『Flash』

列車の窓らしきガラス面に、車内の人影が反射する。どうやらそこはコンパートメント席らしく、うつろう人のシルエットからは、車掌か国境警備隊が乗客2人のパスポートをチェックしている様子をかろうじて読み取ることができる。パスポートを返してもらった乗客たちは、各々の旅券を見比べながらその取り扱いの違いについて談笑し始める。身を起こす片割れに、キャメラに映り込むからそれ以上乗り出さないでくれと、監督らしき人物が注意を促す。「私より絵が大事なのね。」そう冗談を言うパートナーを尻目に、列車は発進する。
列車の窓は薄汚れていて、キャメラはまずそれを捉えているが、白い斑模様の向こうには、紅葉した渓谷の風景が映し出されていく。しかし、列車を取り巻く光学的状況の移り変わりとともに、反対側の窓のシルエットや、さらにその向こうに映る車外の風景、そして三脚に据えられた一眼らしきキャメラそのもののシルエットさえもが、画面上に現れては消えていく。簡潔に窓に垂直に向けられているのであろうキャメラの視線の先に、五重・六重ものイメージが層となって重ね合わされる。しかも、窓=鏡、キャメラ、それに乗客との位置関係を正確に判別し難いような、ある種のトロンプルイユ的な映像が展開される。その巧妙な入れ子構造に見惚れていると、「どうすればあなたに届くのか」といった監督自身の手紙のような私的文章が、スクリーンの上下に字幕として映し出されていく。「あなた」が誰を指しているのか、あるいはそれが人であるのかすらわからないが、誰かに到達できない思いを吐露しながら、物心がついて以来最初の記憶がなんであるかを自問するような言葉が続いていく。映画の作法を破るようなその手法にこちらの映画認識が揺さぶられるが、静観しているとさらには音声通話やビデオレターの音声のような、親しい人物の安否を気遣ったり自らの消息を伝えるような第三者の言葉が、サウンドとしてイメージに重ね合わされる。その言葉が、生まれ故郷とは遠く離れた土地を旅する監督と無縁ではないであろうことはすぐに察せられるが、そうとは確信され得ないような言葉も混じっている。列車というのはともすると、人生の比喩かもしれない。あるいは——ホセ・ルイス・ゲリンの『影の列車』のように——移り変わる光景が1秒24コマのフィルムの枠へと次々に記録されていく「映画」というメディアそのものが、三重に重ねられているのかもしれない。イメージとサウンドが相乗効果を上げることはトーキー以来当たり前であったのにもかかわらず、異常に新鮮な効果を上げているという信じがたい事態に驚きながら思考をめぐらせていると、列車は川を越え、トンネルをくぐり、いずこかの駅へと到達する。そこに停車しているタンク車に書かれた文字から、その列車がバルカン半島を走っているものであろうことがようやく理解される。
一つの駅から出発した列車が、別の駅へと到着する。この車窓だけを捉えた映像に、サウンドを重ねるだけで一片の映画が誕生する。そしてそれが見るものの映画体験と、人類にとっての「イメージ」がなんであるかを揺るがせる。小田香監督『Flash』。驚きに満ちた25分間であった。