自身が同性愛者であるということを家族に告白し、母親の拒絶にあったという実際の出来事からまもなく、それを家族本人の出演によってキャメラの前で再演するばかりか、さらにはその映画を撮影している様を撮影し、虚構と現実が幾重にも構造化された映画へと仕立て上げるという、心理的にも映画的にも途方も無いことをやってしまった初監督作『ノイズが言うには』から7年。そのラストショットである娘からの手紙に涙する母親の横顔を捉えた映像を、ルーペを通したような輪郭のぼけた丸いイメージによって見つめ直すことから始まる小田香『あの優しさへ』は、自己の映画的行為が、「今自分の撮るべきものはこれしかない」という切実な思いから生まれたものであったと同時に、自分を拒絶した母親に対するキャメラを通した復讐でもあったのではないかと苦悩し、キャメラを被写体に向けることが被写体に対する暴力や搾取につながること、そして映画における「距離」とは何かと自問し続ける監督自身の手記であり、また母に向けての手紙である。監督の思いは、初監督作を観た者なら聞きなじみのある監督自身の「声」として、過去作のイメージや使われなかったフッテージに重ねられていくが、やがてその悩みは、タル・ベーラの映画学校に通うためにやってきたボスニアの地で「撮るべきもの」を完全に見失ったこと、そこで自らをせき立てるようにして撮ったボスニアの農村の葬儀と祭、さらにロマへの密着インタビューなど、自らが撮ってきた映像を回顧しながら、「映画とは何か」という問いへと突き進んでいく。
観客にとって無縁であるはずの監督の個人的心理の吐露が、なぜ人をここまで惹きつけるのだろうか。そんなことが許されるのは、ジョナス・メカスのような、限られた人物だけだったはずである。何を捉えているのかもわからないおぼろげな映像が、アートぶった映画のような嫌味さを微塵も感じさせず、ここまで人を武装解除させるのはなぜか。素朴で、迷いながらも、潔く、聡明な映像。「説得力」と呼ぶのも憚られるような、声と音の、不可解な浸透力。それに、勇気ある行動。『鉱 ARAGANE』や『Underground』も素晴らしいが、『Flash』や『あの優しさへ』のような映像エセーに、監督の得体の知れない大物さを見出すのは私だけではあるまい。
月別アーカイブ: 2025年3月
『セノーテ』
ゴポゴポという水の音と、遠くで子供たちがはしゃいでいるような声が、空間の中で反響し、また分厚い水の層を伝わってくることによって、くぐもって聴こえてくる。スクリーンには、上を見ているのか下を見ているのかもわからないような水中の映像が映し出され、水中にわずかに差し込む太陽光が、文字通り「光線」として照らし出す先に、魚や人の影がおぼろげに見えては消えていく。これは一体どういう状況なのかと思考を巡らせているうちに、不意にキャメラは水面に浮上する。その瞬間、激しい光彩が目を刺し、上空から落ちてくる無数の水滴の衝突音が、劇場の空気を震わせる。
キャメラは、深淵部がどうなっているとも知れぬ異国の泉=セノーテへと次々に潜っていく。恐る恐る、しかし勇敢にも奥へと泳ぎ進めながら、アロワナを思わせるような熱帯の魚や、水底に沈む獣骨など、静寂極まりない水中の様子を伝えていく。色彩豊かなセノーテもあれば、ほとんどモノクロームに近いものもある。そこに、恐竜を滅ぼしたとされる隕石以来のセノーテの言い伝えが、語りとして重ねられる。曰く、ある日泡が吹き出して人々を飲み込んだとか、若い生贄が捧げられたとか、映像を見ている者を震え上がらせるような内容が続く。やがてそこに少女の言葉でマヤの詩が重ねられ、現地人の顔のクローズアップや、祭りの様子が挿入される。「完璧」を目指すわけでもないし、何かを語り尽くしているわけでもない。それでありながら、「傑作」と思わず呟いてしまう。その面白さは、未知の場所を探究する好奇心と無縁のものではないだろうが、それ以上に、イメージとサウンドを組み合わせることによって生まれる映画の本質的な力が、しかも物質的な形でここに宿っているからであろう。だからといって何かが説明できるとは思わないが、映画館という空間で、鼓膜ではなく身体を振動させながら、スクリーンの光に身を委ねるということでしか生まれないような体験がここにはあることは間違いない。インタビューを読んで驚いたが、水中のシーンの多くはiPhoneで撮られたらしい。小田香『セノーテ』。新しい時代の到来としか言いようのない映画であった。
『Flash』
列車の窓らしきガラス面に、車内の人影が反射する。どうやらそこはコンパートメント席らしく、うつろう人のシルエットからは、車掌か国境警備隊が乗客2人のパスポートをチェックしている様子をかろうじて読み取ることができる。パスポートを返してもらった乗客たちは、各々の旅券を見比べながらその取り扱いの違いについて談笑し始める。身を起こす片割れに、キャメラに映り込むからそれ以上乗り出さないでくれと、監督らしき人物が注意を促す。「私より絵が大事なのね。」そう冗談を言うパートナーを尻目に、列車は発進する。
列車の窓は薄汚れていて、キャメラはまずそれを捉えているが、白い斑模様の向こうには、紅葉した渓谷の風景が映し出されていく。しかし、列車を取り巻く光学的状況の移り変わりとともに、反対側の窓のシルエットや、さらにその向こうに映る車外の風景、そして三脚に据えられた一眼らしきキャメラそのもののシルエットさえもが、画面上に現れては消えていく。簡潔に窓に垂直に向けられているのであろうキャメラの視線の先に、五重・六重ものイメージが層となって重ね合わされる。しかも、窓=鏡、キャメラ、それに乗客との位置関係を正確に判別し難いような、ある種のトロンプルイユ的な映像が展開される。その巧妙な入れ子構造に見惚れていると、「どうすればあなたに届くのか」といった監督自身の手紙のような私的文章が、スクリーンの上下に字幕として映し出されていく。「あなた」が誰を指しているのか、あるいはそれが人であるのかすらわからないが、誰かに到達できない思いを吐露しながら、物心がついて以来最初の記憶がなんであるかを自問するような言葉が続いていく。映画の作法を破るようなその手法にこちらの映画認識が揺さぶられるが、静観しているとさらには音声通話やビデオレターの音声のような、親しい人物の安否を気遣ったり自らの消息を伝えるような第三者の言葉が、サウンドとしてイメージに重ね合わされる。その言葉が、生まれ故郷とは遠く離れた土地を旅する監督と無縁ではないであろうことはすぐに察せられるが、そうとは確信され得ないような言葉も混じっている。列車というのはともすると、人生の比喩かもしれない。あるいは——ホセ・ルイス・ゲリンの『影の列車』のように——移り変わる光景が1秒24コマのフィルムの枠へと次々に記録されていく「映画」というメディアそのものが、三重に重ねられているのかもしれない。イメージとサウンドが相乗効果を上げることはトーキー以来当たり前であったのにもかかわらず、異常に新鮮な効果を上げているという信じがたい事態に驚きながら思考をめぐらせていると、列車は川を越え、トンネルをくぐり、いずこかの駅へと到達する。そこに停車しているタンク車に書かれた文字から、その列車がバルカン半島を走っているものであろうことがようやく理解される。
一つの駅から出発した列車が、別の駅へと到着する。この車窓だけを捉えた映像に、サウンドを重ねるだけで一片の映画が誕生する。そしてそれが見るものの映画体験と、人類にとっての「イメージ」がなんであるかを揺るがせる。小田香監督『Flash』。驚きに満ちた25分間であった。