夏に書いた記事

インスタントに身につけた知識はやはりインスタントにしか役に立たないな、と思う昨今。DeepLに突っ込んだ訳文がいかに本物に近かったとしても、自分の頭を使って訳した訳文の方が、たとえ間違っていたとしても価値があると思う。偽物の文章とか、偽物の絵にこのまま慣れていったとしたら、偽物の裁判とか偽物の政治にも慣れていって、偽物の処刑が待っている。
それにしても、一昔前の「面倒臭いことはコンピュータにやらせて、人間はもっと高度な仕事を」というスローガンはどこかに行ってしまい、人間は怠けてコンピュータに仕事を譲って頭を使うことをやめた。自分で自分の地獄を作り出しているだけなのに。
「情報化時代」という言葉が正しいとしたら、外から来る情報ばかりに頼りすぎて自分の頭で考えない時代のことだろう。自分が考えるよりも前に知識がやってきてしまい、それの答え合わせしかしない。少なくとも美術関係者がそれをやってしまったらおしまいである。

後厄の始まり

1/1
4日から仕事なのであまり新年の感慨もなし。
新聞に目を通すと「タイパ」なる見慣れない単語が目に飛び込む。何の略語かと一通り頭に候補を浮かべてみるがピンと来ないので読み進めてみると、「タイムパフォーマンス」の略で、「コストパフォーマンス」すなわち「コスパ」からの派生らしい。いかにも頭が悪そうな造語だが、そんな英語が成り立つのかどうかはともかく、これからは「タイパ」の時代らしく、なんでもかんでも時間の効率性が求められるようになるらしい。そういう聞き慣れない単語を持ち出して人々を煽る人間にはひと儲けしようという意思が働いているのが常なので、私は心底軽蔑するけれども、世の中が時間対効果ばかり気にするのであれば、私はもっと非効率的な時間の過ごし方に身を委ねたい。時間のかかる行為には、どうしても時間がかかるのである。4時間の映画には4時間かけるなりの意味があり、10年かかる研究には10年かける意味がある。人生のほとんどを無駄に生きているような人間としては、そう思わざるをえない。
新聞はさておき、朝から近所の神社に初詣に行った後、昼過ぎに義理の兄の家族がやってきたので飲み始める。姪と甥が毎年楽しみにしている『相棒』がそのうちに始まったので一緒になって見てはいたが、話が全くわからない。私が酔っ払っているからかと思っていたが、姪と甥もわからないらしい。どうにも退屈なので田舎のおじさんみたいな質問を子供たちに振り、加齢を感じながら床に就く。

1/2
起き抜けにスマホを見ていると、いくつか記憶のないメッセージを送っていることに気づく。飲んでスマホを弄っても良いことはない。今年の誓いは「飲んでメッセージを送らない」ことに決める。
佐倉まで行って2回目の初詣。ラッキーカラーを教えてくれるおみくじを試みに引いた結果、「ベージュ」だと伝えられる。ハードルが高い。おみくじは小吉だったが、神社の帰りにふっとバスのナンバーに目をやると「6 66」。そして帰って時計を見ると「4:44」。なんとも幸先の良い後厄である。
夕方東京に戻るが、店がどこもやっていないのでカレー初めをする。

1/3
松の内から仕事ばかりするのもなんなので、アマプラでイーストウッド『リチャード・ジュエル』を見る。アメリカだと太っていて独身というだけで爆弾魔扱いされ、同性の友人も共犯者で恋人ということに仕立てあげられるらしい。FBI職員と新聞記者が懇ろの仲で、FBIは自分の立場を守るためならどんなでっち上げも厭わない、という単純化もアメリカ映画でだけ許される。相変わらず最初は不安な画面が続くが、徐々に顔が顔として機能し始めるから、流石はイーストウッドというほかない(マカレナのシーンはラジー賞ものだが)。夜のシーンで逆光のナイター照明で人物の輪郭だけを光らせたり、バシャバシャストロボが焚かれたりするのもお家芸。それにしてもキャシー・ベイツが中尾ミエにしか見えないのは私だけ?

