前期が終わる。授業期間中は負債がどんどん溜まっていくもので、授業が終わってようやく負債を返し切る頃にはすでに長期休暇の終わりが見えている。いや、正確に言えば負債を返し終わる日など決して来ない。一応息ができるぐらいになったら、あとはなんとか息継ぎしながらやりくりするしかない。
七月の終わりにU-Nextで小津『小早川家の秋』を見直す。小津が東宝に招かれて撮った晩年の作品だが、音声を消して見ると、座って立って振り向いて、家中歩いてまた振り返り、別の人がやってきては喋って切り返し……ということだけを律儀に、しかし過剰にやっていることがわかる。画面内にいる人物が次のショットに切り替わった時に画面内のどの位置に現れるかを正確に計算し、会話をしている複数人の人物同士のどこにキャメラが回り込むかについてはいつも以上に定石を破り、また動作のどのタイミングでどう次のカットにつなぐかという点においては超絶な職人芸を見せる。ほとんどが旧知のスタッフではないにも関わらず、細部にまで監督の意思が行き渡っている。小津は知れば知るほどおそろしい。尾行の撮り方もサイレント的な繰り返しの面白さで笑いを誘う。『浮草』に続いて昔の愛人宅に通う旦那役の中村鴈治郎も素晴らしいが、父親に嫌味を言う新珠美千代が以前から小津映画に出ていたとしか思えないほど素晴らしい。ここまで形式性を高めているのに逆に身体性が生き生きと感じられるという不思議。この映画を思い出すだけであと10年ぐらいは生きていける。そう思わされる映画だった。
採点・残務処理などを終え、青森と雲仙への旅行から帰り、卒業生たちと歌舞伎を観て、東京と残暑にうんざりしているうちに一週間が過ぎる。少なくとも東京にいないうちはインターネットやスマートフォンが無意識レベルで引き込もうとしてくる資本主義への依存サイクルに乗らなくて済んだし、AIがどうのとか万博がどうのみたいな意思の無い伝言ゲームを聞かなくて済んだ。東京に着いた途端に電車で今にも嘔吐しそうな酩酊した人たちに挟まれ、誰彼構わず無差別に訴えかけてくる広告に見つめられながら、心を殺して電車に乗る。今更かもしれないが、改めて経験するとうんざりする。
そうこうしているうちにお盆が過ぎ、9月になりそうなので、前期中に溜まった積読本を消化しつつ後期の授業準備に向かおうと決意する。しかし、いかに読まなければならなかろうとも、気の合わない本はどうしても気が合わないもので、何ページ読んでも1フレーズも刺さらない。お勉強でしかない本を読むよりも、映画の1本でも見に行った方が人生を前に進めるだろうと考え(いつもの口実)、ダニエル・シュミットの『書かれた顔』を見に行く。全てを描こうとして何も描けなかったあの惨憺たる歌舞伎映画の3時間よりも、坂東玉三郎が白粉を塗る様を手鏡越しに撮っているだけのこの映画のシーン数十秒の方が何億倍も面白いという事実。それは本物の歌舞伎役者を撮っているということに依存しているのではなく、映画にとっては「何」を「どう」撮るかという選択が全てであり、どの距離からどの角度でどこに焦点を当てて撮るのか、どこに照明を当て、どのようにフレーミングするか等々の映画的決断が、鑑賞者に何が伝えられるかを決定的に左右するという当たり前の事実に依るものである。別にこれが完璧な映画だと言うつもりはないし、むしろ歪で変な映画であると思うが、侯孝賢が言うように、映画は「部分」しか語ることはできず、しかしながらその部分から滲み出るものによって、行間を想起させることはできるという決意が、既に冒頭の数分から感じられるのである。そのような決意なしにいくらシーンを重ねたとしても、伝わるのは「話」だけであろう。
次いで、その侯孝賢がまだ37歳そこそこで監督した『冬冬の夏休み』のリマスター版を新宿まで見に行く。キャメラがまだ完璧とは言えないものの、「あの」というほかはない、誰もが知っている夏休みの時間が、子供の残酷さと大人の穢れ、そしていつでも隣り合わせの死の匂いと共に描かれる。永遠に続くような無駄な時間のように思えながら、それぞれのシーンが連鎖し合って紛れも無い映画的な体系へと昇華されていくところが見事である。それに、障害のある寒子(ハンズ)のような人間と、純真無垢な子供だけが生き物の死や人の苦しみを最も良く感じることができ、村社会の中では非常に弱い存在でありながらも連帯を結び、心を通わせていくというふうに描いたことが、何より素晴らしい。
