オリヴェイラ2025 その1

文化村ル・シネマでマノエル・ド・オリヴェイラの特集上映が組まれている。オリヴェイラについてはDVDも絶版で高騰しているし、このまま忘れ去られていってしまうのではないかと危惧していたが、何年かに一度レトロスペクティブが組まれるのであれば、現代も捨てたもんではないなと思う。土曜の夕方の上映でトークショーつきという条件を抜きにしても、一般に有名な俳優も出ていない何十年も前のポルトガル映画で、200人規模の会場が8割埋まるほど人が集まるとは、正直驚きである。若い人たちの「過去」との出会い方は私の世代の感覚からすると奇妙であるが、良いものは良いものとして残り続けるということなのであろうか。ル・シネマではこの後ジャ・ジャンクーの新作が封切られ、さらに夏にはサタジット・レイのレトロスペクティヴが開催されると言い(『音楽サロン』!)、にわかに血が湧き上がるのを感じずにはいられない。私はきっと地方には住めないなと思う。
初見の『カニバイシュ』。宮殿の入口のようなところに次々と黒塗りの車が到着し、中からなにやら高貴な装束の人々が出てくる。自動車が登場するからさして古い時代の話ではあるまいと思って見ていると、沿道に押しかけた現代の洋服を着た人々が、柵の向こうから彼らに声援を送る。次々と到着するのは現代を生きる貴族なのか、あるいはコスチュームプレイとして貴族の衣装を纏った役者として扱われているのかは定かではない。声援とそれに応える俳優=貴族たちに見惚れていると、最初に到着した2人の男たちが、片割れがヴァイオリンを弾き、片割れが歌いながら、キャメラ目線で物語を説明しはじめる。狂言回しが登場するから、やはりいつもの——といってもフィルモグラフィーから言えばまだ序盤であるが——オリヴェイラ的な、「演じられた表象」として映画は展開していくのであろう。キャメラが壮麗な宮殿の中に入っていくと、狂言回し以外の人物たちも歌っているように見えるので、これはオペラをモチーフとした映画であることが理解される。腹式呼吸で歌い上げられる声と、役者の抑えられた口の動きとはマッチしないので明らかに口パクであるが、しかしながら完璧に同期しているから、先に歌を録音してそれに合わせて演技を行うという骨の折れる作業を行ったのであろう。私のミュージカル嫌いもあって歌=セリフの内容はほとんど頭に入ってこず、集中力が保つかどうかを危惧しはじめるが、オリヴェイラ特有の、わざと「わざとらしい」ショットが次々に繰り出され、辛うじて持ち堪える。しかし、結婚した妻に「私は人間ではない」と忠告するあたりから一気に映画が荒唐無稽な方に傾き始め、着ぐるみは出てくるわ、人は生き返るわで、前作『繻子の靴』で頂点に達した——というかやりすぎた——「演じること」と「演じられた表象」との自在な行き来が、さらなる次元へと到達している。終盤になるまでこの映画の本領は発揮されないが、そこまで観客がついてくることを信じきったオリヴェイラの信念の強さに脱帽する。
次に『絶望の日』。ポルトガルを代表する小説家カミーロ・カステロ・ブランコの最晩年の日々を描いたものだが、いきなり役者がキャメラの方を向いて「私が今回演じるのは…」と紹介をし始め、作家とその妻を演じている役者が、役を演じているシーンと、役者としてこちらに話しかけてくるシーンと、役を演じていたと思ったら急にかつらを脱いでこちらに話しかけてくるシーン、それに作家の小説の中のテキストを作家とその妻が話し始めるシーンが交互に展開する。時制も行ったり来たりするので一度見ただけでは全貌を理解できない複雑な作品。復元された作家の家の中で撮られているとのことで、これがなんともアウラが無くて微妙なのだが、馬車の車輪だけをひたすら映して移動を表したり、馬車から見える木々だけを映しオプティカルフローがゆっくりになっていくことで停止を示したり、英断というほかないショットが連続する。妻役の役者が最初「役者」としてこちらに話しかけてくるシーンでは、少し演技過剰な俗っぽいおばちゃんにしか見えないのだが(失礼)、「役」としてメイクを施した途端にこの役はこの人でしかありえないと思わされるような風貌へと変身するのが衝撃的であった。
作品を見るたびに本当に偉大な映画監督だという思いを新たにするのだが、なぜか彼はゴダールを称賛していて、いやいやあんたの方が何倍もすごいよ、と言いたくなるのであった。

