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3日目: BnFと『グランド・ブダペスト・ホテル』

WiFi環境がよろしくないので結局昨日の写真はまだ上げられないのだが、昨日帰ったらBnF(フランス国立図書館)から研究図書室の事前認定の受領通知が届いていたので、今朝早くからBnFへ。BnFは中庭の上部(地上)にあるリファレンス・ライブラリーと地下(といっても中庭が掘ってあるので地下感はない)にあるリサーチ・ライブラリーの2つに別れていて、大人なら誰でも入れる前者と違い、後者は少々複雑な手続きをする必要がある。学生は指導教員の推薦書等が必要なようだが、私は一応講師である、という肩書きで日本から事前認定(pré-accréditation)を申請していた。送ったのが金曜なので、土日挟んで4、5日経って受領通知が下りたことになる。
入口の金属探知機と荷物検査を通って中に入ると、インフォメーションがあり、リサーチ・ライブラリーに入るカードが欲しいと言うと順番待ちの整理券をくれる。そして右手にある別の窓口に行って少々の面接を受けると(かなりびびっていたけどカードを3日にするか15日にするか、というレベルで、研究内容についてはさほど聞かれない)リサーチ・ライブラリー用のカードと簡単なインストラクションをしてくれ、利用料を会計窓口で払ってくれとのこと(日本ではありえないけど、有料なのです)。展覧会などと同じ会計窓口で8ユーロ支払う。
ここまででとりあえず地下への潜入許可が下りたことになるのだけれど、ここからも結構複雑で、まずクロークで荷物を預け、代わりに透明の肩掛けプラスチック・バッグをもらう(BnFのロゴ入り)。ラップトップやデジカメなんかも持っていって良いのだが、全部こっちに移し替える必要がある。それを肩から下げて入場ゲートでカードをかざすと、開けゴマ、という感じで重々しい二重の入場門が開く。中に入ったら長いエスカレーターがあって、下の受付で閲覧したい本を言うと行くべきブース(だだっ広い敷地の中は分野毎に大きく別れている)を教えてくれる。再びカードをかざして中に入ると、静まり返った回廊に出る。目の前には例の庭園があり、ロの字型の回廊の両サイドに分野毎の図書室がある。この時点でかなり感動だ。
私は「地理学」の分野だったので「M」の図書室に行って司書の人に欲しい本を告げると「本が到着するまで40分待ってね」と言われる。待ち時間のことはなんとなく知っていたので、備え付けのコンピュータで目録を検索していると、カード読み取り端末を使って本の予約から席の予約、読みたい本のリストの作成など色々なことができることが判明。嗚呼、わが母校の図書館もこれができたら!と無責任なことを思いながら調べ物をしているうちに40分経過。ようやく読みたい本とご対面。ここで「席は取った?」と言われるので「まだ」と言うと、相応しい席を取ってくれる。席にはEthernetケーブルと電源がついていて、建物全体で統一された木材でできたオリジナルのデザインの机と椅子である。いやはや、機能からデザインに至るまでお見逸れ致しやす。
で、結局読みたい本は申し込んでも「これは状態が悪いのでやっぱダメ」とネット経由で言われたりして今日のところはあまり成果が上がらなかったが、利用者カードを取得して使い方を覚えただけでも良しとしなければならない。「本の写真を撮りたいのだけど」と言うと、本ごとに1枚誓約書みたいなのを書かされて、撮ることができた。ちなみにリサーチ・ライブラリーのフロアにはカフェがあって、軽食を取ることができる。ちょっと高級っぽいサンドイッチ700円近くしたことには憤慨したが、文字通り背に腹は代えられないので、冷たい昼飯をむしゃむしゃ食べる。

昼食後、地上階に上がって「été 14(14年夏)」という展示を見る。つまり1914年、第一次世界大戦勃発前夜のヨーロッパの展示で、最初は「フランス人はこうやって自国の春を褒めるのが好きよね」と思っていたが、当時の多色石版のポスターの数々や政治情勢を皮肉った地図の数々は思いがけず面白かった。

