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切羽詰まり続けた春休み。やけくそで映画を観に行く。忙しいのに映画に行く意味はわからないと思うが、呼吸は必要なのだ。
佐藤そのみ監督の『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』の2本立て。日芸在籍中の自主制作として撮られた前者と、卒業制作として撮られた後者。普通は逆だろう、とツッコみたくなるような、前者の意気込みの強さと、後者の(いい意味での)肩の力の抜け方。
津波によって家族を失った監督自身や、地元の人々の経験に基づいて撮られた劇映画である『春をかさねて』は、撮影が完璧でないところや不要とも思えるシーンもあったが、大学生でこれだけ多くの人々、特に実際に被災した地元の人々と、県外の役者とを巻き込んで、これだけの映画を撮れてしまったということが俄かに信じがたい作品で、津波で廃墟化した小学校で撮られたラスト近くのシーンは、身じろぎもできなくなるような力を湛えていた。
一方、失われた家族に対するビデオレターとして撮られた『あなたの瞳に話せたら』は、監督自身と地元の友達2人の現在を映像によって映し出し、彼ら自身の「手紙」をナレーションとしてかぶせる構成で、前作で見た小学校がいかにして被災し、いかにして遺構として守られてきたか、そして、彼らが震災や家族のことを忘れないようにしながらも、どのように「今」を生きているかを語るという、鮮烈な作品であった。震災の外部ではなく、内部からこのような映画が出てきたことがとにかく強靭な力を持っているが(震災に「外部」があるのかという議論もあるだろうが)、「いつまでも被災者として甘えていてはいけない」と意を決したと監督自身が語っているように、「震災映画」を超えた普遍的な力を感じた作品であった。
別日には、タル・ベーラによる福島での映画教室の模様を撮影した小田香監督の『Fukushima with Béla Tarr』をシモキタエキマエシネマとやらに観に行く。福島に着いて早々、被災地を巡るバスツアーに「こんなツーリズムは要らない。実際の人々の生活が見られるところはどこだ」とクレームを言い、「まったく1日を無駄にした」と事前に組まれたプログラムを拒絶して「とにかく人に会って人生を学んでこい」と参加者たちを現実世界へと仕向けるタル・ベーラ。あらかじめ想定したような「悲しい被災の物語」ではなく、どんな状況でも生きていく人間たちの強さを撮りに行け。震える手でタバコをふかしながらそう語る彼の姿には、人間をどこまでも信じ切る強さが満ち溢れている。WS参加者の口から出るナルシシスティックなおべんちゃらに「いいか。君の言っていることは全く意味がわからない。私の知りたいのは何が画面に映るかだけだ」と映画言語にはあくまで厳しく、徹底して指導する姿。彼自身の映画がどうであるかはさておき、人間として、教育者としての彼の姿に圧倒される。パンフレットには、必要なのは「education」ではなく「liberation」なのだという言葉が記されていた。システムとしての大学が生み出すくだらない形式主義や立場主義を乗り越えて、人として学生を「解放」するにはどうしたらいいか。教育のあり方を突きつける言葉であった。
そうこうしているうちに4月になってしまったが、早々、ヴァル・キルマーが死んだ。思わず、彼の撮り溜めた個人的な映像から構成された『ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男』をU-Nextで観る。そこには、咽頭がんの手術後にのどのボタンを押さないと発話ができなくなった映画俳優の人生が、息子のナレーションとともに描かれていた。子供の頃から兄弟と映画ごっこをしていたこと、演劇学校で演劇を学び、若きケヴィン・スペイシー、ショーン・ペンらと共演した舞台の様子、『トップ・ガン』で一気にスターダムに駆け上り、『ドアーズ』『トゥームストーン』『バットマン・フォーエヴァー』で大役を演じ切ったのち、マーロン・ブランドとの共演作で監督と対立し、「扱いづらい俳優」としてレッテルを押されたこと、そして父親から相続した土地を売り払って臨んだマーク・トウェインのワンマン・ショーへの意気込みなどが、次々と語られていく。私にとって忘れられないのはマイケル・マンの『ヒート』で、センシティヴで忠義深いギャングの一員を演じ、ブロンドの長髪で銃火器を構える姿に、美しい俳優だなと思った印象がある。内容は覚えていないがハーモニー・コリンの『The Lotus Community Workshop』でほとんど三輪車みたいなミニベロで夜道を走っていたのを思い出す。こんなに喋れなくなっても創作活動をすることはできる。人間は美しいと思わされる映画であった。

