シリーズ/佐藤真『花子』『まひるのほし』/黒沢清『CURE』『回路』/侯孝賢『ナイルの娘』(以上、DVD・配信)
『デザインあ展 neo』(TOKYO NODE)、『極上の仮名』展(五島美術館)、『レオ・レオーニの絵本づくり』展(ヒカリエホール)、『ペドロ・コスタ インナーヴィジョンズ』展、『ルイジ・ギッリ 終わらない風景』展、『TOPコレクション トランスフィジカル』展(以上、東京都写真美術館)、青森県立美術館、十和田市現代美術館、三内丸山遺跡、是川縄文館。

道場

授業、会議、高校での模擬授業、学会、デザインワーク等々の合間を縫うようにして渋谷に通い、「山形ドキュメンタリー道場 in 東京」を見る。ルオ・イシャン監督『それから』、小田香監督『セノーテ』、藤野知明監督『どうすればよかったか?』、小森はるか監督『春、阿賀の岸辺にて』『松屋の松太郎さん』など。 見るはずだったヴェニス・アティエンザ監督『海での最後の日々』は、チケットまで取っていたものの会議が長引き断念。
「道場」の流れで知ったルオ・イシャン監督『雪解けのあと』の劇場公開に駆けつける。ヒマラヤで50日近い遭難の上に亡くなったチュンと、奇跡的に救助され生還したユエ。彼らに同行するはずだったが病気のため叶わなかったイシャンが、カメラを手にし、自らの不在を埋めるように追憶の旅に出る。当事者にしかわからないような微妙な感情や関係性を、わかりやすさの方へと収束させず、意味よりも声の震えや戸惑いの振る舞いとして観る者に提示する。雪を踏みしめて歩く音、鳥の会話、容赦なく流れ続ける沢の音が、残酷なまでに美しい追憶の光景に重なり、融けていく。チュンの残した手記をはじめ、SNSやテキストメッセージ、地図や行程表、写真、ボイスメモ、ナレーション、救助隊の撮った記録映像などを入れ込むナラティヴの手法、豊かな音響表現によって、監督の追憶が身につまされるような「体験」として迫ってくる。個人的には、遭難前の友人たちをまるで家族のように手厚くもてなしたという、ネパールの村の人々の暮らしを捉えた監督のまなざしが、唯一この映画であたたかさに満ちているように感じられた。そこには理屈を超えた素晴らしさがある。
そういえば私にも、中学で亡くした友人がいた。「友人」と言えるかどうかわからないが、小学校のクラスメイトで、片足に病気を抱えていつも松葉杖で体を支えケンケンして歩いている女の子だった。学校では普通に話していた程度だが、当時ダンシとジョシは気安く話さないのが普通だったので、仲が良かったと言えるのかもしれない。彼女はやがて、病気のせいでよく転ぶようになったと聞き、学校で見かけない日も多くなった。それから1年ほどして、彼女が亡くなったという知らせが入り、彼女のお母さんから「大田君は仲が良かったのでぜひお葬式に来て欲しい」と言われた。確か中学生になっていたので、制服を着て彼女の住んでいた団地まで行き、棺に入れられた彼女の顔を見て手を合わせた記憶がある。今では松葉杖をつく彼女の姿と、おぼろげに会話をしていた記憶ぐらいしかないが、一体彼女は何を感じ、考えていたのだろうか。何の気なしに話していた私と彼女の関係は、「友人」として捉えられていたのだろうか。他にも亡くした知人はいるが、彼女のことは今私の中でどんどん大きくなっている。
21歳で親友を亡くし、28歳でこんな映画を撮ってしまった監督は、今後どのような人生を送るのか。動員が奮ってなさそうなので、興味のある方はぜひ渋谷まで足を運んでほしい。

