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後期弾丸旅行記

昨年度以来、後期は座学の準備とゼミのための勉強に余白がすべて費やされてしまうのだが、その合間を縫って弾丸で旅行して勉強をするようにしている。そうでもして知見を広げないと教える仕事がままならないし、旅行自体は(計画を含めて)全くストレスにならない性格なので、むしろ心身の健康が保てるのである。教員になるまでは肩書きなんて無いに等しかったから、知らない人に会いに行くのは非常に億劫だった。どこの馬の骨かわからないやつが突然訪ねてくるのも変な話だし、そんなやつに貴重な時間を割いてもらうのも気が引けるからだ。まあ僕が訪ねて来られる立場だったら、そういう無謀な出会いは嫌いじゃないし、ソウルさえあれば人は分かり合えると思っているけれども。ともあれ肩書きができたことでフットワークが軽くなったことは確かで、嗚呼、これは教員になった恩恵の一つだなと感じている。教員である以前に一人の人間であることは忘れたくないし、教員という立場で人に会うことがいいことか悪いことかはいまだにわからないけれども、今は動き続けたいと思う。とはいえ、初対面の人と話がうまく続かないことも多く、そもそも私は本音で人と話すのが苦手なのだと気づかされるのであるが。

9月某日「プロジェッティスタ城谷耕生展」(雲仙市小浜町)
授業の課外旅行で知り合った小浜のデザイナー古庄さん。その師匠である城谷さんの展覧会が、地元小浜で開催される。城谷さんはイタリアでエンツォ・マーリやアキッレ・カスティリオーニの薫陶を受けて帰国し、東京で家賃を払うために仕事をするのは嫌だと言って、地元に帰ってプロジェクトを始める。地方に居を構えてデザイナーとして生きていくことの覚悟たるや相当なものだったと思うが、確固たる信念があったのであろう。東京で仕事をしていると、お金のための仕事や、企業の予算消化のためだけの仕事を受けることも多々あり、いつしかデザインの本義を忘れてしまいそうになる。私から見ればそれだけでヒーローなのだ。
焼き物の職人たちに手ではなく頭の使い方を教えるマーリ氏のやり方に学び、下流(プロダクト)ではなく上流(暮らし)に遡ってデザインを考える城谷さんの思考は、今最も必要なものではないだろうか。個人的には城谷さんと多木さんがカルヴィーノの『見えない都市』をモチーフとして制作した舞台美術の写真集に非常に感銘を受けた。あとで多木さんに話を聞いてみると、カルヴィーノが大好きだということで、勝手にシンパシーを感じる。展示を見た後はオープニングのトークショー(4時間!)へ。小浜温泉という決して交通の便が良くない日本の涯てみたいなところのイベントに100人以上の人間が集まる奇跡に立ち会う。そして皆なんらかの志を持った目をしていて、再会を懐かしんでいる。本当にこんな生き方をしている人たちがいるのか、と感涙すること正確に4回。隣にいる元ゼミ生たちに気づかれないよう目頭を熱くする。

9月某日「DESIGNEAST」(大阪・北加賀屋)
小浜から帰り、大学で企画した多木さんの課外講座を挟んで、大阪へ。デザインにまつわるトークショーと展示、書店や雑貨のショップ、食が一体化した、手弁当のデザイン会議。デスマーチ状態の9月のスケジュールの中で、土日で往復は流石にきついなと思っていたが、多木さんや奥津さんが企画参加していることもあり、意を決して西へと向かう。こうやって地に足をつけて根を生やす覚悟を持った人々の話は、何よりも心に響く。哲学者エマヌエーレ・コッチャ氏の「自然はもともと美しくもなんともない。生物は自分たちの都合の良いように自然を作り変えてきたのだ(だからわれわれは生物と自然との関係を積極的にデザインしていってよいのだ)。」という話は、完全に首肯できるわけではないが、考えさせられる話ではある。最近は、AIを植物に利用させて自ら環境を調整させるとか、そういう作品が流行っているらしい。バイオアートは生命倫理的に大問題だと思うが、AIとの付き合い方としてはありうる方向性を提示している。
食のブースのオーガナイズを担当していた奥津さんの無茶振りで会場にいた方々を紹介してもらい、すっかり色々な方のファンになって帰ってきた。小浜の古庄夫妻にも再会。こういうイベントが大阪にできて東京にできないはずはない、と思いながら新幹線に乗る。Home Shopさんでチリのレインスティック(傾けると雨の音がする杖状の民族楽器)を買ったら、たまたま来ていた奈良出身のゼミ生に「そんなの買って家で怒られないんですか」と怪訝な顔をされる。馬鹿者これが控えめな想像力だ。

