五月

去年から聴き始めたradikoの音質への不満が募り、チューナーで受信して録音し、データとして録り貯めるにはどうしたらいいか真剣に考えたところ、もうエアチェックなんてする人は絶滅危惧種に近いらしく、適当な値段で揃えることができない模様。音質は落ちるが192kbpsのmp3でタイマー録音できるポータブルのラジオレコーダーを友人に教えてもらって導入する。電源をONして最初に飛び込んできたのが上白石萌歌さんの声。アナログの電波を受信するというのはなんといいものか。どこで誰が何回再生したって同じ音が出るデジタル音源とは全く情報の質が違う。以来ラジオに夢中で、古楽、ジャズ、オールディーズの番組、それにニュースなんかも楽しみに聴いている。

そんなこともあって音楽を積極的に聴く気持ちが復活し、引っ越して以来眠っていたプリメインアンプとCDプレイヤーをある日試みにつなぎ、音質の違いを確かめてみようとしたのだが、どうもアンプのほうが壊れているらしく左の音が出ない。一応ケースを開けて埃を吹き飛ばしたが改善されず。もともと安物だったししょうがないから新しいのを買うかと思ったのが沼の始まり。最近はUSBメモリのみならず、WiFi経由でストリーミングサービスやNAS上の音を聴いたりできるアンプ(ネットワーク・レシーバー)なんて代物が老舗オーディオ・メーカーから出ていて、そりゃあまあ音質的には純粋なアンプを買うのが一番いいだろうが、それぞれを単体で揃える資金などないし、さすがにこの利便性には争い難いものがある。数週間ウェブサイト上の仕様と睨めっこした挙句、購入。データを入れたUSBメモリを挿して聴いてみた結果、これだけの機能が詰まっていてこの音が出ればいいか、と思ったが、最近はCD音質を超えたハイレゾのデータを直接ストリーミングで配信するサービスなんぞががあって、試みに聴いてみる。これはいかん!仕事にならない!悪魔のサービスだ。しかしながらもうデータの直接配信が物理的な記録メディアを超えてくるとなると、本格的にディスクなんてものは無くなるかもなあ、と思わされる。でもジャケットがあって、ライナーがあって、それを読みながら聴くという楽しみはなくならないでほしい、という複雑な思い。

某日、鈴本演芸場の寄席の配信があるというので聞く。テレビしか落語を見たことなかった私にとって、20代で初めて行った寄席は信じられないぐらい暖かい笑いに満ちた空間だった。またその雰囲気が真打の番になると静謐さに様変わりし、空間全体が噺家の一挙手一投足に集中する。そんな寄席が開けないこと、あるいは今日のようにお客さんを入れられないということがどのように厳しいことなのか、想像すらできない。しかしながら演者の皆さんはそのことを逆に笑いに変え、筋に入れば無観客であることなど全く感じさせない。申し訳ないぐらいの3時間だった。

四月

エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』35 mm上映とのことで渋谷に二度赴く。何度見たかわからないが歳を重ねるごとに味わいが増す。これまでは呉念眞みたいな大人になりたいと思っていたけれど(何の努力もしていないが)、ここでのNJという役は改めて見ると結構滑稽で、偶然再会したかつての彼女の前で「愛したのは君だけだ」なんて都合のいいことを言ってしまいながら、飄々と家庭に戻って妻に顛末を話してしまう。プラトニックな不倫劇でもあるのだけれど、なぜかNJを応援してしまうのは、呉念眞と元恋人役の俳優から滲み出る人柄だろうか。人生をやり直せるチャンスをもらったら人はどうするか。しかしNJの人生は、たとえうまくいかなくとも、娘や息子によって反復されていく。帰宅したNJはこう言う。

「青春をやり直すチャンスをもらったんだ。でも結果は同じだった。やり直す必要なんてないって気づいたんだ。」

過ぎた人生について悔やむよりも、今あるこの人生をより良いものとすべきだ。このNJの台詞にはヤンの現代を肯定する眼差しが集約されている。抑制の効いたロング主体の画面で展開する細部の連鎖の網の目が比類なきものであることは間違いないけれども、私にとってヤンの最も素晴らしいところは、その肯定の身振りである。この世は既に天国である。そう確信できない私は今日もエドワード・ヤンを見続ける。

三月

新年の誓いを立てようと思ってから早3ヶ月。このままなし崩しに今年も終わっていくのであろうが、タスクが満載である。正月に気づいた前厄という事実が、節目節目で気に掛かる。思う壺である(誰の?)。

フランスの友人より便り来る。私もあちらのニュースを追うのをやめてしまったので、何ができて何ができないのか、ちゃんと給付金が出ているのか、知らぬ間に感染して入院していたりはしないか等々考えると気軽にメールも書けない。送ってもいいかと思えるまでに三ヶ月かかったメールを正月に送信していたが、それに返事が来たことだけで胸を撫で下ろす思い。曰く、ここ一年で全てが変わってしまった。もうお前の知っているパリではないと。外に出るにも毎回書類を書かねばならず、元々お役所的な書類地獄なのに、今の煩雑さはカフカの小説のようだと(「カフカ的=kafkaïen」なる単語があることを初めて知った)。唯一の救いは通りから人間がいなくなって街や建築が美しさを取り戻し、鳥が自由に飛び回っていることだという。一日何万人という単位で新規感染者が出るという状況は想像すらできないが、せめてこのままやりすごしてほしいと思うばかり。

卒業制作展に赴く。今年の卒業生は私が非常勤になって初めての担当学生なので、見知った顔が多い。しばらく人に会っていないこともあって否が応にも話が盛り上がってしまう。満足げにしている者も自信なさげにしていた者もいるが、皆それぞれの持ち味を伸ばしていて、素質の途方もなさを感じさせる。自分が学生だった頃は「デザインとは」ということに対する答えを絞り込んで考えていたが、今こうして教員になってみるとデザインという形は一つではなく、どうあってもいいんだと目を開かされる思いがする。時間の許す限り見て回ったがそれでも多くの学生には不義理を果たしてしまい、今年は学外展という「次の機会」もないので申し訳ない限り。

