五月

去年から聴き始めたradikoの音質への不満が募り、チューナーで受信して録音し、データとして録り貯めるにはどうしたらいいか真剣に考えたところ、もうエアチェックなんてする人は絶滅危惧種に近いらしく、適当な値段で揃えることができない模様。音質は落ちるが192kbpsのmp3でタイマー録音できるポータブルのラジオレコーダーを友人に教えてもらって導入する。電源をONして最初に飛び込んできたのが上白石萌歌さんの声。アナログの電波を受信するというのはなんといいものか。どこで誰が何回再生したって同じ音が出るデジタル音源とは全く情報の質が違う。以来ラジオに夢中で、古楽、ジャズ、オールディーズの番組、それにニュースなんかも楽しみに聴いている。

そんなこともあって音楽を積極的に聴く気持ちが復活し、引っ越して以来眠っていたプリメインアンプとCDプレイヤーをある日試みにつなぎ、音質の違いを確かめてみようとしたのだが、どうもアンプのほうが壊れているらしく左の音が出ない。一応ケースを開けて埃を吹き飛ばしたが改善されず。もともと安物だったししょうがないから新しいのを買うかと思ったのが沼の始まり。最近はUSBメモリのみならず、WiFi経由でストリーミングサービスやNAS上の音を聴いたりできるアンプ(ネットワーク・レシーバー)なんて代物が老舗オーディオ・メーカーから出ていて、そりゃあまあ音質的には純粋なアンプを買うのが一番いいだろうが、それぞれを単体で揃える資金などないし、さすがにこの利便性には争い難いものがある。数週間ウェブサイト上の仕様と睨めっこした挙句、購入。データを入れたUSBメモリを挿して聴いてみた結果、これだけの機能が詰まっていてこの音が出ればいいか、と思ったが、最近はCD音質を超えたハイレゾのデータを直接ストリーミングで配信するサービスなんぞががあって、試みに聴いてみる。これはいかん!仕事にならない!悪魔のサービスだ。しかしながらもうデータの直接配信が物理的な記録メディアを超えてくるとなると、本格的にディスクなんてものは無くなるかもなあ、と思わされる。でもジャケットがあって、ライナーがあって、それを読みながら聴くという楽しみはなくならないでほしい、という複雑な思い。

某日、鈴本演芸場の寄席の配信があるというので聞く。テレビしか落語を見たことなかった私にとって、20代で初めて行った寄席は信じられないぐらい暖かい笑いに満ちた空間だった。またその雰囲気が真打の番になると静謐さに様変わりし、空間全体が噺家の一挙手一投足に集中する。そんな寄席が開けないこと、あるいは今日のようにお客さんを入れられないということがどのように厳しいことなのか、想像すらできない。しかしながら演者の皆さんはそのことを逆に笑いに変え、筋に入れば無観客であることなど全く感じさせない。申し訳ないぐらいの3時間だった。

四月

エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』35 mm上映とのことで渋谷に二度赴く。何度見たかわからないが歳を重ねるごとに味わいが増す。これまでは呉念眞みたいな大人になりたいと思っていたけれど(何の努力もしていないが)、ここでのNJという役は改めて見ると結構滑稽で、偶然再会したかつての彼女の前で「愛したのは君だけだ」なんて都合のいいことを言ってしまいながら、飄々と家庭に戻って妻に顛末を話してしまう。プラトニックな不倫劇でもあるのだけれど、なぜかNJを応援してしまうのは、呉念眞と元恋人役の俳優から滲み出る人柄だろうか。人生をやり直せるチャンスをもらったら人はどうするか。しかしNJの人生は、たとえうまくいかなくとも、娘や息子によって反復されていく。帰宅したNJはこう言う。

「青春をやり直すチャンスをもらったんだ。でも結果は同じだった。やり直す必要なんてないって気づいたんだ。」

過ぎた人生について悔やむよりも、今あるこの人生をより良いものとすべきだ。このNJの台詞にはヤンの現代を肯定する眼差しが集約されている。抑制の効いたロング主体の画面で展開する細部の連鎖の網の目が比類なきものであることは間違いないけれども、私にとってヤンの最も素晴らしいところは、その肯定の身振りである。この世は既に天国である。そう確信できない私は今日もエドワード・ヤンを見続ける。