8月の終わりに、日本地図学会の定期大会で小田原近くの入生田という場所へ。次の日から学校が始まるというにもかかわらず、夏休み的というしかない山、川、太陽、青い空、といった風景である。分科会もなく参加者全員が同じ発表を聞くというのを丸2日続けるスタイルで、全くわからない発表も多かったが、未知の領域の話を聞くというのも非常に新鮮であるし、何より分野の分け隔てなく「地図」というメディアだけをめぐってこれだけの人々が意見を交わし合う環境が存在するという事実が、今日貴重だと感じられた。これも横断的な視野を持った懐の広い先生方と、故・野村正七先生のおかげだろう。個人的には、日本の地図教育のあり方について抱いていた疑問を共有できたり、新しい知り合いもできたりして、非常に有意義であった(翌々日の授業準備のために懇親会にも行かずドトールに籠る羽目にはなったが)。
その他、4月から観た映画、展覧会を備忘録的に(既に書いたものを除く)。
佐藤そのみ『スリーピングスワン』/ジョン・フォード『月の出の脱出』/小田香『GAMA』/アニエル・ヴァルダ『冬の旅』/井口奈巳『犬猫(8mm版)』『だれかが歌ってる』『左手に気をつけろ』/サタジット・レイ『音楽サロン』『エレファント・ゴッド』/ペドロ・コスタ『骨』/アントニオ・レイス『トラス・オス・モンテス』(以上、映画館)
小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』/『機動戦士ガンダムジークアクス』シリーズ/佐藤真『花子』『まひるのほし』/黒沢清『CURE』『回路』/侯孝賢『ナイルの娘』(以上、DVD・配信)
『デザインあ展 neo』(TOKYO NODE)、『極上の仮名』展(五島美術館)、『レオ・レオーニの絵本づくり』展(ヒカリエホール)、『ペドロ・コスタ インナーヴィジョンズ』展、『ルイジ・ギッリ 終わらない風景』展、『TOPコレクション トランスフィジカル』展(以上、東京都写真美術館)、青森県立美術館、十和田市現代美術館、三内丸山遺跡、是川縄文館。
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道場
授業、会議、高校での模擬授業、学会、デザインワーク等々の合間を縫うようにして渋谷に通い、「山形ドキュメンタリー道場 in 東京」を見る。ルオ・イシャン監督『それから』、小田香監督『セノーテ』、藤野知明監督『どうすればよかったか?』、小森はるか監督『春、阿賀の岸辺にて』『松屋の松太郎さん』など。 見るはずだったヴェニス・アティエンザ監督『海での最後の日々』は、チケットまで取っていたものの会議が長引き断念。
「道場」の流れで知ったルオ・イシャン監督『雪解けのあと』の劇場公開に駆けつける。ヒマラヤで50日近い遭難の上に亡くなったチュンと、奇跡的に救助され生還したユエ。彼らに同行するはずだったが病気のため叶わなかったイシャンが、カメラを手にし、自らの不在を埋めるように追憶の旅に出る。当事者にしかわからないような微妙な感情や関係性を、わかりやすさの方へと収束させず、意味よりも声の震えや戸惑いの振る舞いとして観る者に提示する。雪を踏みしめて歩く音、鳥の会話、容赦なく流れ続ける沢の音が、残酷なまでに美しい追憶の光景に重なり、融けていく。チュンの残した手記をはじめ、SNSやテキストメッセージ、地図や行程表、写真、ボイスメモ、ナレーション、救助隊の撮った記録映像などを入れ込むナラティヴの手法、豊かな音響表現によって、監督の追憶が身につまされるような「体験」として迫ってくる。個人的には、遭難前の友人たちをまるで家族のように手厚くもてなしたという、ネパールの村の人々の暮らしを捉えた監督のまなざしが、唯一この映画であたたかさに満ちているように感じられた。そこには理屈を超えた素晴らしさがある。
そういえば私にも、中学で亡くした友人がいた。「友人」と言えるかどうかわからないが、小学校のクラスメイトで、片足に病気を抱えていつも松葉杖で体を支えケンケンして歩いている女の子だった。学校では普通に話していた程度だが、当時ダンシとジョシは気安く話さないのが普通だったので、仲が良かったと言えるのかもしれない。彼女はやがて、病気のせいでよく転ぶようになったと聞き、学校で見かけない日も多くなった。それから1年ほどして、彼女が亡くなったという知らせが入り、彼女のお母さんから「大田君は仲が良かったのでぜひお葬式に来て欲しい」と言われた。確か中学生になっていたので、制服を着て彼女の住んでいた団地まで行き、棺に入れられた彼女の顔を見て手を合わせた記憶がある。今では松葉杖をつく彼女の姿と、おぼろげに会話をしていた記憶ぐらいしかないが、一体彼女は何を感じ、考えていたのだろうか。何の気なしに話していた私と彼女の関係は、「友人」として捉えられていたのだろうか。他にも亡くした知人はいるが、彼女のことは今私の中でどんどん大きくなっている。