立川で『シン・エヴァ』。やはり自分にとってのエヴァは「謎」でも精神的描写でもなく「アニメーション」であった。高校の頃はTV版から旧劇場版まで何度もVHSをコマ送りにして見直したけれど、今思いかえしてみても当時最高のクオリティだったと思う。今回『シン・エヴァ』を見ながら確認させられたのは、「新劇」はデジタル技術を使ったアニメーション制作への挑戦だったということ。今作でも3DCGとキャラクターを画面上で融合させるための試みや、デジタルでしかありえないアクション・シーンが展開していて、遠近感が欠落してよくわからない場面があったのが残念だけど、監督がいかに現代というものを肯定的に取り入れようとしているかが伝わってきた。次はもっとわかりやすいやつを撮ってほしいなと思う次第。
それにしても「新2号機」がガンパンツァーZZに見えたのは私だけではあるまい。

フランスにいたため未見だった『シン・ゴジラ』を流れで。これは政治コメディだよね、と思いながら見たが、火炎放射のシーンには溜飲が下がった。

『ニッキー・ラルソン』こと仏版『シティーハンター』は予想外に良く、最初はちょっと苦笑いしたが、途中のクレーンを使ったアクション・シーンなんか近年見ないようなアイディア溢れる演出だったし、随所にユーモアがあふれていて、最後は爆笑。『シティーハンター』らしさもしっかり受け継いでいて、すごく好感の持てる作品だった。

2021年

昨年後半は急に忙しくなり、映画も1本を除いては全く見る気力もなかったけれども、ほかでもないその1本であるオリヴェイラの『繻子の靴』は、前作『フランシスカ』のコンセプトを7時間に渡って展開させたまさに「やりすぎ」の極致であり、1本だけで下半期を充溢させるに十分な映画であった。ここで振り切ったことではじめて『ノン』『アブラハム渓谷』『階段通りの人々』といった傑作群が生まれたのかと思われる。苛立つ劇場主が劇場の扉を開いたと同時に客席へと雪崩れ込む現代の観客たちの様子をトラックバックで捉え続けたのち、舞台上で口上を打つ狂言回しにキャメラを振って、壇上に設けられたスクリーン内の「映画」へと入り込む、という冒頭の流れはまさにオリヴェイラ。その後も場面転換を「画面」に向かって説明しながら他の役者たちにコスチュームや立ち位置を指示し続ける登場人物が現れるなど、上演された舞台、映画、さらにそれを見る観客、という構造の隙間を抉り続ける。彼の映画を見るたびに大文字の「映画」に対する挑戦はもはや生まれえないのかと喪失感に失われるけれども、E/Mブックスのオリヴェイラ本で彼のフィルモグラフィーを見返してみれば、未見の作品がいまだ数多くあることに気付かされ、そこに希望を見出す。

授業が終わって年も越し、ようやく映画でも見るかという気になったので、山中貞雄『河内山宗俊』で映画初め。なんと空間づくりのうまいことか。身売りを決めた原節子が弟の元を黙って去るところで降る雪の美しさよ。笑って泣いてチャンバラで、最後は散り際の美学で締める。日本人でよかったなどと戯けた台詞を言いたくなる正月であった。最近の流行にあまり、というかほとんど興味が持てないので、昔のものばっかり見てる偏屈おじさんとして生きていきたいと思った次第。

「これが挑戦であることは分かっていました。クローデルは難解で、万人受けするものではないものの、潜在的には、人がそう思いたがるほど不人気なわけではないと考えています。観客の審美眼を涵養しなければならない。難しいことですが、そうすることが必要なのです。ルーヴル美術館に行く人は大勢います。いろいろと優れたものがありますから。そうした人たちはまだ食い物にされていない。彼らを悪い方向ではなく良い方向に開拓しなければなりません。」
—マノエル・ド・オリヴェイラ監督『繻子の靴』上映記念カタログ 16頁(2020年11月)

6月

授業が近づく。新しいドメインをとって、サーバ内に乱立した十近いウェブサイトを整理して、心機一転、未来に向かって歩きだすぜ!と思っていたが、ドメイン名を何日も考え込んだり、最適なディレクトリ構成を考えたりしているうちに授業日になってしまった。結局何もできていない。授業のウェブサイトを新装開店しただけでも良しとするしかない。

強制力も責任もない「宣言」が明確な根拠もなく解除されて、根拠ないままに世の中が動き始める。いやまだ全然ダメでしょ、と真面目に自宅待機していたら馬鹿を見たような気になる。個人や企業としてそれぞれ事情はあるが、「社会」という全体として何の反省もなく目先の利益に向かって突進するのはちょっとないだろう。ウィルスを流通させたのは誰か特定の個人のせいだけでなく、まさに自分の利益しか追求しない「社会」そのものなのだから。とはいえ国のトップがあれでは勝手にやるしかないが。

あまり重い映画も見る気がせず、ちょうどいいと思ったのかジム・ジャームッシュを回顧。未見だった『デッドマン』だが、ジョン・ハートに続いてロバート・ミッチャム登場でいきなりやられる。ドがつく傑作。続いて『ダウン・バイ・ロー』。撮影がロビー・ミューラーであろうと、処女作から途切れなく続く終わりなき閉塞感と無頼の心得が、ベニーニ登場で一気に内側から崩壊し、大文字の「映画」へと躍動し始める。人間関係における人数の意味を問い返すような一品。『ミステリー・トレイン』を経て『ナイト・オン・ザ・プラネット』へ。オープニングの地球儀回転から素晴らしく、徹底的に贅沢に役者と会話の魅力を楽しませてくれる。東独から来たタクシー・ドライバーの役で出ている『ベロニカ・フォスのあこがれ』のアーミン・ミューラー=スタールが素晴らしい。それにしてもここには「時代」が刻印されている。