1/8
深大寺初詣。おみくじは二年連続の「凶」。神は見ている。
帰ってイーストウッド『15時17分、パリ行き』を見て、よくも素人俳優でここまで撮れるものだと感心し(女の趣味は至極イーストウッド的だ)、続けて『運び屋』まで見てやはり感心する。厄介ごとに巻き込まれ苦虫を噛み潰したような顔をさせたらイーストウッドの右に出るものはいない。『グラン・トリノ』に続く贖罪第二弾で、本当にイーストウッド本人が人生の懺悔をしているかどうかはともかく、時代遅れの差別用語を吐きまくる白人ジジイが、「運び屋」稼業に手を染めながら家族との時間の大切さに気づき、最後は身の危険を顧みずに許しを請う(それにしてもダイアン・ウィースト演じる妻はなかなかのウザ妻じゃないか…?)。どこかケヴィン・コスナーの姿が重なるブラッドリー・クーパーに人生を説くイーストウッドの姿には、映画を超えた含蓄があった。仲良くなったマフィアたちの顔がとても良い。

本厄の終わり

12/26
封切りから一ヶ月近く経ってしまったデヴィッド・ロウリー監督『グリーン・ナイト』を見に日比谷へ。「シャンテシネ」から「TOHOシネマズ」に変わって初めて来た気がする。
中世の騎士道物語『サー・ガウェインと緑の騎士』をベースにし、アーサー王の前に突然現れた「緑の騎士」と、ガウェイン卿との《首切りゲーム》を描いた物語。ガウェイン卿がひたすらヘタレで、盗賊にコロっと騙されて身包み剥がされたり、故郷に置いてきた恋人そっくりの人妻に誘惑されたりと、ダメダメなところを描き続けるあたりが現代的というべきか。中世イングランドにもかかわらず主役が明らかにインド系の顔立ち(『スラムドッグ・ミリオネア』の彼らしい)なのもあまり違和感はなかった。偶然にもクリスマスの話で、過ぎてはいるが良い日に見に来られた。昨今のタイプフェイス復刻ブームの成果もみられる一本。

12/27
朝からZoomミーティング三連チャンのあと、アマプラで三宅唱監督『密使と番人』を見る。スコリモフスキの『エッセンシャル・キリング』よろしく、ひたすら山道を歩き続けるだけで映画になる。音楽のせいかこちらの聴覚も研ぎ澄まされる。身の丈ほども伸びたススキを掻き分けながら進むと、穂からこぼれた種が画面いっぱいに舞い、それに見惚れているうちに雪が舞い始める。

12/28
渋谷まで繰り出してジャン・ルノワール『黄金の馬車』。メリメの『サン・サクルマンの四輪馬車』という戯曲を下敷きにしているそうなのだが、実在のペルーの舞台女優がモデルとなっていたところを、イタリアの旅芸人一座(コメディア・デラルテ)の看板女優の話へと翻案し、南部イタリアの女性の象徴アンナ・マニャーニを主役に迎えたルノワールの意欲作。オープニング・クレジットの後、劇場の幕が開き、階段を中心に据えて上下階の空間を作り出した舞台上へと徐々にキャメラが寄っていくことで映画へと入っていく。オリヴェイラの『フランシスカ』(’81)の下敷きはここかと思われるが、映画内で上演される舞台という形式を自分が偏愛していることに気付かされる。しかしそんな知的な構造を採用してもルノワールの手にかかれば全くインテリ臭くなくなり、《la joie de vivre(生きる喜び)》を始終感じさせる103分間。説明不足の台詞があったりするが、それでも十分に人間の豊かさを取り戻させてくれる。21世紀に必要な映画。

12/29
2日連続渋谷でジャック・ベッケル『エストラパード街』。亭主に浮気された金持ちの女性が、ふてくされてパンテオン近くの安アパルトマンで一人暮らしを始めるが、同じ階に住む売れない歌手や、就職相談先のファッションデザイナーに言い寄られた果てに、結局夫とヨリを戻すという話。正直どうでもいい与太話なのだが、肉体的魅力をふりまくアンヌ・ヴェルノンの天真爛漫さと、テンポ良い台詞回し、旦那と家政婦役のパクレットの滑稽なやりとりですんなり見られてしまう(朝から赤ワイン飲むのね)。交通事故を機にヨリを戻すという演出が絶妙。
続けてルノワール『南部の人』。アメリカに渡り、これまでとは違うスタイルを作り出そうとしても、変わらぬ人間への眼差しが滲み出てしまう紛れもないルノワール映画。小川を撮らせたら天下一品である。しかし最終的に牛さんは助けられたのだろうか。