切羽詰まり続けた春休み。やけくそで映画を観に行く。忙しいのに映画に行く意味はわからないと思うが、呼吸は必要なのだ。
佐藤そのみ監督の『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』の2本立て。日芸在籍中の自主制作として撮られた前者と、卒業制作として撮られた後者。普通は逆だろう、とツッコみたくなるような、前者の意気込みの強さと、後者の(いい意味での)肩の力の抜け方。
津波によって家族を失った監督自身や、地元の人々の経験に基づいて撮られた劇映画である『春をかさねて』は、撮影が完璧でないところや不要とも思えるシーンもあったが、大学生でこれだけ多くの人々、特に実際に被災した地元の人々と、県外の役者とを巻き込んで、これだけの映画を撮れてしまったということが俄かに信じがたい作品で、津波で廃墟化した小学校で撮られたラスト近くのシーンは、身じろぎもできなくなるような力を湛えていた。
一方、失われた家族に対するビデオレターとして撮られた『あなたの瞳に話せたら』は、監督自身と地元の友達2人の現在を映像によって映し出し、彼ら自身の「手紙」をナレーションとしてかぶせる構成で、前作で見た小学校がいかにして被災し、いかにして遺構として守られてきたか、そして、彼らが震災や家族のことを忘れないようにしながらも、どのように「今」を生きているかを語るという、鮮烈な作品であった。震災の外部ではなく、内部からこのような映画が出てきたことがとにかく強靭な力を持っているが(震災に「外部」があるのかという議論もあるだろうが)、「いつまでも被災者として甘えていてはいけない」と意を決したと監督自身が語っているように、「震災映画」を超えた普遍的な力を感じた作品であった。
別日には、タル・ベーラによる福島での映画教室の模様を撮影した小田香監督の『Fukushima with Béla Tarr』をシモキタエキマエシネマとやらに観に行く。福島に着いて早々、被災地を巡るバスツアーに「こんなツーリズムは要らない。実際の人々の生活が見られるところはどこだ」とクレームを言い、「まったく1日を無駄にした」と事前に組まれたプログラムを拒絶して「とにかく人に会って人生を学んでこい」と参加者たちを現実世界へと仕向けるタル・ベーラ。あらかじめ想定したような「悲しい被災の物語」ではなく、どんな状況でも生きていく人間たちの強さを撮りに行け。震える手でタバコをふかしながらそう語る彼の姿には、人間をどこまでも信じ切る強さが満ち溢れている。WS参加者の口から出るナルシシスティックなおべんちゃらに「いいか。君の言っていることは全く意味がわからない。私の知りたいのは何が画面に映るかだけだ」と映画言語にはあくまで厳しく、徹底して指導する姿。彼自身の映画がどうであるかはさておき、人間として、教育者としての彼の姿に圧倒される。パンフレットには、必要なのは「education」ではなく「liberation」なのだという言葉が記されていた。システムとしての大学が生み出すくだらない形式主義や立場主義を乗り越えて、人として学生を「解放」するにはどうしたらいいか。教育のあり方を突きつける言葉であった。
そうこうしているうちに4月になってしまったが、早々、ヴァル・キルマーが死んだ。思わず、彼の撮り溜めた個人的な映像から構成された『ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男』をU-Nextで観る。そこには、咽頭がんの手術後にのどのボタンを押さないと発話ができなくなった映画俳優の人生が、息子のナレーションとともに描かれていた。子供の頃から兄弟と映画ごっこをしていたこと、演劇学校で演劇を学び、若きケヴィン・スペイシー、ショーン・ペンらと共演した舞台の様子、『トップ・ガン』で一気にスターダムに駆け上り、『ドアーズ』『トゥームストーン』『バットマン・フォーエヴァー』で大役を演じ切ったのち、マーロン・ブランドとの共演作で監督と対立し、「扱いづらい俳優」としてレッテルを押されたこと、そして父親から相続した土地を売り払って臨んだマーク・トウェインのワンマン・ショーへの意気込みなどが、次々と語られていく。私にとって忘れられないのはマイケル・マンの『ヒート』で、センシティヴで忠義深いギャングの一員を演じ、ブロンドの長髪で銃火器を構える姿に、美しい俳優だなと思った印象がある。内容は覚えていないがハーモニー・コリンの『The Lotus Community Workshop』でほとんど三輪車みたいなミニベロで夜道を走っていたのを思い出す。こんなに喋れなくなっても創作活動をすることはできる。人間は美しいと思わされる映画であった。

