2月4日(火)
友人たちがスイスへと帰国した翌日、ようやく寮に入居する。5年前に1年滞在したところだ。顔見知りの受付係が通してくれた部屋は、入り口を入って階段を登り、建物同士をつなぐスイングドアを押し開けてからまた階段を降りなければたどり着けない。大型旅客船のように広いこの寮の端の端ではないだろうかと思わされる。しかし去年滞在していた別の寮の、風呂・トイレ・キッチン共同で暖房も効かない部屋に比べたら天国のような快適さ。もっとサバイバルな生活を想定した備蓄を持ってきたが、だいぶん気持ちが緩む。
さて入居して初めてやることといえば日本の仕事。「パリにいるのに」と考えると精神衛生上良くないことはわかっているので、カーテンを閉めきって引きこもる。少なくとも日本で一人になれることはほとんどないのだから貴重な時間である。それにしても外を見なければ日本とさして変わらない錯覚に陥るから不思議だ。徹夜明けの無駄に美しい空はどこでも嫌なものだが。
2月中旬
とはいえ引きこもりすぎて鬱々としてきたので、昔よく行っていた歩いて20分の小屋に映画を観に行く。チャールズ・ロートン目当てでヒッチコック『巌窟の野獣』である。そこでふと私はモーリン・オハラを好きなのではないかと気づく。思えば彼女が出たジョン・フォードの映画は好きなものばかりである。『わが谷は緑なりき』、『静かなる男』、『リオ・グランデの砦』。いずれも特異な存在として輝きを放っている。
帰りがけにプログラムをもらうとJ・P・メルヴィル特集もやっている。メルヴィルはフランスの友人が日頃から薦めていたが、1本も見る機会がなかったのでこの際にと5本を見る。『モラン神父』『海の沈黙』『マンハッタンの二人の男』『サムライ』『いぬ』。フランス産フィルム・ノワールよりも初期の文芸もの、レジスタンスもののほうがストイックで凄みがある。アンリ・デュカエの撮るモノクロームの美しさは忘れがたい。特に『海の沈黙』のラストで、小さな窓をバックに、逆光で全く顔の見えない父娘が食事を取るショットは映画史に残る美しさである。それに、立ち居振る舞いだけで空気を一変させるベルモンドの素晴らしさ。もちろんそれに連動するキャメラの動きもあるだろうが、唯一無二の存在である。
2月20日(木)
ルーヴル美術館のレオナルド・ダ・ヴィンチ展が閉幕間際なので予約しようとするが、既に満員御礼。ストで休みになったことの補填か、残りの数日間を24時間営業にし、さらに夜間は連日無料というとんでもない方針を打ち出したらしい。しかしそれでも満員なのだ。私にはダ・ヴィンチ運がないのかと悔やむ。
2月21日(金)
北イタリアのいくつかの街で外出禁止・移動制限が発せられたとのこと。アジア人のマスクを笑っていたフランス人もようやく心配し始める。一応マスクを探すが当然のごとく売っていない。代わりに手指消毒ジェルを見つけたので買っておく。マスクは帰国便でつけるために日本から送ってもらうことに。
2月23日(日)
インテリア・デザイナーのM君とシャルロット・ペリアン展@ルイ・ヴィトン財団。最終日前日の日曜ということもあり、朝イチで行ったが行列している。ネットで予約をするべきだったようだ。しかし入ってみればなぜか無料。何かの日だったのだろうか。展示はペリアンの関わったインテリアデザインのいくつかを再現し、その余白をレジェ、コルビュジェ、ピカソ、カルダーなど、お友達の作品で埋める方式。やたらとピカピカなレプリカが多いし、お友達のものが多すぎるが、それでもこの規模でペリアン展ができるのは流石という他ないか。日本での『選択/伝統/創造』展の作品は初めて観たが、フランス人の頭で日本の素材と技術を解釈した軽妙洒脱なものだった。これが当時の人に与えたであろう衝撃は想像に難くない。M君は「学生が考えそうなアイデアですけどね」と言っていたけど、その思いつきをまさに着地させるのがうまい。私にとっての白眉は海岸で拾った流木や奇石から発想を得た家具やオブジェである。こんなの落ちてるんですか。ゲーリー設計の奇抜な建物の地階から上の階まで全て使い、屋外には低所得者向けの休暇小屋を復原するなど、いろんな意味でLV財団じゃないとできない展示であった。