何かのはずみで『さらば愛しきアウトロー』を見たら、久しぶりにアメリカ映画に心弾む。テンポのよさ、底抜けの明るさ、疾走の叙情。事実と異なってもいいから最後もうひと旗上げてくれれば最高だったけれども、それでもフィクションには振り切れないのか。一方で過去作『セインツ』は、多分ケイシー・アフレックが苦手だからだろうが、どうも乗り切れず。ステイサムの『メカニック』を見たものとしてベン・フォスターには思い入れがあるんだが…。

あとは『エヴァンゲリヲン新劇場版』の『破』と『Q』を見直して童心に返ったり、『ゼロ・ダーク・サーティ』を見て陰惨な気分になったり、なんでか『インフェルノ』を見たり(ベン・フォスター!)しているうちにモニタで映画を見るのにも飽きて、授業準備に時間を費やす。

今年もカブトムシ・シーズン到来。廊下に毎日十数匹はいて統計でも取ろうかと思ったが、多すぎてやめた。

5月映画日記-2

5月某日
まさかオンラインにあると思わなかったロッセリーニ『ロベレ将軍』。デ・シーカ演じるしがない詐欺師がゲシュタポに逮捕されるが、パルチザンの指導者的存在「ロベレ将軍」の望まれざる射殺を隠蔽したい当局の申し出によって、将軍の身代わりとして刑務所に入ることを持ちかけられる。元来人を騙すことが得意な詐欺師はいかにも将軍然として振る舞いはじめ、同じ刑務所に幽閉された民衆たちに受け入れられていく。しかし一斉検挙された新規囚人のグループの中に紛れたパルチザンのリーダーを見つけ出すというミッションを与えられ、私益と良心との間で葛藤した詐欺師は、無実の解放か、将軍として銃殺されるか究極の選択を迫られる。
状況はかなり滑稽なはずで、やりようによってはヒッチコックのようなサスペンスにもルビッチのようなコメディにもなるだろうが、どちらにも転ばないのは節度であるのか、世論が許さなかったのか、「現実」に固執したためなのかはわからない。今更言ったところで始まらないが、思い切りフィクションに振ってしまった方が真なることを伝えられるのではないかと思う。

5月某日
ホン・サンス『よく知りもしないくせに』。これはさすがに画を捨てすぎだろうとは思ったが、済州島で先輩の画家とその奥さんである自分の元カノが出てくるところから引き込まれてしまった。画家の家の脇に干上がった川底を見つけた「監督」が、自分のために料理をしてもらっている最中であるにも関わらず嬉々として海に向かって駈け出してしまうという、ほとんど無意味に近い逸走が、近年見かけることのなくなった優雅な振る舞いとしてやにわに感動的である。非常に個人的なことだがこの「監督」演じる俳優の髪型だか顔だか姿勢だかが自分を思わせるところがあり(動きは八嶋智人だけど)、自分の写しのような人間がふらふらと女に棚引いたり、未練がましく元カノの影を追い求めたりするのがなんともむず痒い。
同日、ホン・サンス『ハハハ』。同じ町に里帰りした男2人が飲みながら思い出話を語り合うが、お互い同じ場所、同じ友人、同じ女について話しているのに全く気づかない、という仕掛け。思い出の部分がカラーの動画であるのに対し、その思い出話をしている「現在」の部分がモノクロ静止画で示し出され、それがどうにもボラギノールのCMを想起させて笑えてしまう。監督のあずかり知らぬところで日本人だけがクスクス笑って申し訳ない。それにしても『よく知りも』から1年でこの画面の変わりばえはいったいなんなのか。俳優も抜群にいいし(名前を覚えられる気がしないが)、往年のホウ・シャオシェン映画を思わせるような情感ある画面が続く。統営と呼ばれる、湾を山が囲んだ形の街が何よりすばらしい。ここまで政治性も社会性も皆無で、純粋に惚れた腫れたの話しかないのは爽快なぐらいで、むしろ映画にそのようなものを乗せようとするほうが不純なのではないかと反省させられるぐらいである。この人はおそらく世界中どこに行っても映画一本ひねり出してしまうのだろうな。

5月某日
ホン・サンス『次の朝は他人』。地方に引っ越した「監督」が久しぶりにソウルを訪ね、最小限の場所に行くだけで人に会わないようにしようと冒頭で宣言するものの、案の定というべきか、酔っ払って元カノの家に押しかけて泣き出したり、その元カノに瓜二つのバーのママに会って靡いてしまったりで、結局色々やらかしてしまうという話。冒頭、酒場で飲み交わした見ず知らずの3人の映画学生に「いいところに連れて行ってやる」と言ってタクシーで遠方に連れ出すものの、急に「俺の真似をするな!俺につきまとうんじゃない!」と言って逸走してしまう監督。劇中の学生たちと一緒に完全に呆気にとられる観客。いきなり「監督」の信憑性は不確かさの方に振り切られる。毎日同じ通りで出くわす女性。昨日いきなりキスされておきながら覚えがないと言うバーのママ。懐かしげに話しかけてくる見覚えのない男。ファンだと言って写真を撮らせてくれと言う女性。知ってること/知られてることという主題を巡って「監督」はソウルを歩き回る。

5月某日
DVDも持っているのにオンラインでトニー・スコットの『マイ・ボディガード』をつい見始める。トニー・スコットは偉い。現代アメリカでこんなに人間を信じた映画監督がいただろうか。挫折した人間が、ふとした相手と知り合うことで再び輝き奇跡をものにする。ノーベル賞ものではないかと一人で思う。

5月某日
J・P・メルヴィル『恐るべき子供たち』。非常にオリジナルなスタイルだなとは思うが、原作者コクトーによるナレーションがバシバシ入るのが原因か、入り込めず。母国語ではない言葉の映画を見ることは想像以上に難しいことなのではないか。ベッドに横たわる弟に話しかける姉を、仰瞰で捉えるショットが非常に鮮烈。