16時半ごろ図書館を出て、隣接するmk2のシネコンを見てみると、ウェス・アンダーソンの新作『グランド・ブダペスト・ホテル』がやっているではないですか。昨日Pariscopeで調べたところ結構やっているところがあり、さらにはレトロスペクティブまでやっているところがあることに狂喜していたのだけれど、ここで遭ったが100年目、というやつでシネコンに飛び込む。最初誰1人いないスクリーンに入って「ほんとにここでやるのか?実家の近所でソナチネ見たときも2人はいたぞ?」と思っていたら結局最終的には15人ぐらいにはなった。で、どうだったかというと、喋ってる軽口の半分以上はわからなかったけれど、終わった後しばらく立ち上がれないぐらい凄かった。これぞコメディ、これぞ映画ですよ。あー、もう一回行こうかな。ウェスの最高傑作かもしれない。

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2日目: Arts et Metiers

さすがに1ヶ月間旅日記を書くのもしんどいし、もう私も若くないので「ヨーロッパ最高!」とかそういう気分ではないのだけれど(どちらかというと悪いとこばかり見えるのね、年だから)、とりあえずフランス国立工芸博物館(と訳すのはいかがなものか)で久しぶりに「ヨーロッパ最高!」となったのでここに記しておく。工芸、と言ってもそれは科学技術(ArtsとMétiers)の博物館で、観測・測量から印刷・電信・計算・記録、果ては製鉄工場やダム、掘削機の設計にいたるまで、道具や機械、建築等々の技術発達が如何にルネッサンスや産業革命を実現したか、ということを、実物を以て知ることができる(ここ大事)という素晴らしい学習環境であった。というか、実物の凄さが全て物語っているわけですよ。ハンティントン・ライブラリーの貴重書展示を見たと気も思ったけれども、いくら教科書で「天体望遠鏡の発展が云々」とか「機械の発展が産業革命を云々」とか言っても全く実感湧かないし(事実日本は一週遅れから一気に近代化したわけだから途中の機械が残ってたりしないんだろうが)、こういう展示を見ている国民には絶対勝てないと思わされる。これは別に表象の話だけじゃなくて自然史博物館でもなんでも、これ小中学生のとき見てたら絶対人生変わるでしょ、という圧倒的な違い。グローバル化とかなんとか言ってるけど、ここまで物が違うとは。日本もがんばってるんだろうけど、この差はどうしたものか。
しかしコンピューターのブースになった途端にデジカメの電池が切れる始末。1週間撮り続けてもへたらなかった私のデジカメが……。電池自体がへばってないか、この先不安。なので写真はまた撮りに行こうと思う。

昼: アンファン・ルージュの市場で友人お薦めのクスクス。クスクスってこんなにいっぱい入ってるもんなのか!日本の詐欺!

その後、ポンピドゥーまで行ってみたら定休日で、しょうがないのでノートルダムを見る。よく見るとセンターの柱間に並んでいるのが9人で、左が8人で、右が7人と、シンメトリじゃない。ザグラダ・ファミリアにも通じるような彫刻の豊富さ・緻密さ。

アラブ文化研究所:
まさかあの窓の模様が動くとは。

歩いていたらムサビのパリ賞の寮である、してあんてるなしょなるでざーるがあった。ばざーるでござーる。周りには手製本のノートや手作りの封筒などを無茶苦茶高い値段で売る店があったり(ノート1冊7千円でござい)、地方の手工芸品を売る店があったり、確かに芸術の匂いがするエリアですな。手工芸を大事にすることはこの国の弱点でもあり美点でもあると思います。さへりを輸出したい。

夜: マレ地区のファラフェルの店でファラフェル。「世界一のファラフェル」と書いた店が長期休業でがっかりしたら、その数十メートル先に「この通りで一番のファラフェル」と書いた店がやっていた。そして並んでいるのはその向かいの店、という全く謎な構造。そもそも母国をさておいて「世界一」とはなんたることか。いや、でもまじでうまかったです。しかしこれでも800円近いんだよなあ。全部、あべのせいだ。

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1日目

とりあえず着いた。
移民街ど真ん中、四畳半ぐらいの部屋でなぜか窓にはレースのカーテンしかかかっていない。向かいのアパートの人が曇りガラスでシャワーを浴びててドキドキするじゃないですか。どういうプライベート意識なんだ。

