年末に溜まった仕事を片付けるぞと書いた直後、猛烈な悪寒に襲われてそこから丸10日間寝室に軟禁される。医者に予告された快癒時期も通り越し、年まで跨いでしまった。微熱も残っていたがいい加減に外に出ようと元旦に公園を散歩したところ、あくる日に登山後のような筋肉痛に襲われ、階段を一段登るたびに脱臼したような格好になる。年越し用に買っておいた嗜好品や、お節料理でも作ろうと買い込んだ食材なども、雲散霧消してしまった。いつまで経っても治らないがために陰鬱としながら、仲間を求めるようにカウリスマキの映画を布団の上で見ていたが、全てを失っても人間にはつながりができるという監督の姿勢に打たれたのか、それとも皆アルコールを浴びるように飲み、夜道を歩いていれば必ず暴漢に殴られるようなフィンランドの光景が絶望的すぎたからかはわからないが、久しぶりに出た外の世界はいつもより美しく思えた。
年明け早々、次年度のゼミ決めが行われる。今年一年で痛感したのは、私はまだまだ教育者として素人に毛が生えた程度であるということだ。人間を育てるという点において、先輩の先生方には全く及ばない。学生にコメントをする上では否が応でもこれまでの人生がふりかかってくるが、いい加減な生き方を反省することしきりである。そんな私にできるのは時間をかけて学生の話を聞き、一緒にものを見て考えることぐらいだ。それにもかかわらずついてきてくれる物好きな学生たちには感謝しかないが、私もこのままではいけないと思うので、教員としてもっと成長していきたいと思う。
二週間ぶりに会ったゼミ生たちは、私が年末に書いたブログ記事を死亡フラグだと言って笑っていたが、教員のいない間に彼らは大きく成長していて、この一年の成果が少しずつ形として現実化していることに、涙腺の緩みを隠しきれない。どこまで学生を信じられるかが教育のキモだとはよく言うが、まだまだ私は心配性の過保護であり、流感で寝込むぐらいでちょうど良かったのかもしれない。はてさて、泣いても笑ってもあと数日である。彼らを信じていることにして、年末から持ち越した仕事を消化しようと思う。
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消息
卒業制作と論文指導を除き、今年の授業が終わった。夏休みからはとにかく「視覚言語」の授業準備が大変で、ストレスと寝不足でみるみる体調が悪化し、体重も増えた。もともと冬の気候に弱いのに、今年はそれに追い打ちがかかった。
授業が終わった日の翌朝、スイスの友人から消息が届く。彼の新しい本が出版されるとのことで、訪日予定の知人経由で私の元に届けてくれるという(それも非常にスイスらしいネットワークである)。ジュネーヴ図書館の司書さんが「同じようなことを研究している人がいる」と引き合わせてくれて以来、われわれは本や論文を書くたびにお互いの原稿を送りあっている。私の本は日本語なので彼の書棚の肥やしになっているだけであろうが、彼はいつも祝福のメールを送ってくれる。エアポケットのように空いた時間に地球の向こう側から報せが届いたことが、何より嬉しかった。こちらからはしばらく出版の報せを送ることができていないが、これを機にまとまったメールを書こうかと思う。
11月には突貫で旭川に行った。子供の作った環境地図の展覧会を見るためである。すでに氷点下に近い気温の旭川は、寒風吹き荒ぶといった体で、バスで空港から駅に到着すると同時にショッピングモールに駆け込み、肌着を着込まないと寒がりには耐え切れないほどであったが、北国の寒さには清々しいものがあり、意外にも心地よい。それでも、夜に飲み屋で話し込んだ地元の人によれば、日本の最低気温である-41度を叩き出したのはほかならぬ旭川の地だというから、こんな寒さは序の口も序の口なのだろう。ダイアモンドダストの作り出す光景は何ものにも代え難いからぜひ見に来いというが、問題はいつそれが到来するかわからないことだと笑う。
わたしの幼少期に通った習字の先生はここ旭川の出身で、親に連れられ、先生の書いた字を見に層雲峡のホテルまで来た記憶がある。当時のホテルにはおもちゃのパチンコがあり、暇つぶしにやっているとフィーバーしてしまい、景品として女性もののパンツが出てきたことが強烈な思い出としてある。そのことを誰に話しても信じてもらえなかったのだが、再訪したこの旭川で奇遇にも同世代だという飲み屋の店主に話すと、「あった、あった」という。30年来の記憶が確かめられた瞬間であった。