5月 映画以外日記

5月某日
『ペスト』には、人々はやがて未来について考えるのをやめたというようなことが書いてあった。前向きに生きようとしないと希望を持てないとはいえ、いつやってくるのかわからない未来を前提とするのは辛いものである。未来が無ければ過去しかない。ペストの街の映画館では同じフィルムが繰り返し上映され、劇場でも同じ戯曲が上演され続けた。それでも観客はいっぱいだったのである。確かにこれは過去のものを見直すのに最適な時間である。むしろこれまでは何をあんなに新しさを求めていたのだろうかとすら思わされる。ある種のヨーロッパ人のように古典を至上としてそれを反芻し続けるのもそれはそれとして理のあることであろう。しかし積極的に未来を描かなくても、過去と現在を蹂躙し私腹を肥やそうとする奴がいるのだから人はやはり戦わなければならないのだ。

5月某日
当初は海外の友人にも積極的に連絡を取っていたが、常に自粛を迫られて内向きになっているからなのか、あるいはそれぞれが疫病の流行曲線の異なる時期を生き、それぞれのドメスティックな状況を戦っているのだからそっとしておくべきだと思うからなのか、あるいは何かしらの嫉妬や憐れみの感情からなのか、いつしか連絡をするのも億劫になった。フランスは外出禁止令が解除になったそうで、それが本当にコロナ終息を意味しているのなら喜ぶべきことだろうが、未だに1日400人も新規感染者がいるし気軽におめでとうとは言えない。寧ろ疑念しか湧かない。個人の自由を徹底的に奪うのが疫病であるなら、自由について希望を持つことを不謹慎だと思うように人はいつしか飼いならされていく。日本も外出自粛「要請」しかなく経済的支援もいまだろくに行き渡っていないにも関わらず、自己防衛のおかげでかなり感染者が減ってきたし、マスクや除菌グッズも市場に出回ってきて、医療現場が今どうなっているかはわからないけれども、懐疑的な私ですらもう外に出ても良いのではと思うようになってきた。しかし外に出てみれば世の中は思った以上に停止していて、そういう気持ちになった自分を反省してみたくもなるし、果たしてこのまま新規感染者が0になったところで諸手を挙げて祝おうという気にはなれないだろう(友人とコーヒーを飲んだりはするだろうが)。むしろ『ペスト』のコタールのようにこの状況が止むのを恐れてすらいる。この不思議な感情はなんだろうか。それに何か本当に社会のシステムが変わろうとしているとすら感じられる。それは「コロナ後の新しい社会秩序」とかではない、得体の知れないもののような気がする。私には大企業の空気など想像すらできないが、毎日終電が当たり前だった会社ですら数ヶ月先のテレワークの連絡が聞こえてきているし、大学も今のところ前期はオンライン授業で突き通すようである。私には日本社会がもっとどうしようもなく変わりそうにないものだと思われていた。しかし本当に根本的なものが変わろうとしているのか。そしてそれに自分自身が置き去りにされようとしているという感覚もある。果たしてどうなるのか、想像がつかない。

5月某日
家にいるのがあまり好きではないのだが、家にいなくてはならないのであれば少しでも快適にするしかない。引っ越して以来放置してあった本やCDを処分し、本棚を移動、ストレスフルだった場所を機能的に改善する。シンクの錆や鍋の焦げ付きを掃除し始めたら何かと気になり始め、ハイターや金属磨きなどを買って磨き始める。良い労働になったが妻には狂気を感じると言われた。

5月某日
朝から近所の地主のジジイの怒声が聞こえてくる。ベランダから見れば誰にというわけでもなく怒って回っている。ある日突然嬉々として大木を切り倒したり、道行く人にガン飛ばしている親爺で、私も何度か因縁をつけられたことがある。なんともない時もあるから単に虫の居所が悪いのか発作的なものなのかよくわからない。あとで近所を歩いてみれば、その大木を切り倒していたところに新しい家が建つらしい。朝8時きっかりから草刈機の音が響く日々が始まる。

5月某日
前日朝まで起きてたため昼過ぎに目が覚めると、3度程ガラスを激しく叩く音がした後に割れる音がし、子供の泣き声と共に大家さんを呼ぶ声が。ベランダから見ると、外に子供2人が飛び出してきていて、1人が手から血を流し叫んでいる。妻が先に救急箱を持って降りていって、完全に寝起きだった私は後から掃除道具を携えていったところ、真下の家の3兄弟の子が手当てをしてもらいながらふさぎこんでいる。親も不在の模様。隣の家の奥さんも駆けつけて手当てをし、私は家に上げてもらってガラスの掃除。遊んでいて窓をぶち破ったらしいが、そこそこ丈夫なガラスなんだけどな。大家さんが車で公立病院まで連れていったが大事なかった模様。あとで妻と「下のお家、物が全然なかったね…。うちはなんでこんなに多いんだろう…。」と嘆息する。