21歳で親友を亡くし、28歳でこんな映画を撮ってしまった監督は、今後どのような人生を送るのか。動員が奮ってなさそうなので、興味のある方はぜひ渋谷まで足を運んでほしい。
オリヴェイラ2025 その2
もう見てから長い月日が経ってしまったので記憶も定かではなくなってしまったのだが、久しぶりにスクリーンで見たオリヴェイラの『アブラハム渓谷』はやはり恐ろしい映画だった。狂言回しや「第四の壁」の破壊もなく、「本気で撮った大人の劇映画を見せたろかい」と言わんばかりのオリヴェイラ御歳85歳。それでもわざとらしい不自然なつなぎや、原作の物語をナレーションで語った後に、同じ内容のシーンをヴィジュアルで見せる基本構造など、随所に映画の確からしさを揺さぶる仕掛けが散りばめられている。
今回見直して素晴らしいと感じたのは風景のロングショット。並の映画ならば芒洋になるところが、スクリーンのサイズでまさに映るべきものが映っていると感じられるフレーミングで、渓谷の中に佇む邸宅という名の監獄を映し出していく。
やはり圧巻なのは、聾唖の洗濯女を演じるイザベル・ルト。もう本物の洗濯女にしか見えないような洗濯ぶりで、一言も発さないのにあの存在感たるや。オリヴェイラのヒロインらしく天真爛漫なレオノール・シルヴェイラと好対照である。
願うならば、『ノン』『神曲』『階段通りの人々』あたりをまた劇場でかけていただきたい。
オリヴェイラ2025 その1
文化村ル・シネマでマノエル・ド・オリヴェイラの特集上映が組まれている。オリヴェイラについてはDVDも絶版で高騰しているし、このまま忘れ去られていってしまうのではないかと危惧していたが、何年かに一度レトロスペクティブが組まれるのであれば、現代も捨てたもんではないなと思う。土曜の夕方の上映でトークショーつきという条件を抜きにしても、一般に有名な俳優も出ていない何十年も前のポルトガル映画で、200人規模の会場が8割埋まるほど人が集まるとは、正直驚きである。若い人たちの「過去」との出会い方は私の世代の感覚からすると奇妙であるが、良いものは良いものとして残り続けるということなのであろうか。ル・シネマではこの後ジャ・ジャンクーの新作が封切られ、さらに夏にはサタジット・レイのレトロスペクティヴが開催されると言い(『音楽サロン』!)、にわかに血が湧き上がるのを感じずにはいられない。私はきっと地方には住めないなと思う。
初見の『カニバイシュ』。宮殿の入口のようなところに次々と黒塗りの車が到着し、中からなにやら高貴な装束の人々が出てくる。自動車が登場するからさして古い時代の話ではあるまいと思って見ていると、沿道に押しかけた現代の洋服を着た人々が、柵の向こうから彼らに声援を送る。次々と到着するのは現代を生きる貴族なのか、あるいはコスチュームプレイとして貴族の衣装を纏った役者として扱われているのかは定かではない。声援とそれに応える俳優=貴族たちに見惚れていると、最初に到着した2人の男たちが、片割れがヴァイオリンを弾き、片割れが歌いながら、キャメラ目線で物語を説明しはじめる。狂言回しが登場するから、やはりいつもの——といってもフィルモグラフィーから言えばまだ序盤であるが——オリヴェイラ的な、「演じられた表象」として映画は展開していくのであろう。キャメラが壮麗な宮殿の中に入っていくと、狂言回し以外の人物たちも歌っているように見えるので、これはオペラをモチーフとした映画であることが理解される。腹式呼吸で歌い上げられる声と、役者の抑えられた口の動きとはマッチしないので明らかに口パクであるが、しかしながら完璧に同期しているから、先に歌を録音してそれに合わせて演技を行うという骨の折れる作業を行ったのであろう。私のミュージカル嫌いもあって歌=セリフの内容はほとんど頭に入ってこず、集中力が保つかどうかを危惧しはじめるが、オリヴェイラ特有の、わざと「わざとらしい」ショットが次々に繰り出され、辛うじて持ち堪える。しかし、結婚した妻に「私は人間ではない」と忠告するあたりから一気に映画が荒唐無稽な方に傾き始め、着ぐるみは出てくるわ、人は生き返るわで、前作『繻子の靴』で頂点に達した——というかやりすぎた——「演じること」と「演じられた表象」との自在な行き来が、さらなる次元へと到達している。終盤になるまでこの映画の本領は発揮されないが、そこまで観客がついてくることを信じきったオリヴェイラの信念の強さに脱帽する。
