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『あの優しさへ』

自身が同性愛者であるということを家族に告白し、母親の拒絶にあったという実際の出来事からまもなく、それを家族本人の出演によってキャメラの前で再演するばかりか、さらにはその映画を撮影している様を撮影し、虚構と現実が幾重にも構造化された映画へと仕立て上げるという、心理的にも映画的にも途方も無いことをやってしまった初監督作『ノイズが言うには』から7年。そのラストショットである娘からの手紙に涙する母親の横顔を捉えた映像を、ルーペを通したような輪郭のぼけた丸いイメージによって見つめ直すことから始まる小田香『あの優しさへ』は、自己の映画的行為が、「今自分の撮るべきものはこれしかない」という切実な思いから生まれたものであったと同時に、自分を拒絶した母親に対するキャメラを通した復讐でもあったのではないかと苦悩し、キャメラを被写体に向けることが被写体に対する暴力や搾取につながること、そして映画における「距離」とは何かと自問し続ける監督自身の手記であり、また母に向けての手紙である。監督の思いは、初監督作を観た者なら聞きなじみのある監督自身の「声」として、過去作のイメージや使われなかったフッテージに重ねられていくが、やがてその悩みは、タル・ベーラの映画学校に通うためにやってきたボスニアの地で「撮るべきもの」を完全に見失ったこと、そこで自らをせき立てるようにして撮ったボスニアの農村の葬儀と祭、さらにロマへの密着インタビューなど、自らが撮ってきた映像を回顧しながら、「映画とは何か」という問いへと突き進んでいく。
観客にとって無縁であるはずの監督の個人的心理の吐露が、なぜ人をここまで惹きつけるのだろうか。そんなことが許されるのは、ジョナス・メカスのような、限られた人物だけだったはずである。何を捉えているのかもわからないおぼろげな映像が、アートぶった映画のような嫌味さを微塵も感じさせず、ここまで人を武装解除させるのはなぜか。素朴で、迷いながらも、潔く、聡明な映像。「説得力」と呼ぶのも憚られるような、声と音の、不可解な浸透力。それに、勇気ある行動。『鉱 ARAGANE』や『Underground』も素晴らしいが、『Flash』や『あの優しさへ』のような映像エセーに、監督の得体の知れない大物さを見出すのは私だけではあるまい。

『セノーテ』

ゴポゴポという水の音と、遠くで子供たちがはしゃいでいるような声が、空間の中で反響し、また分厚い水の層を伝わってくることによって、くぐもって聴こえてくる。スクリーンには、上を見ているのか下を見ているのかもわからないような水中の映像が映し出され、水中にわずかに差し込む太陽光が、文字通り「光線」として照らし出す先に、魚や人の影がおぼろげに見えては消えていく。これは一体どういう状況なのかと思考を巡らせているうちに、不意にキャメラは水面に浮上する。その瞬間、激しい光彩が目を刺し、上空から落ちてくる無数の水滴の衝突音が、劇場の空気を震わせる。
キャメラは、深淵部がどうなっているとも知れぬ異国の泉=セノーテへと次々に潜っていく。恐る恐る、しかし勇敢にも奥へと泳ぎ進めながら、アロワナを思わせるような熱帯の魚や、水底に沈む獣骨など、静寂極まりない水中の様子を伝えていく。色彩豊かなセノーテもあれば、ほとんどモノクロームに近いものもある。そこに、恐竜を滅ぼしたとされる隕石以来のセノーテの言い伝えが、語りとして重ねられる。曰く、ある日泡が吹き出して人々を飲み込んだとか、若い生贄が捧げられたとか、映像を見ている者を震え上がらせるような内容が続く。やがてそこに少女の言葉でマヤの詩が重ねられ、現地人の顔のクローズアップや、祭りの様子が挿入される。「完璧」を目指すわけでもないし、何かを語り尽くしているわけでもない。それでありながら、「傑作」と思わず呟いてしまう。その面白さは、未知の場所を探究する好奇心と無縁のものではないだろうが、それ以上に、イメージとサウンドを組み合わせることによって生まれる映画の本質的な力が、しかも物質的な形でここに宿っているからであろう。だからといって何かが説明できるとは思わないが、映画館という空間で、鼓膜ではなく身体を振動させながら、スクリーンの光に身を委ねるということでしか生まれないような体験がここにはあることは間違いない。インタビューを読んで驚いたが、水中のシーンの多くはiPhoneで撮られたらしい。小田香『セノーテ』。新しい時代の到来としか言いようのない映画であった。