10月某日「ドキュメンタリー道場in東京2025秋」(ユーロスペース/専修大学)
山形ドキュメンタリー映画祭の一環として年に1度開かれている作家同士の意見交換会、その名も「道場」。その出身者による作品を東京で上映するイベントで、初夏以来2度目の開催(多分)。映画とは世界のことを知ることができる最高のメディアなのだと実感できる作品群だった。詳細については別途。武蔵美の留学生環境整備費についてのドキュメンタリーを撮った川島さんと話す。

10月某日 奈良旅行
元々は滋賀に行くつもりだったのに奈良の話が盛り上がってしまったため、いつしか奈良旅行に。當麻寺、飛鳥寺、東吉野村、三輪山などを巡る3日間。東吉野ではオフィスキャンプの坂本さんのところに押しかけ、お忙しいにもかかわらず半日遊んでもらった。ナビの間違いで辿り着いた、地元の人たちが本気で法事をしている神仏習合の龍穴神社が忘れられない(しかも蜂の巣があって龍穴まで辿り着けず)。東吉野はまた小浜とも違うすごい生き方をしている人たちの集まり。都会から「困ってることないですか〜?」とやってくるお節介な企業の話を聞きながら、ソーシャルなんちゃらの馬鹿馬鹿しさを思う。それにしても奈良は団子とか餅とか素朴なお菓子がうまい。決して高くはない山々に囲まれた風景が非常に美しく、これを知ると京都は霞んでくる。

11月某日 ARCUS STUDIOオープンスタジオ(守谷)
芸祭休み中に茨城からはるばる小平まで訪ねてきてくれたインド出身の作家・アーキビストのアヴニー(久しぶりに英語を話したら全く話せず反省)。彼女が地図を使ったプロジェクトを完成させたとのことで、守谷へ。地域の地図を前にして地元の人たちに「失われた場所」についてのインタビュー取材を行い、その音声を別撮りの映像と合わせて1つに統合していくやり方に、地図コミュニケーションの未来を見る。アメリカで働きたいけど今はちょっとね、と話していたが、ぜひこういうプロジェクトを続けてほしい。アーティスト向けレジデンスでのコミュニケーションも懐かしかった。

11月某日「国宝 源氏物語絵巻」展(徳川美術館)
徳川美術館から徒歩15分のところに生まれながら、一度も見たことのなかった源氏物語絵巻をついに見ることが叶う。平日だから意外と空いている、というインサイダー情報を聞いて昼前に向かい、最初にある常設展を「ああ、この分だとすんなり見られそうだな」と思いながらゆっくり見進めていたが、最後の企画展示室前で突如3時間の行列。ポイ活アプリに嵌る老女2人の後ろで、精神統一しながら蝸牛にでもなった気分で待ちつづける。いくつもの角を曲がっていよいよ見られた絵巻は、今から800年以上前にこんなものが存在したことをにわかに信じるわけにはいかないような、技巧の極致だった。修復したにせよこんなに良い状態で残っているのは、巻子本の構造のなせる技か。それでも一番インパクトがあったのは、源氏物語の相関図であったが。数日後インフルエンザにかかる。

