5月映画日記1

5月某日
悪癖がぶり返してステイサム映画を4本立て続けに見る。暇なのかって?暇だよ。
未見だった『メカニック:ワールドミッション』は前作とあまりに変わりすぎていて本当に見たのか不安になり、つい再見する羽目に。前はそこそこストイックな路線でやっていたのに、普通のできの悪いステイサム映画になってしまったじゃないか!コンセプトは大事にしてくれ。「ジェニファー・ロペスの出てるやつ」(『パーカー』)に続き、「ジェシカ・アルバの出てるやつ」として記憶にしまわれるだろう。
一方、フランスにいた時にポスターを見かけて悪い予感しかしなかった『SPY/スパイ』は意外に良作だった。太っちょのCIA分析官メリッサ・マッカーシー(きっとアメリカでは有名なコメディエンヌなのでしょう)が、パートナーの調査官でイケメンプレイボーイのジュード・ロウに代わって現場の調査任務を行うことになるが、意外な身体能力を発揮して、というコメディ映画。007のパロディとマッカーシーの自虐ネタが散りばめられ、合間にステイサムがステイサムのパロディをする。今までしっくり来たことのなかったジュード・ロウもチャラ男役がハマっている。あんなにデブネタやってもいいのかとアメリカのポリコレ像が歪むが、自虐だからいいのかしら。

5月某日
友人とステイサム情報を交換していたら、昨日キアヌ・リーヴス主演の『コンスタンティン』を見たと言われたので早速見てみることに。造形美と衒学的な台詞で2時間。シリアスなシャマランというか、エヴァンゲリオンというか…。ティルダ・スウィントンにあの格好させたかっただけじゃないのか!というぐらいハマっていた。レイチェル・ワイズがここでも堅実な仕事をしている。
その勢いで最近やたらとネット上で見かける『ジョン・ウィック』に手を出す。犬を殺された元殺し屋のキアヌ様が、ロシア系富豪のどら息子に復讐するため、拳銃を拳法みたいに使って何十人も殺しまくる。中学生が考えたような殺し屋世界の設定の中で、ユーモアもサスペンスもなくただただ血しぶきが飛ぶ。惰性で『チャプター2』も見始めたが、20分でギブアップ。本当に具合が悪くなる。今まで『ダークナイト』ほど退屈な映画を観たことはなかったが、それと並ぶかもしれない。『サムライ』の爪の垢でも煎じて飲めとは言わないけど、ジョン・ウーぐらいの爽快な馬鹿馬鹿しさは欲しい。

5月某日
お薦めアルゴリズムに促されるままに、見逃していた『ジャック・リーチャー:Never go back』を。やはりトム様が出るとそれなりに映画になるが、トム様の朦朧とした演技はもういいよ、とは言いたくなる。果たして前作が良かったわけではないが、マッカリー色が抜け、ロザムンド・パイクみたいな強烈なヒロインもいないので、こちらもコンセプトが希薄になってしまった。

5月某日
友人Kがテレ東でデンゼル主演の『イコライザー』を観たというので、公開当初見送っていた私も見る。ホームセンターの商品で戦うというゲームの規則は好きだけれど、意外と簡単に撃たれたり格闘で瀕死になって助けられたり、こういう映画には手際が必要なんだよ!と言いたくなる。せっかくの設定にもかかわらず道具の使い方にアイデアが感じられないのがなんとも残念。そもそも初老で腹の出たデンゼルにアクションやらせるのはどうなの?という懸念は最後まで払拭されない。世の中にはデンゼル映画というジャンルがいつしかできていたのだろうか。アントニオ・バンデラスを濃縮したみたいなロシアの刺客は、ひたすら気持ち悪いだけで強いのか弱いのか全くわからないまま終わった。メリッサ・レオが唐突に出てくる。
もう予想できるだろうがしょうもない私はその勢いで『イコライザー2』に手を出す。『1』で調子に乗ったデンゼルがほんとに水戸黄門みたいな世直しを始めてしまって、これはまた身内が痛い目を見るパターンではないかと心配していたところ、やはりデンゼルと心通わせた人は皆不幸になることに。CIA時代のチームメイトの前にひょっこり顔を出すところから少し面白くなってきて、ラストの嵐はなかなか見ものだったけれども、1のホームセンターみたいな路線ではなくなってしまってやたら残虐な復讐鬼に。今のアメリカではこういうのがウケるの?戦争ゲームのやりすぎじゃない?

5月某日
『ジョン・ウィック』に足らんのは『リミッツ・オブ・コントロール』なんだよと思ったか思わないでか、ジム・ジャームッシュ『パターソン』。どちらかというと苦手なほうのジャームッシュだし、朗読される詩の良さが全然わからなかったが(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩を知らないのが問題なのか)、あれだけシンプルな撮影でこれだけ魅せられるのは流石と思った。毎日郵便受けの傾きを直すところがリズムを作っていて良い。悪夢みたいな嫁の趣味に文句一つ言わないアダム・ドライバー、いい人すぎでしょ。

