3月12日 ミラノの未来派

朝、起きたら6時過ぎててびっくりする。だってミラノ行きの飛行機は8時半なんだもの。イーストウッドのおかげで飲み過ぎたのだ。
取る物も取り敢えず、散らかしている物はスーツケースに放り込んで出発する。格安航空会社easyJetが40分前までチェックインできたおかげでなんとか間に合う。
飛行機から町を眺めていたら、未来派が「イタリアは田舎だ」と行ったのがよくわかる。アルプスを超えるだけで、そこはヨーロッパでありながら地中海世界に変貌する。ミラノに着いたのは10時過ぎ。イタリアは、暑い。スペイン並だ。とりあえずマルペンサ空港から中央駅へ移動し、コインロッカーを探すが、無い。駅中が工事しているのが原因か。じゃあ観光地まで行けばあるかと思い、ドゥオーモまで行くが、ない。しょうがないからインフォメーションで聞いてみると、「中央駅にしかない」と言う。いやいや見つからなかったぞと思い、もう諦めて一旦宿に行くことにする(この時点でドゥオーモの外観とギャラリアは見た。
Bovisaという駅で降り、宿へ行ってチェックイン。カードがはじかれたらしく予約がキャンセルされていて、特別価格では泊まれないらしいが、もう動き回りたくないので通常価格でここにする。
とりあえず昼飯を、と思い目の前のケバブ屋に飛び込む。「ボン・ジョルノ」とか言ってみる。でも向こうは何言ってるのかわからないので「ドネル・ケバブ」と言う。「持ち帰り」とか「水」とかをフランス語のイタリア風読みで言ってみると、なんとなく通じる。トルコ人はいいやつだ。近いこともあり、ここから4食連続で僕はケバブを食べた。「ケバブ屋のトルコ人は2回目で友達になれる」理論を見出す。やつらには差別的な視線が全くない。すばらしい〜。
ケバブを満喫した後、ドゥオーモに戻ってドゥオーモの内部を見学する。その後、徒歩で上に登って屋根へ。
ふと見ると、ドゥオーモすぐ側の王宮で「未来派」展をやっている。他にも2つ展示をやっていて、「侍」と「マグリット」だ。今日は他に行けるところも無いし、これは行かなければと思い、未来派展に入る。
未来派展は、未来派のひとつの拠点であったミラノであることを強調し(ローマに行ってわかったが、そちらでも同時に未来派展をやっていた)、所謂自由詩よりもボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、バッラの未来派以前の絵画的修養(色彩分離(点描)やセザンヌ的絵画)を多く紹介し、それが未来派的な運動表現(といっても各々の指向は分節されるが)にどう変わっていったかという経緯に重点を置いている。また、もちろんデペロの機械人間美学の作品も多い。その点数たるや日本で待っていても永遠に来ないだろう数だから、非常に刺激的である。が、同時に、20年代以降の未来派がいかにつまらなくなっていったかを目の当たりにもできる。あと、現代の未来派みたいなのも展示していたが、いただけなかった。何はともあれ、ミラノで未来派展を見れたということに幸運を感じたい。

それにしてもやつらは本当に「アリーヴェデルチ」って言う。真似して言ってみる。

3月11日 ミナールとグラン・トリノ

この日はEcole des Ponts ParisTech図書館でミナールの調査をする。また、寺さん夫妻と過ごす最後の日であった。
朝、図書館に行くためパリのリヨン駅からRERに乗ってマルヌ・ラ・ヴァレ駅に行く。ところが、駅が違ったのである….。
大学住所を見て「マルヌ・ラ・ヴァレ」と書いてあったので疑いなくそこに行ったのだが、そこはただディズニーランドがある町であった。慌ててMacを広げてアクセスマップを確認すると、住所はマルヌ・ラ・ヴァレではあるが最寄り駅は20分前に通り過ぎたノワシー・シャンという駅だったのだ。で、慌てて戻ると確かに「シテ・デカルト」と呼ばれる大学都市だった。
大学図書館に行き、担当の方に取り次いでもらい、資料を見せてもらう。隣のおじさんもなんとミナールを見ていたが、この辺の話はカメレオンの時にでも話す。