11月某日「伊勢物語」展(根津美術館)
骨董通りの人混みを掻き分けたどり着いた美術館の前には、ブランドのショッパーをぶら下げた西洋人たち。こやつら本当に興味があるんかいな、と思いながら会場へ。色紙、絵巻、和歌屏風と色々な形で伊勢物語を景色として楽しむ日本人はなかなか独特な民族である。途中で慶應の「嵯峨本の誘惑」展が会期終了間近だということに気づき、六本木経由のバスでギリギリ滑り込む。素庵の筆蹟の比較が見もの。サラリーマンでごった返す田町駅。そういえば芝浦工大が古いキャンパスだった頃に研究会で何度か通ったことを思い出す。でもこのあたりの風景はだいぶ変わったのではないかな。

12月某日「デザインの先生」展(21_21)
小浜での展示から非常にタイムリーな流れで行われている、イタリアのプロジェッティスタたちとドイツ・スイス系のゲシュタルターたちについての展示。小浜展の企画者の一人である田代さんがキュレーションされていて、部分的に多木さんも登場する。ムナーリの文字盤が全部脱落するスウォッチを見ながら、今の自分に必要なのはこれだと思う(疲れている)。
容器に蝶番をつける労働の退屈さを思い、蝶番ごとなくしたマーリの思想は、フォルムの問題以上に重要な示唆を含んでいる(それでいて彼はフォルマリストだったが)。誰かが映像で話していたように、なんでも褒めていれば世渡りがうまくいくところを、世界を敵に回してまでも自分の価値観を曲げないイタリア精神が、今日必要なのではないか。というよりも自分がそれを貫徹すべきだ。それにしても21_21は映像の音が大きすぎて作品鑑賞に支障が出るので、なんとかしてほしい。

12月某日 京都講演
大阪大学人類学教室の森田敦郎さんに招かれて、京都駅前のキャンパスプラザで小さな講演会をさせてもらう。シゴトで新幹線に乗るってかっこいい。それはさておき、テーマは視覚化と社会についてで、久しぶりに専門ど真ん中の話である(大学にいると、意外と専門の話をする機会がない)。人類学の先生や生徒さんたち、都市デザイナーの人たちに囲まれ、こんな話で良いのかなと思いながら一方的に話し続けるが、みなさん熱心に聞いて質問してくださって、美大生より話が響くなと思う。
お昼はベジタリアン対応のベトナム料理屋を探してくださって、会食。最近の人類学者はデータセンターの研究をしているそうで、そんなの面白いのかいなと最初は思ったが、AIのためのデータセンターはアクセス速度向上のために都会に作る必要があり、大阪にも続々と建てられているらしい。そして、結局はコンピュータの集まりなので冷却する必要があるため、自然冷却される北欧がデータセンター誘致に躍起になっていたりとか、大量の水が使われたりして環境問題を引き起こしているとか。皆がくだらない質問を投げかけるたびに地球は温暖化しているわけね。本当に馬鹿馬鹿しい。
食事の後は浄土寺にある森田さんの拠点に案内してもらう。古い病院を改装して居住環境の観測を行っているそうだが、いかんせん寒く、私は無理ですわ、と話す。この辺りは木材を運んでくる中継地になっていたとか、水の通り道になっているとか、東京では忘れ去られてしまっている歴史の層がいくつも感じられ、ここでダイヤグラムの授業をしたらいくらでもリサーチするネタがあると思う。京都駅でいつもの湯葉を買って、戦場の東京に戻る。

黄金週間

元ゼミ生たちと寄席に行こうという話になり、新宿末廣亭の昼席へ。ここに来たのも20年ぶりか。夜も更けてシンと静まり返った中で聞く怪談噺も良いものだが、昼の陽気の中で洒落の利いた小噺がテンポ良く続いていくのも良い。個人的には「コント山口君と竹田君」が見られたことが感慨深いが、神田蘭さんの『流動食版源氏物語』、音曲の桂小すみさんの都々逸調の「I will always love you」、南玉師匠の曲独楽など、講談・色物も充実していた。真打の方々のスッと引いた話し方に学ぶものは大きい。
目を見張ったのは、腐ってカビが生えた豆腐を瓶の中に入れてぐじぐじと混ぜ、そこに唐辛子を加えたものを「台湾名物のちりとてちん」だと騙り、近所の知ったかぶりの旦那に食わせて何と言うか見よう、という噺。目の前には豆腐どころか瓶すらないのに、言葉とジェスチャーから生まれる想像だけで聴衆の嫌悪感を引き起こしてしまうという話芸の凄み。
打ち上げではAIやら万博やらの話になったが、今日日そこら辺のお偉方より若者の方がまともなことを言いますよ、まったく。

