私は寝言を言わない方だと思っていたのだけれど(なぜなら一度も自分の寝言を聞いたことがないから)、最近夢の中ですごく嫌な人物がいたので「オイ!」って怒ろうとしたらその声で起きた。夢と現実の境目をくぐり抜けた自分の声をはっきりと耳で聞いたのである。頭の中に視知覚というものがあるとしたら、それが夢の中の光景に実際に反応し、身体的な行動を促したということなのだろうか。
私は普段話している現場で即座に感情を表明できないことにジレンマを感じていて、後から怒りや悲しみ(主に前者だが)が込み上げてきて「あの時怒れていれば」(やっぱり前者じゃないか)と思うことも度々なのだが、現実世界でのそのようなコンプレックスが夢の中で現れているのだろうと思う。最近は夢の中で号泣することもあり、そこでは枕が腐るほど泣いていて「よかった、泣けた」と喜んでいる自分がいるのだけれど、果たして本当に寝ながら涙を流しているのかどうかはまだ確認できていない。少なくとも枕は腐っていないから号泣しているわけではないようだ。
前頭葉の機能低下についての断章
先日勉強会をやっている時、古代エジプトの星図についての発表をしていた私より10歳ぐらい下の後輩が、「本当にこんなに星が見えたんですかね?それとも目が良かったんでしょうか?」と言っていたので、「目が良かったのかもね。アフリカにもすごく目がいい人がいたりするから。ほら、オスマン・サンコンとか……。」と応えると、怪訝な顔をされた。サンコンさんはもう少し普遍的だと思っていたが、10の年齢差も超えられなかった。
去年、学生の作ってきたダイアグラムのタイトルが「雲と標高と都市」という3つの単語を繋げた構造だった。さすがに通じないだろうとは思ったが、一縷の望みを託して「これだと平松絵里の歌みたいじゃない?」と言ってしまった。1人だけ「クスッ」としていたが、あとの人は怪訝な顔をしていた。悪いのが私だということはわかる。逆に笑ったやつはどうして知っているのか問い詰めたいところである。
困るのは譬え話すら通じないことだ。私のマグカップには「スイスイスーダラダッタ」と書いてあるのだが、学生にそれを見咎められたので、「植木等だよ」と言うと、「誰ですか」と来る。「クレージーキャッツっていうのがいてさ、まあドリフの元祖みたいなもので」と言うと、「ドリフって何ですか」と。「志村けん、知らない?」と言ったら、「ああ、名前は知ってますけど…」と来た。他に喩えるものがないかと頭をフル回転したが、「モンティパイソン」は当然のごとく通じないし、不本意ながらも「ごっつ」や「笑う犬」やウッチャンがNHKでやってるコント番組などを挙げてみても全く響く気配がない。結局この問答は「ニセ明(星野源が布施明を演じてやるコント)」の喩えが一番よく通じた。忸怩たる思いである。
男性は歳をとると前頭葉が衰えてきて自分の制御が効かなくなり、駄洒落を連発してしまうという話を聞いた。私はあまり駄洒落を言わない方だと思うが(でも言っているらしい)、通じない話をしてしまうのもきっと前頭葉の衰えのせいだろう。
これを書いているうちに、「あれ、この話どこかで書いたっけ」という気がしてきた。一応過去の記事を読み直したが書いていなかったので多分大丈夫だ。その話で言うと、風呂に入っている時にシャンプーをし終わってさあ次はコンディショナーだぞ、というタイミングで「あれ、シャンプーしたっけ?」という疑念に駆られることがしばしばある。シャンプーした方に賭けてコンディショナーに移行しても良いのだが、万が一シャンプーしないまま出かけるのは嫌だから念の為もう一度シャンプーしてしまう。このまま行くと延々とシャンプーし続けることになりはしないかと、老後が不安である。
余談だが、同僚の1つ上の先輩に「先日こんな話があって、『目が良かった人もいるかもしれないね』って言っていて……」と話し始めたら、食い気味に「オスマン・サンコン」と返ってきた。その後はCDTVのモノマネで盛り上がった。同世代はいいな、と思った。
バビ・ヤール