地図の中の風景

『都市計画』誌373号に短いエセーを寄せました。

「地図の中の風景—125」《都市の顔は地図上にある》

『アイデア』の連載でも触れられなかったマクシム=オーギュスト・ドゥネーの文字地図について、ようやく書く場所ができました。インターネットは物理的な都市の関係性を破壊するものだという昔からの予感が、いよいよ本格的に現実のものとなってきたという話です。(約750字)

それから、学生に教えてもらったのですが、ユーチューバーの方々が拙著を取り上げてくれていました。最初は「誰やねん」と思いましたが、「感受性のない」水野さんの指摘は結構鋭く、正直すごく楽しませていただきました。ありがとうございます。

20250401

クソ忙しい時に食べたこともないフラムクーヘンとやらを作ってみるぐらいの若さは持っているらしい。

『あの優しさへ』

自身が同性愛者であるということを家族に告白し、母親の拒絶にあったという実際の出来事からまもなく、それを家族本人の出演によってキャメラの前で再演するばかりか、さらにはその映画を撮影している様を撮影し、虚構と現実が幾重にも構造化された映画へと仕立て上げるという、心理的にも映画的にも途方も無いことをやってしまった初監督作『ノイズが言うには』から7年。そのラストショットである娘からの手紙に涙する母親の横顔を捉えた映像を、ルーペを通したような輪郭のぼけた丸いイメージによって見つめ直すことから始まる小田香『あの優しさへ』は、自己の映画的行為が、「今自分の撮るべきものはこれしかない」という切実な思いから生まれたものであったと同時に、自分を拒絶した母親に対するキャメラを通した復讐でもあったのではないかと苦悩し、キャメラを被写体に向けることが被写体に対する暴力や搾取につながること、そして映画における「距離」とは何かと自問し続ける監督自身の手記であり、また母に向けての手紙である。監督の思いは、初監督作を観た者なら聞きなじみのある監督自身の「声」として、過去作のイメージや使われなかったフッテージに重ねられていくが、やがてその悩みは、タル・ベーラの映画学校に通うためにやってきたボスニアの地で「撮るべきもの」を完全に見失ったこと、そこで自らをせき立てるようにして撮ったボスニアの農村の葬儀と祭、さらにロマへの密着インタビューなど、自らが撮ってきた映像を回顧しながら、「映画とは何か」という問いへと突き進んでいく。
観客にとって無縁であるはずの監督の個人的心理の吐露が、なぜ人をここまで惹きつけるのだろうか。そんなことが許されるのは、ジョナス・メカスのような、限られた人物だけだったはずである。何を捉えているのかもわからないおぼろげな映像が、アートぶった映画のような嫌味さを微塵も感じさせず、ここまで人を武装解除させるのはなぜか。素朴で、迷いながらも、潔く、聡明な映像。「説得力」と呼ぶのも憚られるような、声と音の、不可解な浸透力。それに、勇気ある行動。『鉱 ARAGANE』や『Underground』も素晴らしいが、『Flash』や『あの優しさへ』のような映像エセーに、監督の得体の知れない大物さを見出すのは私だけではあるまい。