『Flash』

列車の窓らしきガラス面に、車内の人影が反射する。どうやらそこはコンパートメント席らしく、うつろう人のシルエットからは、車掌か国境警備隊が乗客2人のパスポートをチェックしている様子をかろうじて読み取ることができる。パスポートを返してもらった乗客たちは、各々の旅券を見比べながらその取り扱いの違いについて談笑し始める。身を起こす片割れに、キャメラに映り込むからそれ以上乗り出さないでくれと、監督らしき人物が注意を促す。「私より絵が大事なのね。」そう冗談を言うパートナーを尻目に、列車は発進する。
列車の窓は薄汚れていて、キャメラはまずそれを捉えているが、白い斑模様の向こうには、紅葉した渓谷の風景が映し出されていく。しかし、列車を取り巻く光学的状況の移り変わりとともに、反対側の窓のシルエットや、さらにその向こうに映る車外の風景、そして三脚に据えられた一眼らしきキャメラそのもののシルエットさえもが、画面上に現れては消えていく。簡潔に窓に垂直に向けられているのであろうキャメラの視線の先に、五重・六重ものイメージが層となって重ね合わされる。しかも、窓=鏡、キャメラ、それに乗客との位置関係を正確に判別し難いような、ある種のトロンプルイユ的な映像が展開される。その巧妙な入れ子構造に見惚れていると、「どうすればあなたに届くのか」といった監督自身の手紙のような私的文章が、スクリーンの上下に字幕として映し出されていく。「あなた」が誰を指しているのか、あるいはそれが人であるのかすらわからないが、誰かに到達できない思いを吐露しながら、物心がついて以来最初の記憶がなんであるかを自問するような言葉が続いていく。映画の作法を破るようなその手法にこちらの映画認識が揺さぶられるが、静観しているとさらには音声通話やビデオレターの音声のような、親しい人物の安否を気遣ったり自らの消息を伝えるような第三者の言葉が、サウンドとしてイメージに重ね合わされる。その言葉が、生まれ故郷とは遠く離れた土地を旅する監督と無縁ではないであろうことはすぐに察せられるが、そうとは確信され得ないような言葉も混じっている。列車というのはともすると、人生の比喩かもしれない。あるいは——ホセ・ルイス・ゲリンの『影の列車』のように——移り変わる光景が1秒24コマのフィルムの枠へと次々に記録されていく「映画」というメディアそのものが、三重に重ねられているのかもしれない。イメージとサウンドが相乗効果を上げることはトーキー以来当たり前であったのにもかかわらず、異常に新鮮な効果を上げているという信じがたい事態に驚きながら思考をめぐらせていると、列車は川を越え、トンネルをくぐり、いずこかの駅へと到達する。そこに停車しているタンク車に書かれた文字から、その列車がバルカン半島を走っているものであろうことがようやく理解される。
一つの駅から出発した列車が、別の駅へと到着する。この車窓だけを捉えた映像に、サウンドを重ねるだけで一片の映画が誕生する。そしてそれが見るものの映画体験と、人類にとっての「イメージ」がなんであるかを揺るがせる。小田香監督『Flash』。驚きに満ちた25分間であった。