機内で映画4本ぐらい見た。まわりが『LIFE!』ばっかり見てて、善き哉、善き哉。

『シックス・センス』
初めて見た。人が横切ったり、戸棚が開いたりするだけなのに、みんな真剣な顔して怖がってる、という馬鹿馬鹿しさが最高。やるじゃんシャマラン先生。オスメント君の今の姿を考えながら見るとしみじみする。

『グッド・ウィル・ハンティング』
見たことあったような、なかったような。とにかく若いマット・デイモンとベン・アフレックがいちゃいちゃしてるのがお美しい(脚本も彼ら二人)。ガスヴァン先生では一番乗れるかな。

『清須会議』
ごめん無理。「これは誰役」っていうのは名前呼べばいいってもんじゃないと思う。そもそもこの人の「コメディ」の認識には相容れないものを感じるし(とてもワイルダーやルビッチが好きだとか言われたくない)、映画になってないのは当然として、演劇としてもどうなんですか、これ。強いて褒めるとしたら中谷美紀の名古屋弁と踊り。

あと、『パシフィック・リム』の冒頭を見たけど、機内が暗いのにとにかく画面が光るので、自粛。隣の人が『ゼロ・グラヴィティ』見てたけど、意味あるのか、それ。

ホテルに着いて、フォーク20本セットとかシャンプーとか買い込んで就寝。ボディ・ソープがどれか全然わからなかった。
国立図書館の許可がまだ下りない(返信がない)のだけれど、どうしようか。

3月16日 EURと教会巡り

観光最終日。
しかしローマに向かうわけに行かず、ここでEURを見ておかなければならない。ムッソリーニの構想による万博都市で、現在はニュータウン化している。「EUR」と名のつく駅は3つある。とりあえず「EUR Fermata」で降りる。
駅を降りると地図があるが、現在地が全くわからない上に、目的の場所もよくわからない。そのため、行ってみればなんとなく手がかりがつかめると思って「EUR PalaSport」駅へ移動する。駅前には湖があり、水面に張り出している板の薄さとか、階段とか橋とかいちいちかっちょよい。あちらこちら歩くと、目的の建物のファサードが見える。あとは写真参照。

かっこいい

かっこいい

かっこいい

かっこいい

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テルミニ駅に戻り、ミケランジェロ設計の「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会」へ。
その後、近辺を散策しながら、旧市街にある「サンタ・マリア・マッジョーレ教会」。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会

サンタ・マリア・マッジョーレ教会

地下鉄に乗ってコロッセオへ。運良く10分待ちぐらいで入れる。

フォロ・ロマーノの前を通って「Giotto」と書いた看板の建物へ。しかしこれが食わせ物で、よくわからない無料の美術館(市庁舎?)の中をたらい回しにされて「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」の頂上へ。そしてわからないうちに「サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会」へ。「聖幼な子」は見れたが一向にジョットーは見つからない。そして一回降りて外に出ると、別の建物でジョットーの展覧会がやっていた。思わず時間を食ってしまい、既に夕方である。

未来派グループ

ヴェネツィア広場の前を通りながらパンテオンに流れる。このドームが鉄骨なしのコンクリートでできているとは信じ難い。

そして「サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会」にカラヴァッジョを見に行ったのだが、なんと修復中で見れず。まあこんなものだと今回の旅行の観光を終了する。

最後にナヴォーナ広場ぐらい見ておくかと思い、歩いて行くと古版画屋を発見する。観光客向けではないのか、物も良く、レンブラントの銅版画なんてものも飾ってある。ついつい1時間ぐらい費やしてしまった。途中、外から発狂気味のおじさんの声が聞こえ、店番の女性と談笑する。祖母に送る物を買って店を出て、ナヴォーナ広場をチラ見してホテルに帰る。結局、バチカンもルネサンスもろくに見れなかったが、ローマの現物をいくつか見れたことは学習の助けになるし、ぜひもう一度時間をとって来てみたい。都市的イメージの源泉を遡れたのが一番よかった。