年内は、入試と少しのデザインワーク、それに手付かずのままの2本の原稿仕事が残っている。まずは些事を片づけようとシラバスと領収書の整理に精を出したが、些事は芋蔓式に出てくるもので、失敗に終わった。ゼミ生はなぜか教員の冬休みに対して呪詛の言葉を投げかけてくるが、実態はこんなものだ。夜中に光る赤や青のLEDに嫌悪感をおぼえつつ、筆を置いて床に就くことにする。
秋
9月、10月はとにかく毎週授業準備に追われ、1つ終われば次の日にはまた来週の準備に追われるという状態が続き、修行のような日々を送っていた。ようやく芸祭休みに入ったと思えば、安らいだのは最初の土日ぐらいのもので、会議と学会発表なんぞが入れ替わり立ち替わりに押し寄せ、気温差と花粉のせいか、体調も悪化。卒業制作展のカタログのためにテキストを書き始めるが完全に迷宮入りし、精神的にも落ち込む。最終的には20以上のテキストファイルが死屍累々と積み重なり、勢いで脱稿するが気づけば翌日は学校。そんなにテキストに時間がかかったのは学生愛ゆえなのだという気は全くなく、ひとえに己の文章力の低下と若さの喪失によるものだというほかない。
ゼミ生に「ブログ書かないんですか?」と言われたので少しWordPressの画面に向かおうという気が起きて今これを書いているのだが、書こうと思っても書けないことが多すぎるというか、ほぼ毎日のように家と大学、最寄駅の駅前という三角形を自転車で往還しているだけだと、風の匂いに気候の変化を感じることも、色づく木の葉に見惚れることもなく、ただ銀杏の臭気を感じるだけで、何かを出力するほど自分の中に感情が蓄積しないのである。唯一あるのは学生とのやりとりだけだが、これは結構繊細な関係なので、無闇に書いて人目に晒すことは躊躇われるのだ。
そんな自分の状態に鑑みてひとつだけ思い出されることは、ブログなどというものを書き始めた学生時代のことである。当時私はTゼミに属していたのだが、確か藤幡正樹先生が特講で紹介されていたことをきっかけに、「Wiki」というWikipediaのベースになっている可塑性のあるエンジンを使い、教員を含むゼミのメンバー全員が日記的なものを書こうということになった。当然LINEなどはなくて、TwitterもFacebookもなく、BBSとmixiぐらいしか「ソーシャル」と言えるようなものはなかった時代に、HTMLエディタではなくブラウザ上から記事が書き込め(確かログインすら不要だった)、簡単な記号(マークダウン)さえ使えば見出しや強調などのスタイリングも容易なこのシステムは、性善説から成り立っている脆弱なものだったけれども、かなり魅力的で革新的なものだった。管理者たる私の知識不足のせいで、卒業後何かのタイミングでデータが吹っ飛んでしまい、今は跡形もなくなってしまったのだが(それに関してお叱りを受けたのを覚えている)、私のように頻繁に書く人も、ほとんど全く書かない人もいたけれども、お互いがお互いの記事に反応してやり取りする様は、今のSNSなんかよりはるかにクリエイティブだったと思う。そんなことを思い出したのはなぜかというと、ある日T先生が「君たちは好き勝手が書けていいね。大人になると書けないことばかりなのだよ」と呟いていたからだ。それでも折に触れて生徒全員に対するコメントだとか、ブライアン・デ・パルマの映画の感想などを書かれていたのを覚えているが、思えばあの頃のウェブ上のコンテンツは、「誰に対して書くか」ということを強く意識していたし、ある程度の熱量が必要だったから、それを読んだ方も多かれ少なかれそれを受け止め、咀嚼した上で反応していたと思う。一応全世界に公開されてはいるが、読むのは数人程度という、ソーシャルメディアというよりはコミュナルメディアというべきような、現実世界の延長にある関係性だったのだと思う(2chなんかは知ったことではないが)。「声の文化(文字を持たない口承文化)」から「文字の文化」へと移行するのに何世紀もかかったとすれば、ウェブ上でのコミュニケーションというのも当時はまだ移行期にあって、リアルなコミュニケーションをウェブ上でやろうとしていただけなのかもしれない(あるいは現在もその延長線上にあるのかもしれない)。それでもテキストをお互い書き合うというのは、和歌を詠み合うとは言わないまでも、幸福な関係性だったのではないかな、と思う。