『セノーテ』

ゴポゴポという水の音と、遠くで子供たちがはしゃいでいるような声が、空間の中で反響し、また分厚い水の層を伝わってくることによって、くぐもって聴こえてくる。スクリーンには、上を見ているのか下を見ているのかもわからないような水中の映像が映し出され、水中にわずかに差し込む太陽光が、文字通り「光線」として照らし出す先に、魚や人の影がおぼろげに見えては消えていく。これは一体どういう状況なのかと思考を巡らせているうちに、不意にキャメラは水面に浮上する。その瞬間、激しい光彩が目を刺し、上空から落ちてくる無数の水滴の衝突音が、劇場の空気を震わせる。
キャメラは、深淵部がどうなっているとも知れぬ異国の泉=セノーテへと次々に潜っていく。恐る恐る、しかし勇敢にも奥へと泳ぎ進めながら、アロワナを思わせるような熱帯の魚や、水底に沈む獣骨など、静寂極まりない水中の様子を伝えていく。色彩豊かなセノーテもあれば、ほとんどモノクロームに近いものもある。そこに、恐竜を滅ぼしたとされる隕石以来のセノーテの言い伝えが、語りとして重ねられる。曰く、ある日泡が吹き出して人々を飲み込んだとか、若い生贄が捧げられたとか、映像を見ている者を震え上がらせるような内容が続く。やがてそこに少女の言葉でマヤの詩が重ねられ、現地人の顔のクローズアップや、祭りの様子が挿入される。「完璧」を目指すわけでもないし、何かを語り尽くしているわけでもない。それでありながら、「傑作」と思わず呟いてしまう。その面白さは、未知の場所を探究する好奇心と無縁のものではないだろうが、それ以上に、イメージとサウンドを組み合わせることによって生まれる映画の本質的な力が、しかも物質的な形でここに宿っているからであろう。だからといって何かが説明できるとは思わないが、映画館という空間で、鼓膜ではなく身体を振動させながら、スクリーンの光に身を委ねるということでしか生まれないような体験がここにはあることは間違いない。インタビューを読んで驚いたが、水中のシーンの多くはiPhoneで撮られたらしい。小田香『セノーテ』。新しい時代の到来としか言いようのない映画であった。

『Flash』

列車の窓らしきガラス面に、車内の人影が反射する。どうやらそこはコンパートメント席らしく、うつろう人のシルエットからは、車掌か国境警備隊が乗客2人のパスポートをチェックしている様子をかろうじて読み取ることができる。パスポートを返してもらった乗客たちは、各々の旅券を見比べながらその取り扱いの違いについて談笑し始める。身を起こす片割れに、キャメラに映り込むからそれ以上乗り出さないでくれと、監督らしき人物が注意を促す。「私より絵が大事なのね。」そう冗談を言うパートナーを尻目に、列車は発進する。
列車の窓は薄汚れていて、キャメラはまずそれを捉えているが、白い斑模様の向こうには、紅葉した渓谷の風景が映し出されていく。しかし、列車を取り巻く光学的状況の移り変わりとともに、反対側の窓のシルエットや、さらにその向こうに映る車外の風景、そして三脚に据えられた一眼らしきキャメラそのもののシルエットさえもが、画面上に現れては消えていく。簡潔に窓に垂直に向けられているのであろうキャメラの視線の先に、五重・六重ものイメージが層となって重ね合わされる。しかも、窓=鏡、キャメラ、それに乗客との位置関係を正確に判別し難いような、ある種のトロンプルイユ的な映像が展開される。その巧妙な入れ子構造に見惚れていると、「どうすればあなたに届くのか」といった監督自身の手紙のような私的文章が、スクリーンの上下に字幕として映し出されていく。「あなた」が誰を指しているのか、あるいはそれが人であるのかすらわからないが、誰かに到達できない思いを吐露しながら、物心がついて以来最初の記憶がなんであるかを自問するような言葉が続いていく。映画の作法を破るようなその手法にこちらの映画認識が揺さぶられるが、静観しているとさらには音声通話やビデオレターの音声のような、親しい人物の安否を気遣ったり自らの消息を伝えるような第三者の言葉が、サウンドとしてイメージに重ね合わされる。その言葉が、生まれ故郷とは遠く離れた土地を旅する監督と無縁ではないであろうことはすぐに察せられるが、そうとは確信され得ないような言葉も混じっている。列車というのはともすると、人生の比喩かもしれない。あるいは——ホセ・ルイス・ゲリンの『影の列車』のように——移り変わる光景が1秒24コマのフィルムの枠へと次々に記録されていく「映画」というメディアそのものが、三重に重ねられているのかもしれない。イメージとサウンドが相乗効果を上げることはトーキー以来当たり前であったのにもかかわらず、異常に新鮮な効果を上げているという信じがたい事態に驚きながら思考をめぐらせていると、列車は川を越え、トンネルをくぐり、いずこかの駅へと到達する。そこに停車しているタンク車に書かれた文字から、その列車がバルカン半島を走っているものであろうことがようやく理解される。
一つの駅から出発した列車が、別の駅へと到着する。この車窓だけを捉えた映像に、サウンドを重ねるだけで一片の映画が誕生する。そしてそれが見るものの映画体験と、人類にとっての「イメージ」がなんであるかを揺るがせる。小田香監督『Flash』。驚きに満ちた25分間であった。