次に『絶望の日』。ポルトガルを代表する小説家カミーロ・カステロ・ブランコの最晩年の日々を描いたものだが、いきなり役者がキャメラの方を向いて「私が今回演じるのは…」と紹介をし始め、作家とその妻を演じている役者が、役を演じているシーンと、役者としてこちらに話しかけてくるシーンと、役を演じていたと思ったら急にかつらを脱いでこちらに話しかけてくるシーン、それに作家の小説の中のテキストを作家とその妻が話し始めるシーンが交互に展開する。時制も行ったり来たりするので一度見ただけでは全貌を理解できない複雑な作品。復元された作家の家の中で撮られているとのことで、これがなんともアウラが無くて微妙なのだが、馬車の車輪だけをひたすら映して移動を表したり、馬車から見える木々だけを映しオプティカルフローがゆっくりになっていくことで停止を示したり、英断というほかないショットが連続する。妻役の役者が最初「役者」としてこちらに話しかけてくるシーンでは、少し演技過剰な俗っぽいおばちゃんにしか見えないのだが(失礼)、「役」としてメイクを施した途端にこの役はこの人でしかありえないと思わされるような風貌へと変身するのが衝撃的であった。
作品を見るたびに本当に偉大な映画監督だという思いを新たにするのだが、なぜか彼はゴダールを称賛していて、いやいやあんたの方が何倍もすごいよ、と言いたくなるのであった。
春
切羽詰まり続けた春休み。やけくそで映画を観に行く。忙しいのに映画に行く意味はわからないと思うが、呼吸は必要なのだ。
佐藤そのみ監督の『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』の2本立て。日芸在籍中の自主制作として撮られた前者と、卒業制作として撮られた後者。普通は逆だろう、とツッコみたくなるような、前者の意気込みの強さと、後者の(いい意味での)肩の力の抜け方。
津波によって家族を失った監督自身や、地元の人々の経験に基づいて撮られた劇映画である『春をかさねて』は、撮影が完璧でないところや不要とも思えるシーンもあったが、大学生でこれだけ多くの人々、特に実際に被災した地元の人々と、県外の役者とを巻き込んで、これだけの映画を撮れてしまったということが俄かに信じがたい作品で、津波で廃墟化した小学校で撮られたラスト近くのシーンは、身じろぎもできなくなるような力を湛えていた。
一方、失われた家族に対するビデオレターとして撮られた『あなたの瞳に話せたら』は、監督自身と地元の友達2人の現在を映像によって映し出し、彼ら自身の「手紙」をナレーションとしてかぶせる構成で、前作で見た小学校がいかにして被災し、いかにして遺構として守られてきたか、そして、彼らが震災や家族のことを忘れないようにしながらも、どのように「今」を生きているかを語るという、鮮烈な作品であった。震災の外部ではなく、内部からこのような映画が出てきたことがとにかく強靭な力を持っているが(震災に「外部」があるのかという議論もあるだろうが)、「いつまでも被災者として甘えていてはいけない」と意を決したと監督自身が語っているように、「震災映画」を超えた普遍的な力を感じた作品であった。
別日には、タル・ベーラによる福島での映画教室の模様を撮影した小田香監督の『Fukushima with Béla Tarr』をシモキタエキマエシネマとやらに観に行く。福島に着いて早々、被災地を巡るバスツアーに「こんなツーリズムは要らない。実際の人々の生活が見られるところはどこだ」とクレームを言い、「まったく1日を無駄にした」と事前に組まれたプログラムを拒絶して「とにかく人に会って人生を学んでこい」と参加者たちを現実世界へと仕向けるタル・ベーラ。あらかじめ想定したような「悲しい被災の物語」ではなく、どんな状況でも生きていく人間たちの強さを撮りに行け。震える手でタバコをふかしながらそう語る彼の姿には、人間をどこまでも信じ切る強さが満ち溢れている。WS参加者の口から出るナルシシスティックなおべんちゃらに「いいか。君の言っていることは全く意味がわからない。私の知りたいのは何が画面に映るかだけだ」と映画言語にはあくまで厳しく、徹底して指導する姿。彼自身の映画がどうであるかはさておき、人間として、教育者としての彼の姿に圧倒される。パンフレットには、必要なのは「education」ではなく「liberation」なのだという言葉が記されていた。システムとしての大学が生み出すくだらない形式主義や立場主義を乗り越えて、人として学生を「解放」するにはどうしたらいいか。教育のあり方を突きつける言葉であった。