5月某日
カミュ『異邦人』読了。遅読なのでこんな薄い本を読むのでさえ3日かかる。原文は読んでないが複合過去ばかりで書かれているらしく、確かに他人の日記を読んでいるような、回顧的で単純な一人称の文章が続く。カミュが果たして文体で評価されるような作家なのか、説話で評価されるような作家なのか、あるいはその精神や問題意識によって評価されるのかは私にはわからない。ただ日記としての感想を記す。母親が死んでも大して動揺せず、翌日偶々再会した同僚の女と関係を結び、フェルナンデルのコメディ映画を見たり女衒の知人の諍いに首を突っ込んでみたのちに、行きずりで人を殺してしまったというだけの話だが、生に不必要に意味を与えずただ自分に正直でいただけなのに、検事や弁護士によって自分が不在のまま自分の物語が作り出され、特に脈絡のなかった行動の全てが動機あるものとしてつむぎ直され、ギロチン刑を宣告される。前半の地中海の太陽溢れる欲望の世界が、衝動的な、しかも憎しみや逆上ではなく「太陽のせい」という理由だけで行われてしまった殺人を機に一転し、全てが巻き戻されてネガティヴなものとして語り直されていくところは衝撃的である。死刑を宣告されたムルソー氏にあくまで超越的な神を前にした悔悛を迫る神父を執拗に拒絶し、最終的には胸ぐらを掴んでキリスト教の誤謬を問いただすところは『ペスト』にもつながる主題である。思えば泣くという行為は人間の根源的な表現欲求でもあるし、後から社会的に学習した慣習的行動であるとも言える。子供の頃、いつものようにマンションの駐車場で遊んでいると、螺旋の非常階段を降りてきたいとこのお姉ちゃんに祖父が死んだと告げられた。この時私は特に泣いたりはしなかったし、悲しかったかどうかもわからない。それは死ぬということがどういうことかわかっていなかったからかもしれないし、祖父とそんなに親しく遊んだわけでもなかったからかもしれない。しかし長く一緒の時間を過ごした祖母が高校の時に他界した際も、喪失感はあったがその場で号泣したりはしなかった。人が死んだら悲しくて泣くものだというのはよく知っていたにも関わらず、そのような感情に要約できたものではなかった。私はずっと泣き虫で保育園時代はずっと泣いていたが、なぜか昔から死ぬことについては達観していて(手塚の『火の鳥』を読んたからか?)、縁起でもないけれど今近しい人が死んだとしても果たして泣く自信はない。映画を見て泣くことはやがて憶えたにも関わらずだ。他人から見れば冷血なのかもしれないが、私は私なりに受け止めていて、未だに忘れられない死を日々思い出しては考え込む時もある。『異邦人』のムルソーも母を養老院にやることが最善であったし、母はそこでかつてなく幸せだったのだから悲しむことはないと考えていた。現代社会で生きていくにはある程度自分の人生を物語化して語らなければいけない。私はここでこう考えてこうしたのだと論理立てなければいけない局面が多々ある。あるいは論理立てて行動した方が効率が良いだろう。しかし人間の行動などその場任せのものではないのか。人生で起こるハプニングにその場その場で思いついて行動したことの集積に過ぎない。その人生全体に意味を持たせられる人間などそうはいないだろう。ムルソーは恋人に「私を愛しているか」と問われ、「それはわからないが、君が結婚したいというのならそうしたいと思う」と返した。しかしそのようなことを口にする勇気が私にはないだろう。なんという率直で自由な男だろうか。『ペスト』のタルーが死刑を目撃した時の嫌悪感をきっかけに検事の親父と社会を憎み始めたと語り始めた時も、最初は「それを言ってしまってはおしまいじゃないか」と思った。しかし早急に死刑に対する賛否だとか自然法と実定法とかいう話になるのではなく、人間本来の生というものはそのように奪われて良いものなのか、そして社会という名の下に、しかも代理人の手を持って、人の生を抹殺しても良いのかという地点にまで戻してくれる。少なくともカミュの2作品は私にとってこのようなことを考えさせた。

5月映画日記1

5月某日
悪癖がぶり返してステイサム映画を4本立て続けに見る。暇なのかって?暇だよ。
未見だった『メカニック:ワールドミッション』は前作とあまりに変わりすぎていて本当に見たのか不安になり、つい再見する羽目に。前はそこそこストイックな路線でやっていたのに、普通のできの悪いステイサム映画になってしまったじゃないか!コンセプトは大事にしてくれ。「ジェニファー・ロペスの出てるやつ」(『パーカー』)に続き、「ジェシカ・アルバの出てるやつ」として記憶にしまわれるだろう。
一方、フランスにいた時にポスターを見かけて悪い予感しかしなかった『SPY/スパイ』は意外に良作だった。太っちょのCIA分析官メリッサ・マッカーシー(きっとアメリカでは有名なコメディエンヌなのでしょう)が、パートナーの調査官でイケメンプレイボーイのジュード・ロウに代わって現場の調査任務を行うことになるが、意外な身体能力を発揮して、というコメディ映画。007のパロディとマッカーシーの自虐ネタが散りばめられ、合間にステイサムがステイサムのパロディをする。今までしっくり来たことのなかったジュード・ロウもチャラ男役がハマっている。あんなにデブネタやってもいいのかとアメリカのポリコレ像が歪むが、自虐だからいいのかしら。

5月某日
友人とステイサム情報を交換していたら、昨日キアヌ・リーヴス主演の『コンスタンティン』を見たと言われたので早速見てみることに。造形美と衒学的な台詞で2時間。シリアスなシャマランというか、エヴァンゲリオンというか…。ティルダ・スウィントンにあの格好させたかっただけじゃないのか!というぐらいハマっていた。レイチェル・ワイズがここでも堅実な仕事をしている。
その勢いで最近やたらとネット上で見かける『ジョン・ウィック』に手を出す。犬を殺された元殺し屋のキアヌ様が、ロシア系富豪のどら息子に復讐するため、拳銃を拳法みたいに使って何十人も殺しまくる。中学生が考えたような殺し屋世界の設定の中で、ユーモアもサスペンスもなくただただ血しぶきが飛ぶ。惰性で『チャプター2』も見始めたが、20分でギブアップ。本当に具合が悪くなる。今まで『ダークナイト』ほど退屈な映画を観たことはなかったが、それと並ぶかもしれない。『サムライ』の爪の垢でも煎じて飲めとは言わないけど、ジョン・ウーぐらいの爽快な馬鹿馬鹿しさは欲しい。

5月某日
お薦めアルゴリズムに促されるままに、見逃していた『ジャック・リーチャー:Never go back』を。やはりトム様が出るとそれなりに映画になるが、トム様の朦朧とした演技はもういいよ、とは言いたくなる。果たして前作が良かったわけではないが、マッカリー色が抜け、ロザムンド・パイクみたいな強烈なヒロインもいないので、こちらもコンセプトが希薄になってしまった。

