卒制やら入試やらが終わり、そういえば最近足の指が痛痒いな、と思いふと目をやると、親指の爪に近い部分が赤くなり、一部白くなっている。痛みは大したことないし放っておいたら治るんじゃないかと思ったが、家人に「皮膚科に行ったほうがいい」と言われたので一応行ってみる。土曜の午前で鮨詰め状態の待合室で、木製食器の製造会社がほとんどガラスと見紛うほどの樹脂プラスチック製品を開発した、というテレビ番組を特に見るというわけでもなく眺め続ける。診療室へと促すアナウンスが鳴り響く頃にはすっかり閑散となっていた。開口一番「ああ、これは切開するしかないですね。」と呟く医師の言葉に慄く暇もないまま、処置室に案内されて指の膿んだ部分をメスで切られる。青白い塗り薬をたっぷり塗られ、ガーゼと包帯で巻いて、毎食飲み薬を飲めとのこと。帰ってその話を半分笑いながら友達にしたら、「おれの兄貴は爪を全摘出されて、もう少しで指切断ものだった。」と言われた。バイキンというものを舐めてはいけないのだな。
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渋谷でのフランス映画特集ももう少しで終わりなので、ルノワールの『自由への闘い(この土地は私のもの)』に駆け込む。一見、ルノワールにしては非常にわかりやすい映画になっているが、ナチに占領される「ヨーロッパのどこか」の街で、尊厳を保とうとしてレジスタンス活動をする人々と、恭順する人々、保身のため密告せざるをえない人々、それに『海の沈黙 静かなる海』のドイツ人将校や『大いなる遺産』のフォン・シュトロハイムのような「話せそうなナチ」が、テロ活動の密告をめぐって推測を巡らせるという人間関係は非常に複雑である。臆病で子供達にも注意できない教師がなぜ主役で、しかもそこにチャールズ・ロートンを持ってくるのはなぜだろう、きっと最後に覚醒するに違いない、と思っていたらやはりラストに大演説が待っていた。監督作『狩人の夜』以来気になっているが、太っちょで頼りない子供っぽさと、知性や教養深さを併せ持った不思議な俳優である(「Professor Sorel!!」と絶叫するところの素晴らしさといったら!)。
ソレル教授の死によって吹っ切れたロートンの「処刑されようが反抗し続けることに意味があるのです!」という大演説によって一応のカタルシスは訪れるのだが、そうしたフランス的潔さの一方で、ナチに恭順せざるを得ない人々や恭順したふりをしても生きながらえた方が良い、という考えの人々もいたわけで、この映画を一種のプロパガンダと見ることは容易いけれども、同時にそのような状況の複雑さというのも描いた映画であるということは強調しておくべきだろう。戦後に公開されたフランスで総スカンを食ったというのはわからないではないが、ルノワールは複雑さをかなり丁寧に描いている。
子どもたちが防空壕で爆撃機のモーター音を聞きながら「これはイギリス軍だ」とか「いやアメリカ軍だ」と言うところはやたらとリアルで、足音などが非常に耳に残る映画であった(自伝『Ma vies et mes films』によると、足音をきちんと撮るために相当もめたらしいが)。
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後日また渋谷に出かけ、もうすぐ終わってしまいそうな三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』に駆け込む。静かで、物音だけが聞こえてきて、クライマックスを告げる決定的なセリフもないまま、音だけで物語が通り過ぎていく。映画館を出たら、言葉の野暮ったさに嫌気がさすような映画であった。
どうやったら役者にあんな目をさせられるのだろう。お人形さんであることを求められる今の日本で女性のボクシング映画を撮ることは非常に難しいのだろうと想像されるが、全身全霊で役柄になりきった岸井ゆきのが、聴覚障害のあるボクサーの心情変化を繊細に描き出している。らくだ色の分厚いコートとマフラーを着せるだけで自活する妙齢の女性を表出しているところも素晴らしい。
