授業、会議、高校での模擬授業、学会、デザインワーク等々の合間を縫うようにして渋谷に通い、「山形ドキュメンタリー道場 in 東京」を見る。ルオ・イシャン監督『それから』、小田香監督『セノーテ』、藤野知明監督『どうすればよかったか?』、小森はるか監督『春、阿賀の岸辺にて』『松屋の松太郎さん』など。 見るはずだったヴェニス・アティエンザ監督『海での最後の日々』は、チケットまで取っていたものの会議が長引き断念。
「道場」の流れで知ったルオ・イシャン監督『雪解けのあと』の劇場公開に駆けつける。ヒマラヤで50日近い遭難の上に亡くなったチュンと、奇跡的に救助され生還したユエ。彼らに同行するはずだったが病気のため叶わなかったイシャンが、カメラを手にし、自らの不在を埋めるように追憶の旅に出る。当事者にしかわからないような微妙な感情や関係性を、わかりやすさの方へと収束させず、意味よりも声の震えや戸惑いの振る舞いとして観る者に提示する。雪を踏みしめて歩く音、鳥の会話、容赦なく流れ続ける沢の音が、残酷なまでに美しい追憶の光景に重なり、融けていく。チュンの残した手記をはじめ、SNSやテキストメッセージ、地図や行程表、写真、ボイスメモ、ナレーション、救助隊の撮った記録映像などを入れ込むナラティヴの手法、豊かな音響表現によって、監督の追憶が身につまされるような「体験」として迫ってくる。個人的には、遭難前の友人たちをまるで家族のように手厚くもてなしたという、ネパールの村の人々の暮らしを捉えた監督のまなざしが、唯一この映画であたたかさに満ちているように感じられた。そこには理屈を超えた素晴らしさがある。
そういえば私にも、中学で亡くした友人がいた。「友人」と言えるかどうかわからないが、小学校のクラスメイトで、片足に病気を抱えていつも松葉杖で体を支えケンケンして歩いている女の子だった。学校では普通に話していた程度だが、当時ダンシとジョシは気安く話さないのが普通だったので、仲が良かったと言えるのかもしれない。彼女はやがて、病気のせいでよく転ぶようになったと聞き、学校で見かけない日も多くなった。それから1年ほどして、彼女が亡くなったという知らせが入り、彼女のお母さんから「大田君は仲が良かったのでぜひお葬式に来て欲しい」と言われた。確か中学生になっていたので、制服を着て彼女の住んでいた団地まで行き、棺に入れられた彼女の顔を見て手を合わせた記憶がある。今では松葉杖をつく彼女の姿と、おぼろげに会話をしていた記憶ぐらいしかないが、一体彼女は何を感じ、考えていたのだろうか。何の気なしに話していた私と彼女の関係は、「友人」として捉えられていたのだろうか。他にも亡くした知人はいるが、彼女のことは今私の中でどんどん大きくなっている。
21歳で親友を亡くし、28歳でこんな映画を撮ってしまった監督は、今後どのような人生を送るのか。動員が奮ってなさそうなので、興味のある方はぜひ渋谷まで足を運んでほしい。