5月某日
友人Kがテレ東でデンゼル主演の『イコライザー』を観たというので、公開当初見送っていた私も見る。ホームセンターの商品で戦うというゲームの規則は好きだけれど、意外と簡単に撃たれたり格闘で瀕死になって助けられたり、こういう映画には手際が必要なんだよ!と言いたくなる。せっかくの設定にもかかわらず道具の使い方にアイデアが感じられないのがなんとも残念。そもそも初老で腹の出たデンゼルにアクションやらせるのはどうなの?という懸念は最後まで払拭されない。世の中にはデンゼル映画というジャンルがいつしかできていたのだろうか。アントニオ・バンデラスを濃縮したみたいなロシアの刺客は、ひたすら気持ち悪いだけで強いのか弱いのか全くわからないまま終わった。メリッサ・レオが唐突に出てくる。
もう予想できるだろうがしょうもない私はその勢いで『イコライザー2』に手を出す。『1』で調子に乗ったデンゼルがほんとに水戸黄門みたいな世直しを始めてしまって、これはまた身内が痛い目を見るパターンではないかと心配していたところ、やはりデンゼルと心通わせた人は皆不幸になることに。CIA時代のチームメイトの前にひょっこり顔を出すところから少し面白くなってきて、ラストの嵐はなかなか見ものだったけれども、1のホームセンターみたいな路線ではなくなってしまってやたら残虐な復讐鬼に。今のアメリカではこういうのがウケるの?戦争ゲームのやりすぎじゃない?

5月某日
『ジョン・ウィック』に足らんのは『リミッツ・オブ・コントロール』なんだよと思ったか思わないでか、ジム・ジャームッシュ『パターソン』。どちらかというと苦手なほうのジャームッシュだし、朗読される詩の良さが全然わからなかったが(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩を知らないのが問題なのか)、あれだけシンプルな撮影でこれだけ魅せられるのは流石と思った。毎日郵便受けの傾きを直すところがリズムを作っていて良い。悪夢みたいな嫁の趣味に文句一つ言わないアダム・ドライバー、いい人すぎでしょ。

5月某日
友人からネトフリのドラマがどうとかアマプラのオリジナルがどうとか言われるが全く見る気になれず、時代劇専門チャンネルに入って『御家人斬九郎』の第1シリーズを見る。あれ、昔のテレビドラマなのに4:3じゃなくて16:9だ、というのが不思議でしょうがなかったが、リマスターの際にもとのキャメラマンの人が監修してフィルムからトリミングし直したらしい。いやあもう霧雨やら雪やら反射光やら撮影が素晴らしいし、演劇集団 円を中心としているであろう達者な俳優陣、よく練られた脚本、全くテレビとは思えない。6話や7話も良いが2話の丹波哲郎の回が最高である。私は子供の頃、両親が店で働いていたため学校から帰ると隣に住んでいる祖母の家に直行し、夕飯が供されるまでの間一緒に雪の宿や味ごのみなど食いながら夕方の時代劇の再放送を見ていたのだが(そのあとは相撲に流れる)、『水戸黄門』『大岡越前』『銭形平次』のループばかりで夜の時間帯の『鬼平』や『斬九郎』などは通ってこなかった。今と変わらずおバカだったので見てもわからなかっただろうが、妻は私の遥かに及ばない時代劇教養の中で育っており、隣で見ながら「ああ、この回覚えてる」とか、往年の時代劇俳優を見つけたりして喜んでいる。他の友人に時代劇の話を振ってみても思ってもほぼ全くと言っていいほど手応えがないので、我々は少々稀代な環境で育ったのであろうか。しかし高校には二言目には司馬遼がどうだとか隆慶一郎がどうだとかいう友達もいたし、そういう人は巷のどこに潜んでいるのだろうか…。

5月某日
時代劇で思い出したわけではないが山中貞雄『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』をDVDで。流石に丹下左膳が周りから浮きすぎだろと笑ってしまうが、いやはやそこがそうなってつながりますかという脚本がまず素晴らしいし、小津につながるような笑いもあり、飛ぶようなとんでもないチャンバラもあり、何より唄があるのがいい。子供と一緒に行った賭場で負けた帰りに左膳が刺客に襲われ、「坊主、目つぶって10秒数えてな」と数えさせているうちに相手を一刀のもとに切り捨て、目を開けた子供が唸る暴漢を見つけて「なんであのおっちゃん唸ってるの?」と左膳に聞いたところ、「博打に負けたのさ」と言うシーンがなんとも最高である。ジャンク映画を100本見るより1本見るだけで救われる映画があるのだ。

5月某日
疲れて早めに寝てしまい、深夜に起き出してヴィスコンティ『若者のすべて』を見る。父を亡くして南伊からミラノへと越してきた母と5人兄弟の家族が、ふとした娼婦との出会いから崩壊への一途を辿る。二時間で終わっても十分悲劇的なのに、残り一時間でさらに決定的な破滅へと追い詰めていくヴィスコンティの残酷さ。しかしこれがイタリア家族の愛でありまた宿命であるということか。ようやく見つけた半地下のアパート、アラン・ドロンの働くクリーニング屋、家族が引っ越す中庭のあるアパート、トラムが走るミラノの街。どれも忘れられない情景である。何と言っても次男シモーネを演じたレナート・シルヴァトーリが良く、ボクシングのシーンまで驚くほどリアル。湖畔での殺しのシーンは本当に素晴らしい。クラウディア・カルディナーレも『山猫』より断然良い。どうしてボクシング映画というのは切ない結末に陥ってしまうのだろうか。原題の『ロッコとその兄弟』の方がすっと腑に落ちる。
翌日同じくヴィスコンティの『家族の肖像』を。まさかヴィスコンティをオンラインで見る日が来るとは思わなかった。絵画に囲まれて静かに余生を過ごしたい「教授」のところに富豪夫人と2人の子供がやってきていきなり「上の階に住まわせろ」とゴリ押しし、渋々了解したものの実はその愛人のための隠れ家で勝手に改装を始めるやら事件に巻き込まれるやらという、見ているだけでも悪夢みたいな状況。しかし散々な迷惑をかけられても実はまんざらでもない教授は「老人というのは難しい生き物なのだ」とかなんとか言いながら、間借りを許してしまう。車椅子生活のヴィスコンティが移動できる範囲で撮られた室内劇として有名で、今更何を付け加えることもないだろうが、富豪夫人のファーだらけの俗悪な服、夫人と娘の愛人の共有、娘と息子と愛人との乱交趣味、夫がファシスト政治家であるにも関わらず左翼活動家を愛人に囲っているところなど、富裕階級の奇妙さ、エグさを描かせたら右に出るものはいない。人間の孤独さやその埋め合わせとしての愛、ないし性愛を建前なく曝け出させるところはほとんどファスビンダーと言ったら順序が逆だろうか。タイトルバックで延々と積み重なっていく心拍計の記録テープが教授が病床に就いているラストを既に予兆しているところとか、それに続くショットで教授が吟味している貴族の肖像画(=カンバセーション・ピース)が映画を貫くキーとなっているなど、至極古典的に映画的である。誰でもいいようで誰でもよくない一瞬のドミニク・ザンダとクラウディア・カルディナーレの使い方も良かった。これがなぜ日本でのヴィスコンティ・ブームを引き起こしたのかは想像だにできないが、昔の映画観客の方が今より遥かに寛大で教養があったのだろうと思わされる。