12/30
zoomで学生と面談して、その後仕事納め。

12/31
千葉へ。「紅白歌合戦」が流れているので見る。NHKの迎合ぶりが止まらないが、氷川きよしだけは素晴らしかった。

20221126

12月の香りがする……。

20221125

久しぶりに料理でもするかと思って鍋を作り、さあ味見するかと思ったら謎の酸味がする。一瞬頭がパニックになり、よく考えてみると味醂と間違えて酢を投入していたことに気づく。軌道修正しないとと思って砂糖を入れ「甘酢風だ!」と意気込んだが後の祭り。「味は栄養のおまけだ」と頭に言い聞かせながら無言でかきこんだ。
味醂と酢を間違えたのはこれで3回目で、シャンプー無限ループ問題よりこっちのほうが深刻かもしれない。でも、千鳥酢って瓶の形も色も味醂と似てるんだよ……。

Tomber par terre

パリにいた頃から、私の目の前で人が転ぶ現象に苛まれている。道を歩いていて「あ、この人転ぶなあ」と思うと見事に転ぶのである。躓いて転ぶというよりもふらふらーっとして倒れる感じに近く、ひどい時は毎日のようにそういうことがあった。わかる時はこちらも身構えて助けようとするのだけれど、一度リヨンの地下鉄のホームですぐ前を歩いていた巨漢のマダムがこちらに倒れてきた時は、支えようとして右腕の腱が伸びてしまった。
日本に帰ってきてもそれが続いている。早朝に赤ら顔で自転車を押しながら生垣に突っ込むおじさん、大量のビール瓶を運ぶ自転車をこぎながらそのままゆっくり藪に倒れるおじさん、テニス帰りのスポーティーな格好をしているのに自転車をバランスよく漕ぎ出せず倒れ込むおじいさん。ほとんどシャマランの映画みたいなのだが、身近な人も倒れることがあって、流石に心配になってくる。
世の中倒れる人が増えているのか、私の周りだけなのか、それとも念獣とかスタンド攻撃とかそういうやつだろうか。お祓いでも行った方が良さそうだが、神主になんと伝えればいいのか……。

YUMEGIWA LAST OJISAN

私は寝言を言わない方だと思っていたのだけれど(なぜなら一度も自分の寝言を聞いたことがないから)、最近夢の中ですごく嫌な人物がいたので「オイ!」って怒ろうとしたらその声で起きた。夢と現実の境目をくぐり抜けた自分の声をはっきりと耳で聞いたのである。頭の中に視知覚というものがあるとしたら、それが夢の中の光景に実際に反応し、身体的な行動を促したということなのだろうか。
私は普段話している現場で即座に感情を表明できないことにジレンマを感じていて、後から怒りや悲しみ(主に前者だが)が込み上げてきて「あの時怒れていれば」(やっぱり前者じゃないか)と思うことも度々なのだが、現実世界でのそのようなコンプレックスが夢の中で現れているのだろうと思う。最近は夢の中で号泣することもあり、そこでは枕が腐るほど泣いていて「よかった、泣けた」と喜んでいる自分がいるのだけれど、果たして本当に寝ながら涙を流しているのかどうかはまだ確認できていない。少なくとも枕は腐っていないから号泣しているわけではないようだ。