4時頃終わり、パリに戻ってとりあえずパヴィヨン・ドゥ・ラルセナルに行く。

パヴィヨン・ドゥ・ラルセナル。最近増えている都市ミュージアムである。

ありがちな都市模型。正直、北京の方が凄みがあった。

「アルセナル」の名前の通り元は兵器庫だったらしいが、内装は潜水艦のよう。フランスの現代デザインは好きではないが、ここも例に漏れない。ただ、歴史の勉強にはなるんだろうけど。
二階は最近パリを走るトラムの展示。フランス語わからないとダメなパネルばっかりで全然わからない。一階でカメラの電池が切れたので写真は無い。
三階はイスラム文化研究所のコンペの展示。「いわゆる」建築プレゼンテーション。
都市ミュージアムはもちろん存在するべきだが、展示があまり良くなかった。
その後、カルティエ財団に行こうと思っていたがどうでもよくなって国立図書館BNFに黄昏に行く。

閲覧室までは行かなかったが、この建築は悪くない印象。あんまりありがたがろうとは思わないけど。ここに行く途中に通った橋の周辺も大々的に再開発やってたけど、ただ奇をてらっただけの建物が羅列する。明らかに下らない方向に進んでいる。

図書館の後は宿に戻って寺さん夫妻と合流し、近所で見つけたというラーメン屋に行って、パクチーたっぷりのラーメンに興奮し、シメに「グラン・トリノ」を見る。これについてはもう書いたので省く。
最後の夜はワインで酔っぱらいながら3時ぐらいまで映画の話をしてた気がする。とても良い夜でした。

素晴らしきチャイニーズ・グローバリズム!世界中に進出しつつ、リージョナリズムに根付いた味を出す。そして安い。

3月10日 唯「影」的な修道院 Couvent de La Tourette

この日は朝からコルビュジエのラ・トゥーレット修道院を見に行く予定である。
その朝からいきなりハプニングがあったが、とりあえず着けたので今となってはどうでもよいことだ。全てはフランス国鉄が悪い。つくづくJRはがんばっていると思う。
朝10時過ぎ、最寄り駅のラルブレール駅に到着する。しかし今回、地図も何も持ってきていない我々は、とりあえず進行方向を決めなくてはならない。フランス国鉄は最低でも、フランスの田舎の人達は本当に優しい。ツーリスト・インフォメーションの場所を教えてもらい、町の中心にいくと、ラ・トゥーレットは今来た道を戻ってひと町越えた2km先にある言う。この2kmというのが曲者で、山道をおそらく直線距離で2kmである。「ラ・トゥーレット修道院」と書いた矢印のある聖像で曲がったが、そこがまだ中間地点で、実際45分ぐらいは歩いたんじゃないかと思う。
ようやく着いて、レセプションで入り口のキーを貰う。修道院には今の時期、誰もいないという。

研究室ではない。

写真にいちいちコメントを入れようと思っていたが、こうしてアップロードしてみると言葉はほとんど必要なく、宗教性の無い、唯光的(あるいは唯影的)な修道院である。モデュロール、コルビュジアン・カーブ、数列、カラー・コンポジション、ブルータリズム、闇と採光といったあらゆるコルビュジエ的建築言語をコラージュしたかのような建築。外観はほとんど宗教建築に見えず、ひたすらファンクショナルであり、伝統的審美眼によるファサード配慮はほとんどされていないように思える。修道僧の住居部分はほとんどユニテ・ダビタシオン、あるいはシテ・ユニヴェルシテールのようなユニットである。それに対し、宗教建築にとって重要な螺旋階段部分は絵画的・彫刻的なカーブを用い、野蛮である。最重要部のクリプトはロンシャンで使った彩色採光窓(「光の大砲」)を使いながら、より瞑想的、しかしファンクショナルである(ドアはほとんど潜水艦のそれである)。
それぞれが矛盾しあっているようで、調和とギリギリの間を保っている。コルビュジエの求めた個人的生活と共同生活の調和がそれだったのだろうか。微妙に判断しかねるものを残した建物だった。
ラ・トゥーレットを見た後は、リヨンに戻り荷物を取って、その日のうちにTGVでパリ入りする。
しかしこのカメラは「曇り」のホワイトバランスが悪い。