夕方、ブザンソンから来た後輩のYさんと合流して3人で飲む。まだこの頃はコロナウイルスの心配は限定的で、「心配してるんですか?」と笑われたが、既に街の中に侵入しているという確信はあった。
2月26日(水)
Yさんに、私の1つ後輩でパリ生活の大先輩であるMさんを紹介するべく、3人で昼食。高級ジュエリーブランドで働いているMさんの職場はなんとヴァンドーム広場なので、なるべく穏便な店を探そうとしたら雨が降ってきたのでチェーンのパン屋カフェに落ち着いてしまった。Yさんはその後出発まで時間があるとのことだったので図書館を案内し、そこで別れて私は地下で調査に入る。
2月29日(土)
閉所で5,000人以上の集まりが禁止される。ポンピドゥーで働いている友人に聞いたら「うちは4,500人ぐらいだから開けるらしい」とのこと。国立図書館もさすがに5,000人はいないだろう。
またこの感染症対策会議に乗じ、首相は憲法49.3条という決議無しで法案を通過させることのできる条項を使い、年金改革法案を強制的に通過させた。あれだけずっとデモをやっていたのに、集まりづらい、抵抗しづらい状況を利用して、暴力的に法案を通す。ちょっと許しがたい。
3月1日(日)
コロナウイルス流行に対する従業員が「撤退権」を行使したことによってルーヴル美術館が臨時閉館。数日続くことに。労働者の権利を主張し続けてきたからできることである。
3月2日(月)
国立図書館アルスナル館で製本素材についての講演会に参加。シリーズもので、今回はテキスタイルについて。歴史的書物に使われている素材の分類、特定、修復についてなど。後ろの人の咳が気にかかった。
3月6日(金)
左岸でマノエル・ド・オリヴェイラ『フランシスカ』。ほとんど切り返しを使わない、俳優が目を合わせないどころかキャメラに向かってすら話す、同じセリフを2度繰り返す。「自然らしさ」など全くの幻想だと言わんばかりの、演じられた劇とそれを捉えるキャメラとの緊張関係。ほとんど動かない一つ一つのショットが忘れられないが、キャメラが動いた時、あるいは切り返さないはずのキャメラが切り返した時、「自然らしい」映画の何十倍もの動揺が観客の心に生まれる。『リバティ・バランスを撃った男』顔負けの、アパルトマンの室内に馬で入ってくるシーンも衝撃である。バイロンに自らを重ねる凋落期ポルトガルのヴァガボンドたちが愛だの恋だのを詩のような台詞で語るのに乗れたわけではないし(そもそも私には字幕が難解であった)、英国人の娘を演じた女優などあれでよかったのかは甚だ疑問だが、ポルトガルの民主化後、優れた長編を連発していくオリヴェイラの過激な前衛ぶりが迸っている。しかし既に70歳を超えているのだから驚くほかない。
3月7日(土)
このまま感染が進行すると美術館が全部閉まりそうなので、始まったばかりのマルモッタンのセザンヌ展に駆け込む。土曜だが朝イチで行けば大丈夫であろうと思ったら超満員。狭い空間にガイドつきのグループ4組が輪になって喋り続け、身動きできず。感染予防には全くよろしくない状況であった。空いているところから見たが、一周しても団体がまだ居座っていた。
よくタイトルを見ていなかったが「セザンヌと巨匠たち。イタリアの夢」と題してセザンヌの絵画とイタリア絵画やプッサンの絵なんかを交互に展示している。そりゃまあ影響は受けたし下敷きにしているであろうが、完全に手本にしているわけではないのだからそこまで押し付けがましく並べて展示する必然性もあるまい。作品はルーヴル、オルセー、南仏のいくつかの美術館、それに箱根のポーラなどから来ているので、セザンヌ作品をまとめて見るにはいい機会であるけれども。
3月8日(日)
1,000人以上の集まりが禁止に。再びポンピドゥー従業員の友人に聞くと、「ボルタンスキー展に1,000人、コレクションに1,000人と数えれば問題ない、と言って開けるらしい」とのこと。
3月9日(月)
再び製本素材についての講演会。今日は貴重な素材(貴金属、宝石等)について。フランスのルリュールがゴテゴテしてる理由が歴史的にわかった気がする。
3月12日(木)