切羽詰まり続けた春休み。やけくそで映画を観に行く。忙しいのに映画に行く意味はわからないと思うが、呼吸は必要なのだ。
佐藤そのみ監督の『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』の2本立て。日芸在籍中の自主制作として撮られた前者と、卒業制作として撮られた後者。普通は逆だろう、とツッコみたくなるような、前者の意気込みの強さと、後者の(いい意味での)肩の力の抜け方。
津波によって家族を失った監督自身や、地元の人々の経験に基づいて撮られた劇映画である『春をかさねて』は、撮影が完璧でないところや不要とも思えるシーンもあったが、大学生でこれだけ多くの人々、特に実際に被災した地元の人々と、県外の役者とを巻き込んで、これだけの映画を撮れてしまったということが俄かに信じがたい作品で、津波で廃墟化した小学校で撮られたラスト近くのシーンは、身じろぎもできなくなるような力を湛えていた。
一方、失われた家族に対するビデオレターとして撮られた『あなたの瞳に話せたら』は、監督自身と地元の友達2人の現在を映像によって映し出し、彼ら自身の「手紙」をナレーションとしてかぶせる構成で、前作で見た小学校がいかにして被災し、いかにして遺構として守られてきたか、そして、彼らが震災や家族のことを忘れないようにしながらも、どのように「今」を生きているかを語るという、鮮烈な作品であった。震災の外部ではなく、内部からこのような映画が出てきたことがとにかく強靭な力を持っているが(震災に「外部」があるのかという議論もあるだろうが)、「いつまでも被災者として甘えていてはいけない」と意を決したと監督自身が語っているように、「震災映画」を超えた普遍的な力を感じた作品であった。
別日には、タル・ベーラによる福島での映画教室の模様を撮影した小田香監督の『Fukushima with Béla Tarr』をシモキタエキマエシネマとやらに観に行く。福島に着いて早々、被災地を巡るバスツアーに「こんなツーリズムは要らない。実際の人々の生活が見られるところはどこだ」とクレームを言い、「まったく1日を無駄にした」と事前に組まれたプログラムを拒絶して「とにかく人に会って人生を学んでこい」と参加者たちを現実世界へと仕向けるタル・ベーラ。あらかじめ想定したような「悲しい被災の物語」ではなく、どんな状況でも生きていく人間たちの強さを撮りに行け。震える手でタバコをふかしながらそう語る彼の姿には、人間をどこまでも信じ切る強さが満ち溢れている。WS参加者の口から出るナルシシスティックなおべんちゃらに「いいか。君の言っていることは全く意味がわからない。私の知りたいのは何が画面に映るかだけだ」と映画言語にはあくまで厳しく、徹底して指導する姿。彼自身の映画がどうであるかはさておき、人間として、教育者としての彼の姿に圧倒される。パンフレットには、必要なのは「education」ではなく「liberation」なのだという言葉が記されていた。システムとしての大学が生み出すくだらない形式主義や立場主義を乗り越えて、人として学生を「解放」するにはどうしたらいいか。教育のあり方を突きつける言葉であった。
そうこうしているうちに4月になってしまったが、早々、ヴァル・キルマーが死んだ。思わず、彼の撮り溜めた個人的な映像から構成された『ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男』をU-Nextで観る。そこには、咽頭がんの手術後にのどのボタンを押さないと発話ができなくなった映画俳優の人生が、息子のナレーションとともに描かれていた。子供の頃から兄弟と映画ごっこをしていたこと、演劇学校で演劇を学び、若きケヴィン・スペイシー、ショーン・ペンらと共演した舞台の様子、『トップ・ガン』で一気にスターダムに駆け上り、『ドアーズ』『トゥームストーン』『バットマン・フォーエヴァー』で大役を演じ切ったのち、マーロン・ブランドとの共演作で監督と対立し、「扱いづらい俳優」としてレッテルを押されたこと、そして父親から相続した土地を売り払って臨んだマーク・トウェインのワンマン・ショーへの意気込みなどが、次々と語られていく。私にとって忘れられないのはマイケル・マンの『ヒート』で、センシティヴで忠義深いギャングの一員を演じ、ブロンドの長髪で銃火器を構える姿に、美しい俳優だなと思った印象がある。内容は覚えていないがハーモニー・コリンの『The Lotus Community Workshop』でほとんど三輪車みたいなミニベロで夜道を走っていたのを思い出す。こんなに喋れなくなっても創作活動をすることはできる。人間は美しいと思わされる映画であった。