渋谷にてセルゲイ・ロズニツァ監督『バビ・ヤール』。画面が驚くほど台形で全く集中できなかったのだが、それを差し引いても『ドンバス』ほどクリティカルな映画ではなかったように思える。フッテージの繋げ方は見事だし、そこに新しい音響を被せてさも自然なように見せかけているところは方法論としてなかなかポレミカルだと思う。つまりこれは事実の純粋素朴な写しなどではなく、映画空間の中で新たに構築された、別の事実なのである。ドキュメンタリー映画であれ劇映画であれ、キャメラの前にあるものをフィルムに写しとってそれを繋げたものであるという点においては全く同じであり、何の解釈も入り込まない客観的なドキュメンタリーなどありえない。それを逆手にとって、と言ってよいかはわからないが、監督がその客観性と解釈との狭間を最大限に拡張しようとしていることはよくわかる。
このご時世にナチとそのプロパガンダに乗ったウクライナ人によるユダヤ人虐殺についての映画を公開する、という時事性が当地での反発を買ってしまったようだが、冷静に見れば、誰もがホロコーストの加担者たりえ、またその加担者に対する処刑者たりえるということを淡々と実証したにすぎない。もちろん「このご時世」に「冷静」になること自体がアカデミックでシネフィル的な態度だというのだろうが、決してウクライナ人を糾弾しようという映画ではないことは確かである。
本作公開をきっかけに監督の《群衆》ドキュメンタリー3部作がAmazonで見られるようになったらしい。問題はいつ見る時間を作るかであるが、電子空間は渋谷に行くよりも億劫である。
香も高きケンタッキー
渋谷にてジョン・フォード監督『香も高きケンタッキー』。蓮實氏が煽りに煽ったこの作品をついに見る機会がやってきた。上映一時間半前に着いたが整理番号は既に60番台。その30分後には満員御礼であった。
オープニング・クレジットのキャスト一覧に「われわれ馬たち」という見出しの下にまず馬の名前が並び、続いて人間のキャストたちが「人間と呼ばれる生き物たち」という見出しの下に列挙されているところからも早くも傑作の予感がするのだが、本当に馬の一人称で語られる72分。競走馬の一生における冷酷な現実も見せながら、失敗の人生(馬生)などないのだという、フォード節の詰まった牝馬二代記。馬と馬の再会に涙させられる映画があったとは。ジョン・ファレル・マクドナルドのような人が映画には必要なのだよね。
無伴奏サイレントで馬と人間の一喜一憂を黙って見つめる時間の尊さを噛み締めた一日であった。
ステイサミーな夏休み
ここ数年のステイサムを履修。
ガイ・リッチー監督『キャッシュトラック』。イーストウッドの息子がウィレム・デフォーみたいだったが、イカレヤンキー路線で売り出すんだろうか。バート・ランカスター崩れのおっちゃんが生き残るより、イーサン・ホーク崩れの兄ちゃんとかムキムキの姉ちゃんが奮闘するところが見たかったよあたしゃ。強盗団のボス役の人をどこかで見たことあるなあと思っていたが、『チェンジリング』と『J・エドガー』に出ていたらしい。顔つきだけで「良い」と思えるのは久しぶりな気がする。
続いて、サイモン・ウェスト監督『ワイルドカード』。何の映画を見ているのか全くわからないが、香港系のアクション監督がついているらしく、アクション・シーンは近年稀に見るほどの良ステイサム(クレジット・カード投げは流石にやりすぎだとは思うが)。「ベイビー」役のスタンリー・トゥッチとのやりとりが粋であった。
ジェームズ・ワン監督『ワイルドスピード SKY MISSION』。前作『EURO MISSION』を見たのはいつだったか。もうカーレースとかしないの?という疑問は多分野暮なんだろう。車に乗らないといけない必然性がもはやわからない。ジェイソン・ステイサムがこんなにガッツリこのシリーズに参加するとは思っていなかったけど、きっとザ・ロックと戦ったりヴィン・ディーゼルと戦ったりするところは「夢の対決」なのだろう。くだらないことを言い続けるローマンの存在とか、何となく憎めない映画である。素としか思えない役者の笑顔がこぼれるところが、果たして良いことなのか悪いことなのかわからないが、それもシリーズの魅力なのだろう。マイルドヤンキー感は否めない。それにしても禿げていないとこのシリーズには出られないのか?