前頭葉の機能低下についての断章

先日勉強会をやっている時、古代エジプトの星図についての発表をしていた私より10歳ぐらい下の後輩が、「本当にこんなに星が見えたんですかね?それとも目が良かったんでしょうか?」と言っていたので、「目が良かったのかもね。アフリカにもすごく目がいい人がいたりするから。ほら、オスマン・サンコンとか……。」と応えると、怪訝な顔をされた。サンコンさんはもう少し普遍的だと思っていたが、10の年齢差も超えられなかった。
去年、学生の作ってきたダイアグラムのタイトルが「雲と標高と都市」という3つの単語を繋げた構造だった。さすがに通じないだろうとは思ったが、一縷の望みを託して「これだと平松絵里の歌みたいじゃない?」と言ってしまった。1人だけ「クスッ」としていたが、あとの人は怪訝な顔をしていた。悪いのが私だということはわかる。逆に笑ったやつはどうして知っているのか問い詰めたいところである。
困るのは譬え話すら通じないことだ。私のマグカップには「スイスイスーダラダッタ」と書いてあるのだが、学生にそれを見咎められたので、「植木等だよ」と言うと、「誰ですか」と来る。「クレージーキャッツっていうのがいてさ、まあドリフの元祖みたいなもので」と言うと、「ドリフって何ですか」と。「志村けん、知らない?」と言ったら、「ああ、名前は知ってますけど…」と来た。他に喩えるものがないかと頭をフル回転したが、「モンティパイソン」は当然のごとく通じないし、不本意ながらも「ごっつ」や「笑う犬」やウッチャンがNHKでやってるコント番組などを挙げてみても全く響く気配がない。結局この問答は「ニセ明(星野源が布施明を演じてやるコント)」の喩えが一番よく通じた。忸怩たる思いである。
男性は歳をとると前頭葉が衰えてきて自分の制御が効かなくなり、駄洒落を連発してしまうという話を聞いた。私はあまり駄洒落を言わない方だと思うが(でも言っているらしい)、通じない話をしてしまうのもきっと前頭葉の衰えのせいだろう。
これを書いているうちに、「あれ、この話どこかで書いたっけ」という気がしてきた。一応過去の記事を読み直したが書いていなかったので多分大丈夫だ。その話で言うと、風呂に入っている時にシャンプーをし終わってさあ次はコンディショナーだぞ、というタイミングで「あれ、シャンプーしたっけ?」という疑念に駆られることがしばしばある。シャンプーした方に賭けてコンディショナーに移行しても良いのだが、万が一シャンプーしないまま出かけるのは嫌だから念の為もう一度シャンプーしてしまう。このまま行くと延々とシャンプーし続けることになりはしないかと、老後が不安である。

余談だが、同僚の1つ上の先輩に「先日こんな話があって、『目が良かった人もいるかもしれないね』って言っていて……」と話し始めたら、食い気味に「オスマン・サンコン」と返ってきた。その後はCDTVのモノマネで盛り上がった。同世代はいいな、と思った。

バビ・ヤール

渋谷にてセルゲイ・ロズニツァ監督『バビ・ヤール』。画面が驚くほど台形で全く集中できなかったのだが、それを差し引いても『ドンバス』ほどクリティカルな映画ではなかったように思える。フッテージの繋げ方は見事だし、そこに新しい音響を被せてさも自然なように見せかけているところは方法論としてなかなかポレミカルだと思う。つまりこれは事実の純粋素朴な写しなどではなく、映画空間の中で新たに構築された、別の事実なのである。ドキュメンタリー映画であれ劇映画であれ、キャメラの前にあるものをフィルムに写しとってそれを繋げたものであるという点においては全く同じであり、何の解釈も入り込まない客観的なドキュメンタリーなどありえない。それを逆手にとって、と言ってよいかはわからないが、監督がその客観性と解釈との狭間を最大限に拡張しようとしていることはよくわかる。
このご時世にナチとそのプロパガンダに乗ったウクライナ人によるユダヤ人虐殺についての映画を公開する、という時事性が当地での反発を買ってしまったようだが、冷静に見れば、誰もがホロコーストの加担者たりえ、またその加担者に対する処刑者たりえるということを淡々と実証したにすぎない。もちろん「このご時世」に「冷静」になること自体がアカデミックでシネフィル的な態度だというのだろうが、決してウクライナ人を糾弾しようという映画ではないことは確かである。
本作公開をきっかけに監督の《群衆》ドキュメンタリー3部作がAmazonで見られるようになったらしい。問題はいつ見る時間を作るかであるが、電子空間は渋谷に行くよりも億劫である。

香も高きケンタッキー

渋谷にてジョン・フォード監督『香も高きケンタッキー』。蓮實氏が煽りに煽ったこの作品をついに見る機会がやってきた。上映一時間半前に着いたが整理番号は既に60番台。その30分後には満員御礼であった。
オープニング・クレジットのキャスト一覧に「われわれ馬たち」という見出しの下にまず馬の名前が並び、続いて人間のキャストたちが「人間と呼ばれる生き物たち」という見出しの下に列挙されているところからも早くも傑作の予感がするのだが、本当に馬の一人称で語られる72分。競走馬の一生における冷酷な現実も見せながら、失敗の人生(馬生)などないのだという、フォード節の詰まった牝馬二代記。馬と馬の再会に涙させられる映画があったとは。ジョン・ファレル・マクドナルドのような人が映画には必要なのだよね。
無伴奏サイレントで馬と人間の一喜一憂を黙って見つめる時間の尊さを噛み締めた一日であった。