振り返り

仕事の合間に少し自分のためのことを書いておきたい気持ちになってこれを書いているが、昨年を振り返ると映画館に行った記憶などはほとんどなく、昨年観たと思っている映画もほとんど一昨年のものだという体たらくで、渋谷方面から下高井戸方面に流れてきた映画をなんとか滑り込むように観ていた記憶がおぼろげにあるぐらいだ。仕事終わりに映画を観るという生活が私の夢ではあるが、そんな環境に住めたためしはないし、映画館の方がどんどん居住地から遠ざかっていくばかりで、一向に実現する見込みはない。なにしろ、大学と概ね反対方向にある「映画館」という存在に息せき切って向かい、深夜に這々の体で帰ってくるというのは流石に年齢的に堪える。都心に引っ越す、という最終手段があるにはあるが、日々の利便性を考えると多摩地区に住み続けるのが論理的解答として揺るぎそうにない。大学が引っ越してくれれば全て解決するのだが、そんな夢のようなことを考えるよりは、アキ・カウリスマキのように片田舎に映画館を建ててしまうほうが現実的な思いがする。
そんなわけで昨年はエリセとワン・ビンの新作、それにケリー・ライカートの回顧上映ぐらいしか観に行った記憶がないのだけれど、PCのモニタ上で観たものはいくつかあった。一つ目は濱口竜介・酒井耕監督の『なみのおと』である。東日本大震災の被災者へのインタビューを中心に構成された映画であるが、いわゆるドキュメンタリーであるにも関わらず、向かい合って話す人々を正面から撮り、そのショットの切り返しで語りを展開していく様は、さながら小津映画のようである。震災時の想像を絶するような状況を、一瞬の判断の違いで幸運にも生存した人たちの語る言葉は、「被災者の語る言葉」という枠組みから想起されるものをはるかに超えていく。津波に巻き込まれた地域であるにもかかわらず、自分の意見は受け入れられないだろうけれども、巨大な堤防を作ることで生活と「海」が分断されるのは嫌だ、と勇気を持って語る若い女性の姿を本編に収めることができたのは、この映画の大きな功績ではないだろうか。
次に、小森はるか監督の『息の跡』である。津波で店舗を跡形もなく流された種苗店の店主が、再び店舗をセルフビルドし仕事を切り盛りする姿を追った映画であるが、店主は店舗の再建に飽き足らず、散逸した地誌をかき集め、切り株の年輪の太さを測って現地の津波の歴史を研究したり、独学で覚えた英語でもって津波の体験についての著作を執筆し、ついには中国語まで憶えて発表してしまったりと、なんでも自分でやって乗り越えてしまう。そんな店主の姿からは、人間その気になれば何でもできるのではないかという勇気が湧いてくる。藝大を出て将来の不安を抱えながらも東北に移住し、バイトをしながら映画を撮ろうとしている監督との関係もよく写っていて、「こんなことをやっていないで映像制作会社に就職した方がいいんじゃねえのか」というやりとりにはハッとさせられてしまう。
人間は日々、関係性の中で生きている。そこには良い関係性も悪い関係性もある。ただ、それを一度に喪失すると、何かをイチから一人で作っていかなければならない。そこから何かを生み出すには時間がかかるが、その時初めて自分の生き方が生まれるのかもしれない。見知らぬ土地でよそ者として映画を撮ることも、津波で店舗や知人を失った後に再び生き直すことも、程度の差こそあれ同様に困難であるが、そのような境遇の他者同士が出会うことによって奇跡のような映画が生まれたのかもしれない。人間はいつだって何かを始められる。無数のしがらみに囚われていても、本当の関係性はほんの一部である。それを見極めて自分の生き方を見つけていかなければならないと思わされる映画であった。