ふと笑いを誘われるのは、トレーニングの途中で涙ぐんで奥に引っ込んだトレーナーが、再び現れた時にテーピングと間違えて鼻を拭いたティッシュを渡そうとするシーン。その絶妙の「間」に、この監督はサイレント映画も撮れるのだろうな、と思わされる。日本映画を積極的に観なければなるまいと反省させられる映画だった。
月別アーカイブ: 2023年1月
夏に書いた記事
インスタントに身につけた知識はやはりインスタントにしか役に立たないな、と思う昨今。DeepLに突っ込んだ訳文がいかに本物に近かったとしても、自分の頭を使って訳した訳文の方が、たとえ間違っていたとしても価値があると思う。偽物の文章とか、偽物の絵にこのまま慣れていったとしたら、偽物の裁判とか偽物の政治にも慣れていって、偽物の処刑が待っている。
それにしても、一昔前の「面倒臭いことはコンピュータにやらせて、人間はもっと高度な仕事を」というスローガンはどこかに行ってしまい、人間は怠けてコンピュータに仕事を譲って頭を使うことをやめた。自分で自分の地獄を作り出しているだけなのに。
「情報化時代」という言葉が正しいとしたら、外から来る情報ばかりに頼りすぎて自分の頭で考えない時代のことだろう。自分が考えるよりも前に知識がやってきてしまい、それの答え合わせしかしない。少なくとも美術関係者がそれをやってしまったらおしまいである。
後厄の始まり
1/1
4日から仕事なのであまり新年の感慨もなし。
新聞に目を通すと「タイパ」なる見慣れない単語が目に飛び込む。何の略語かと一通り頭に候補を浮かべてみるがピンと来ないので読み進めてみると、「タイムパフォーマンス」の略で、「コストパフォーマンス」すなわち「コスパ」からの派生らしい。いかにも頭が悪そうな造語だが、そんな英語が成り立つのかどうかはともかく、これからは「タイパ」の時代らしく、なんでもかんでも時間の効率性が求められるようになるらしい。そういう聞き慣れない単語を持ち出して人々を煽る人間にはひと儲けしようという意思が働いているのが常なので、私は心底軽蔑するけれども、世の中が時間対効果ばかり気にするのであれば、私はもっと非効率的な時間の過ごし方に身を委ねたい。時間のかかる行為には、どうしても時間がかかるのである。4時間の映画には4時間かけるなりの意味があり、10年かかる研究には10年かける意味がある。人生のほとんどを無駄に生きているような人間としては、そう思わざるをえない。
新聞はさておき、朝から近所の神社に初詣に行った後、昼過ぎに義理の兄の家族がやってきたので飲み始める。姪と甥が毎年楽しみにしている『相棒』がそのうちに始まったので一緒になって見てはいたが、話が全くわからない。私が酔っ払っているからかと思っていたが、姪と甥もわからないらしい。どうにも退屈なので田舎のおじさんみたいな質問を子供たちに振り、加齢を感じながら床に就く。
1/2
起き抜けにスマホを見ていると、いくつか記憶のないメッセージを送っていることに気づく。飲んでスマホを弄っても良いことはない。今年の誓いは「飲んでメッセージを送らない」ことに決める。
佐倉まで行って2回目の初詣。ラッキーカラーを教えてくれるおみくじを試みに引いた結果、「ベージュ」だと伝えられる。ハードルが高い。おみくじは小吉だったが、神社の帰りにふっとバスのナンバーに目をやると「6 66」。そして帰って時計を見ると「4:44」。なんとも幸先の良い後厄である。
夕方東京に戻るが、店がどこもやっていないのでカレー初めをする。
1/3
松の内から仕事ばかりするのもなんなので、アマプラでイーストウッド『リチャード・ジュエル』を見る。アメリカだと太っていて独身というだけで爆弾魔扱いされ、同性の友人も共犯者で恋人ということに仕立てあげられるらしい。FBI職員と新聞記者が懇ろの仲で、FBIは自分の立場を守るためならどんなでっち上げも厭わない、という単純化もアメリカ映画でだけ許される。相変わらず最初は不安な画面が続くが、徐々に顔が顔として機能し始めるから、流石はイーストウッドというほかない(マカレナのシーンはラジー賞ものだが)。夜のシーンで逆光のナイター照明で人物の輪郭だけを光らせたり、バシャバシャストロボが焚かれたりするのもお家芸。それにしてもキャシー・ベイツが中尾ミエにしか見えないのは私だけ?