オリヴェイラ2025 その2

もう見てから長い月日が経ってしまったので記憶も定かではなくなってしまったのだが、久しぶりにスクリーンで見たオリヴェイラの『アブラハム渓谷』はやはり恐ろしい映画だった。狂言回しや「第四の壁」の破壊もなく、「本気で撮った大人の劇映画を見せたろかい」と言わんばかりのオリヴェイラ御歳85歳。それでもわざとらしい不自然なつなぎや、原作の物語をナレーションで語った後に、同じ内容のシーンをヴィジュアルで見せる基本構造など、随所に映画の確からしさを揺さぶる仕掛けが散りばめられている。
今回見直して素晴らしいと感じたのは風景のロングショット。並の映画ならば芒洋になるところが、スクリーンのサイズでまさに映るべきものが映っていると感じられるフレーミングで、渓谷の中に佇む邸宅という名の監獄を映し出していく。
やはり圧巻なのは、聾唖の洗濯女を演じるイザベル・ルト。もう本物の洗濯女にしか見えないような洗濯ぶりで、一言も発さないのにあの存在感たるや。オリヴェイラのヒロインらしく天真爛漫なレオノール・シルヴェイラと好対照である。
願うならば、『ノン』『神曲』『階段通りの人々』あたりをまた劇場でかけていただきたい。

黄金週間

元ゼミ生たちと寄席に行こうという話になり、新宿末廣亭の昼席へ。ここに来たのも20年ぶりか。夜も更けてシンと静まり返った中で聞く怪談噺も良いものだが、昼の陽気の中で洒落の利いた小噺がテンポ良く続いていくのも良い。個人的には「コント山口君と竹田君」が見られたことが感慨深いが、神田蘭さんの『流動食版源氏物語』、音曲の桂小すみさんの都々逸調の「I will always love you」、南玉師匠の曲独楽など、講談・色物も充実していた。真打の方々のスッと引いた話し方に学ぶものは大きい。
目を見張ったのは、腐ってカビが生えた豆腐を瓶の中に入れてぐじぐじと混ぜ、そこに唐辛子を加えたものを「台湾名物のちりとてちん」だと騙り、近所の知ったかぶりの旦那に食わせて何と言うか見よう、という噺。目の前には豆腐どころか瓶すらないのに、言葉とジェスチャーから生まれる想像だけで聴衆の嫌悪感を引き起こしてしまうという話芸の凄み。
打ち上げではAIやら万博やらの話になったが、今日日そこら辺のお偉方より若者の方がまともなことを言いますよ、まったく。