振り返り

仕事の合間に少し自分のためのことを書いておきたい気持ちになってこれを書いているが、昨年を振り返ると映画館に行った記憶などはほとんどなく、昨年観たと思っている映画もほとんど一昨年のものだという体たらくで、渋谷方面から下高井戸方面に流れてきた映画をなんとか滑り込むように観ていた記憶がおぼろげにあるぐらいだ。仕事終わりに映画を観るという生活が私の夢ではあるが、そんな環境に住めたためしはないし、映画館の方がどんどん居住地から遠ざかっていくばかりで、一向に実現する見込みはない。なにしろ、大学と概ね反対方向にある「映画館」という存在に息せき切って向かい、深夜に這々の体で帰ってくるというのは流石に年齢的に堪える。都心に引っ越す、という最終手段があるにはあるが、日々の利便性を考えると多摩地区に住み続けるのが論理的解答として揺るぎそうにない。大学が引っ越してくれれば全て解決するのだが、そんな夢のようなことを考えるよりは、アキ・カウリスマキのように片田舎に映画館を建ててしまうほうが現実的な思いがする。
そんなわけで昨年はエリセとワン・ビンの新作、それにケリー・ライカートの回顧上映ぐらいしか観に行った記憶がないのだけれど、PCのモニタ上で観たものはいくつかあった。一つ目は濱口竜介・酒井耕監督の『なみのおと』である。東日本大震災の被災者へのインタビューを中心に構成された映画であるが、いわゆるドキュメンタリーであるにも関わらず、向かい合って話す人々を正面から撮り、そのショットの切り返しで語りを展開していく様は、さながら小津映画のようである。震災時の想像を絶するような状況を、一瞬の判断の違いで幸運にも生存した人たちの語る言葉は、「被災者の語る言葉」という枠組みから想起されるものをはるかに超えていく。津波に巻き込まれた地域であるにもかかわらず、自分の意見は受け入れられないだろうけれども、巨大な堤防を作ることで生活と「海」が分断されるのは嫌だ、と勇気を持って語る若い女性の姿を本編に収めることができたのは、この映画の大きな功績ではないだろうか。
次に、小森はるか監督の『息の跡』である。津波で店舗を跡形もなく流された種苗店の店主が、再び店舗をセルフビルドし仕事を切り盛りする姿を追った映画であるが、店主は店舗の再建に飽き足らず、散逸した地誌をかき集め、切り株の年輪の太さを測って現地の津波の歴史を研究したり、独学で覚えた英語でもって津波の体験についての著作を執筆し、ついには中国語まで憶えて発表してしまったりと、なんでも自分でやって乗り越えてしまう。そんな店主の姿からは、人間その気になれば何でもできるのではないかという勇気が湧いてくる。藝大を出て将来の不安を抱えながらも東北に移住し、バイトをしながら映画を撮ろうとしている監督との関係もよく写っていて、「こんなことをやっていないで映像制作会社に就職した方がいいんじゃねえのか」というやりとりにはハッとさせられてしまう。
人間は日々、関係性の中で生きている。そこには良い関係性も悪い関係性もある。ただ、それを一度に喪失すると、何かをイチから一人で作っていかなければならない。そこから何かを生み出すには時間がかかるが、その時初めて自分の生き方が生まれるのかもしれない。見知らぬ土地でよそ者として映画を撮ることも、津波で店舗や知人を失った後に再び生き直すことも、程度の差こそあれ同様に困難であるが、そのような境遇の他者同士が出会うことによって奇跡のような映画が生まれたのかもしれない。人間はいつだって何かを始められる。無数のしがらみに囚われていても、本当の関係性はほんの一部である。それを見極めて自分の生き方を見つけていかなければならないと思わされる映画であった。