こんな適当なことを書き連ねていると、木造アパートの部屋でこたつに入り孤独にプログラミングをしながら、頻繁にゼミブログの画面をリロードし、友人たちが新しい記事を書くのを待ち望みしていた様がありありと思い出される。今の人たちは想像できないだろうが、当時インターネットに張り付いていたのはゼミ中でも僕ぐらいのもので、皆(多分)集中して作業をしていたのだと思う。更新がないのは良い知らせなのだと、彼らが黙々と作業をしているのを想像しながら、諦めて自分も作業をしていたのだ。ゼミ生の人たちよ。君たちはこの12月から1月にかけての感覚を一生思い出すだろう。それは一人ではなくて、皆の関係性があってこそなのだ。わかるのは20年後かもしれないけれど、人生で一番幸福な時期なのではないかな。
2024/11/11
牛を忘れた牛小屋
セルフレジを見張る店員
ポイントカードを持っているか聞く業務
AIが作ったものを褒める人間
1円の古本の配達
特快の待ち合わせで増える快速の所要時間
おにぎらず
総復習
この20年間、本を読んだり、美術を見たり、映画を見たりしてわかったつもりになっていたことを、授業のために一気に言語化しなければならない状況になり、20年分のあれやこれやをもう一度読み直し、買い直し、整理し直す苦行の日々。理解したことは逐一書いてまとめておいた方がいいですよ、ホント…。締切がオープンエンドなら楽しいことこの上ないんですがね。勉強になります。
ある日見た夢
ゼミ生が私の名前をGoogleで検索してみると、検索結果の隣に部分的に間違いはあるがそう外れてもいない、私のプロフィールが生成される。こんな無味乾燥なプロフィールのためなんかに大学院を出たり本を書いたりしているわけではないぞと言いたくはなるが、ほとんど公的な情報に則ったものだし、驚きはない。しかし今のコンピュータ/インターネット環境にあるのは、テキストなり図像なり画面に表示されたもの全てから秘密が吸い上げられていく感覚である。あるいはそんなことを口にしたか疑いたくなるような、自分の頭の中まで先読みされているような感覚だ。データや履歴の共有はアプリを超えて行われるようになっており、メーラーで表示したものがブラウザやSNSアプリで広告として表示されることも珍しくない。今までローカルとインターネットの間でなされていた公開すべき情報の区別が意味をなさなくなり、PC上に巣食うAIの吸い上げた情報が知らぬうちにメーカー本社に送られ、ブラウザ上に巣食うAIとサーバ側に巣食うAIが画面上に表示したもの全てを吸い取ってネット上にばら撒いていく。今のところデータ利活用の規約や暗号化によって秘密が担保されているように思えているが、実際のところどのように蓄積されているかわからないし、それが何かのはずみで流出しないとも限らない。PCについているWebカメラやマイクなどの入力装置、街頭の監視カメラやセンサなどが日常のすべてを吸い上げてデータ化していくと、完全監視社会の成立である。全ての印刷物がデータ化され、内容が解釈されるのも時間の問題だろう。せっせと「可視化」やら「IoT」やらを叫んでいる人々は、それにエサを供与しているにほかならない。AIはインターネットの破壊者になるだろう。誰も個人情報につながるようなものを進んでネット上にばら撒こうとは思わなくなり、むしろ嘘ばかりを書き込むようになるか、自分の使っているパソコンに対して本音と建前を切り分けなければならなくなって、コピーレフトの民主主義の夢は挫折する。
全てが監視され、解釈され、共有されるようになる世の中で、残る人類最後の秘密とは何だろうか。父親の机の引き出しの中から見知らぬ女性の名前が書かれた手紙を見つける『エル・スール』の少女は、ネット上で検索した父の名前からかつての恋人遍歴を探し出し、住所や家族構成まで特定した上で「南」に向かうことになるだろう。あるいはすでに秘密は手に入れているのだから「南」に向かう必要すらなくなるのかもしれない。スイスの片田舎で彫刻家をやっている友人がSNSをやっているのを知って嫌悪感を感じたことがあるが、もはや地球上にインターネットと無関係に暮らす原生林はないのだろうか。確かトニー・スコットの映画にアメリカの荒野にあってなんのネットワークにも繋がっていない秘密基地のような場所が出てきたが、ああいう話も現実味を帯びてきている。私の部屋のどこかに眠っている手紙や紙片たちは、マディソン郡の橋の息子たちのように、いつかひっそりと見つけられてほしいものだ。今朝見たのはそんな夢である。
黄金ですね