続けてF・ゲイリー・グレイ監督『ワイルド・スピード ICE BREAK』。独房に入れられているうちに馬鹿キャラになってしまったジェイソン・ステイサム。しかし、如何にいい加減な作りの映画であろうとも、「赤ん坊をあやすステイサム」という新境地を切り開いただけでこの監督は賞賛されるべきである。この赤ちゃん役の子も良い。前作から引き続き出演のカート・ラッセルに加え、息子イーストウッド、シャーリーズ姉さん、それにヘレン・ミレンまで巻き込んじゃって、もう『エクスペンダブルズ』じゃないか。
付き合いの良い私は、続けて『ワイルド・スピード スーパーコンボ』を見る。ステイサムとロックが罵り合いながらバディを組んで、「ブラック・スーパーマン」ことイドリス・エルバと戦う、という色物。アクションが止まって見えるしロックとステイサムのやりとりもそんなに笑えず、例えるなら手際の悪い『ウルヴァリン侍』なのだが、最後のエルバとの三つ巴の殴り合いをハイスピードカメラで撮ったところは、頭が悪過ぎて流石に吹き出してしまった。新人監督なんだろうと温かい目で見ていたけど、これでもう4作目じゃないか!まあ、ステイサムが出てればいいんですけどね。
夏休み
『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』は本当に酷かったので、お詫びとして次のジェームズ・ボンドはジェイソン・ステイサムにしてください!
気になる
所謂「百科全書派」は「アンシクロペディスト」と呼ばれるのに、ウィキペディアの投稿者は「ウィキペディスト」ではなく「ウィキペディアン」なのはなぜなのか。
2022年5月
黄金週間はひたすら書類を書いていたが、最後の土日にヤケになって長野行きの新幹線に飛び乗る。ご開帳の善光寺を詣でた後、「日本三大車窓」と謂れる姨捨(おばすて)駅へ。棚田が有名で「田毎の月」として古くから歌に詠まれるほどの月の名所でもある。路傍に生えているペンペングサやヨモギなどを見ながら、子供の頃はこういうものが身近にあったよなあ、と懐かしむ。この辺りは「更級(更科)」という地名で、蕎麦屋の息子には非常に親しみのある名前であるが、実際に蕎麦の産地ではあるものの「更科蕎麦」の発祥の地ではないそう。むしろ「白い」というイメージのある「さらしな」という言葉から、実の中心だけを使った真っ白い蕎麦のことをそう呼ぶことになったようである。芭蕉の句碑や月見堂のある長楽寺には、既に平安時代にはそこにあったという巨大な岩があり、登ると周囲を見渡すことができる。「姨捨」という名前から連想されがちだが、高齢者を捨てたという事実はないし、『楢山節考』とも無関係だということが強調されていた。洒落た本屋で旅行中に読めもしない本を買い、帰京。
いつぶりかわからないが、映画館に赴く。セルゲイ・ロズニツァ監督『ドンバス』(2018年)。事実と解釈、ドキュメンタリーと演出との境目を揺さぶるシニカルな内容。結局これもいわゆる「虚構」でしかないことを最後のシーンは描き出す。事実と客観性の問題はどこの分野でもクリティカルな問題である。それにしても自国が内紛に晒されながら、ここまで冷静に物事を相対化できる監督の精神に恐れ入る。しかも大規模な観客の動員が見込める内容ではないだろうに、これだけの人や兵器を動かし、爆破シーンも織り込んでいる。相当なバジェットが必要だったと思うが、そういう意味でもタフな映画である。見逃したらしいスターリン国葬のフッテージから再構築した映画を見てみたい。
毎週金曜日は朝からウクライナ戦争とペットショップとジェンダーとドロップアウトについて考えた後、アップルパイの食感とケチャップアートの描き心地とアニサキスの人生について考える。きっと専任ってこういうことなのだろう。
2022年上半期所感
苛々する言葉
・ほぼほぼ
・エモい
・推し
・自己肯定感
・深掘る(New!)