3月15日 街道好きの受難

いよいよ観光できるのもあと2日である。固いパンの食べ過ぎでヨーロッパに飽きかけた前回に比べると、短い。パンで思い出したが、イタリアのパンはまずい。というか水分が少なく、固くて素朴だ。風土なのかもしれないが。
今日は昨日綿密にチェックした休館日・開館時間表をチェックしながら行動するはずである。何しろ観光最終日は月曜日だからだ。
まずは、という感じでフォロ・ロマーノに向かう。地下鉄駅で降りるとすぐ目の前にコロッセオがある。小学生の頃に絵に描いたことがあったものが眼前にあると感慨深いが、本物はそれほど神々しさはない。もちろん僕のロマンチックな夢よりも実用的だったということだろう。
フォロ・ロマーノはまさにピラネージの世界だ。ガウディ以来の「マジ?」という感覚が襲う。丘に住んでいたローマ人が、紀元前6世紀頃から湿地の低地を干潟して作ったもので、古代人がこれだけのボリューム、これだけのシンボリズムのなかに暮らしていたと思うととてつもない。そして、エブラールやらジュリアン・ガデやらプロストやら、20世紀はじめのヨーロッパの都市計画家がローマ賞として滞在して復原を行い、それを後の都市計画に活かそうとしていたことを思い出すと、都市に関わろうとするものとしてここを見れたことは非常に感慨深い。
フォロ・ロマーノを歩いていると、小学生の団体がサッカーをしている。どうしてここでサッカーをしなきゃいけないのだと頭に来るが、生徒がアホなら先生もアホで、ヘラヘラ笑って注意しない。見た目からして欧米人だが、こいつらにはアホが蔓延しているのだなと差別してやる。パンテオンでもギャーギャー騒ぐ馬鹿学生がいたが、外部の人に注意されるまで先生は止めなかった。「軽率にローマに来るな!」とでも言ってやりたかった。
パラティノの丘、ドムス・アウグスタナなどを見て結局2時間ぐらいそこにいたことになる。
次はフォロ・トライアーノへ。言わずもがな、トラヤヌスの戦勝記念柱があるところだが、記念中にはあまり近づけず、肝心の碑文は見れなかった。

ホテルのあったLaurentina駅

フォロ・ロマーノ

フォロ・トライアーノ、トラヤヌス帝のマーケット

地下鉄でテルミニに戻り、カラカラ浴場へ。浴槽が2,000から3,000設置できたというからそのボリューム感覚や恐ろしい。当時のタイルが少し残っていた。

カラカラ浴場

カラカラ浴場からは、「アッピア旧街道」と呼ばれる、紀元前4世紀に作られた道が残っていると言う。旧街道と聞いて僕の食指が動かないはずは無く、今日の予定はそこだけに定めて歩くことにする。しかし道の途中までは新しく舗装された石畳で、5キロ程歩かないと本来の光景には達せないという。

アッピア旧街道へ

街道を1時間ほど歩くと、「サン・カリストのカタコンベ」がある。初期キリスト教徒の共同墓地で、深さ4レベル、長さ20kmに渡る、周辺で最大のものである。アジア顔のガイドさんの話を聞きながら回る。ここは火山岩だから彫りやすく、埋めても無臭だそうだ。まず部屋を作りそこに棚状に穴を掘って埋葬し、フロアの部屋がいっぱいになると、どんどん地下へと掘り下げていったという。当時の碑文や埋葬品のかけらを見ながら思いを馳せる。
カタコンベを出た後、また街道を南下する。しばらくすると舗装が荒くなり、道脇にはローマの象徴であるマツが並び始め、突如として紀元前・紀元数世紀のレンガや石の量塊が出現する。ピラネージだと思いながら合計2、3時間歩く。どうせバスの駅か何かにぶつかるだろうと思って歩いていたが、一向に見つからない。日も暮れかけてきたのでやばいと思って引き返す。途中でバス停があったがいつ来るかわからないし、この際歩いてしまおうと思って結局カラカラ浴場まで引き返す。合計で5時間ほど歩いたのではないだろうか。靴が合わなかったのか、膝裏の筋肉が痛み始め、最後は引きずるようにして歩く。翌日にも響いた。

サン・カリストのカタコンベ

テルミニ駅に戻り、旧市街のスーパーでピザを買い、ホテルに帰って食べる。いつも通り写真を転送しながら寝る。

3月14日 ローマ!