ゼミでの自己紹介用に、自分の半生を社会史と絡めながらまとめる。ダイヤル式チャンネルのブラウン管TVに始まって、ファミコン、スーファミ、ハイビジョン、衛星放送の小学生期、そこからWindows95、ポケベル、PHS、携帯電話、プレイステーション、セガサターンが渋滞する中高生期を経て、OS 8からOS Xへと移行するMacに触れる大学生期はなかなか激動の20年だなと思ったり、これまで観た映画や影響を受けた書物・展示などを列挙する作業などは非常に楽しかったけれども、やるべきことにいきなり飛び込まず外堀を全部埋めてからようやく本丸に突入するような回りくどい人生にだんだん嫌気がさし始め、自己紹介などやるのではなかったと後悔しながら諦めの境地で当日を迎える。タスクを大量に抱えながらもこういうブログ記事を書いているのも先延ばし人生の一環であるのだけど、今後の人生ではもう少し近道することにします。多分。
後期に始まる授業の準備のためにこれまでに見た近現代芸術と芸術理論を総ざらいする日々だが、未だ広がり続ける風呂敷に、夏休みの死が予感から確信に変わりつつある。黄金週間はARTIZON美術館のブランクーシ展、根府川にある杉本博司氏の「測候所」などを訪ねつつ、早稲田松竹のエドワード・ヤン特集に駆けつけようとするも、既に完売御礼。パリのサントル・ポンピドゥーで行われているブランクーシ展に行くことも到底叶わず、袖を濡らすのであった。Fly me to Paris.
ウェンディ&ルーシーあるいは
春休みは己の「想像を絶するだらしなさ」を解消するための税務に追われ、また新授業の準備などでほとんど休みはなかったのだが、下高井戸でロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』やドライヤーの『吸血鬼』『ミカエル』『怒りの日』を見るぐらいの息抜きはできた。『吸血鬼』はやはり傑作中の傑作だし、可能ならば再びフィルムという身体性とともに体験したいものだが、致し方ない。初見の『怒りの日』もまた『裁かるるジャンヌ』と同じく、誰にも真実のわからない形而上学的な事実を主張する人物が宗教家と民衆によって糾弾される憂き目に遭い、また『奇跡』のように「信じること」がもたらす小さな奇跡=魔術が映画的事実として描かれており、信心と不義との狭間で揺れ動く人々を描くことがドライヤーの中心的テーマであったのかと確認させられた。老いた「魔女」を裸にして問い詰める男たちの醜さ。若き義母との不貞をはたらきながら、実父が死んだ途端に立場を豹変させる聖職者の息子と、最初から義理の娘をいびり続ける祖母の不寛容さ。彼ら糾弾者と好対照をなす無垢な、あるいは天真爛漫であるが故に災いをなす娘は、かくして火炙りに遭う。厳格すぎる室内とのコントラストをなす戸外のシーンの美しさは、不貞への後ろめたさと無縁ではないであろう。「今、死が近くをよぎった」という一言で映画に不穏を導入するドライヤーの手際の良さ。「魔女」を演じる主演女優の目力なくしては成立しない映画の動力学。
思い返せば、「30年ぶりの新作」と謳われるビクトル・エリセの『瞳をとじて』を日比谷に観に行き、映画館にかかっている以上観直さなければ人間としての存在意義を問われる旧作『ミツバチのささやき』と『エル・スール』を観に渋谷・新宿へと駆けつけ、さらに上映最終日に新作をもう一度観直すことすらできたのだから、充実した春休みだったと言うほかはないだろう。もはや授業で映画のことしか喋りたくはない(喋ることがない)といった気持ちに苛まれてしまったが、果たして後期の座学はバランスを取れるであろうか。エリセの新作についてはもちろん大傑作であることは間違いないのだが、それを語りうる言葉はまだ浮かばないので、別の機会にこっそりしたためようと思う。
ところで、タイトルにしておきながらここまで全く触れていない「ウェンディ&ルーシー」というのは、ほかならぬケリー・ライカートの映画である。彼女の映画を見るたびに「アメリカに生まれなくてよかった」という気持ちを新たにするのだが、特に今作(といっても旧作だが)は、旅先で前に進むことも引き返すこともできない窮地に陥ったことのある人間にとっては心に染み入って完全に心掴まれてしまうような物語であり、あの、ドラッグストアの駐車場で車中泊をしていた主人公の若い女性に、敷地から出ていくよう追い立てる現代的なマニュアル的律儀さを示しながらも、出て行こうとキーを回した瞬間に車の故障が発覚し、挙句の果てには犬まで連れ去られてしまった彼女を見ているうちに唯一の味方になっていった白い眉毛の老警備員が素晴らしく、幼い頃に公園に置き去りにされたり、言葉の通じない海外で財布を紛失したりした経験のある人間にとってはそれは映画以上の何かであり、各地で助けてくれた地元の人々を思い出しては、システム的行動からこぼれ落ちた人間を救うのはシンパシーと寛容さであると誰彼かまわず告げてまわりたくなるのであった。
