文化村ル・シネマでマノエル・ド・オリヴェイラの特集上映が組まれている。オリヴェイラについてはDVDも絶版で高騰しているし、このまま忘れ去られていってしまうのではないかと危惧していたが、何年かに一度レトロスペクティブが組まれるのであれば、現代も捨てたもんではないなと思う。土曜の夕方の上映でトークショーつきという条件を抜きにしても、一般に有名な俳優も出ていない何十年も前のポルトガル映画で、200人規模の会場が8割埋まるほど人が集まるとは、正直驚きである。若い人たちの「過去」との出会い方は私の世代の感覚からすると奇妙であるが、良いものは良いものとして残り続けるということなのであろうか。ル・シネマではこの後ジャ・ジャンクーの新作が封切られ、さらに夏にはサタジット・レイのレトロスペクティヴが開催されると言い(『音楽サロン』!)、にわかに血が湧き上がるのを感じずにはいられない。私はきっと地方には住めないなと思う。
初見の『カニバイシュ』。宮殿の入口のようなところに次々と黒塗りの車が到着し、中からなにやら高貴な装束の人々が出てくる。自動車が登場するからさして古い時代の話ではあるまいと思って見ていると、沿道に押しかけた現代の洋服を着た人々が、柵の向こうから彼らに声援を送る。次々と到着するのは現代を生きる貴族なのか、あるいはコスチュームプレイとして貴族の衣装を纏った役者として扱われているのかは定かではない。声援とそれに応える俳優=貴族たちに見惚れていると、最初に到着した2人の男たちが、片割れがヴァイオリンを弾き、片割れが歌いながら、キャメラ目線で物語を説明しはじめる。狂言回しが登場するから、やはりいつもの——といってもフィルモグラフィーから言えばまだ序盤であるが——オリヴェイラ的な、「演じられた表象」として映画は展開していくのであろう。キャメラが壮麗な宮殿の中に入っていくと、狂言回し以外の人物たちも歌っているように見えるので、これはオペラをモチーフとした映画であることが理解される。腹式呼吸で歌い上げられる声と、役者の抑えられた口の動きとはマッチしないので明らかに口パクであるが、しかしながら完璧に同期しているから、先に歌を録音してそれに合わせて演技を行うという骨の折れる作業を行ったのであろう。私のミュージカル嫌いもあって歌=セリフの内容はほとんど頭に入ってこず、集中力が保つかどうかを危惧しはじめるが、オリヴェイラ特有の、わざと「わざとらしい」ショットが次々に繰り出され、辛うじて持ち堪える。しかし、結婚した妻に「私は人間ではない」と忠告するあたりから一気に映画が荒唐無稽な方に傾き始め、着ぐるみは出てくるわ、人は生き返るわで、前作『繻子の靴』で頂点に達した——というかやりすぎた——「演じること」と「演じられた表象」との自在な行き来が、さらなる次元へと到達している。終盤になるまでこの映画の本領は発揮されないが、そこまで観客がついてくることを信じきったオリヴェイラの信念の強さに脱帽する。
次に『絶望の日』。ポルトガルを代表する小説家カミーロ・カステロ・ブランコの最晩年の日々を描いたものだが、いきなり役者がキャメラの方を向いて「私が今回演じるのは…」と紹介をし始め、作家とその妻を演じている役者が、役を演じているシーンと、役者としてこちらに話しかけてくるシーンと、役を演じていたと思ったら急にかつらを脱いでこちらに話しかけてくるシーン、それに作家の小説の中のテキストを作家とその妻が話し始めるシーンが交互に展開する。時制も行ったり来たりするので一度見ただけでは全貌を理解できない複雑な作品。復元された作家の家の中で撮られているとのことで、これがなんともアウラが無くて微妙なのだが、馬車の車輪だけをひたすら映して移動を表したり、馬車から見える木々だけを映しオプティカルフローがゆっくりになっていくことで停止を示したり、英断というほかないショットが連続する。妻役の役者が最初「役者」としてこちらに話しかけてくるシーンでは、少し演技過剰な俗っぽいおばちゃんにしか見えないのだが(失礼)、「役」としてメイクを施した途端にこの役はこの人でしかありえないと思わされるような風貌へと変身するのが衝撃的であった。
作品を見るたびに本当に偉大な映画監督だという思いを新たにするのだが、なぜか彼はゴダールを称賛していて、いやいやあんたの方が何倍もすごいよ、と言いたくなるのであった。
月別アーカイブ: 2025年4月
春
切羽詰まり続けた春休み。やけくそで映画を観に行く。忙しいのに映画に行く意味はわからないと思うが、呼吸は必要なのだ。
佐藤そのみ監督の『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』の2本立て。日芸在籍中の自主制作として撮られた前者と、卒業制作として撮られた後者。普通は逆だろう、とツッコみたくなるような、前者の意気込みの強さと、後者の(いい意味での)肩の力の抜け方。