ウェンディ&ルーシーあるいは

春休みは己の「想像を絶するだらしなさ」を解消するための税務に追われ、また新授業の準備などでほとんど休みはなかったのだが、下高井戸でロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』やドライヤーの『吸血鬼』『ミカエル』『怒りの日』を見るぐらいの息抜きはできた。『吸血鬼』はやはり傑作中の傑作だし、可能ならば再びフィルムという身体性とともに体験したいものだが、致し方ない。初見の『怒りの日』もまた『裁かるるジャンヌ』と同じく、誰にも真実のわからない形而上学的な事実を主張する人物が宗教家と民衆によって糾弾される憂き目に遭い、また『奇跡』のように「信じること」がもたらす小さな奇跡=魔術が映画的事実として描かれており、信心と不義との狭間で揺れ動く人々を描くことがドライヤーの中心的テーマであったのかと確認させられた。老いた「魔女」を裸にして問い詰める男たちの醜さ。若き義母との不貞をはたらきながら、実父が死んだ途端に立場を豹変させる聖職者の息子と、最初から義理の娘をいびり続ける祖母の不寛容さ。彼ら糾弾者と好対照をなす無垢な、あるいは天真爛漫であるが故に災いをなす娘は、かくして火炙りに遭う。厳格すぎる室内とのコントラストをなす戸外のシーンの美しさは、不貞への後ろめたさと無縁ではないであろう。「今、死が近くをよぎった」という一言で映画に不穏を導入するドライヤーの手際の良さ。「魔女」を演じる主演女優の目力なくしては成立しない映画の動力学。
思い返せば、「30年ぶりの新作」と謳われるビクトル・エリセの『瞳をとじて』を日比谷に観に行き、映画館にかかっている以上観直さなければ人間としての存在意義を問われる旧作『ミツバチのささやき』と『エル・スール』を観に渋谷・新宿へと駆けつけ、さらに上映最終日に新作をもう一度観直すことすらできたのだから、充実した春休みだったと言うほかはないだろう。もはや授業で映画のことしか喋りたくはない(喋ることがない)といった気持ちに苛まれてしまったが、果たして後期の座学はバランスを取れるであろうか。エリセの新作についてはもちろん大傑作であることは間違いないのだが、それを語りうる言葉はまだ浮かばないので、別の機会にこっそりしたためようと思う。
ところで、タイトルにしておきながらここまで全く触れていない「ウェンディ&ルーシー」というのは、ほかならぬケリー・ライカートの映画である。彼女の映画を見るたびに「アメリカに生まれなくてよかった」という気持ちを新たにするのだが、特に今作(といっても旧作だが)は、旅先で前に進むことも引き返すこともできない窮地に陥ったことのある人間にとっては心に染み入って完全に心掴まれてしまうような物語であり、あの、ドラッグストアの駐車場で車中泊をしていた主人公の若い女性に、敷地から出ていくよう追い立てる現代的なマニュアル的律儀さを示しながらも、出て行こうとキーを回した瞬間に車の故障が発覚し、挙句の果てには犬まで連れ去られてしまった彼女を見ているうちに唯一の味方になっていった白い眉毛の老警備員が素晴らしく、幼い頃に公園に置き去りにされたり、言葉の通じない海外で財布を紛失したりした経験のある人間にとってはそれは映画以上の何かであり、各地で助けてくれた地元の人々を思い出しては、システム的行動からこぼれ落ちた人間を救うのはシンパシーと寛容さであると誰彼かまわず告げてまわりたくなるのであった。
他にも、彼女が車の修理を依頼するガレージの修理工などは、登場の瞬間から映画をコメディへと急転させてしまいそうになるほどのユーモアを兼ね備えており、実在の修理工であるとしか思えない電話のいなし方を見ていると、ミシェル・ウィリアムズ演じる主人公がいつか吹き出してしまうのではないかと心配になるほどである(それにしても彼が朝から食べてるのはフライドポテトだろうか?)。
ここで犬を失うのはあくまで主人公の万引きが原因であるし(それが短パン白ポロシャツ姿の筋肉店員による無意味な正義感を引き金とすることは確かだが)、老警備員もまた途方もないお人よしではないことは彼がポケットから手渡すドル札の額面を見れば明らかであり、ここで完全なる善人の存在は周到に避けられている(主人公の軽はずみな悪事で窮地に陥る構造は長編デビュー作『リバー・オブ・グラス』から最新作『ファースト・カウ』まで何度も現れる)。「家と仕事を得るためには家と仕事が必要」な現代社会のイントレランスと、傍観者による救済を描いた傑作である。

