消息

卒業制作と論文指導を除き、今年の授業が終わった。夏休みからはとにかく「視覚言語」の授業準備が大変で、ストレスと寝不足でみるみる体調が悪化し、体重も増えた。もともと冬の気候に弱いのに、今年はそれに追い打ちがかかった。
授業が終わった日の翌朝、スイスの友人から消息が届く。彼の新しい本が出版されるとのことで、訪日予定の知人経由で私の元に届けてくれるという(それも非常にスイスらしいネットワークである)。ジュネーヴ図書館の司書さんが「同じようなことを研究している人がいる」と引き合わせてくれて以来、われわれは本や論文を書くたびにお互いの原稿を送りあっている。私の本は日本語なので彼の書棚の肥やしになっているだけであろうが、彼はいつも祝福のメールを送ってくれる。エアポケットのように空いた時間に地球の向こう側から報せが届いたことが、何より嬉しかった。こちらからはしばらく出版の報せを送ることができていないが、これを機にまとまったメールを書こうかと思う。
11月には突貫で旭川に行った。子供の作った環境地図の展覧会を見るためである。すでに氷点下に近い気温の旭川は、寒風吹き荒ぶといった体で、バスで空港から駅に到着すると同時にショッピングモールに駆け込み、肌着を着込まないと寒がりには耐え切れないほどであったが、北国の寒さには清々しいものがあり、意外にも心地よい。それでも、夜に飲み屋で話し込んだ地元の人によれば、日本の最低気温である-41度を叩き出したのはほかならぬ旭川の地だというから、こんな寒さは序の口も序の口なのだろう。ダイアモンドダストの作り出す光景は何ものにも代え難いからぜひ見に来いというが、問題はいつそれが到来するかわからないことだと笑う。
わたしの幼少期に通った習字の先生はここ旭川の出身で、親に連れられ、先生の書いた字を見に層雲峡のホテルまで来た記憶がある。当時のホテルにはおもちゃのパチンコがあり、暇つぶしにやっているとフィーバーしてしまい、景品として女性もののパンツが出てきたことが強烈な思い出としてある。そのことを誰に話しても信じてもらえなかったのだが、再訪したこの旭川で奇遇にも同世代だという飲み屋の店主に話すと、「あった、あった」という。30年来の記憶が確かめられた瞬間であった。
年内は、入試と少しのデザインワーク、それに手付かずのままの2本の原稿仕事が残っている。まずは些事を片づけようとシラバスと領収書の整理に精を出したが、些事は芋蔓式に出てくるもので、失敗に終わった。ゼミ生はなぜか教員の冬休みに対して呪詛の言葉を投げかけてくるが、実態はこんなものだ。夜中に光る赤や青のLEDに嫌悪感をおぼえつつ、筆を置いて床に就くことにする。