3月8日後半 匿名の記憶

ベンヤミンのオマージュ
ここからの文章は、後から書いた物で、訪問当時知り得ていた情報とは異なり、再構成されたものである。
まずは、事実関係を整理する。柴田育子氏「ポル・ボウ紀行」に依る。
ベンヤミンはナチスが政権奪取した1933年にベルリンからパリに亡命し、第二次大戦勃発後、そこで二度「敵国人」として強制収容所に入れられたが釈放され、執筆活動に励んでいた。しかし1940年6月14日にパリが陥落し、フランスが降伏。これによってフランスに亡命中のドイツ人(ユダヤ系含む)はドイツの強制収容所に入れられる危険が迫り、さらなる亡命をしなければならなくなった。彼らの多くにとってその目的地は合衆国であり、ベンヤミン自身の場合、アドルノらが所属していた研究所(組織自体が亡命済)が引受先となるはずであった。
亡命ルートはマルセイユからの船経由が有力であったが、占領地域を隠れて南仏に至ること自体が既に困難となっており、さらに合衆国入国ビザ、フランス出国ビザ、通過ビザを揃えなければならず、それに加えて便の少ないマルセイユ=合衆国の船便チケットを手に入れる必要があった。
この状況を回避する非合法ルートは、フランス=スペイン国境に連なるピレネー山脈を越え、スペイン側の国境町であるポルボウに入り、そこから列車でマドリッド→リスボンに抜けるルートだった。フランスの出国ビザを得るより第二次大戦に直接参加していなかったスペイン、ポルトガルの出国ビザを得る方が容易だったことは想像できる。
ベンヤミンは既に、妹づてに合衆国入国ビザ、スペイン通過ビザを得ていた。しかしフランス出国ビザを持っていなかったため、フランス側の国境町セルベールから非合法に徒歩でピレネーを越え、ポルボウに入るルートを取ることにした。
「ベンヤミンの黒い鞄」の著者であるローザ・フィトコがバニュール・シュル・メールの村長に聞いたこの「密輸者の通るルート」で初めて道案内を行った時に同行したのがベンヤミンであった。フィトコの夫ハンスがベンヤミンと同じ収容所に入っていたためだという。ピレネー越えの前日、フィトコと同行者一行は、彼女がまだ道を熟知していなかったため、中腹の「空き地」まで下見を兼ねて行く。その時にベンヤミンが持っていた黒くて重い「命よりも大切な鞄」が有名な「黒い鞄」である。心臓の不調を考えた彼は、自分だけそこで一夜を明かすことを告げる。
そして翌日、再び再会した一行はピレネーを越える。ベンヤミンは自分で決めた「10分歩いて1分休む」というペースを守り、10時間を要し、ようやく越えた。スペイン入国ビザを持っていなかったフィトコは一行と別れ、元来た道を引き返す。
一行はポルボウの警察署に行ったが、なんと数時間前に出た調礼により、無国籍者のスペイン通過が禁止になったことが告げられ、町の宿に監置される。そしてその夜、ベンヤミンは大量のモルヒネを打ち、自殺する。
その後、ベンヤミンの死に感銘を受けた警察署長が、残りの一行に通過を許可する。
以上が事実関係の整理である。

彼方に見えるのがピレネーの亡命ルート。

「赤い山」にはサボテンが自生する。

造作もなく見つかったベンヤミンへのオマージュ。

「白い共同墓地」

このキューブは何を意味しているのだろうか。

ベンヤミンの墓。おそらく今はそこに埋まっていない。

その後我々は町に入り、ベンヤミン・ルートを追ってみることに。

不意に入ってみた市政センターの廊下には当時の写真が展示されていた。

自殺を図った宿の跡。

我々は、市政センターでの写真を見た後、言い合わせることも無く口をつぐんだ。カラヴァンによるオマージュのガラス板にあるように、「名もなきものたちの記憶に敬意を払うことは、有名なものたちにそうすることよりも難しい。名もなきものたちの記憶に、歴史の構築は捧げられる。」と書いたベンヤミンの死が、国境を越えた幾多の名もなきものたちに溶け込むようにあったことは、出来過ぎとも言えるほどの事実である。著作が人生と化してしまっている。その後町を歩いた私たちは、オフシーズンでほとんど誰もいない町並みに、どうしても匿名のネガティヴな記憶がコノテートされているように見えてしまい、喪の気持ちに襲われざるを得なかった。「国境の町」。ただ単に、政治的なボーダーラインが引かれている。ただ単に、そこに地形的な境界がある。ただそれだけのことが、この町を他とは違う特殊な場所と化してしまう。その事実にただ唖然とするしかなかった。