EOの苦い涙

学務の合間に映画を見に行くと頗る調子がいい。
有楽町の商業施設の映画館にて、スコリモフスキ監督の『EO』を観る。ロバの一人称映画と聞いていたが、監督が唯一涙した映画だというブレッソンの『バルタザールどこへ行く(ちなみに原題のAu hasard Balthazarのほうが韻を踏んでて好きなのだがそのことはとりあえずどうでもよい)』とも違う。あれはどちらかといえば少女に災難が降りかかる田舎の悲しみ映画だったように思う(『少女ムシェット』とやや記憶が混濁しているかもしれないが、ヴィアゼムスキーがしょうもない輩に絡まれているのはなんとなく覚えている。いずれにせよ視線としてはブレッソン的なロリコン趣味だったように思える)。『EO』(ロバの名前になっている「イーオー」という言葉は、ディズニーくんだりに取り込まれてしまったクマのぬいぐるみの物語に出てくる「イーヨー/Eeyore」を想起させるが、これはロバの鳴き声に由来している・らしい)では、サーカスで団員の少女に愛されていたロバに、数々の災難が降りかかる。それはブレッソンよりももっと動物目線に近く、現代の様々な動物事情(サーカスからの解放運動、食肉・毛皮等のための家畜産業、それに伴う輸送従事者と移民問題等々)を反映しており、とりあえずの主人公である「EO」は野生動物(蛙、狐、狼)、家畜(馬、豚、牛、狐)とすれ違い、彼らと行動を共にしたりしつつも、何を考えているかは本人(本ロバ)しか知る由はない。彼の周りに現れては消えていく人間は押し並べて愚かに見えるが、そこに殊更の誇張はないように思える。EOはそれなりに生きているだけだが、様々な場所に運ばれ、時には奉られたと思いきや、その夜には立てなくなるほどの暴行を受け、その傷が癒えたと思った途端に毛皮農場に連れて行かれ、あわやというところで脱出したと思ったら、放蕩息子の随伴者に勝手に指名される。この映画に何らかの「メッセージ」があるのかはわからないし、本当にこの映画が動物を全く傷つけていない(No animals were harmed)のかもわからないが、ここで起きていることはどこにでも、人類の人口などを超えた動物の生命に起きていることだということは否が応でも伝わってくる。時折挿入される、「美しい」というほかはない自然の光景の中で、人間は勝手に歓喜し、落胆し、いがみ合い、奪い合う。動物たちからしてみればそれは愚かであるか少なくとも不思議なことであり、そのことだけは映画的事実として理解されうる。
何週間か後、ファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』の4K修復版が上映されるとのことで、新宿まで見にいく。なぜ上映されるかというと、フランソワ・オゾンが『ピーター・フォン・カント』なる題名で翻案したからなのだが、オゾンくんだりがファスビンダーについて語る資格など全くないと思うので、そんな枠組みはどうでもよい。しかし、武蔵野館(に行くのも10年ぶりぐらいな気がする)に着くと客席はいっぱいで、皆がどのような関心を持って集まったのかはわからないが、ひとまず喜ばしいことだと思う。前に見た時は10年ぐらい前だったのだと思うが、DVD鑑賞だったせいか、あまりしっくりこなかった記憶がある。しかし、猫の佇む階段を正面から捉えたオープニングから最後のスーツケースのシーンまでほとんど憶えておらず、憶えていたのはカーリンとペトラのとても似合っているとは言い難い珍奇な趣味の服装と、あのアメリカかぶれの娘の髪型と服装ぐらいであった。富と名声、女性としての自由は手に入れたが「結婚」と搾取に悩むペトラ(マーギット・カーステンゼン)、若さと無知と素直さだけが取り柄の無学なプロレタリアートのカーリン(ハンナ・シグラ)、才能はあるが愛する人にこき使われることだけが生きがいの哀れなマレーネ(イルム・ヘルマン)の繰り広げる、資本主義社会下で「愛すること」の不可能性を巡った愛憎劇。こんなことを思うようになったのも、歳をとったせいか。戯曲がベースとなっているこの密室劇で、プッサンの宗教画が壁に描かれた一室だけを舞台に映画が成立できるのは、ひとえにファスビンダーのダイアローグの素晴らしさと、ミヒャエル・バルハウスの工夫を凝らしたキャメラワークのおかげなのだと思う。好いた惚れたの話しかしない凡庸な恋愛ドラマばかりが横行している現代において、恋愛の社会性を突きつける、大変刺激的な2時間であった。それにしても猫はどこに行ったのだろう。マレーネが出ていってしまったら真っ先に死んでしまうのではないか、ということだけが気がかりであった。

バビ・ヤール

渋谷にてセルゲイ・ロズニツァ監督『バビ・ヤール』。画面が驚くほど台形で全く集中できなかったのだが、それを差し引いても『ドンバス』ほどクリティカルな映画ではなかったように思える。フッテージの繋げ方は見事だし、そこに新しい音響を被せてさも自然なように見せかけているところは方法論としてなかなかポレミカルだと思う。つまりこれは事実の純粋素朴な写しなどではなく、映画空間の中で新たに構築された、別の事実なのである。ドキュメンタリー映画であれ劇映画であれ、キャメラの前にあるものをフィルムに写しとってそれを繋げたものであるという点においては全く同じであり、何の解釈も入り込まない客観的なドキュメンタリーなどありえない。それを逆手にとって、と言ってよいかはわからないが、監督がその客観性と解釈との狭間を最大限に拡張しようとしていることはよくわかる。
このご時世にナチとそのプロパガンダに乗ったウクライナ人によるユダヤ人虐殺についての映画を公開する、という時事性が当地での反発を買ってしまったようだが、冷静に見れば、誰もがホロコーストの加担者たりえ、またその加担者に対する処刑者たりえるということを淡々と実証したにすぎない。もちろん「このご時世」に「冷静」になること自体がアカデミックでシネフィル的な態度だというのだろうが、決してウクライナ人を糾弾しようという映画ではないことは確かである。
本作公開をきっかけに監督の《群衆》ドキュメンタリー3部作がAmazonで見られるようになったらしい。問題はいつ見る時間を作るかであるが、電子空間は渋谷に行くよりも億劫である。