そうこうしているうちに4月になってしまったが、早々、ヴァル・キルマーが死んだ。思わず、彼の撮り溜めた個人的な映像から構成された『ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男』をU-Nextで観る。そこには、咽頭がんの手術後にのどのボタンを押さないと発話ができなくなった映画俳優の人生が、息子のナレーションとともに描かれていた。子供の頃から兄弟と映画ごっこをしていたこと、演劇学校で演劇を学び、若きケヴィン・スペイシー、ショーン・ペンらと共演した舞台の様子、『トップ・ガン』で一気にスターダムに駆け上り、『ドアーズ』『トゥームストーン』『バットマン・フォーエヴァー』で大役を演じ切ったのち、マーロン・ブランドとの共演作で監督と対立し、「扱いづらい俳優」としてレッテルを押されたこと、そして父親から相続した土地を売り払って臨んだマーク・トウェインのワンマン・ショーへの意気込みなどが、次々と語られていく。私にとって忘れられないのはマイケル・マンの『ヒート』で、センシティヴで忠義深いギャングの一員を演じ、ブロンドの長髪で銃火器を構える姿に、美しい俳優だなと思った印象がある。内容は覚えていないがハーモニー・コリンの『The Lotus Community Workshop』でほとんど三輪車みたいなミニベロで夜道を走っていたのを思い出す。こんなに喋れなくなっても創作活動をすることはできる。人間は美しいと思わされる映画であった。
『あの優しさへ』
自身が同性愛者であるということを家族に告白し、母親の拒絶にあったという実際の出来事からまもなく、それを家族本人の出演によってキャメラの前で再演するばかりか、さらにはその映画を撮影している様を撮影し、虚構と現実が幾重にも構造化された映画へと仕立て上げるという、心理的にも映画的にも途方も無いことをやってしまった初監督作『ノイズが言うには』から7年。そのラストショットである娘からの手紙に涙する母親の横顔を捉えた映像を、ルーペを通したような輪郭のぼけた丸いイメージによって見つめ直すことから始まる小田香『あの優しさへ』は、自己の映画的行為が、「今自分の撮るべきものはこれしかない」という切実な思いから生まれたものであったと同時に、自分を拒絶した母親に対するキャメラを通した復讐でもあったのではないかと苦悩し、キャメラを被写体に向けることが被写体に対する暴力や搾取につながること、そして映画における「距離」とは何かと自問し続ける監督自身の手記であり、また母に向けての手紙である。監督の思いは、初監督作を観た者なら聞きなじみのある監督自身の「声」として、過去作のイメージや使われなかったフッテージに重ねられていくが、やがてその悩みは、タル・ベーラの映画学校に通うためにやってきたボスニアの地で「撮るべきもの」を完全に見失ったこと、そこで自らをせき立てるようにして撮ったボスニアの農村の葬儀と祭、さらにロマへの密着インタビューなど、自らが撮ってきた映像を回顧しながら、「映画とは何か」という問いへと突き進んでいく。
観客にとって無縁であるはずの監督の個人的心理の吐露が、なぜ人をここまで惹きつけるのだろうか。そんなことが許されるのは、ジョナス・メカスのような、限られた人物だけだったはずである。何を捉えているのかもわからないおぼろげな映像が、アートぶった映画のような嫌味さを微塵も感じさせず、ここまで人を武装解除させるのはなぜか。素朴で、迷いながらも、潔く、聡明な映像。「説得力」と呼ぶのも憚られるような、声と音の、不可解な浸透力。それに、勇気ある行動。『鉱 ARAGANE』や『Underground』も素晴らしいが、『Flash』や『あの優しさへ』のような映像エセーに、監督の得体の知れない大物さを見出すのは私だけではあるまい。
『セノーテ』