オリヴェイラ2025 その1

文化村ル・シネマでマノエル・ド・オリヴェイラの特集上映が組まれている。オリヴェイラについてはDVDも絶版で高騰しているし、このまま忘れ去られていってしまうのではないかと危惧していたが、何年かに一度レトロスペクティブが組まれるのであれば、現代も捨てたもんではないなと思う。土曜の夕方の上映でトークショーつきという条件を抜きにしても、一般に有名な俳優も出ていない何十年も前のポルトガル映画で、200人規模の会場が8割埋まるほど人が集まるとは、正直驚きである。若い人たちの「過去」との出会い方は私の世代の感覚からすると奇妙であるが、良いものは良いものとして残り続けるということなのであろうか。ル・シネマではこの後ジャ・ジャンクーの新作が封切られ、さらに夏にはサタジット・レイのレトロスペクティヴが開催されると言い(『音楽サロン』!)、にわかに血が湧き上がるのを感じずにはいられない。私はきっと地方には住めないなと思う。
初見の『カニバイシュ』。宮殿の入口のようなところに次々と黒塗りの車が到着し、中からなにやら高貴な装束の人々が出てくる。自動車が登場するからさして古い時代の話ではあるまいと思って見ていると、沿道に押しかけた現代の洋服を着た人々が、柵の向こうから彼らに声援を送る。次々と到着するのは現代を生きる貴族なのか、あるいはコスチュームプレイとして貴族の衣装を纏った役者として扱われているのかは定かではない。声援とそれに応える俳優=貴族たちに見惚れていると、最初に到着した2人の男たちが、片割れがヴァイオリンを弾き、片割れが歌いながら、キャメラ目線で物語を説明しはじめる。狂言回しが登場するから、やはりいつもの——といってもフィルモグラフィーから言えばまだ序盤であるが——オリヴェイラ的な、「演じられた表象」として映画は展開していくのであろう。キャメラが壮麗な宮殿の中に入っていくと、狂言回し以外の人物たちも歌っているように見えるので、これはオペラをモチーフとした映画であることが理解される。腹式呼吸で歌い上げられる声と、役者の抑えられた口の動きとはマッチしないので明らかに口パクであるが、しかしながら完璧に同期しているから、先に歌を録音してそれに合わせて演技を行うという骨の折れる作業を行ったのであろう。私のミュージカル嫌いもあって歌=セリフの内容はほとんど頭に入ってこず、集中力が保つかどうかを危惧しはじめるが、オリヴェイラ特有の、わざと「わざとらしい」ショットが次々に繰り出され、辛うじて持ち堪える。しかし、結婚した妻に「私は人間ではない」と忠告するあたりから一気に映画が荒唐無稽な方に傾き始め、着ぐるみは出てくるわ、人は生き返るわで、前作『繻子の靴』で頂点に達した——というかやりすぎた——「演じること」と「演じられた表象」との自在な行き来が、さらなる次元へと到達している。終盤になるまでこの映画の本領は発揮されないが、そこまで観客がついてくることを信じきったオリヴェイラの信念の強さに脱帽する。
次に『絶望の日』。ポルトガルを代表する小説家カミーロ・カステロ・ブランコの最晩年の日々を描いたものだが、いきなり役者がキャメラの方を向いて「私が今回演じるのは…」と紹介をし始め、作家とその妻を演じている役者が、役を演じているシーンと、役者としてこちらに話しかけてくるシーンと、役を演じていたと思ったら急にかつらを脱いでこちらに話しかけてくるシーン、それに作家の小説の中のテキストを作家とその妻が話し始めるシーンが交互に展開する。時制も行ったり来たりするので一度見ただけでは全貌を理解できない複雑な作品。復元された作家の家の中で撮られているとのことで、これがなんともアウラが無くて微妙なのだが、馬車の車輪だけをひたすら映して移動を表したり、馬車から見える木々だけを映しオプティカルフローがゆっくりになっていくことで停止を示したり、英断というほかないショットが連続する。妻役の役者が最初「役者」としてこちらに話しかけてくるシーンでは、少し演技過剰な俗っぽいおばちゃんにしか見えないのだが(失礼)、「役」としてメイクを施した途端にこの役はこの人でしかありえないと思わされるような風貌へと変身するのが衝撃的であった。
作品を見るたびに本当に偉大な映画監督だという思いを新たにするのだが、なぜか彼はゴダールを称賛していて、いやいやあんたの方が何倍もすごいよ、と言いたくなるのであった。