地図の中の風景

『都市計画』誌373号に短いエセーを寄せました。

「地図の中の風景—125」《都市の顔は地図上にある》

『アイデア』の連載でも触れられなかったマクシム=オーギュスト・ドゥネーの文字地図について、ようやく書く場所ができました。インターネットは物理的な都市の関係性を破壊するものだという昔からの予感が、いよいよ本格的に現実のものとなってきたという話です。(約750字)

それから、学生に教えてもらったのですが、ユーチューバーの方々が拙著を取り上げてくれていました。最初は「誰やねん」と思いましたが、「感受性のない」水野さんの指摘は結構鋭く、正直すごく楽しませていただきました。ありがとうございます。

20250401

クソ忙しい時に食べたこともないフラムクーヘンとやらを作ってみるぐらいの若さは持っているらしい。

絶望のかなた

年末に溜まった仕事を片付けるぞと書いた直後、猛烈な悪寒に襲われてそこから丸10日間寝室に軟禁される。医者に予告された快癒時期も通り越し、年まで跨いでしまった。微熱も残っていたがいい加減に外に出ようと元旦に公園を散歩したところ、あくる日に登山後のような筋肉痛に襲われ、階段を一段登るたびに脱臼したような格好になる。年越し用に買っておいた嗜好品や、お節料理でも作ろうと買い込んだ食材なども、雲散霧消してしまった。いつまで経っても治らないがために陰鬱としながら、仲間を求めるようにカウリスマキの映画を布団の上で見ていたが、全てを失っても人間にはつながりができるという監督の姿勢に打たれたのか、それとも皆アルコールを浴びるように飲み、夜道を歩いていれば必ず暴漢に殴られるようなフィンランドの光景が絶望的すぎたからかはわからないが、久しぶりに出た外の世界はいつもより美しく思えた。
年明け早々、次年度のゼミ決めが行われる。今年一年で痛感したのは、私はまだまだ教育者として素人に毛が生えた程度であるということだ。人間を育てるという点において、先輩の先生方には全く及ばない。学生にコメントをする上では否が応でもこれまでの人生がふりかかってくるが、いい加減な生き方を反省することしきりである。そんな私にできるのは時間をかけて学生の話を聞き、一緒にものを見て考えることぐらいだ。それにもかかわらずついてきてくれる物好きな学生たちには感謝しかないが、私もこのままではいけないと思うので、教員としてもっと成長していきたいと思う。
二週間ぶりに会ったゼミ生たちは、私が年末に書いたブログ記事を死亡フラグだと言って笑っていたが、教員のいない間に彼らは大きく成長していて、この一年の成果が少しずつ形として現実化していることに、涙腺の緩みを隠しきれない。どこまで学生を信じられるかが教育のキモだとはよく言うが、まだまだ私は心配性の過保護であり、流感で寝込むぐらいでちょうど良かったのかもしれない。はてさて、泣いても笑ってもあと数日である。彼らを信じていることにして、年末から持ち越した仕事を消化しようと思う。