2022年4月
というわけで(何がだ)4月から専任になることとなった。色々ここに書けないことも多くなるだろうが、これまでも頻繁に書いていたわけではないので大して変わらないだろう。思えば若い頃はなんでもかんでも書き記していたもんじゃが、あんまり書きすぎると現実世界で人に会った時に話題がなくなるし、自分で書いているくせに人に監視されている感じが強くなるので、自然と減ってきた。全てを書いているわけではないのに「お前のことは全部知っているぞ」的なマウントを取ってくる人も稀にいて、嫌になったこともある。そもそも仕事が忙しくなると1日家でパソコンをいじっていることも多くなり、家での雑談もままならないほど話題に事欠くのである。まあ唯一続いていることだから適当に続けようと思うが。
某日
いよいよ入学式。天気は予報通り雨。私の中にある最強の雨女のDNAが覚醒し始めている。
式典では学科を代表して「若い衆」3人がスピーチ。N先生に「専任になるとこういう『晒され仕事』が増えるよ」と言われる。
初勤務日にして既にポストに書類がパンパンに入っていた。紙地獄にまみれる予感。
某日
丸一日オリエン。久しぶりに対面する喜びからか、異常に温まる会場。同じ空気を吸うという行為には、言いようのない一体感があるのだな。
楽しみにしていた個人研究室というものに初めて入るが、第一印象は「寒い」であった。他の先生に聞くと、皆同じ悩みを抱えていると言う。おまけに物がなくて心も寒いので、早く備品を揃えたい。
某日
丸一日オリエン。学生の自己紹介で出てくる固有名詞が全くわからず、時の流れを感じる。「フォーロック」ってなんだと思ってたら「邦ロック」だったらしい。じゃあ「邦ポップ」とか「邦ノイズ」とか言うんだろうか。「J SOUL BROTHERS」は……?そんな発想が既におっさん。
自分が学生だった時の自己紹介で覚えているのは、「グリーンマイル!」と叫びながらマイケル・クラーク・ダンカンのモノマネをしたやつのことぐらい。
某日
朝からZoomで2本打ち合わせをし、そのまま夕方に大学院生向けオリエン。院部屋でアットホームに茶飲み話でもするイメージだったが、大部屋で総勢30名近くの学生たちと自己紹介をし合う、というちゃんとした会だった。「院生は金もないし、なかなか理解もされないし大変だよね」みたいな話をしたが、よく考えてみると金はあるのかもしれない、と後から思う。だとしたら全く刺さってないな……。
某日
いよいよ授業が始まる。週間天気予報を見ると、私の出校日だけ見事に雨マークばかり。申し訳ない。「お祓いに行け」と言われる。
某日
昨日大学の自販機で清涼飲料水を買ったのだが、今日会った旧知の学生に「先生、昨日○○飲んでましたよね?」と言われる(銘柄は私の名誉のために隠す)。専任になるとそんな些細な事柄までもが光の速さで伝わるらしい。
某日
オムニバス形式の座学の授業で「自分のやっていることについて」話す。作品を次々見せるよりも、その時の状況や、作品の所与の条件に対してどう考えたを話す方が重要だと思い、「疑うこと」というテーマを立てる。自分語りをする気はないけれども、「自分の周りにはこういう人やこういう物があった」ということも含めて話してみた。授業後に書いてもらったレポートを見ると、こちらの思った以上のことを汲み取ってくれたようでホッとする。