他にも、彼女が車の修理を依頼するガレージの修理工などは、登場の瞬間から映画をコメディへと急転させてしまいそうになるほどのユーモアを兼ね備えており、実在の修理工であるとしか思えない電話のいなし方を見ていると、ミシェル・ウィリアムズ演じる主人公がいつか吹き出してしまうのではないかと心配になるほどである(それにしても彼が朝から食べてるのはフライドポテトだろうか?)。
ここで犬を失うのはあくまで主人公の万引きが原因であるし(それが短パン白ポロシャツ姿の筋肉店員による無意味な正義感を引き金とすることは確かだが)、老警備員もまた途方もないお人よしではないことは彼がポケットから手渡すドル札の額面を見れば明らかであり、ここで完全なる善人の存在は周到に避けられている(主人公の軽はずみな悪事で窮地に陥る構造は長編デビュー作『リバー・オブ・グラス』から最新作『ファースト・カウ』まで何度も現れる)。「家と仕事を得るためには家と仕事が必要」な現代社会のイントレランスと、傍観者による救済を描いた傑作である。
20231202
AIがすごいのではなくて、人間の目が衰えているだけだと思います。
9月某日
9月末、久しぶりに風邪を引く。熱にうなされながら、ナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎討ちははたして本当に「名勝負」だったのかとか、波田陽区と堺すすむの圧倒的な違いについて考えたりとかした。
先日再見した『エドワード・ヤンの恋愛時代』のパンフレットを読むうちに、推薦文を書かれている温又柔という方のことが気になり著書を買ってあったので、寝ながらページを手繰る。幼少期に台湾から日本に移住し、日本語を母語とする方だが、中国語を流暢に話せないことで被る様々な躓きをきっかけに「国語」とは何かを問うたり、国籍や国民というアイデンティティに対するジレンマを綴ったエッセイである。台湾が日本の植民地であったことを忘れられることが本当の「日本人」である条件なのかもしれない、といったような一文を読んで思い起こされるのは、最近、台湾に行った知人たちが口を揃えて「日本語が使えてよかったです」と無邪気に言うことへの違和感である。「外国で日本語が使えること」に対して何かしらの罪悪感を感じないのだろうか、と最初は思った。私が10年ほど前に台湾に旅行した時はそこまで日本語で話しかけられなかったし、日本統治時代の遺構などを見るにつれて否が応でも加害意識が募っていったから、そもそも日本語を積極的に話そうなんて思いもしなかった。しかし知人らも日本統治時代を知らないわけではないだろうから、かの国における日本語感覚に何か変化が起きているのかもしれない、と思うことにした。
ところで来月私は台湾に行くことにした。10年前以来3度目である。エドワード・ヤンの回顧展なるものが未亡人の監修で行われており、スケジュールを見たところどうやら最終日に滑りこむのが不可能ではないということがわかったので、勢いでチケットを取ったのである。しかしチケットを取った瞬間からブルーになってきた。なぜなら前回私はかなり絶望して帰ってきて、言葉が話せない限り、これ以上この国の上辺だけ見ていても何もわからない、次に来る時にはもっと語学的知識と目的意識を持って来なければいけないと思ったからである。台湾の人々が日本に対してどう考えているか知りたいという思いもあるのだろう(大して気にしていないかもしれないが)。しかし私の語学的知識は10年前と1mmも変わっていないので、志半ばでまた台湾に来てしまうことになる。情けないながらも、きっかけをくれたエドワード・ヤンに感謝して、三たびお邪魔することにした。
ところで温さんは呉念眞が監督した『多桑 ToSan』を最近見たという。私はこれが見られるものなら台湾まで行くほどの意気込みなのだが、少なくとも日本で上映される機会はまだない。温さんはどのように見たのだろうか。なにしろ呉念眞は私の理想の大人なのである。こういうことを書くと「YouTubeにありますよ」とかいうやつが出てくるだろうけど、そういうことではないのだ。これは神聖な儀式なのだ。暗闇の中で『多桑』の光を浴びる日はいつだろうか。できることならば、フィルムで上映してほしいものである。