当然ながらフィルムはフィルム上映の方がいいし、映画館の方がスクリーンが大きくて音響も良いのだが、このように映画館に行けない状況になると、不特定多数の他人と一緒に多少の欠点など許容しながら笑ったり泣いたりするということが、映画体験のかけがえのない要素なのだと気づかされる。初めて落語を寄席で聴いた時のあの暖かさに似たようなものが、それほどではないにせよ映画にもあるのかもしれない。もちろん観客が1人という時もままあるのだが、それはそれで緊張感があって良いものである。言うても詮無きことだが。

停止の4月

4月上旬
仕事が延期になり、大学の開講も延期、前期の授業はオンラインで行うことに決定する。やるとなれば最善を尽くすしかないが、この際だから授業のやり方を一新したいところ。一番の障壁は自分の中の保守性である。
依然時差ボケは続き、夕方朦朧と起きて深夜に調子が出るような日々を過ごす。いっそのこと徹夜を試みた翌日に「治った」と喜んでみたものの、またすぐ元どおりに。10日を過ぎる頃ようやく復調する。あっちに行くときは数日で適応するのに、こっちに戻った時は長くて1ヶ月も引きずるのは一体なんなのか。
仕事と確定申告をしながら大瀧・山下(・萩原)の「新春放談」を片っ端から聴く。植木等の『スーダラ伝説』には「地球温暖化進行曲」という傑作が入っていると聞いて即発注。また、毎年この番組のたびに「新作はまだか」といじられる大瀧仙人がある年「実はもう録音したものがあるんだ」と発言して山下・萩原両氏を驚かせ、戸惑う2人を前に「それでは」と音源を流してみたら、最初のカウントの部分だけで終わり、という伝説の回を初めて聞いた。しかもそのカウントも使い回しではなくちゃんと新録である。山下氏の「Born to be wild」のカラオケを含め、その年は所謂「神回」である。
数日後、件の『スーダラ伝説』が届く。噂に違わぬ傑作の「地球温暖化進行曲」だけでなく、『植木等的音楽』に収録された「新・二十一世紀音頭」の前身「二十一世紀音頭」も入っている。眼福ならぬ耳福。現代にはスーダラが足りない。

4月中旬
ある日、何を思い立ってかコッポラの『ゴッドファーザー』三部作を見始める。恐らくマーロン・ブランドとアル・パチーノが見たかったからなのだが、コンシリエーレ役のロバート・デュヴァルが義理の父に似ていることに気づき、すっかり見入ってしまう(パートIII最大の欠点は彼の不在だ)。何はともあれとにかく俳優が素晴らしい。ジョン・カザールはこの映画デビューから6年でこの世を去ってしまったのか。儚い。

4月下旬
カミュ『ペスト』読了。カミュはフランス語の先生が「『星の王子様』なんか読むより『異邦人』を読んだ方がよっぽど勉強になる。」と折に触れて言っていたのだが、結局読まずじまいでここまで来てしまっていた。しかし『ペスト』は原文が今手に入らず翻訳で読んだわけでどこまで味わえたかわからないけれども、感染症流行という現象の刻々とした描写として十分に驚くべきものである上に、より抽象的に読めば「ペスト」という名を借りた群集による個人の抹殺、社会に潜在する全体主義に対する痛烈な批判になるというものだった。社会のために誰かを死刑になることを黙認する。そのような社会に我々は参加している。感染症流行という状況においてはそれが明確に現れる。
そんなものを読んだ直後に見るべきものではないと知りつつも、つい勢いでソダーバーグ『コンテイジョン』を見てしまう。いかにもソダーバーグらしい中途半端さだが、ローレンス・フィッシュバーンが見れたのはよかった。

Quarantaine

3月19日(木)自主待機2日目。
起きたら夕方。窓から外を見ると桜らしきものが満開。あんなところに桜はあっただろうか?しかし確かめにいくのも憚られる。同時期に帰国した日本の友人たち、逆に現地に残ることを決めた日本の友人たちに連絡を取る。またフランス、スイス、ドイツの友人たちにも消息を知らせ、状況を聞く。日本にいる友人にも帰国を知らせ、自宅待機をする旨報告をする。とにかく食欲がすごい。
朝方ジム・シェリダンの『ドリーム・ハウス』と『イン・アメリカ』を見る。前者はダニエル・クレイグ映画を見ようと検索したらシェリダンの映画が引っかかったという経緯だったが、アメリカ映画によくあるような郊外住宅のスプラッターものかと思いきや、心理学的な主題へと急変し、そこからはもう釘付け。『父の祈りを』もそうだったが、「間違えられた者」が誤解を解き、自らを解放する過程に寄り添って描いていく。燃えさかる家の中に残された妻の幽霊を救いに行くところで涙腺決壊。打ちのめされるようなショットの連続などどこにもないが、練り込まれた脚本と細かい演出、俳優の演技を正確に捉えることにによって、見るものの感情を確かに揺さぶっていく。この人はどのくらい評価されているのだろうか。
監督の半自伝でもある『イン・アメリカ』は何しろ長女が素晴らしい。主人公家族がようやく定住先を見つけたニューヨークのジャンキー・スクアットで、ハロウィンの子供たちの訪問をきっかけに開かずの間である「叫ぶ男」の部屋の扉が開き、その住人マテオとの交流を通して失くした長男に別れを告げるところで再び滂沱の涙。清き涙を流して朝方床に着く。