津波によって家族を失った監督自身や、地元の人々の経験に基づいて撮られた劇映画である『春をかさねて』は、撮影が完璧でないところや不要とも思えるシーンもあったが、大学生でこれだけ多くの人々、特に実際に被災した地元の人々と、県外の役者とを巻き込んで、これだけの映画を撮れてしまったということが俄かに信じがたい作品で、津波で廃墟化した小学校で撮られたラスト近くのシーンは、身じろぎもできなくなるような力を湛えていた。
一方、失われた家族に対するビデオレターとして撮られた『あなたの瞳に話せたら』は、監督自身と地元の友達2人の現在を映像によって映し出し、彼ら自身の「手紙」をナレーションとしてかぶせる構成で、前作で見た小学校がいかにして被災し、いかにして遺構として守られてきたか、そして、彼らが震災や家族のことを忘れないようにしながらも、どのように「今」を生きているかを語るという、鮮烈な作品であった。震災の外部ではなく、内部からこのような映画が出てきたことがとにかく強靭な力を持っているが(震災に「外部」があるのかという議論もあるだろうが)、「いつまでも被災者として甘えていてはいけない」と意を決したと監督自身が語っているように、「震災映画」を超えた普遍的な力を感じた作品であった。
別日には、タル・ベーラによる福島での映画教室の模様を撮影した小田香監督の『Fukushima with Béla Tarr』をシモキタエキマエシネマとやらに観に行く。福島に着いて早々、被災地を巡るバスツアーに「こんなツーリズムは要らない。実際の人々の生活が見られるところはどこだ」とクレームを言い、「まったく1日を無駄にした」と事前に組まれたプログラムを拒絶して「とにかく人に会って人生を学んでこい」と参加者たちを現実世界へと仕向けるタル・ベーラ。あらかじめ想定したような「悲しい被災の物語」ではなく、どんな状況でも生きていく人間たちの強さを撮りに行け。震える手でタバコをふかしながらそう語る彼の姿には、人間をどこまでも信じ切る強さが満ち溢れている。WS参加者の口から出るナルシシスティックなおべんちゃらに「いいか。君の言っていることは全く意味がわからない。私の知りたいのは何が画面に映るかだけだ」と映画言語にはあくまで厳しく、徹底して指導する姿。彼自身の映画がどうであるかはさておき、人間として、教育者としての彼の姿に圧倒される。パンフレットには、必要なのは「education」ではなく「liberation」なのだという言葉が記されていた。システムとしての大学が生み出すくだらない形式主義や立場主義を乗り越えて、人として学生を「解放」するにはどうしたらいいか。教育のあり方を突きつける言葉であった。
そうこうしているうちに4月になってしまったが、早々、ヴァル・キルマーが死んだ。思わず、彼の撮り溜めた個人的な映像から構成された『ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男』をU-Nextで観る。そこには、咽頭がんの手術後にのどのボタンを押さないと発話ができなくなった映画俳優の人生が、息子のナレーションとともに描かれていた。子供の頃から兄弟と映画ごっこをしていたこと、演劇学校で演劇を学び、若きケヴィン・スペイシー、ショーン・ペンらと共演した舞台の様子、『トップ・ガン』で一気にスターダムに駆け上り、『ドアーズ』『トゥームストーン』『バットマン・フォーエヴァー』で大役を演じ切ったのち、マーロン・ブランドとの共演作で監督と対立し、「扱いづらい俳優」としてレッテルを押されたこと、そして父親から相続した土地を売り払って臨んだマーク・トウェインのワンマン・ショーへの意気込みなどが、次々と語られていく。私にとって忘れられないのはマイケル・マンの『ヒート』で、センシティヴで忠義深いギャングの一員を演じ、ブロンドの長髪で銃火器を構える姿に、美しい俳優だなと思った印象がある。内容は覚えていないがハーモニー・コリンの『The Lotus Community Workshop』でほとんど三輪車みたいなミニベロで夜道を走っていたのを思い出す。こんなに喋れなくなっても創作活動をすることはできる。人間は美しいと思わされる映画であった。
地図の中の風景
『都市計画』誌373号に短いエセーを寄せました。
『アイデア』の連載でも触れられなかったマクシム=オーギュスト・ドゥネーの文字地図について、ようやく書く場所ができました。インターネットは物理的な都市の関係性を破壊するものだという昔からの予感が、いよいよ本格的に現実のものとなってきたという話です。(約750字)
それから、学生に教えてもらったのですが、ユーチューバーの方々が拙著を取り上げてくれていました。最初は「誰やねん」と思いましたが、「感受性のない」水野さんの指摘は結構鋭く、正直すごく楽しませていただきました。ありがとうございます。
20250401
クソ忙しい時に食べたこともないフラムクーヘンとやらを作ってみるぐらいの若さは持っているらしい。