地図の中の風景

『都市計画』誌373号に短いエセーを寄せました。

「地図の中の風景—125」《都市の顔は地図上にある》

『アイデア』の連載でも触れられなかったマクシム=オーギュスト・ドゥネーの文字地図について、ようやく書く場所ができました。インターネットは物理的な都市の関係性を破壊するものだという昔からの予感が、いよいよ本格的に現実のものとなってきたという話です。(約750字)

それから、学生に教えてもらったのですが、ユーチューバーの方々が拙著を取り上げてくれていました。最初は「誰やねん」と思いましたが、「感受性のない」水野さんの指摘は結構鋭く、正直すごく楽しませていただきました。ありがとうございます。

20250401

クソ忙しい時に食べたこともないフラムクーヘンとやらを作ってみるぐらいの若さは持っているらしい。

絶望のかなた

年末に溜まった仕事を片付けるぞと書いた直後、猛烈な悪寒に襲われてそこから丸10日間寝室に軟禁される。医者に予告された快癒時期も通り越し、年まで跨いでしまった。微熱も残っていたがいい加減に外に出ようと元旦に公園を散歩したところ、あくる日に登山後のような筋肉痛に襲われ、階段を一段登るたびに脱臼したような格好になる。年越し用に買っておいた嗜好品や、お節料理でも作ろうと買い込んだ食材なども、雲散霧消してしまった。いつまで経っても治らないがために陰鬱としながら、仲間を求めるようにカウリスマキの映画を布団の上で見ていたが、全てを失っても人間にはつながりができるという監督の姿勢に打たれたのか、それとも皆アルコールを浴びるように飲み、夜道を歩いていれば必ず暴漢に殴られるようなフィンランドの光景が絶望的すぎたからかはわからないが、久しぶりに出た外の世界はいつもより美しく思えた。
年明け早々、次年度のゼミ決めが行われる。今年一年で痛感したのは、私はまだまだ教育者として素人に毛が生えた程度であるということだ。人間を育てるという点において、先輩の先生方には全く及ばない。学生にコメントをする上では否が応でもこれまでの人生がふりかかってくるが、いい加減な生き方を反省することしきりである。そんな私にできるのは時間をかけて学生の話を聞き、一緒にものを見て考えることぐらいだ。それにもかかわらずついてきてくれる物好きな学生たちには感謝しかないが、私もこのままではいけないと思うので、教員としてもっと成長していきたいと思う。
二週間ぶりに会ったゼミ生たちは、私が年末に書いたブログ記事を死亡フラグだと言って笑っていたが、教員のいない間に彼らは大きく成長していて、この一年の成果が少しずつ形として現実化していることに、涙腺の緩みを隠しきれない。どこまで学生を信じられるかが教育のキモだとはよく言うが、まだまだ私は心配性の過保護であり、流感で寝込むぐらいでちょうど良かったのかもしれない。はてさて、泣いても笑ってもあと数日である。彼らを信じていることにして、年末から持ち越した仕事を消化しようと思う。