今日はローマに泊まらなければいけないのだが、ミラノに後ろ髪が引かれる思いがするので、昼過ぎまでは残ることにする。
まずは「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ」に次ぐミラノの代表的美術館「ブレラ絵画館」(大きさから言えば一番だろう)へ赴く。中世からバロックの宗教画、マンテーニャの「死せるキリスト」をはじめ、ラファエロ「聖母の婚礼」(修復中)など。企画展と言えるのかわからないが、カラヴァッジョが4点公開されていた。「果物かごを持つ少年」「コンチェルト」「エマオの晩餐」(同名2点)である。やはり次に来るときはイタリアに1ヶ月ぐらいは割いてフィレンツェ、ヴェネツィアを含む各都市を回らなければいけないなと思う。そんな機会があるかどうかは別にして。
その後、歩いて「アンブロジアーナ絵画館」へ。ここではレオナルドの「音楽家の肖像」、カラヴァッジョ「果物かご」、ラファエロ「アテネの学童(デッサン)」。ルクレツィア・ボルジアの髪の毛なんて珍品もあった。やたら金持ち趣味の美術館だが、物は良い。
ホテルで荷物を受け取り、ミラノ中央駅からエウロスターでローマへ。
ローマの駅が近づくと、新古典主義の駅舎が見え興奮する。フラットな石屋根の薄さ、モザイク、ガラスタイルのアーチ屋根、無柱のホール空間、やたらかっこいいのである。やはりムッソリーニは美意識が高すぎたのだと確認する。
その日はミケランジェロの「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会」に滑り込むも、ほぼ真っ暗。やってるはずのディオクレティアヌス浴場跡は閉鎖されていた。
近くのスーパーで買い物し、地下鉄終点のEURのホテルへ行き、部屋で夕食。いつも通り写真を転送しながら睡眠。テレビでランボーの最新作をやってたのはこの日だったか。「戦場にポリティカル・コレクトも糞もない。敵か見方だけだ」とでも言いたげなスタローンは現代映画らしからぬ血みどろの風景を映し出していた。ビールにはアクションが合う。

ブレラ絵画館

アンブロジアーナ絵画館

ローマでも未来派展がやってるらしかったが、行けず。

3月13日 コモ、記憶のマテリアル

この日は、ファシズム建築の本拠の一つであるコモへ向かう。イタリア北部の湖水地方でコモ湖がありリゾート地として有名である。
コモはコモでも駅がいくつかあって、ファシズム建築のことなど当然「地球の歩き方」には乗っていないので(癪に障っても「ヨーロッパ建築案内」買っとけば良かった)どの駅かわからず、とりあえず終点の「Como Lago」で降りれば何とかなるだろうと高をくくる。ホテルのあるBovisa駅からLeNORD線に乗る。電車が駅に近づくにつれ、徐々に合理主義っぽい建築物が目に入り始めると、あっけなくも「カサ・デル・ファッショ」が目の前に現れる。本物はそんなに緊張感が無い、と感じる。
とりあえず駅を降り、「カサ・デル・ファッショ」に行く。後ろを向けばドゥオーモが見え、そちらへ歩く。ドゥオーモは昼休みらしく入れなかったので、周りを歩いていると「i」がある。数年前にテラーニ生誕100周年が行われたのは聞いていたから、通じるだろうと思って「テラーニを見て回りたいんだけど」と言うと、「テッラーニー」と言っておばちゃんはテラーニ関連の地図をくれる。カサ・デル・ファッショは前日に予約しておけば入れたみたいだが、特にそんな気も起きなかったので、町にあるファシズム建築を見て回ることにする。
サンテリア=テラーニの「戦没者慰霊碑」を見にコモ湖岸に向かう。ヨットやボートなど、確かにリゾートらしき雰囲気が垣間見える。湖岸の緑地帯に入ると、情報に無いモニュメントが見える。一見、リベスキンドかカラヴァンのようである。見れば三つの階段が放射状に置かれ、その中心部には三枚の鋼板が組み合い、地面に向かって斜めに刺さっている。それぞれの鋼板には何か文字が書いてあるが最初は何かわからなかった。しかしその鋼板に向かう道の脇には各国語でナチやファシズムに抵抗した者達の「最期の言葉」が記されている。これはどうやら、慰霊碑らしい。サンテリア=テラーニのものとは別の、である。そして鋼板に向かう全部で3つあるうちの一つの道の脇には4本の鋼柱に挟まれたいくつかの石が縦に並び、その横にはどうやら強制収容所があった場所の名前らしきものが記されている。そして、後ろを振り返ると「HIROSHIMA」と書かれたモニュメントの中に広島のものらしき石が挟まれている。やはり、ファシズムと第二次大戦の記憶を持つマテリアルを使った慰霊碑なのだ。この「記憶を持った素材」と鋼板の使い方はカラヴァンに通ずるものを感じるし(どちらかと言えばカラヴァンは「記憶を持った場所」であるが)、派手さは無いもののリベスキンドに通ずるものも感じる。「i」でもらった地図にも何も無いしなあと諦めたが、帰国してから調べると「Gianni Colombo」というミラノの彫刻家の作品で、「ヨーロピアン・レジスタンス慰霊碑」と言うものらしい。先に言うのもなんだが、コモで見た他の建築よりも胸を打つものであった。
その後、一応テラーニを巡礼する。