ゴポゴポという水の音と、遠くで子供たちがはしゃいでいるような声が、空間の中で反響し、また分厚い水の層を伝わってくることによって、くぐもって聴こえてくる。スクリーンには、上を見ているのか下を見ているのかもわからないような水中の映像が映し出され、水中にわずかに差し込む太陽光が、文字通り「光線」として照らし出す先に、魚や人の影がおぼろげに見えては消えていく。これは一体どういう状況なのかと思考を巡らせているうちに、不意にキャメラは水面に浮上する。その瞬間、激しい光彩が目を刺し、上空から落ちてくる無数の水滴の衝突音が、劇場の空気を震わせる。
キャメラは、深淵部がどうなっているとも知れぬ異国の泉=セノーテへと次々に潜っていく。恐る恐る、しかし勇敢にも奥へと泳ぎ進めながら、アロワナを思わせるような熱帯の魚や、水底に沈む獣骨など、静寂極まりない水中の様子を伝えていく。色彩豊かなセノーテもあれば、ほとんどモノクロームに近いものもある。そこに、恐竜を滅ぼしたとされる隕石以来のセノーテの言い伝えが、語りとして重ねられる。曰く、ある日泡が吹き出して人々を飲み込んだとか、若い生贄が捧げられたとか、映像を見ている者を震え上がらせるような内容が続く。やがてそこに少女の言葉でマヤの詩が重ねられ、現地人の顔のクローズアップや、祭りの様子が挿入される。「完璧」を目指すわけでもないし、何かを語り尽くしているわけでもない。それでありながら、「傑作」と思わず呟いてしまう。その面白さは、未知の場所を探究する好奇心と無縁のものではないだろうが、それ以上に、イメージとサウンドを組み合わせることによって生まれる映画の本質的な力が、しかも物質的な形でここに宿っているからであろう。だからといって何かが説明できるとは思わないが、映画館という空間で、鼓膜ではなく身体を振動させながら、スクリーンの光に身を委ねるということでしか生まれないような体験がここにはあることは間違いない。インタビューを読んで驚いたが、水中のシーンの多くはiPhoneで撮られたらしい。小田香『セノーテ』。新しい時代の到来としか言いようのない映画であった。
『Flash』
列車の窓らしきガラス面に、車内の人影が反射する。どうやらそこはコンパートメント席らしく、うつろう人のシルエットからは、車掌か国境警備隊が乗客2人のパスポートをチェックしている様子をかろうじて読み取ることができる。パスポートを返してもらった乗客たちは、各々の旅券を見比べながらその取り扱いの違いについて談笑し始める。身を起こす片割れに、キャメラに映り込むからそれ以上乗り出さないでくれと、監督らしき人物が注意を促す。「私より絵が大事なのね。」そう冗談を言うパートナーを尻目に、列車は発進する。
列車の窓は薄汚れていて、キャメラはまずそれを捉えているが、白い斑模様の向こうには、紅葉した渓谷の風景が映し出されていく。しかし、列車を取り巻く光学的状況の移り変わりとともに、反対側の窓のシルエットや、さらにその向こうに映る車外の風景、そして三脚に据えられた一眼らしきキャメラそのもののシルエットさえもが、画面上に現れては消えていく。簡潔に窓に垂直に向けられているのであろうキャメラの視線の先に、五重・六重ものイメージが層となって重ね合わされる。しかも、窓=鏡、キャメラ、それに乗客との位置関係を正確に判別し難いような、ある種のトロンプルイユ的な映像が展開される。その巧妙な入れ子構造に見惚れていると、「どうすればあなたに届くのか」といった監督自身の手紙のような私的文章が、スクリーンの上下に字幕として映し出されていく。「あなた」が誰を指しているのか、あるいはそれが人であるのかすらわからないが、誰かに到達できない思いを吐露しながら、物心がついて以来最初の記憶がなんであるかを自問するような言葉が続いていく。映画の作法を破るようなその手法にこちらの映画認識が揺さぶられるが、静観しているとさらには音声通話やビデオレターの音声のような、親しい人物の安否を気遣ったり自らの消息を伝えるような第三者の言葉が、サウンドとしてイメージに重ね合わされる。その言葉が、生まれ故郷とは遠く離れた土地を旅する監督と無縁ではないであろうことはすぐに察せられるが、そうとは確信され得ないような言葉も混じっている。列車というのはともすると、人生の比喩かもしれない。あるいは——ホセ・ルイス・ゲリンの『影の列車』のように——移り変わる光景が1秒24コマのフィルムの枠へと次々に記録されていく「映画」というメディアそのものが、三重に重ねられているのかもしれない。イメージとサウンドが相乗効果を上げることはトーキー以来当たり前であったのにもかかわらず、異常に新鮮な効果を上げているという信じがたい事態に驚きながら思考をめぐらせていると、列車は川を越え、トンネルをくぐり、いずこかの駅へと到達する。そこに停車しているタンク車に書かれた文字から、その列車がバルカン半島を走っているものであろうことがようやく理解される。