消息

卒業制作と論文指導を除き、今年の授業が終わった。夏休みからはとにかく「視覚言語」の授業準備が大変で、ストレスと寝不足でみるみる体調が悪化し、体重も増えた。もともと冬の気候に弱いのに、今年はそれに追い打ちがかかった。
授業が終わった日の翌朝、スイスの友人から消息が届く。彼の新しい本が出版されるとのことで、訪日予定の知人経由で私の元に届けてくれるという(それも非常にスイスらしいネットワークである)。ジュネーヴ図書館の司書さんが「同じようなことを研究している人がいる」と引き合わせてくれて以来、われわれは本や論文を書くたびにお互いの原稿を送りあっている。私の本は日本語なので彼の書棚の肥やしになっているだけであろうが、彼はいつも祝福のメールを送ってくれる。エアポケットのように空いた時間に地球の向こう側から報せが届いたことが、何より嬉しかった。こちらからはしばらく出版の報せを送ることができていないが、これを機にまとまったメールを書こうかと思う。
11月には突貫で旭川に行った。子供の作った環境地図の展覧会を見るためである。すでに氷点下に近い気温の旭川は、寒風吹き荒ぶといった体で、バスで空港から駅に到着すると同時にショッピングモールに駆け込み、肌着を着込まないと寒がりには耐え切れないほどであったが、北国の寒さには清々しいものがあり、意外にも心地よい。それでも、夜に飲み屋で話し込んだ地元の人によれば、日本の最低気温である-41度を叩き出したのはほかならぬ旭川の地だというから、こんな寒さは序の口も序の口なのだろう。ダイアモンドダストの作り出す光景は何ものにも代え難いからぜひ見に来いというが、問題はいつそれが到来するかわからないことだと笑う。
わたしの幼少期に通った習字の先生はここ旭川の出身で、親に連れられ、先生の書いた字を見に層雲峡のホテルまで来た記憶がある。当時のホテルにはおもちゃのパチンコがあり、暇つぶしにやっているとフィーバーしてしまい、景品として女性もののパンツが出てきたことが強烈な思い出としてある。そのことを誰に話しても信じてもらえなかったのだが、再訪したこの旭川で奇遇にも同世代だという飲み屋の店主に話すと、「あった、あった」という。30年来の記憶が確かめられた瞬間であった。
年内は、入試と少しのデザインワーク、それに手付かずのままの2本の原稿仕事が残っている。まずは些事を片づけようとシラバスと領収書の整理に精を出したが、些事は芋蔓式に出てくるもので、失敗に終わった。ゼミ生はなぜか教員の冬休みに対して呪詛の言葉を投げかけてくるが、実態はこんなものだ。夜中に光る赤や青のLEDに嫌悪感をおぼえつつ、筆を置いて床に就くことにする。