3月9日 リヨンへ

ベンヤミン巡礼から一夜明け、今日は電車で国境を越えてリヨンまで移動する。
下調べした通り、非常に乗り換えが複雑で、予定通り行くか不安である。
朝、駅に行くと、調べておいた時間の電車がない!ところが3分後に予定に無い電車があることがわかり、ホームに急ぐ。
といっても、ひと駅先のフランス側国境駅セルベールに移動するだけだ。次の電車はほぼ二時間先。切符を買おうと思うが窓口も自販機も閉まっている。システムの入れ替えらしい。何も月曜の朝からやることはあるまい、とフランス国鉄の手際の悪さにいきなり立腹する。だいたい、あの不穏な発車ジングルが嫌いなのだ。
暇なので町を散策する。一山越えるとここは完全にビーチで、熱海さながら海沿いにはホテルや土産物屋が立ち並ぶ。プイと入った土産物屋で絵はがきと陶器のにんにくおろし皿を買い、散策して駅に戻る。
セルベール→ナルボンヌ→モンペリエと乗り継ぎ、リヨンまでTGVに乗る。ナルボンヌ付近で見た湿地帯は絶景だった。リヨンではペラーシュ駅近くのホテルに泊まる。
夜まで旧市街を散策。今日は月曜日なので教会に入ったり、店に入ったりして過ごす。リヨンには昔の因縁があるがここでは割愛する。今回も月曜の夕方から見始めたためあまり見れないので、つくづく縁のない町あと思う。夜はブションでご飯。ホテルのテレビではメル・ギブソンの新作らしきものがやっていた。しつこいアクションをやるなあ、と思いながら沈睡。

セルベール

ここも崖の町。

モンペリエでの乗り換え。

リヨン到着。

ミニチュア博物館。

サン=テグジュペリ記念碑。

日本の漫画も売っている。

3月8日後半 匿名の記憶

ベンヤミンのオマージュ
ここからの文章は、後から書いた物で、訪問当時知り得ていた情報とは異なり、再構成されたものである。
まずは、事実関係を整理する。柴田育子氏「ポル・ボウ紀行」に依る。
ベンヤミンはナチスが政権奪取した1933年にベルリンからパリに亡命し、第二次大戦勃発後、そこで二度「敵国人」として強制収容所に入れられたが釈放され、執筆活動に励んでいた。しかし1940年6月14日にパリが陥落し、フランスが降伏。これによってフランスに亡命中のドイツ人(ユダヤ系含む)はドイツの強制収容所に入れられる危険が迫り、さらなる亡命をしなければならなくなった。彼らの多くにとってその目的地は合衆国であり、ベンヤミン自身の場合、アドルノらが所属していた研究所(組織自体が亡命済)が引受先となるはずであった。
亡命ルートはマルセイユからの船経由が有力であったが、占領地域を隠れて南仏に至ること自体が既に困難となっており、さらに合衆国入国ビザ、フランス出国ビザ、通過ビザを揃えなければならず、それに加えて便の少ないマルセイユ=合衆国の船便チケットを手に入れる必要があった。
この状況を回避する非合法ルートは、フランス=スペイン国境に連なるピレネー山脈を越え、スペイン側の国境町であるポルボウに入り、そこから列車でマドリッド→リスボンに抜けるルートだった。フランスの出国ビザを得るより第二次大戦に直接参加していなかったスペイン、ポルトガルの出国ビザを得る方が容易だったことは想像できる。
ベンヤミンは既に、妹づてに合衆国入国ビザ、スペイン通過ビザを得ていた。しかしフランス出国ビザを持っていなかったため、フランス側の国境町セルベールから非合法に徒歩でピレネーを越え、ポルボウに入るルートを取ることにした。
「ベンヤミンの黒い鞄」の著者であるローザ・フィトコがバニュール・シュル・メールの村長に聞いたこの「密輸者の通るルート」で初めて道案内を行った時に同行したのがベンヤミンであった。フィトコの夫ハンスがベンヤミンと同じ収容所に入っていたためだという。ピレネー越えの前日、フィトコと同行者一行は、彼女がまだ道を熟知していなかったため、中腹の「空き地」まで下見を兼ねて行く。その時にベンヤミンが持っていた黒くて重い「命よりも大切な鞄」が有名な「黒い鞄」である。心臓の不調を考えた彼は、自分だけそこで一夜を明かすことを告げる。
そして翌日、再び再会した一行はピレネーを越える。ベンヤミンは自分で決めた「10分歩いて1分休む」というペースを守り、10時間を要し、ようやく越えた。スペイン入国ビザを持っていなかったフィトコは一行と別れ、元来た道を引き返す。
一行はポルボウの警察署に行ったが、なんと数時間前に出た調礼により、無国籍者のスペイン通過が禁止になったことが告げられ、町の宿に監置される。そしてその夜、ベンヤミンは大量のモルヒネを打ち、自殺する。
その後、ベンヤミンの死に感銘を受けた警察署長が、残りの一行に通過を許可する。
以上が事実関係の整理である。