香も高きケンタッキー

渋谷にてジョン・フォード監督『香も高きケンタッキー』。蓮實氏が煽りに煽ったこの作品をついに見る機会がやってきた。上映一時間半前に着いたが整理番号は既に60番台。その30分後には満員御礼であった。
オープニング・クレジットのキャスト一覧に「われわれ馬たち」という見出しの下にまず馬の名前が並び、続いて人間のキャストたちが「人間と呼ばれる生き物たち」という見出しの下に列挙されているところからも早くも傑作の予感がするのだが、本当に馬の一人称で語られる72分。競走馬の一生における冷酷な現実も見せながら、失敗の人生(馬生)などないのだという、フォード節の詰まった牝馬二代記。馬と馬の再会に涙させられる映画があったとは。ジョン・ファレル・マクドナルドのような人が映画には必要なのだよね。
無伴奏サイレントで馬と人間の一喜一憂を黙って見つめる時間の尊さを噛み締めた一日であった。

ステイサミーな夏休み

ここ数年のステイサムを履修。
ガイ・リッチー監督『キャッシュトラック』。イーストウッドの息子がウィレム・デフォーみたいだったが、イカレヤンキー路線で売り出すんだろうか。バート・ランカスター崩れのおっちゃんが生き残るより、イーサン・ホーク崩れの兄ちゃんとかムキムキの姉ちゃんが奮闘するところが見たかったよあたしゃ。強盗団のボス役の人をどこかで見たことあるなあと思っていたが、『チェンジリング』と『J・エドガー』に出ていたらしい。顔つきだけで「良い」と思えるのは久しぶりな気がする。
続いて、サイモン・ウェスト監督『ワイルドカード』。何の映画を見ているのか全くわからないが、香港系のアクション監督がついているらしく、アクション・シーンは近年稀に見るほどの良ステイサム(クレジット・カード投げは流石にやりすぎだとは思うが)。「ベイビー」役のスタンリー・トゥッチとのやりとりが粋であった。
ジェームズ・ワン監督『ワイルドスピード SKY MISSION』。前作『EURO MISSION』を見たのはいつだったか。もうカーレースとかしないの?という疑問は多分野暮なんだろう。車に乗らないといけない必然性がもはやわからない。ジェイソン・ステイサムがこんなにガッツリこのシリーズに参加するとは思っていなかったけど、きっとザ・ロックと戦ったりヴィン・ディーゼルと戦ったりするところは「夢の対決」なのだろう。くだらないことを言い続けるローマンの存在とか、何となく憎めない映画である。素としか思えない役者の笑顔がこぼれるところが、果たして良いことなのか悪いことなのかわからないが、それもシリーズの魅力なのだろう。マイルドヤンキー感は否めない。それにしても禿げていないとこのシリーズには出られないのか?
続けてF・ゲイリー・グレイ監督『ワイルド・スピード ICE BREAK』。独房に入れられているうちに馬鹿キャラになってしまったジェイソン・ステイサム。しかし、如何にいい加減な作りの映画であろうとも、「赤ん坊をあやすステイサム」という新境地を切り開いただけでこの監督は賞賛されるべきである。この赤ちゃん役の子も良い。前作から引き続き出演のカート・ラッセルに加え、息子イーストウッド、シャーリーズ姉さん、それにヘレン・ミレンまで巻き込んじゃって、もう『エクスペンダブルズ』じゃないか。
付き合いの良い私は、続けて『ワイルド・スピード スーパーコンボ』を見る。ステイサムとロックが罵り合いながらバディを組んで、「ブラック・スーパーマン」ことイドリス・エルバと戦う、という色物。アクションが止まって見えるしロックとステイサムのやりとりもそんなに笑えず、例えるなら手際の悪い『ウルヴァリン侍』なのだが、最後のエルバとの三つ巴の殴り合いをハイスピードカメラで撮ったところは、頭が悪過ぎて流石に吹き出してしまった。新人監督なんだろうと温かい目で見ていたけど、これでもう4作目じゃないか!まあ、ステイサムが出てればいいんですけどね。

夏休み

『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』は本当に酷かったので、お詫びとして次のジェームズ・ボンドはジェイソン・ステイサムにしてください!