9月、10月はとにかく毎週授業準備に追われ、1つ終われば次の日にはまた来週の準備に追われるという状態が続き、修行のような日々を送っていた。ようやく芸祭休みに入ったと思えば、安らいだのは最初の土日ぐらいのもので、会議と学会発表なんぞが入れ替わり立ち替わりに押し寄せ、気温差と花粉のせいか、体調も悪化。卒業制作展のカタログのためにテキストを書き始めるが完全に迷宮入りし、精神的にも落ち込む。最終的には20以上のテキストファイルが死屍累々と積み重なり、勢いで脱稿するが気づけば翌日は学校。そんなにテキストに時間がかかったのは学生愛ゆえなのだという気は全くなく、ひとえに己の文章力の低下と若さの喪失によるものだというほかない。
ゼミ生に「ブログ書かないんですか?」と言われたので少しWordPressの画面に向かおうという気が起きて今これを書いているのだが、書こうと思っても書けないことが多すぎるというか、ほぼ毎日のように家と大学、最寄駅の駅前という三角形を自転車で往還しているだけだと、風の匂いに気候の変化を感じることも、色づく木の葉に見惚れることもなく、ただ銀杏の臭気を感じるだけで、何かを出力するほど自分の中に感情が蓄積しないのである。唯一あるのは学生とのやりとりだけだが、これは結構繊細な関係なので、無闇に書いて人目に晒すことは躊躇われるのだ。
そんな自分の状態に鑑みてひとつだけ思い出されることは、ブログなどというものを書き始めた学生時代のことである。当時私はTゼミに属していたのだが、確か藤幡正樹先生が特講で紹介されていたことをきっかけに、「Wiki」というWikipediaのベースになっている可塑性のあるエンジンを使い、教員を含むゼミのメンバー全員が日記的なものを書こうということになった。当然LINEなどはなくて、TwitterもFacebookもなく、BBSとmixiぐらいしか「ソーシャル」と言えるようなものはなかった時代に、HTMLエディタではなくブラウザ上から記事が書き込め(確かログインすら不要だった)、簡単な記号(マークダウン)さえ使えば見出しや強調などのスタイリングも容易なこのシステムは、性善説から成り立っている脆弱なものだったけれども、かなり魅力的で革新的なものだった。管理者たる私の知識不足のせいで、卒業後何かのタイミングでデータが吹っ飛んでしまい、今は跡形もなくなってしまったのだが(それに関してお叱りを受けたのを覚えている)、私のように頻繁に書く人も、ほとんど全く書かない人もいたけれども、お互いがお互いの記事に反応してやり取りする様は、今のSNSなんかよりはるかにクリエイティブだったと思う。そんなことを思い出したのはなぜかというと、ある日T先生が「君たちは好き勝手が書けていいね。大人になると書けないことばかりなのだよ」と呟いていたからだ。それでも折に触れて生徒全員に対するコメントだとか、ブライアン・デ・パルマの映画の感想などを書かれていたのを覚えているが、思えばあの頃のウェブ上のコンテンツは、「誰に対して書くか」ということを強く意識していたし、ある程度の熱量が必要だったから、それを読んだ方も多かれ少なかれそれを受け止め、咀嚼した上で反応していたと思う。一応全世界に公開されてはいるが、読むのは数人程度という、ソーシャルメディアというよりはコミュナルメディアというべきような、現実世界の延長にある関係性だったのだと思う(2chなんかは知ったことではないが)。「声の文化(文字を持たない口承文化)」から「文字の文化」へと移行するのに何世紀もかかったとすれば、ウェブ上でのコミュニケーションというのも当時はまだ移行期にあって、リアルなコミュニケーションをウェブ上でやろうとしていただけなのかもしれない(あるいは現在もその延長線上にあるのかもしれない)。それでもテキストをお互い書き合うというのは、和歌を詠み合うとは言わないまでも、幸福な関係性だったのではないかな、と思う。
こんな適当なことを書き連ねていると、木造アパートの部屋でこたつに入り孤独にプログラミングをしながら、頻繁にゼミブログの画面をリロードし、友人たちが新しい記事を書くのを待ち望みしていた様がありありと思い出される。今の人たちは想像できないだろうが、当時インターネットに張り付いていたのはゼミ中でも僕ぐらいのもので、皆(多分)集中して作業をしていたのだと思う。更新がないのは良い知らせなのだと、彼らが黙々と作業をしているのを想像しながら、諦めて自分も作業をしていたのだ。ゼミ生の人たちよ。君たちはこの12月から1月にかけての感覚を一生思い出すだろう。それは一人ではなくて、皆の関係性があってこそなのだ。わかるのは20年後かもしれないけれど、人生で一番幸福な時期なのではないかな。

2024/11/11

牛を忘れた牛小屋
セルフレジを見張る店員
ポイントカードを持っているか聞く業務
AIが作ったものを褒める人間
1円の古本の配達
特快の待ち合わせで増える快速の所要時間
おにぎらず

総復習

この20年間、本を読んだり、美術を見たり、映画を見たりしてわかったつもりになっていたことを、授業のために一気に言語化しなければならない状況になり、20年分のあれやこれやをもう一度読み直し、買い直し、整理し直す苦行の日々。理解したことは逐一書いてまとめておいた方がいいですよ、ホント…。締切がオープンエンドなら楽しいことこの上ないんですがね。勉強になります。