彼方に見えるのがピレネーの亡命ルート。

「赤い山」にはサボテンが自生する。

造作もなく見つかったベンヤミンへのオマージュ。

「白い共同墓地」

このキューブは何を意味しているのだろうか。

ベンヤミンの墓。おそらく今はそこに埋まっていない。

その後我々は町に入り、ベンヤミン・ルートを追ってみることに。

不意に入ってみた市政センターの廊下には当時の写真が展示されていた。

自殺を図った宿の跡。

我々は、市政センターでの写真を見た後、言い合わせることも無く口をつぐんだ。カラヴァンによるオマージュのガラス板にあるように、「名もなきものたちの記憶に敬意を払うことは、有名なものたちにそうすることよりも難しい。名もなきものたちの記憶に、歴史の構築は捧げられる。」と書いたベンヤミンの死が、国境を越えた幾多の名もなきものたちに溶け込むようにあったことは、出来過ぎとも言えるほどの事実である。著作が人生と化してしまっている。その後町を歩いた私たちは、オフシーズンでほとんど誰もいない町並みに、どうしても匿名のネガティヴな記憶がコノテートされているように見えてしまい、喪の気持ちに襲われざるを得なかった。「国境の町」。ただ単に、政治的なボーダーラインが引かれている。ただ単に、そこに地形的な境界がある。ただそれだけのことが、この町を他とは違う特殊な場所と化してしまう。その事実にただ唖然とするしかなかった。

3月8日前半 国境の町へ

朝8時頃起きて、今日は11時まで一人でバルセロナを見て回ることにしていたので、ホテルビュッフェの朝食を一人で先に頂く。奥さんが取ってくれていたホテルで、朝食の評判がいいらしいが、すごく美味かった。後で食べたイタリアのホテルの朝食なんかに比べると、唯一まともな朝食だった。

朝食後、一人でガウディのサグラダ・ファミリアを見に行く。駅を降りると「マジ?」という感じ。この「マジでこれ今ここに建ってるの?」という感覚は、これと古代ローマぐらいだった。ガウディは頭で理解していてわかったつもりになっていたが、実物が理論を凌駕しているとても良い例だと思う。アール・ヌーヴォーやモダニズム以前に自然形態が構造的合理性を持っていることを理解し、それに加えて決定的に美しいということ。前夜の話でヴィクトル・オルタとの比較をしていたが、オルタの超ブルジョワ指向の優美さと対照的に、form follows functionを地で行くガウディ。しかしやはり教会の作り方は踏襲していて、完成すると言われている2256年にはこんなものある部分は時代遅れの長物になってしまう辺りが皮肉と言うか滑稽と言うか。ファサードごとに彫刻のテイストが全然違うし、もはやこれはガウディのテキスト的解釈の痕跡として肯定していくしかないのだろうな。その後ミースのパヴィリオンを見に行くつもりだったが、どうでもよくなってエレベーターに登ったりしてじっくり鑑賞した。

ホテルで寺さん夫妻と合流し、ポルボウ(Portbou)行きの列車に乗る。そこは海岸のあるスペイン=フランスの国境の町で、現在は夏のリゾート地として知られているという。ネット予約可能のホテルが無かった為、オフシーズンのこの時期にその辺境の町でやっているホテルがあるかと不安を感じながら列車に揺られる。風景は徐々に乾燥していき、サボテンが自生し、構造とスラブだけが建てられたビル、そして彼方には山脈が見え始める。あれがピレネーだろうか。山の反対には海が見え始め、目に見えて風景は辺境化していく。と同時に我々は徐々に不安と巡礼の気持ちに包まれていくのだった。