5月某日
友人からネトフリのドラマがどうとかアマプラのオリジナルがどうとか言われるが全く見る気になれず、時代劇専門チャンネルに入って『御家人斬九郎』の第1シリーズを見る。あれ、昔のテレビドラマなのに4:3じゃなくて16:9だ、というのが不思議でしょうがなかったが、リマスターの際にもとのキャメラマンの人が監修してフィルムからトリミングし直したらしい。いやあもう霧雨やら雪やら反射光やら撮影が素晴らしいし、演劇集団 円を中心としているであろう達者な俳優陣、よく練られた脚本、全くテレビとは思えない。6話や7話も良いが2話の丹波哲郎の回が最高である。私は子供の頃、両親が店で働いていたため学校から帰ると隣に住んでいる祖母の家に直行し、夕飯が供されるまでの間一緒に雪の宿や味ごのみなど食いながら夕方の時代劇の再放送を見ていたのだが(そのあとは相撲に流れる)、『水戸黄門』『大岡越前』『銭形平次』のループばかりで夜の時間帯の『鬼平』や『斬九郎』などは通ってこなかった。今と変わらずおバカだったので見てもわからなかっただろうが、妻は私の遥かに及ばない時代劇教養の中で育っており、隣で見ながら「ああ、この回覚えてる」とか、往年の時代劇俳優を見つけたりして喜んでいる。他の友人に時代劇の話を振ってみても思ってもほぼ全くと言っていいほど手応えがないので、我々は少々稀代な環境で育ったのであろうか。しかし高校には二言目には司馬遼がどうだとか隆慶一郎がどうだとかいう友達もいたし、そういう人は巷のどこに潜んでいるのだろうか…。

5月某日
時代劇で思い出したわけではないが山中貞雄『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』をDVDで。流石に丹下左膳が周りから浮きすぎだろと笑ってしまうが、いやはやそこがそうなってつながりますかという脚本がまず素晴らしいし、小津につながるような笑いもあり、飛ぶようなとんでもないチャンバラもあり、何より唄があるのがいい。子供と一緒に行った賭場で負けた帰りに左膳が刺客に襲われ、「坊主、目つぶって10秒数えてな」と数えさせているうちに相手を一刀のもとに切り捨て、目を開けた子供が唸る暴漢を見つけて「なんであのおっちゃん唸ってるの?」と左膳に聞いたところ、「博打に負けたのさ」と言うシーンがなんとも最高である。ジャンク映画を100本見るより1本見るだけで救われる映画があるのだ。

5月某日
疲れて早めに寝てしまい、深夜に起き出してヴィスコンティ『若者のすべて』を見る。父を亡くして南伊からミラノへと越してきた母と5人兄弟の家族が、ふとした娼婦との出会いから崩壊への一途を辿る。二時間で終わっても十分悲劇的なのに、残り一時間でさらに決定的な破滅へと追い詰めていくヴィスコンティの残酷さ。しかしこれがイタリア家族の愛でありまた宿命であるということか。ようやく見つけた半地下のアパート、アラン・ドロンの働くクリーニング屋、家族が引っ越す中庭のあるアパート、トラムが走るミラノの街。どれも忘れられない情景である。何と言っても次男シモーネを演じたレナート・シルヴァトーリが良く、ボクシングのシーンまで驚くほどリアル。湖畔での殺しのシーンは本当に素晴らしい。クラウディア・カルディナーレも『山猫』より断然良い。どうしてボクシング映画というのは切ない結末に陥ってしまうのだろうか。原題の『ロッコとその兄弟』の方がすっと腑に落ちる。
翌日同じくヴィスコンティの『家族の肖像』を。まさかヴィスコンティをオンラインで見る日が来るとは思わなかった。絵画に囲まれて静かに余生を過ごしたい「教授」のところに富豪夫人と2人の子供がやってきていきなり「上の階に住まわせろ」とゴリ押しし、渋々了解したものの実はその愛人のための隠れ家で勝手に改装を始めるやら事件に巻き込まれるやらという、見ているだけでも悪夢みたいな状況。しかし散々な迷惑をかけられても実はまんざらでもない教授は「老人というのは難しい生き物なのだ」とかなんとか言いながら、間借りを許してしまう。車椅子生活のヴィスコンティが移動できる範囲で撮られた室内劇として有名で、今更何を付け加えることもないだろうが、富豪夫人のファーだらけの俗悪な服、夫人と娘の愛人の共有、娘と息子と愛人との乱交趣味、夫がファシスト政治家であるにも関わらず左翼活動家を愛人に囲っているところなど、富裕階級の奇妙さ、エグさを描かせたら右に出るものはいない。人間の孤独さやその埋め合わせとしての愛、ないし性愛を建前なく曝け出させるところはほとんどファスビンダーと言ったら順序が逆だろうか。タイトルバックで延々と積み重なっていく心拍計の記録テープが教授が病床に就いているラストを既に予兆しているところとか、それに続くショットで教授が吟味している貴族の肖像画(=カンバセーション・ピース)が映画を貫くキーとなっているなど、至極古典的に映画的である。誰でもいいようで誰でもよくない一瞬のドミニク・ザンダとクラウディア・カルディナーレの使い方も良かった。これがなぜ日本でのヴィスコンティ・ブームを引き起こしたのかは想像だにできないが、昔の映画観客の方が今より遥かに寛大で教養があったのだろうと思わされる。

当然ながらフィルムはフィルム上映の方がいいし、映画館の方がスクリーンが大きくて音響も良いのだが、このように映画館に行けない状況になると、不特定多数の他人と一緒に多少の欠点など許容しながら笑ったり泣いたりするということが、映画体験のかけがえのない要素なのだと気づかされる。初めて落語を寄席で聴いた時のあの暖かさに似たようなものが、それほどではないにせよ映画にもあるのかもしれない。もちろん観客が1人という時もままあるのだが、それはそれで緊張感があって良いものである。言うても詮無きことだが。