ゴポゴポという水の音と、遠くで子供たちがはしゃいでいるような声が、空間の中で反響し、また分厚い水の層を伝わってくることによって、くぐもって聴こえてくる。スクリーンには、上を見ているのか下を見ているのかもわからないような水中の映像が映し出され、水中にわずかに差し込む太陽光が、文字通り「光線」として照らし出す先に、魚や人の影がおぼろげに見えては消えていく。これは一体どういう状況なのかと思考を巡らせているうちに、不意にキャメラは水面に浮上する。その瞬間、激しい光彩が目を刺し、上空から落ちてくる無数の水滴の衝突音が、劇場の空気を震わせる。
キャメラは、深淵部がどうなっているとも知れぬ異国の泉=セノーテへと次々に潜っていく。恐る恐る、しかし勇敢にも奥へと泳ぎ進めながら、アロワナを思わせるような熱帯の魚や、水底に沈む獣骨など、静寂極まりない水中の様子を伝えていく。色彩豊かなセノーテもあれば、ほとんどモノクロームに近いものもある。そこに、恐竜を滅ぼしたとされる隕石以来のセノーテの言い伝えが、語りとして重ねられる。曰く、ある日泡が吹き出して人々を飲み込んだとか、若い生贄が捧げられたとか、映像を見ている者を震え上がらせるような内容が続く。やがてそこに少女の言葉でマヤの詩が重ねられ、現地人の顔のクローズアップや、祭りの様子が挿入される。「完璧」を目指すわけでもないし、何かを語り尽くしているわけでもない。それでありながら、「傑作」と思わず呟いてしまう。その面白さは、未知の場所を探究する好奇心と無縁のものではないだろうが、それ以上に、イメージとサウンドを組み合わせることによって生まれる映画の本質的な力が、しかも物質的な形でここに宿っているからであろう。だからといって何かが説明できるとは思わないが、映画館という空間で、鼓膜ではなく身体を振動させながら、スクリーンの光に身を委ねるということでしか生まれないような体験がここにはあることは間違いない。インタビューを読んで驚いたが、水中のシーンの多くはiPhoneで撮られたらしい。小田香『セノーテ』。新しい時代の到来としか言いようのない映画であった。