ドイツより友人Aが来る。時間があったので北駅まで歩いて迎えに行ったが、周辺の荒れ具合に萎える。彼女は昼頃無事に到着した。同様に感染症が広がっているドイツでは今、肘を付き合わせて挨拶するんだと言って肘で挨拶。フランスでは冗談交じりに足をこついていたが、どこも考えることは同じである。しかし初っ端からメトロで若い女2人組のスリに彼女が囲まれる。乗る前から明らかに挙動不審で、私は気づいたので車両を2度変えようとしたが機敏についてきた。無理やり引き離すと「お前は頭おかしいのか」と因縁をつけてくる。無事だったが疲弊。パリ荒れすぎ。
3月13日(金)
Aとジャックマール・アンドレ美術館のターナー展初日に駆け込む。今回は水彩が中心。イギリスでろくに美術館に行ったことのない私は、まとまった作品を見るのは初めてであった。
夕方、Aが家に居候させてもらっているルーマニアのMと合流し、建築散歩。夜飲んでいたら、なんと翌日から国立図書館閉鎖の知らせ。100人以上の集会が禁止されたらしい。資料を予約していたが、それも見ることができなくなった。フランスでやることがなくなる。夜道はさながら『ベニスに死す』のようであった。
3月14日(土)
朝、近所の市立図書館に本を返しに行くが前日の政令を受けて閉鎖。返本ポストもないので本が返せなくなる。ペナルティはないらしいが、しょうがなく友人に託す。
夕方、Aが帰国。帰ってニュースを見ると今晩0時を境にバー、レストラン、映画館が閉鎖になるとのこと。美術館も当然閉鎖。さらには3日後から行くはずだったジュネーヴの図書館も閉鎖。急激に感染が進んでいるらしい。世話になっている司書からも私信が来ていて、「来るんじゃない!」という言葉に下線まで引いてあった。しょうがなく列車や宿泊施設を全てキャンセルする。もう全て諦めてジェイソン・ステイサムの映画を見始める。『ローグ・アサシン』。まさかステイサムが日本語を話すとは…(何言ってるかわからないけど)。
3月15日(日)
不要不急の外出は控えろとのことだが、食料品店はやっているということなので買い物に行く。しかしセーヌ川沿いはいつも以上の人だかり。日曜だし急に暖かくなったのでしょうがない。
このぐらいの状態なら予定の26日までいるつもりだったが、フランス人に「早期帰国を考えたほうがいいぞ」と言われたので、急ぐ風でもなくチケット変更について調べはじめる。しかし、電話が繋がらない。
3月16日(月)
朝方、航空会社にようやく電話がつながり、今週木曜の便に変更できた。安心して残り数日の生活のために人参など買いに行くと、スーパーの前に1mおきに列ができていたり、一部買い占めがおきていたりする。帰って撤収のためにゆるゆると掃除をしはじめ、日本人の友人に「大変なことになったね。木曜に帰ることにしたよ」とメッセージを打つと、「え、今晩から全土封鎖って聞いたけど」と言われる。ずっとニュースサイトは追っていたがそんなこと一言も書いていなかった。確かに今晩20時からマクロンが「より厳しい要請」を発表すると言っていたが、問題が始まって以来マクロンなんて蚊帳の外で、糞忙しい病院に出かけては迷惑かけてるだけだったし、多少厳しくなるぐらいのことだと思っていた。試みにSNSなどを見ると、軍部やら○○省やらから流出した「メールの写し」が飛び交っており、そこには今晩から封鎖だとか、明日から封鎖だとか書いてある。インテリアデザイナーの友人Mも「明日から48時間以内に居場所を決めないと移動禁止になるそうです。うちの会社も秘密情報が入って、フランス人は全員逃げ出しました」と言う。おまけに日本の父親からもメッセージが来るし、日本のニュースサイトにまで「関係者」の話として同じようなことが書いてある。その情報の真偽はさておき、街はパニック状態である。しかし流石に外国人は帰すだろう、と思いつつも、一応撤収準備を進める。こちらで買ったプリンターをいつも友人に預けていたが、どうも行きづらくなったので、同じ寮でうちの大学の部屋に住んでいる人に初めて連絡を取る。聞くと彼女も明日帰ることにして荷造り中らしい。「旦那さんが○○省で働いている日本人の人から聞いたんですが……。」と言われ、流石にそこまで言われると自分が情報弱者だったのかと思わざるをえない。しかしそれが本当だとして、そんな身内びいきをしていいのか?