消息

卒業制作と論文指導を除き、今年の授業が終わった。夏休みからはとにかく「視覚言語」の授業準備が大変で、ストレスと寝不足でみるみる体調が悪化し、体重も増えた。もともと冬の気候に弱いのに、今年はそれに追い打ちがかかった。
授業が終わった日の翌朝、スイスの友人から消息が届く。彼の新しい本が出版されるとのことで、訪日予定の知人経由で私の元に届けてくれるという(それも非常にスイスらしいネットワークである)。ジュネーヴ図書館の司書さんが「同じようなことを研究している人がいる」と引き合わせてくれて以来、われわれは本や論文を書くたびにお互いの原稿を送りあっている。私の本は日本語なので彼の書棚の肥やしになっているだけであろうが、彼はいつも祝福のメールを送ってくれる。エアポケットのように空いた時間に地球の向こう側から報せが届いたことが、何より嬉しかった。こちらからはしばらく出版の報せを送ることができていないが、これを機にまとまったメールを書こうかと思う。
11月には突貫で旭川に行った。子供の作った環境地図の展覧会を見るためである。すでに氷点下に近い気温の旭川は、寒風吹き荒ぶといった体で、バスで空港から駅に到着すると同時にショッピングモールに駆け込み、肌着を着込まないと寒がりには耐え切れないほどであったが、北国の寒さには清々しいものがあり、意外にも心地よい。それでも、夜に飲み屋で話し込んだ地元の人によれば、日本の最低気温である-41度を叩き出したのはほかならぬ旭川の地だというから、こんな寒さは序の口も序の口なのだろう。ダイアモンドダストの作り出す光景は何ものにも代え難いからぜひ見に来いというが、問題はいつそれが到来するかわからないことだと笑う。
わたしの幼少期に通った習字の先生はここ旭川の出身で、親に連れられ、先生の書いた字を見に層雲峡のホテルまで来た記憶がある。当時のホテルにはおもちゃのパチンコがあり、暇つぶしにやっているとフィーバーしてしまい、景品として女性もののパンツが出てきたことが強烈な思い出としてある。そのことを誰に話しても信じてもらえなかったのだが、再訪したこの旭川で奇遇にも同世代だという飲み屋の店主に話すと、「あった、あった」という。30年来の記憶が確かめられた瞬間であった。
年内は、入試と少しのデザインワーク、それに手付かずのままの2本の原稿仕事が残っている。まずは些事を片づけようとシラバスと領収書の整理に精を出したが、些事は芋蔓式に出てくるもので、失敗に終わった。ゼミ生はなぜか教員の冬休みに対して呪詛の言葉を投げかけてくるが、実態はこんなものだ。夜中に光る赤や青のLEDに嫌悪感をおぼえつつ、筆を置いて床に就くことにする。