一つの駅から出発した列車が、別の駅へと到着する。この車窓だけを捉えた映像に、サウンドを重ねるだけで一片の映画が誕生する。そしてそれが見るものの映画体験と、人類にとっての「イメージ」がなんであるかを揺るがせる。小田香監督『Flash』。驚きに満ちた25分間であった。
振り返り
仕事の合間に少し自分のためのことを書いておきたい気持ちになってこれを書いているが、昨年を振り返ると映画館に行った記憶などはほとんどなく、昨年観たと思っている映画もほとんど一昨年のものだという体たらくで、渋谷方面から下高井戸方面に流れてきた映画をなんとか滑り込むように観ていた記憶がおぼろげにあるぐらいだ。仕事終わりに映画を観るという生活が私の夢ではあるが、そんな環境に住めたためしはないし、映画館の方がどんどん居住地から遠ざかっていくばかりで、一向に実現する見込みはない。なにしろ、大学と概ね反対方向にある「映画館」という存在に息せき切って向かい、深夜に這々の体で帰ってくるというのは流石に年齢的に堪える。都心に引っ越す、という最終手段があるにはあるが、日々の利便性を考えると多摩地区に住み続けるのが論理的解答として揺るぎそうにない。大学が引っ越してくれれば全て解決するのだが、そんな夢のようなことを考えるよりは、アキ・カウリスマキのように片田舎に映画館を建ててしまうほうが現実的な思いがする。
そんなわけで昨年はエリセとワン・ビンの新作、それにケリー・ライカートの回顧上映ぐらいしか観に行った記憶がないのだけれど、PCのモニタ上で観たものはいくつかあった。一つ目は濱口竜介・酒井耕監督の『なみのおと』である。東日本大震災の被災者へのインタビューを中心に構成された映画であるが、いわゆるドキュメンタリーであるにも関わらず、向かい合って話す人々を正面から撮り、そのショットの切り返しで語りを展開していく様は、さながら小津映画のようである。震災時の想像を絶するような状況を、一瞬の判断の違いで幸運にも生存した人たちの語る言葉は、「被災者の語る言葉」という枠組みから想起されるものをはるかに超えていく。津波に巻き込まれた地域であるにもかかわらず、自分の意見は受け入れられないだろうけれども、巨大な堤防を作ることで生活と「海」が分断されるのは嫌だ、と勇気を持って語る若い女性の姿を本編に収めることができたのは、この映画の大きな功績ではないだろうか。
次に、小森はるか監督の『息の跡』である。津波で店舗を跡形もなく流された種苗店の店主が、再び店舗をセルフビルドし仕事を切り盛りする姿を追った映画であるが、店主は店舗の再建に飽き足らず、散逸した地誌をかき集め、切り株の年輪の太さを測って現地の津波の歴史を研究したり、独学で覚えた英語でもって津波の体験についての著作を執筆し、ついには中国語まで憶えて発表してしまったりと、なんでも自分でやって乗り越えてしまう。そんな店主の姿からは、人間その気になれば何でもできるのではないかという勇気が湧いてくる。藝大を出て将来の不安を抱えながらも東北に移住し、バイトをしながら映画を撮ろうとしている監督との関係もよく写っていて、「こんなことをやっていないで映像制作会社に就職した方がいいんじゃねえのか」というやりとりにはハッとさせられてしまう。
人間は日々、関係性の中で生きている。そこには良い関係性も悪い関係性もある。ただ、それを一度に喪失すると、何かをイチから一人で作っていかなければならない。そこから何かを生み出すには時間がかかるが、その時初めて自分の生き方が生まれるのかもしれない。見知らぬ土地でよそ者として映画を撮ることも、津波で店舗や知人を失った後に再び生き直すことも、程度の差こそあれ同様に困難であるが、そのような境遇の他者同士が出会うことによって奇跡のような映画が生まれたのかもしれない。人間はいつだって何かを始められる。無数のしがらみに囚われていても、本当の関係性はほんの一部である。それを見極めて自分の生き方を見つけていかなければならないと思わされる映画であった。
ウェンディ&ルーシーあるいは