1/8
深大寺初詣。おみくじは二年連続の「凶」。神は見ている。
帰ってイーストウッド『15時17分、パリ行き』を見て、よくも素人俳優でここまで撮れるものだと感心し(女の趣味は至極イーストウッド的だ)、続けて『運び屋』まで見てやはり感心する。厄介ごとに巻き込まれ苦虫を噛み潰したような顔をさせたらイーストウッドの右に出るものはいない。『グラン・トリノ』に続く贖罪第二弾で、本当にイーストウッド本人が人生の懺悔をしているかどうかはともかく、時代遅れの差別用語を吐きまくる白人ジジイが、「運び屋」稼業に手を染めながら家族との時間の大切さに気づき、最後は身の危険を顧みずに許しを請う(それにしてもダイアン・ウィースト演じる妻はなかなかのウザ妻じゃないか…?)。どこかケヴィン・コスナーの姿が重なるブラッドリー・クーパーに人生を説くイーストウッドの姿には、映画を超えた含蓄があった。仲良くなったマフィアたちの顔がとても良い。
本厄の終わり
12/26
封切りから一ヶ月近く経ってしまったデヴィッド・ロウリー監督『グリーン・ナイト』を見に日比谷へ。「シャンテシネ」から「TOHOシネマズ」に変わって初めて来た気がする。
中世の騎士道物語『サー・ガウェインと緑の騎士』をベースにし、アーサー王の前に突然現れた「緑の騎士」と、ガウェイン卿との《首切りゲーム》を描いた物語。ガウェイン卿がひたすらヘタレで、盗賊にコロっと騙されて身包み剥がされたり、故郷に置いてきた恋人そっくりの人妻に誘惑されたりと、ダメダメなところを描き続けるあたりが現代的というべきか。中世イングランドにもかかわらず主役が明らかにインド系の顔立ち(『スラムドッグ・ミリオネア』の彼らしい)なのもあまり違和感はなかった。偶然にもクリスマスの話で、過ぎてはいるが良い日に見に来られた。昨今のタイプフェイス復刻ブームの成果もみられる一本。
12/27
朝からZoomミーティング三連チャンのあと、アマプラで三宅唱監督『密使と番人』を見る。スコリモフスキの『エッセンシャル・キリング』よろしく、ひたすら山道を歩き続けるだけで映画になる。音楽のせいかこちらの聴覚も研ぎ澄まされる。身の丈ほども伸びたススキを掻き分けながら進むと、穂からこぼれた種が画面いっぱいに舞い、それに見惚れているうちに雪が舞い始める。
12/28
渋谷まで繰り出してジャン・ルノワール『黄金の馬車』。メリメの『サン・サクルマンの四輪馬車』という戯曲を下敷きにしているそうなのだが、実在のペルーの舞台女優がモデルとなっていたところを、イタリアの旅芸人一座(コメディア・デラルテ)の看板女優の話へと翻案し、南部イタリアの女性の象徴アンナ・マニャーニを主役に迎えたルノワールの意欲作。オープニング・クレジットの後、劇場の幕が開き、階段を中心に据えて上下階の空間を作り出した舞台上へと徐々にキャメラが寄っていくことで映画へと入っていく。オリヴェイラの『フランシスカ』(’81)の下敷きはここかと思われるが、映画内で上演される舞台という形式を自分が偏愛していることに気付かされる。しかしそんな知的な構造を採用してもルノワールの手にかかれば全くインテリ臭くなくなり、《la joie de vivre(生きる喜び)》を始終感じさせる103分間。説明不足の台詞があったりするが、それでも十分に人間の豊かさを取り戻させてくれる。21世紀に必要な映画。
12/29
2日連続渋谷でジャック・ベッケル『エストラパード街』。亭主に浮気された金持ちの女性が、ふてくされてパンテオン近くの安アパルトマンで一人暮らしを始めるが、同じ階に住む売れない歌手や、就職相談先のファッションデザイナーに言い寄られた果てに、結局夫とヨリを戻すという話。正直どうでもいい与太話なのだが、肉体的魅力をふりまくアンヌ・ヴェルノンの天真爛漫さと、テンポ良い台詞回し、旦那と家政婦役のパクレットの滑稽なやりとりですんなり見られてしまう(朝から赤ワイン飲むのね)。交通事故を機にヨリを戻すという演出が絶妙。
続けてルノワール『南部の人』。アメリカに渡り、これまでとは違うスタイルを作り出そうとしても、変わらぬ人間への眼差しが滲み出てしまう紛れもないルノワール映画。小川を撮らせたら天下一品である。しかし最終的に牛さんは助けられたのだろうか。
12/30
zoomで学生と面談して、その後仕事納め。
12/31
千葉へ。「紅白歌合戦」が流れているので見る。NHKの迎合ぶりが止まらないが、氷川きよしだけは素晴らしかった。