切羽詰まり続けた春休み。やけくそで映画を観に行く。忙しいのに映画に行く意味はわからないと思うが、呼吸は必要なのだ。
佐藤そのみ監督の『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』の2本立て。日芸在籍中の自主制作として撮られた前者と、卒業制作として撮られた後者。普通は逆だろう、とツッコみたくなるような、前者の意気込みの強さと、後者の(いい意味での)肩の力の抜け方。
津波によって家族を失った監督自身や、地元の人々の経験に基づいて撮られた劇映画である『春をかさねて』は、撮影が完璧でないところや不要とも思えるシーンもあったが、大学生でこれだけ多くの人々、特に実際に被災した地元の人々と、県外の役者とを巻き込んで、これだけの映画を撮れてしまったということが俄かに信じがたい作品で、津波で廃墟化した小学校で撮られたラスト近くのシーンは、身じろぎもできなくなるような力を湛えていた。
一方、失われた家族に対するビデオレターとして撮られた『あなたの瞳に話せたら』は、監督自身と地元の友達2人の現在を映像によって映し出し、彼ら自身の「手紙」をナレーションとしてかぶせる構成で、前作で見た小学校がいかにして被災し、いかにして遺構として守られてきたか、そして、彼らが震災や家族のことを忘れないようにしながらも、どのように「今」を生きているかを語るという、鮮烈な作品であった。震災の外部ではなく、内部からこのような映画が出てきたことがとにかく強靭な力を持っているが(震災に「外部」があるのかという議論もあるだろうが)、「いつまでも被災者として甘えていてはいけない」と意を決したと監督自身が語っているように、「震災映画」を超えた普遍的な力を感じた作品であった。
別日には、タル・ベーラによる福島での映画教室の模様を撮影した小田香監督の『Fukushima with Béla Tarr』をシモキタエキマエシネマとやらに観に行く。福島に着いて早々、被災地を巡るバスツアーに「こんなツーリズムは要らない。実際の人々の生活が見られるところはどこだ」とクレームを言い、「まったく1日を無駄にした」と事前に組まれたプログラムを拒絶して「とにかく人に会って人生を学んでこい」と参加者たちを現実世界へと仕向けるタル・ベーラ。あらかじめ想定したような「悲しい被災の物語」ではなく、どんな状況でも生きていく人間たちの強さを撮りに行け。震える手でタバコをふかしながらそう語る彼の姿には、人間をどこまでも信じ切る強さが満ち溢れている。WS参加者の口から出るナルシシスティックなおべんちゃらに「いいか。君の言っていることは全く意味がわからない。私の知りたいのは何が画面に映るかだけだ」と映画言語にはあくまで厳しく、徹底して指導する姿。彼自身の映画がどうであるかはさておき、人間として、教育者としての彼の姿に圧倒される。パンフレットには、必要なのは「education」ではなく「liberation」なのだという言葉が記されていた。システムとしての大学が生み出すくだらない形式主義や立場主義を乗り越えて、人として学生を「解放」するにはどうしたらいいか。教育のあり方を突きつける言葉であった。
そうこうしているうちに4月になってしまったが、早々、ヴァル・キルマーが死んだ。思わず、彼の撮り溜めた個人的な映像から構成された『ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男』をU-Nextで観る。そこには、咽頭がんの手術後にのどのボタンを押さないと発話ができなくなった映画俳優の人生が、息子のナレーションとともに描かれていた。子供の頃から兄弟と映画ごっこをしていたこと、演劇学校で演劇を学び、若きケヴィン・スペイシー、ショーン・ペンらと共演した舞台の様子、『トップ・ガン』で一気にスターダムに駆け上り、『ドアーズ』『トゥームストーン』『バットマン・フォーエヴァー』で大役を演じ切ったのち、マーロン・ブランドとの共演作で監督と対立し、「扱いづらい俳優」としてレッテルを押されたこと、そして父親から相続した土地を売り払って臨んだマーク・トウェインのワンマン・ショーへの意気込みなどが、次々と語られていく。私にとって忘れられないのはマイケル・マンの『ヒート』で、センシティヴで忠義深いギャングの一員を演じ、ブロンドの長髪で銃火器を構える姿に、美しい俳優だなと思った印象がある。内容は覚えていないがハーモニー・コリンの『The Lotus Community Workshop』でほとんど三輪車みたいなミニベロで夜道を走っていたのを思い出す。こんなに喋れなくなっても創作活動をすることはできる。人間は美しいと思わされる映画であった。

地図の中の風景

『都市計画』誌373号に短いエセーを寄せました。

「地図の中の風景—125」《都市の顔は地図上にある》

『アイデア』の連載でも触れられなかったマクシム=オーギュスト・ドゥネーの文字地図について、ようやく書く場所ができました。インターネットは物理的な都市の関係性を破壊するものだという昔からの予感が、いよいよ本格的に現実のものとなってきたという話です。(約750字)

それから、学生に教えてもらったのですが、ユーチューバーの方々が拙著を取り上げてくれていました。最初は「誰やねん」と思いましたが、「感受性のない」水野さんの指摘は結構鋭く、正直すごく楽しませていただきました。ありがとうございます。