春休みは己の「想像を絶するだらしなさ」を解消するための税務に追われ、また新授業の準備などでほとんど休みはなかったのだが、下高井戸でロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』やドライヤーの『吸血鬼』『ミカエル』『怒りの日』を見るぐらいの息抜きはできた。『吸血鬼』はやはり傑作中の傑作だし、可能ならば再びフィルムという身体性とともに体験したいものだが、致し方ない。初見の『怒りの日』もまた『裁かるるジャンヌ』と同じく、誰にも真実のわからない形而上学的な事実を主張する人物が宗教家と民衆によって糾弾される憂き目に遭い、また『奇跡』のように「信じること」がもたらす小さな奇跡=魔術が映画的事実として描かれており、信心と不義との狭間で揺れ動く人々を描くことがドライヤーの中心的テーマであったのかと確認させられた。老いた「魔女」を裸にして問い詰める男たちの醜さ。若き義母との不貞をはたらきながら、実父が死んだ途端に立場を豹変させる聖職者の息子と、最初から義理の娘をいびり続ける祖母の不寛容さ。彼ら糾弾者と好対照をなす無垢な、あるいは天真爛漫であるが故に災いをなす娘は、かくして火炙りに遭う。厳格すぎる室内とのコントラストをなす戸外のシーンの美しさは、不貞への後ろめたさと無縁ではないであろう。「今、死が近くをよぎった」という一言で映画に不穏を導入するドライヤーの手際の良さ。「魔女」を演じる主演女優の目力なくしては成立しない映画の動力学。
思い返せば、「30年ぶりの新作」と謳われるビクトル・エリセの『瞳をとじて』を日比谷に観に行き、映画館にかかっている以上観直さなければ人間としての存在意義を問われる旧作『ミツバチのささやき』と『エル・スール』を観に渋谷・新宿へと駆けつけ、さらに上映最終日に新作をもう一度観直すことすらできたのだから、充実した春休みだったと言うほかはないだろう。もはや授業で映画のことしか喋りたくはない(喋ることがない)といった気持ちに苛まれてしまったが、果たして後期の座学はバランスを取れるであろうか。エリセの新作についてはもちろん大傑作であることは間違いないのだが、それを語りうる言葉はまだ浮かばないので、別の機会にこっそりしたためようと思う。
ところで、タイトルにしておきながらここまで全く触れていない「ウェンディ&ルーシー」というのは、ほかならぬケリー・ライカートの映画である。彼女の映画を見るたびに「アメリカに生まれなくてよかった」という気持ちを新たにするのだが、特に今作(といっても旧作だが)は、旅先で前に進むことも引き返すこともできない窮地に陥ったことのある人間にとっては心に染み入って完全に心掴まれてしまうような物語であり、あの、ドラッグストアの駐車場で車中泊をしていた主人公の若い女性に、敷地から出ていくよう追い立てる現代的なマニュアル的律儀さを示しながらも、出て行こうとキーを回した瞬間に車の故障が発覚し、挙句の果てには犬まで連れ去られてしまった彼女を見ているうちに唯一の味方になっていった白い眉毛の老警備員が素晴らしく、幼い頃に公園に置き去りにされたり、言葉の通じない海外で財布を紛失したりした経験のある人間にとってはそれは映画以上の何かであり、各地で助けてくれた地元の人々を思い出しては、システム的行動からこぼれ落ちた人間を救うのはシンパシーと寛容さであると誰彼かまわず告げてまわりたくなるのであった。
他にも、彼女が車の修理を依頼するガレージの修理工などは、登場の瞬間から映画をコメディへと急転させてしまいそうになるほどのユーモアを兼ね備えており、実在の修理工であるとしか思えない電話のいなし方を見ていると、ミシェル・ウィリアムズ演じる主人公がいつか吹き出してしまうのではないかと心配になるほどである(それにしても彼が朝から食べてるのはフライドポテトだろうか?)。
ここで犬を失うのはあくまで主人公の万引きが原因であるし(それが短パン白ポロシャツ姿の筋肉店員による無意味な正義感を引き金とすることは確かだが)、老警備員もまた途方もないお人よしではないことは彼がポケットから手渡すドル札の額面を見れば明らかであり、ここで完全なる善人の存在は周到に避けられている(主人公の軽はずみな悪事で窮地に陥る構造は長編デビュー作『リバー・オブ・グラス』から最新作『ファースト・カウ』まで何度も現れる)。「家と仕事を得るためには家と仕事が必要」な現代社会のイントレランスと、傍観者による救済を描いた傑作である。