そうこうしているうちに20時になったので大統領発表の中継を聞くと、小童が自分の言うことを誰も聞かないので憤慨しているような様子で説教をし始め—昨日まで選挙で投票所に行こうと外出を呼びかけていたくせに—、翌日正午からの移動禁止・外出自粛とシェンゲン国境封鎖が発表される。外国人の扱いについては何も言わないし空港閉鎖は発表されなかったが、続く発表でオルリー2は閉鎖、漸次的にCDG空港も閉鎖していくとのこと。道路のコントロールには機動隊が動員され、移動の理由を示す書類を持っていなければ通れない。事前の「噂」とは多かれ少なかれ異なるが、厳格な要請であることは確かである。
数時間のうちに自分の身の振り方を決断しなければならない。このままここに留まり続けるという選択肢もあるだろうが、納めなければならない仕事や4月からの授業もあるし、帰れなくなれば迷惑をかける上に収入の道も絶たれる。街は絶望とパニックの最中で(私の印象であるが、自由を奪われることに対する絶望と死への恐怖は日本人より強いと思う)この先どんな混沌が待ち受けているかわからない。自分の状況把握が甘かったことに対する後悔もあって気だけが焦り、冷静さを保つので精一杯である。私が「確かな」情報を追うよう努めていたことは間違いではないが、「不確かな」情報とそれに踊らされる社会の動きというのものに気を配っていなかったことは間違いであった。帰れるか帰れないかわからないこの状況にあと数日晒されるよりも、翌日封鎖前に空港に行き、帰国するという確実な手段を取るのが最良であろう。そう決断し、すぐに飛行機を翌日の便に変更する。日本に感染を広げるという懸念もあったが、パリの感染者はまだ多くなかったし、旅客船対応で大失態した挙句ろくな検査体制も敷かずオリンピックを強行しようとする日本の方が私には余程恐ろしい状況に見えたから、細心の注意を払って帰国することにリスクはそれほど伴わないだろうと判断した。
再び同じ大学の滞在者に会いにいくともう1人の滞在者も来ていて、2人ともここ数日で電車内での強盗を目撃したとのこと。治安が急激に悪化し、アジア人が狙われている様子。軍隊も周辺道路の警備に回されるから治安はより悪くなるであろう。
3月17日(火)
朝方に準備を終え、受付に鍵を返す。外で物憂げにタバコを吸っていた職員の人と「悲しいよな」と一言だけ言葉を交わす。待ち望んでいた春がこれから訪れ、陽光を全身で楽しむはずだったのに、それを突然奪われることの悲しみは日本人の想像以上だろう。そして既に大部分の滞在者が去り、上層部の人々がテレワークに移行したこの寮でも、誰かが現場で働き続けなければならない。「また会えますよ」と声をかけたかったが、どうしても言葉が出なかった。
タクシーは渋滞が起きているかと思いきや30分もせずにCDG空港に着く。空港のパニックも想定したが、半分以上がアジア人で至極平穏である。しかし徹夜なのでとにかく眠い。私の飛行機までは12時間ある。店もすべて閉まっていて行くところもないし、怪しい人物もうろうろしている。生憎こむずかしい本しか手元になく、睡眠導入剤にしかならない。なんとか眠気に耐えていると昼頃、昨日知り合った大学の友人と、同じ寮にいたというF大の人が合流する。同胞人の連帯感と安心感たるや並並ならぬもので、おかげで眠気を覚えずに5時間ほど過ごすことができた。彼女は年末からのストを体験してからのこのパニックで、「フランスが嫌になりそうです」と言っていた。
夕方彼女たちは搭乗口に向かう。安堵しきった様子。私はさらに2時間ほど待機し、19時頃ようやく手荷物を預けることができた。余計なところに触らないように注意し、頻繁にジェルで手を洗いながら3時間を過ごし、ついに搭乗。幸い飛行機は空いていて、1人おきに離れて座れる状況であった。機内ではほぼ爆睡。窓が南向きだったので眩しすぎて開けられない。唯一リドリー・スコットの映画を見る。火星に取り残されたマット・デイモンがじゃがいもを育てる話。微笑ましいことは確かだが、初めから助かることありきの思考実験にすぎない。よゐこのバラエティー番組を見ているような気分だった。無人島に漂流したFedExの職員が一緒に漂着したバレーボールを友達にする話の方が全然面白かったし、火星の方が全く快適そうだった。
3月18日(水)
羽田空港着。「検疫」とでかでかと書かれていたが、サーモグラフィーで見られるだけで、ミラノに行った人の自己申告を促している以外は何の問診も指示もなく通過。自宅待機の通達もなし。予想はしていたが呆気にとられる。
深夜に自宅着。ゴミ出ししている妻に家の前で遭遇。私は自主的に2週間自宅待機するので妻は実家に帰ることも考えたが、色々あって残ることに決めた。同じ空間で触るものを分けたり消毒したり、ややこしい生活の始まり。