ミラノに戻って美術館回りをつづけることに。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ記念科学博物館」に閉館1時間前に滑り込む。いきなり入った部屋が各種印刷機械・製紙機器の歴史を展示した部屋で、「フェストスのディスク」(レプリカ)、「シュメールの板」「北エトルリア碑文」などレプリカであっても初めて目にするWriting Spaceの資料があった。
他の部屋には時計の歴史、音楽の歴史、通信の歴史などが実物をもって展示されており、やはり日本とは教養として見ているものが歴然としていることに茫然。いくら情報が国際化してると言ったって、それは依然として限られたものである。そして、加えてレオナルドが設計していたものを模型に起こしたものが廊下にはズラリと並ぶ。時間を取って見に来たら果てしなく面白いところだが、今回はコモに足が向いてしまったのでしょうがないのだ。
科学博物館の後は、夜までやっている王宮を再訪し、「マグリット 自然の神秘」展を見る。ベルギーのマグリット美術館から来ているもののようだが、ベルギーにあれだけいたのに一度も詣でなかった自分はやはりアホなのだ。
昨日の未来派展でも感じたが、平気で時間軸を混ぜ合わせる展示方法は、流行ってるのかもしれないがあんまり成功しているとは言えない。同じテーマやモチーフを異なる年代で扱っている物を横に比較するのは良いのだが、慎重にやらないと混乱をきたすのだ。とはいえマグリットそのものはすこぶる面白かったのだが。展示されていなかったと思うが、裸婦が瓶詰めになったボトルを手にするマグリットのセルフポートレイトがベストだった。あんなポートレイトを撮ってみたい。