20250401

クソ忙しい時に食べたこともないフラムクーヘンとやらを作ってみるぐらいの若さは持っているらしい。

『あの優しさへ』

自身が同性愛者であるということを家族に告白し、母親の拒絶にあったという実際の出来事からまもなく、それを家族本人の出演によってキャメラの前で再演するばかりか、さらにはその映画を撮影している様を撮影し、虚構と現実が幾重にも構造化された映画へと仕立て上げるという、心理的にも映画的にも途方も無いことをやってしまった初監督作『ノイズが言うには』から7年。そのラストショットである娘からの手紙に涙する母親の横顔を捉えた映像を、ルーペを通したような輪郭のぼけた丸いイメージによって見つめ直すことから始まる小田香『あの優しさへ』は、自己の映画的行為が、「今自分の撮るべきものはこれしかない」という切実な思いから生まれたものであったと同時に、自分を拒絶した母親に対するキャメラを通した復讐でもあったのではないかと苦悩し、キャメラを被写体に向けることが被写体に対する暴力や搾取につながること、そして映画における「距離」とは何かと自問し続ける監督自身の手記であり、また母に向けての手紙である。監督の思いは、初監督作を観た者なら聞きなじみのある監督自身の「声」として、過去作のイメージや使われなかったフッテージに重ねられていくが、やがてその悩みは、タル・ベーラの映画学校に通うためにやってきたボスニアの地で「撮るべきもの」を完全に見失ったこと、そこで自らをせき立てるようにして撮ったボスニアの農村の葬儀と祭、さらにロマへの密着インタビューなど、自らが撮ってきた映像を回顧しながら、「映画とは何か」という問いへと突き進んでいく。
観客にとって無縁であるはずの監督の個人的心理の吐露が、なぜ人をここまで惹きつけるのだろうか。そんなことが許されるのは、ジョナス・メカスのような、限られた人物だけだったはずである。何を捉えているのかもわからないおぼろげな映像が、アートぶった映画のような嫌味さを微塵も感じさせず、ここまで人を武装解除させるのはなぜか。素朴で、迷いながらも、潔く、聡明な映像。「説得力」と呼ぶのも憚られるような、声と音の、不可解な浸透力。それに、勇気ある行動。『鉱 ARAGANE』や『Underground』も素晴らしいが、『Flash』や『あの優しさへ』のような映像エセーに、監督の得体の知れない大物さを見出すのは私だけではあるまい。

『セノーテ』

ゴポゴポという水の音と、遠くで子供たちがはしゃいでいるような声が、空間の中で反響し、また分厚い水の層を伝わってくることによって、くぐもって聴こえてくる。スクリーンには、上を見ているのか下を見ているのかもわからないような水中の映像が映し出され、水中にわずかに差し込む太陽光が、文字通り「光線」として照らし出す先に、魚や人の影がおぼろげに見えては消えていく。これは一体どういう状況なのかと思考を巡らせているうちに、不意にキャメラは水面に浮上する。その瞬間、激しい光彩が目を刺し、上空から落ちてくる無数の水滴の衝突音が、劇場の空気を震わせる。
キャメラは、深淵部がどうなっているとも知れぬ異国の泉=セノーテへと次々に潜っていく。恐る恐る、しかし勇敢にも奥へと泳ぎ進めながら、アロワナを思わせるような熱帯の魚や、水底に沈む獣骨など、静寂極まりない水中の様子を伝えていく。色彩豊かなセノーテもあれば、ほとんどモノクロームに近いものもある。そこに、恐竜を滅ぼしたとされる隕石以来のセノーテの言い伝えが、語りとして重ねられる。曰く、ある日泡が吹き出して人々を飲み込んだとか、若い生贄が捧げられたとか、映像を見ている者を震え上がらせるような内容が続く。やがてそこに少女の言葉でマヤの詩が重ねられ、現地人の顔のクローズアップや、祭りの様子が挿入される。「完璧」を目指すわけでもないし、何かを語り尽くしているわけでもない。それでありながら、「傑作」と思わず呟いてしまう。その面白さは、未知の場所を探究する好奇心と無縁のものではないだろうが、それ以上に、イメージとサウンドを組み合わせることによって生まれる映画の本質的な力が、しかも物質的な形でここに宿っているからであろう。だからといって何かが説明できるとは思わないが、映画館という空間で、鼓膜ではなく身体を振動させながら、スクリーンの光に身を委ねるということでしか生まれないような体験がここにはあることは間違いない。インタビューを読んで驚いたが、水中のシーンの多くはiPhoneで撮られたらしい。小田香『セノーテ』。新しい時代の到来としか言いようのない映画であった。

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