絶望のかなた

年末に溜まった仕事を片付けるぞと書いた直後、猛烈な悪寒に襲われてそこから丸10日間寝室に軟禁される。医者に予告された快癒時期も通り越し、年まで跨いでしまった。微熱も残っていたがいい加減に外に出ようと元旦に公園を散歩したところ、あくる日に登山後のような筋肉痛に襲われ、階段を一段登るたびに脱臼したような格好になる。年越し用に買っておいた嗜好品や、お節料理でも作ろうと買い込んだ食材なども、雲散霧消してしまった。いつまで経っても治らないがために陰鬱としながら、仲間を求めるようにカウリスマキの映画を布団の上で見ていたが、全てを失っても人間にはつながりができるという監督の姿勢に打たれたのか、それとも皆アルコールを浴びるように飲み、夜道を歩いていれば必ず暴漢に殴られるようなフィンランドの光景が絶望的すぎたからかはわからないが、久しぶりに出た外の世界はいつもより美しく思えた。
年明け早々、次年度のゼミ決めが行われる。今年一年で痛感したのは、私はまだまだ教育者として素人に毛が生えた程度であるということだ。人間を育てるという点において、先輩の先生方には全く及ばない。学生にコメントをする上では否が応でもこれまでの人生がふりかかってくるが、いい加減な生き方を反省することしきりである。そんな私にできるのは時間をかけて学生の話を聞き、一緒にものを見て考えることぐらいだ。それにもかかわらずついてきてくれる物好きな学生たちには感謝しかないが、私もこのままではいけないと思うので、教員としてもっと成長していきたいと思う。
二週間ぶりに会ったゼミ生たちは、私が年末に書いたブログ記事を死亡フラグだと言って笑っていたが、教員のいない間に彼らは大きく成長していて、この一年の成果が少しずつ形として現実化していることに、涙腺の緩みを隠しきれない。どこまで学生を信じられるかが教育のキモだとはよく言うが、まだまだ私は心配性の過保護であり、流感で寝込むぐらいでちょうど良かったのかもしれない。はてさて、泣いても笑ってもあと数日である。彼らを信じていることにして、年末から持ち越した仕事を消化しようと思う。

消息

卒業制作と論文指導を除き、今年の授業が終わった。夏休みからはとにかく「視覚言語」の授業準備が大変で、ストレスと寝不足でみるみる体調が悪化し、体重も増えた。もともと冬の気候に弱いのに、今年はそれに追い打ちがかかった。
授業が終わった日の翌朝、スイスの友人から消息が届く。彼の新しい本が出版されるとのことで、訪日予定の知人経由で私の元に届けてくれるという(それも非常にスイスらしいネットワークである)。ジュネーヴ図書館の司書さんが「同じようなことを研究している人がいる」と引き合わせてくれて以来、われわれは本や論文を書くたびにお互いの原稿を送りあっている。私の本は日本語なので彼の書棚の肥やしになっているだけであろうが、彼はいつも祝福のメールを送ってくれる。エアポケットのように空いた時間に地球の向こう側から報せが届いたことが、何より嬉しかった。こちらからはしばらく出版の報せを送ることができていないが、これを機にまとまったメールを書こうかと思う。
11月には突貫で旭川に行った。子供の作った環境地図の展覧会を見るためである。すでに氷点下に近い気温の旭川は、寒風吹き荒ぶといった体で、バスで空港から駅に到着すると同時にショッピングモールに駆け込み、肌着を着込まないと寒がりには耐え切れないほどであったが、北国の寒さには清々しいものがあり、意外にも心地よい。それでも、夜に飲み屋で話し込んだ地元の人によれば、日本の最低気温である-41度を叩き出したのはほかならぬ旭川の地だというから、こんな寒さは序の口も序の口なのだろう。ダイアモンドダストの作り出す光景は何ものにも代え難いからぜひ見に来いというが、問題はいつそれが到来するかわからないことだと笑う。
わたしの幼少期に通った習字の先生はここ旭川の出身で、親に連れられ、先生の書いた字を見に層雲峡のホテルまで来た記憶がある。当時のホテルにはおもちゃのパチンコがあり、暇つぶしにやっているとフィーバーしてしまい、景品として女性もののパンツが出てきたことが強烈な思い出としてある。そのことを誰に話しても信じてもらえなかったのだが、再訪したこの旭川で奇遇にも同世代だという飲み屋の店主に話すと、「あった、あった」という。30年来の記憶が確かめられた瞬間であった。
年内は、入試と少しのデザインワーク、それに手付かずのままの2本の原稿仕事が残っている。まずは些事を片づけようとシラバスと領収書の整理に精を出したが、些事は芋蔓式に出てくるもので、失敗に終わった。ゼミ生はなぜか教員の冬休みに対して呪詛の言葉を投げかけてくるが、実態はこんなものだ。夜中に光る赤や青のLEDに嫌悪感をおぼえつつ、筆を置いて床に就くことにする。

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