数十分遅れで列車はポルボウに到着。時計は13時過ぎほどだったか。駅は広いが人影はまばら。駅は山際に建てられているため、駅前の道は階段と坂で構成される。荷物の多い我々はなんとかそこを降り、ほとんど閉店しているレストラン街・ホテル街を歩き回り、海岸の側にようやく一見のホテルを見つける。その後町を歩いたが開いているホテルは見つからなかったため、そこで即断した我々は正しかった。とりあえず部屋を取って荷物を置き、遅めの昼食をとることに。ホワイトアスパラガス、ムール貝、ワインとパエリヤなどを食べながら、「ここは久しぶりにまともなレストランだ」と言う寺さん達と、ベンヤミン詣での前にこんな良い思いをしていいのかと笑う。サイゼリヤ以外で初めてまともに食べたムール貝は確かに美味く、磯の香りが鼻に抜ける。

この後時計が15時を回った頃、ベンヤミンへの巡礼となる。

ホテル前よりSants駅を眺める

生誕のファサード上部の樹

受難のファサード

ガウディのアトリエ屋根

ガウディの見ることのできた唯一の尖塔

PORTBOU駅

どうせ後でケバブの写真ばかりになるだろうから今のうちにうまかったものは載せておく。

3月7日 11ヶ月ぶりの再会

朝、6時ぐらいの電車で出発。新宿でDVDを返し、京成線で成田入り。出発ロビーの階で靴下やらタオルやら寺さんへのお土産やらを買い込んでチェックイン。最後の日本食は杵屋の讃岐うどんにした。
初めてKLMに乗ったのだが、予想通りブランディングがものすごく徹底していて、機内食のパッケージからスプーン・フォーク類、ブランケットに至るまで全てロゴ入り。飯はオークラのケータリングとかを使ってるらしく、結構うまい。そのかわり、この便は個別テレビがなくて、心なしかBAより狭い。エコノミーって人として扱われてない気がする。この狭さはいくらなんでも詰め込み過ぎ。日本人の中では大きめの僕もヨーロッパではアベレージだろうと思うんだが、足がほとんど動かせない。いつもエールフランスを使っているらしい隣のおばさんは「テレビもなしにこの空間で10時間も過ごすなんて、ワタシ死んじゃうわ!」とわめいていたが、わからなくもない。エールフランスはさぞかしよいのだね。
共用テレビではウディ・アレンの新作と「トウキョウソナタ」がやっていたが、ヘッドセットが配られなかったのでまあいいやと思い、ケヴィン・リンチを読む。寝起きしているうちにアムステルダムに着く。トランジット中に両替所を覗くが、1ユーロ147円とかもの凄く悪レートで円が買われていた。売りなんか107円だったし。成田で127円で替えといてよかった。
現地時間で同日20時頃バルセロナに到着。列車のホームでいきなりデジカメが故障するも(レンズカバーが開きっぱなしでエラーが出る)、電池を外したり荒技を使ってなんとか直す。ヒヤッとした。
寺さんとホテルで合流する予定だったので、滞在先ホテル最寄りのSants駅へ移動するも、駅に設置されているだろうと高を括っていた周辺地図が全く見当たらない。家のプリンタがインク切れでbooking.comの地図をプリントアウトできなかったため、携帯に画面メモしといた地図を取り出してみるが、やっぱりわからない。なんとなく見つかるかと思ってウロウロするが見つからず、辺りは暗いし(後から知ったがスペインのディナー・タイムは凄く遅いらしい)、酔っぱらったパンク風の兄ちゃんに「アミーゴ!」とか話しかけられるし、俺はお前の友達じゃないよと思いながら不安に包まれたのだが、出口と方向が合ってることは理解して、ホテルらしきものが見えない方向を信じて歩き出すと、看板の電気が付いてないホテルが、目指す場所であった。結局、駅から5分だった。
ロビーで「Professor Terayamaに会うことになってるんだが」と言うと、「同僚か?」と言われ、面倒なので「Yes」。あらかじめ教えられていた部屋番号と同じ部屋にいると言われたのでそこをノックすると、中から声がして、ドアが開くと寺さん夫妻がいた。何か変わってるかなと思ったら、意外と普通だった(笑)。夜はワインやらウイスキーやらを飲みながらチーズを食べ、現実に戻すから悪いなと思いつつも頼まれていた伝言事を伝え、明日のプランを建てて寝ることに。僕は外国で日本人に会うことは少ないが、先生達とバルセロナで会っていても、その感触は不思議と「普通」なのだった。もうちょっと異化されるかなとは思ったけど(笑)。