9月、10月はとにかく毎週授業準備に追われ、1つ終われば次の日にはまた来週の準備に追われるという状態が続き、修行のような日々を送っていた。ようやく芸祭休みに入ったと思えば、安らいだのは最初の土日ぐらいのもので、会議と学会発表なんぞが入れ替わり立ち替わりに押し寄せ、気温差と花粉のせいか、体調も悪化。卒業制作展のカタログのためにテキストを書き始めるが完全に迷宮入りし、精神的にも落ち込む。最終的には20以上のテキストファイルが死屍累々と積み重なり、勢いで脱稿するが気づけば翌日は学校。そんなにテキストに時間がかかったのは学生愛ゆえなのだという気は全くなく、ひとえに己の文章力の低下と若さの喪失によるものだというほかない。
ゼミ生に「ブログ書かないんですか?」と言われたので少しWordPressの画面に向かおうという気が起きて今これを書いているのだが、書こうと思っても書けないことが多すぎるというか、ほぼ毎日のように家と大学、最寄駅の駅前という三角形を自転車で往還しているだけだと、風の匂いに気候の変化を感じることも、色づく木の葉に見惚れることもなく、ただ銀杏の臭気を感じるだけで、何かを出力するほど自分の中に感情が蓄積しないのである。唯一あるのは学生とのやりとりだけだが、これは結構繊細な関係なので、無闇に書いて人目に晒すことは躊躇われるのだ。
そんな自分の状態に鑑みてひとつだけ思い出されることは、ブログなどというものを書き始めた学生時代のことである。当時私はTゼミに属していたのだが、確か藤幡正樹先生が特講で紹介されていたことをきっかけに、「Wiki」というWikipediaのベースになっている可塑性のあるエンジンを使い、教員を含むゼミのメンバー全員が日記的なものを書こうということになった。当然LINEなどはなくて、TwitterもFacebookもなく、BBSとmixiぐらいしか「ソーシャル」と言えるようなものはなかった時代に、HTMLエディタではなくブラウザ上から記事が書き込め(確かログインすら不要だった)、簡単な記号(マークダウン)さえ使えば見出しや強調などのスタイリングも容易なこのシステムは、性善説から成り立っている脆弱なものだったけれども、かなり魅力的で革新的なものだった。管理者たる私の知識不足のせいで、卒業後何かのタイミングでデータが吹っ飛んでしまい、今は跡形もなくなってしまったのだが(それに関してお叱りを受けたのを覚えている)、私のように頻繁に書く人も、ほとんど全く書かない人もいたけれども、お互いがお互いの記事に反応してやり取りする様は、今のSNSなんかよりはるかにクリエイティブだったと思う。そんなことを思い出したのはなぜかというと、ある日T先生が「君たちは好き勝手が書けていいね。大人になると書けないことばかりなのだよ」と呟いていたからだ。それでも折に触れて生徒全員に対するコメントだとか、ブライアン・デ・パルマの映画の感想などを書かれていたのを覚えているが、思えばあの頃のウェブ上のコンテンツは、「誰に対して書くか」ということを強く意識していたし、ある程度の熱量が必要だったから、それを読んだ方も多かれ少なかれそれを受け止め、咀嚼した上で反応していたと思う。一応全世界に公開されてはいるが、読むのは数人程度という、ソーシャルメディアというよりはコミュナルメディアというべきような、現実世界の延長にある関係性だったのだと思う(2chなんかは知ったことではないが)。「声の文化(文字を持たない口承文化)」から「文字の文化」へと移行するのに何世紀もかかったとすれば、ウェブ上でのコミュニケーションというのも当時はまだ移行期にあって、リアルなコミュニケーションをウェブ上でやろうとしていただけなのかもしれない(あるいは現在もその延長線上にあるのかもしれない)。それでもテキストをお互い書き合うというのは、和歌を詠み合うとは言わないまでも、幸福な関係性だったのではないかな、と思う。
こんな適当なことを書き連ねていると、木造アパートの部屋でこたつに入り孤独にプログラミングをしながら、頻繁にゼミブログの画面をリロードし、友人たちが新しい記事を書くのを待ち望みしていた様がありありと思い出される。今の人たちは想像できないだろうが、当時インターネットに張り付いていたのはゼミ中でも僕ぐらいのもので、皆(多分)集中して作業をしていたのだと思う。更新がないのは良い知らせなのだと、彼らが黙々と作業をしているのを想像しながら、諦めて自分も作業をしていたのだ。ゼミ生の人たちよ。君たちはこの12月から1月にかけての感覚を一生思い出すだろう。それは一人ではなくて、皆の関係性があってこそなのだ。わかるのは20年後かもしれないけれど、人生で一番幸福な時期なのではないかな。

2024/11/11

牛を忘れた牛小屋
セルフレジを見張る店員
ポイントカードを持っているか聞く業務
AIが作ったものを褒める人間
1円の古本の配達
特快の待ち合わせで増える快速の所要時間
おにぎらず

総復習

この20年間、本を読んだり、美術を見たり、映画を見たりしてわかったつもりになっていたことを、授業のために一気に言語化しなければならない状況になり、20年分のあれやこれやをもう一度読み直し、買い直し、整理し直す苦行の日々。理解したことは逐一書いてまとめておいた方がいいですよ、ホント…。締切がオープンエンドなら楽しいことこの上ないんですがね。勉強になります。