3月20日(金)自主待機3日目。
起きたら夕方。朝食を食べた後また睡魔に襲われる。深夜に焼ビーフンを食べ、荷物の整理とメールなどする。ベルギー在住の日本人の友人Kも帰国したとのこと。あちらはオランダまで国境を超えての買い占めが発生したらしい。しかしまだ人々は楽天的に近所を出歩いているとのこと。
衛生上の配慮で炊事洗濯ゴミ出しなどは妻がやってくれるので、私はあれが食べたいとかこれが飲みたいとか言っていればいいが、調子に乗っていると「軟禁が明けたら全部お前がやれ」と通告される。今から恐ろしい。

3月21日(土)自主待機4日目。
まんまと夕方起床。帰国報告のメールをしておいたTさんから朝方心配の電話があったものの、全く起きられなかった。寝てばかりもいられないので緩々と仕事再開。今日も焼ビーフン。明らかに機内食のベジタリアンオリエンタルミールの影響である。妻が買っておいてくれた蓮實さんの連載を読むなど。

3月23日(月)自主待機6日目。
小池百合子の緊急会見を見る。すっかり影を潜めていたこの人にとってこの状況はチャンス以外の何物でもないであろう。ここからショーが始まるのは目に見えている。この差別主義の歴史修正主義者に騙されるつもりはない。しかし「よどみなくスピーチができる」「記者の質問に答えられる」というあたりまえのことだけで真っ当な統治者に見えてしまう状況は一体なんなのか。そこまで評価基準が低下してしまっていることに絶望混じりの苦笑を禁じえない。これでは若者が希望を持てないのも無理ない。

3月24日(火)自主待機7日目。
オリンピックの延期決定の報道。誰の目にも明らかだったのにここまで引き延ばしたのは罪としか言いようがない。

3月25日〜28日
日付を思い出そうとするが覚えていない。時差ボケが全く治らず、朦朧としながら仕事を進めた。治そうとすると体調が悪くなるのでもう抗うのをやめ、そのうち治るのに任せることにする。突然中断されてしまったことに対して消化も切り替えもできず、そのせいか精神も身体も調子が優れない。しかし目前に積み重なった火急の課題を粛々とこなしていかなければ次の一手は見えてこない。
いずれ日本も感染が広がることは目に見えているので備蓄を貯えるためにネットで買い物をする。2度目なので心の準備だけは万端だ。そんな頃義理の親から精米機を贈ってもらった。古くなった玄米を精米してみたら驚くほど美味しかった。これは良い。
ヴェルコール『海の沈黙』を読み、フォード『リバティ・バランスを撃った男』『リオ・グランデの砦』を見たはず。オーソン・ウェルズの『フォルスタッフ』を観るためにMUBIという映画配信サービスに加入したが、見始めてみると素材が悪く、断念。
政府が和牛の「消費」を促す和牛券の配布を検討しているという。欧米各国が現金配布による支援を打ち出しているのに対し、伝染病多発の理由の一つであろう家畜の飼育を全く反省せず、単に商品としてダブついているからという理由で殺戮することを促す、呆れるほど愚かな案。さらに少なからぬ菜食主義者がいることを想像すらできないとは。人類は、狂牛病で、鳥インフルエンザで、豚コレラで何百万の家畜を殺傷しようがやめることはない。その上今回のパンデミックで人間を「家畜扱い」することに対しては警鐘を鳴らす。今更「科学者はこの事態を予言していた」とか「あの映画はコロナウイルス流行を既に描いていた」とか言われても、そんなこと何百年と前からわかっていたことで、全く耳を貸そうとしなかっただけだ。少しでも状況が変わることを祈るが、人類は果たしてそこまで「賢い」かどうか。ポジティブな未来の方に賭けるしかない。

3月29日(日)自主待機12日目。
志村けんが死んだ。つい先日の陽性の報道からの速さにまず驚く。私が志村けんを好きだったかどうかはわからない。私が見ていたドリフは再放送だったので—昔音響スタッフをやっていた父が現場でのいかりやの厳しさについていつも語っていたが—、リアルタイムでやっていたのは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』や『バカ殿様』、『だいじょうぶだぁ』だった。人並みに、あるいはそれ以上に好んで見ていたし、私が保育園で描いた自画像は志村けんそっくりだったから(私は意識的にそうしたのだ)、影響を受けていたのだと思う。今思えば「マッタケマン」などはしょうもなさすぎるし、クレージーキャッツの「ウンジャラゲ」をあんな形にしたのはいかがなものかと思う。その下品さ、下半身性はあるいは視聴者が求めたものだったのかもしれない。いずれ彼と肩を並べ、あるいは制御する人はいなくなってしまい、深夜枠でコント番組を始めた頃は流石に見ていられなくなった。私はそこで追うのをやめてしまった。ただ、こんな形で亡くなるとは思わなかった。いつまでもしょうがないコントをやっているんだと思った。入院する前はコロナでお客が減った馴染みの店に出かけていってお金を落とそうとしていたらしい。「一番いい人たちが行っちまうんだ」ってやつだ。言葉を失う。いまわの時に再会することも許されず、火葬されて骨さえ拾えない。あまりにも、あまりにもだ。

3月30日(水)自主待機13日目。
再び小池百合子の緊急会見。都知事はさておき、周りの専門家から定量的で論理的な話が出る。なぜ国からはこういう話し方をする人が出てこないのか。精神論とごまかしだけであとは自己責任というのか。

4月1日(水)
暦は四月になりようやく自主待機が明ける。しかし東京も感染が進んでおり遊ぶどころではない。それにもかかわらず駅前の雰囲気はさほど変わらなかった。スーパーでお籠り用品を揃えて帰る。