『トゥー・ラバーズ』

理由はわからないけど突然腕に蕁麻疹ができて、どうしようもなく痒いので打ち合わせをキャンセル。寝っ転がっていたけど眠くないのでDVDでジェームズ・グレイ監督の『トゥー・ラバーズ』を見る。
こんなにナイーブで叙情的な話を、抑制された知性的な演出で、説話に偏ることなくあくまで映画的に、かつ丁寧に撮り上げることができる監督というのは、現代アメリカにとって非常に貴重な存在なのではないだろうか。この映画の室内美術に象徴されるように、「家族」を引きずったまま生きる現代の若者の撮り方はとても独特だ。
この映画は、窓の向こうにいるはずだった別々の恋人を持つ男女同士が、ふとしたきっかけで出会い、窓のこちら側(家族、既にいる恋人)を意識しつつ、窓の向こう(別の恋人のもと)に到達し、2人で全く別の場所に出て行くまでの物語として視覚化されている。実際はその禁断の越境がもたらすその後についてが描かれるのだが、基本的に窓のこちらと向こうとの間の葛藤として描かれていると言ってよい。窓のこちら側は壁にかけられた無数の写真によって主人公の男性のルーツである「家族」が象徴され(監督がユダヤ系であることもそこに影響しているだろうか)、唯一の個人的な居場所である自室は、写真が趣味である主人公の大量の資料や荷物によってその性格が表され、それと同時にごく個人的な空間であることが視覚化されている。そして自室の窓からは、まるでヒッチコックの『裏窓』のように別の恋人の生活が覗き見られ、その間をつなぐのは電話によってでしかない。中でも、窓の向こうの恋人と自分の部屋との間の空間的な上下関係が肝であり、自分よりも社会的にハイスペックな男性と不倫関係にある恋人に対する劣等感がそこに無意識的に表されているといっていいのではないだろうか。
それにしても、はじめに2人が出会った時、絶対にこの恋はうまくいくはずがないと思えるのはなぜか。それはいつも幸せになることが無いホアキン君の法則を知っているからだろうか。しかし最初に金髪のグウィネス・パルトロウが現れてこちらに笑顔を見せたときの、絶対にそっちにいってはダメな感覚は、どうにも決定的である。
個人的には『裏切り者』『アンダーカヴァー』『トゥー・ラバーズ』とここまで完璧なのだが、次の『エヴァの告白』が全く乗り切れなかったのは、私がお子様だからか、マリオン・コティヤールが嫌いだからか、あまりにも話がナイーブすぎたからだろうか。もう一度見てみたい。
ブレッソンと全く同じドストエフスキーの『白夜』を原案としていながら、もはや比較対象にならないぐらい全く別の話になっている両者を見て、映画というのは本当に面白いな、と思う。こうなったらそれを読んでみるしか無いな…….。
こうやって見るとブルックリンってとっても素敵な街に思えるけど、ね。