ある日見た夢

ゼミ生が私の名前をGoogleで検索してみると、検索結果の隣に部分的に間違いはあるがそう外れてもいない、私のプロフィールが生成される。こんな無味乾燥なプロフィールのためなんかに大学院を出たり本を書いたりしているわけではないぞと言いたくはなるが、ほとんど公的な情報に則ったものだし、驚きはない。しかし今のコンピュータ/インターネット環境にあるのは、テキストなり図像なり画面に表示されたもの全てから秘密が吸い上げられていく感覚である。あるいはそんなことを口にしたか疑いたくなるような、自分の頭の中まで先読みされているような感覚だ。データや履歴の共有はアプリを超えて行われるようになっており、メーラーで表示したものがブラウザやSNSアプリで広告として表示されることも珍しくない。今までローカルとインターネットの間でなされていた公開すべき情報の区別が意味をなさなくなり、PC上に巣食うAIの吸い上げた情報が知らぬうちにメーカー本社に送られ、ブラウザ上に巣食うAIとサーバ側に巣食うAIが画面上に表示したもの全てを吸い取ってネット上にばら撒いていく。今のところデータ利活用の規約や暗号化によって秘密が担保されているように思えているが、実際のところどのように蓄積されているかわからないし、それが何かのはずみで流出しないとも限らない。PCについているWebカメラやマイクなどの入力装置、街頭の監視カメラやセンサなどが日常のすべてを吸い上げてデータ化していくと、完全監視社会の成立である。全ての印刷物がデータ化され、内容が解釈されるのも時間の問題だろう。せっせと「可視化」やら「IoT」やらを叫んでいる人々は、それにエサを供与しているにほかならない。AIはインターネットの破壊者になるだろう。誰も個人情報につながるようなものを進んでネット上にばら撒こうとは思わなくなり、むしろ嘘ばかりを書き込むようになるか、自分の使っているパソコンに対して本音と建前を切り分けなければならなくなって、コピーレフトの民主主義の夢は挫折する。
全てが監視され、解釈され、共有されるようになる世の中で、残る人類最後の秘密とは何だろうか。父親の机の引き出しの中から見知らぬ女性の名前が書かれた手紙を見つける『エル・スール』の少女は、ネット上で検索した父の名前からかつての恋人遍歴を探し出し、住所や家族構成まで特定した上で「南」に向かうことになるだろう。あるいはすでに秘密は手に入れているのだから「南」に向かう必要すらなくなるのかもしれない。スイスの片田舎で彫刻家をやっている友人がSNSをやっているのを知って嫌悪感を感じたことがあるが、もはや地球上にインターネットと無関係に暮らす原生林はないのだろうか。確かトニー・スコットの映画にアメリカの荒野にあってなんのネットワークにも繋がっていない秘密基地のような場所が出てきたが、ああいう話も現実味を帯びてきている。私の部屋のどこかに眠っている手紙や紙片たちは、マディソン郡の橋の息子たちのように、いつかひっそりと見つけられてほしいものだ。今朝見たのはそんな夢である。

黄金ですね

ゼミでの自己紹介用に、自分の半生を社会史と絡めながらまとめる。ダイヤル式チャンネルのブラウン管TVに始まって、ファミコン、スーファミ、ハイビジョン、衛星放送の小学生期、そこからWindows95、ポケベル、PHS、携帯電話、プレイステーション、セガサターンが渋滞する中高生期を経て、OS 8からOS Xへと移行するMacに触れる大学生期はなかなか激動の20年だなと思ったり、これまで観た映画や影響を受けた書物・展示などを列挙する作業などは非常に楽しかったけれども、やるべきことにいきなり飛び込まず外堀を全部埋めてからようやく本丸に突入するような回りくどい人生にだんだん嫌気がさし始め、自己紹介などやるのではなかったと後悔しながら諦めの境地で当日を迎える。タスクを大量に抱えながらもこういうブログ記事を書いているのも先延ばし人生の一環であるのだけど、今後の人生ではもう少し近道することにします。多分。
後期に始まる授業の準備のためにこれまでに見た近現代芸術と芸術理論を総ざらいする日々だが、未だ広がり続ける風呂敷に、夏休みの死が予感から確信に変わりつつある。黄金週間はARTIZON美術館のブランクーシ展、根府川にある杉本博司氏の「測候所」などを訪ねつつ、早稲田松竹のエドワード・ヤン特集に駆けつけようとするも、既に完売御礼。パリのサントル・ポンピドゥーで行われているブランクーシ展に行くことも到底叶わず、袖を濡らすのであった。Fly me to Paris.