ようやく見つけたスーパーで某フタ収集家のためにフタ基準でビールを買い込み、ケバブを買って晩餐。翌日はローマに向かわなければならない。

3月12日 ミラノの未来派

朝、起きたら6時過ぎててびっくりする。だってミラノ行きの飛行機は8時半なんだもの。イーストウッドのおかげで飲み過ぎたのだ。
取る物も取り敢えず、散らかしている物はスーツケースに放り込んで出発する。格安航空会社easyJetが40分前までチェックインできたおかげでなんとか間に合う。
飛行機から町を眺めていたら、未来派が「イタリアは田舎だ」と行ったのがよくわかる。アルプスを超えるだけで、そこはヨーロッパでありながら地中海世界に変貌する。ミラノに着いたのは10時過ぎ。イタリアは、暑い。スペイン並だ。とりあえずマルペンサ空港から中央駅へ移動し、コインロッカーを探すが、無い。駅中が工事しているのが原因か。じゃあ観光地まで行けばあるかと思い、ドゥオーモまで行くが、ない。しょうがないからインフォメーションで聞いてみると、「中央駅にしかない」と言う。いやいや見つからなかったぞと思い、もう諦めて一旦宿に行くことにする(この時点でドゥオーモの外観とギャラリアは見た。
Bovisaという駅で降り、宿へ行ってチェックイン。カードがはじかれたらしく予約がキャンセルされていて、特別価格では泊まれないらしいが、もう動き回りたくないので通常価格でここにする。
とりあえず昼飯を、と思い目の前のケバブ屋に飛び込む。「ボン・ジョルノ」とか言ってみる。でも向こうは何言ってるのかわからないので「ドネル・ケバブ」と言う。「持ち帰り」とか「水」とかをフランス語のイタリア風読みで言ってみると、なんとなく通じる。トルコ人はいいやつだ。近いこともあり、ここから4食連続で僕はケバブを食べた。「ケバブ屋のトルコ人は2回目で友達になれる」理論を見出す。やつらには差別的な視線が全くない。すばらしい〜。
ケバブを満喫した後、ドゥオーモに戻ってドゥオーモの内部を見学する。その後、徒歩で上に登って屋根へ。
ふと見ると、ドゥオーモすぐ側の王宮で「未来派」展をやっている。他にも2つ展示をやっていて、「侍」と「マグリット」だ。今日は他に行けるところも無いし、これは行かなければと思い、未来派展に入る。
未来派展は、未来派のひとつの拠点であったミラノであることを強調し(ローマに行ってわかったが、そちらでも同時に未来派展をやっていた)、所謂自由詩よりもボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、バッラの未来派以前の絵画的修養(色彩分離(点描)やセザンヌ的絵画)を多く紹介し、それが未来派的な運動表現(といっても各々の指向は分節されるが)にどう変わっていったかという経緯に重点を置いている。また、もちろんデペロの機械人間美学の作品も多い。その点数たるや日本で待っていても永遠に来ないだろう数だから、非常に刺激的である。が、同時に、20年代以降の未来派がいかにつまらなくなっていったかを目の当たりにもできる。あと、現代の未来派みたいなのも展示していたが、いただけなかった。何はともあれ、ミラノで未来派展を見れたということに幸運を感じたい。

それにしてもやつらは本当に「アリーヴェデルチ」って言う。真似して言ってみる。

3月11日 ミナールとグラン・トリノ

この日はEcole des Ponts ParisTech図書館でミナールの調査をする。また、寺さん夫妻と過ごす最後の日であった。
朝、図書館に行くためパリのリヨン駅からRERに乗ってマルヌ・ラ・ヴァレ駅に行く。ところが、駅が違ったのである….。
大学住所を見て「マルヌ・ラ・ヴァレ」と書いてあったので疑いなくそこに行ったのだが、そこはただディズニーランドがある町であった。慌ててMacを広げてアクセスマップを確認すると、住所はマルヌ・ラ・ヴァレではあるが最寄り駅は20分前に通り過ぎたノワシー・シャンという駅だったのだ。で、慌てて戻ると確かに「シテ・デカルト」と呼ばれる大学都市だった。
大学図書館に行き、担当の方に取り次いでもらい、資料を見せてもらう。隣のおじさんもなんとミナールを見ていたが、この辺の話はカメレオンの時にでも話す。

4時頃終わり、パリに戻ってとりあえずパヴィヨン・ドゥ・ラルセナルに行く。

パヴィヨン・ドゥ・ラルセナル。最近増えている都市ミュージアムである。

ありがちな都市模型。正直、北京の方が凄みがあった。

「アルセナル」の名前の通り元は兵器庫だったらしいが、内装は潜水艦のよう。フランスの現代デザインは好きではないが、ここも例に漏れない。ただ、歴史の勉強にはなるんだろうけど。
二階は最近パリを走るトラムの展示。フランス語わからないとダメなパネルばっかりで全然わからない。一階でカメラの電池が切れたので写真は無い。
三階はイスラム文化研究所のコンペの展示。「いわゆる」建築プレゼンテーション。
都市ミュージアムはもちろん存在するべきだが、展示があまり良くなかった。
その後、カルティエ財団に行こうと思っていたがどうでもよくなって国立図書館BNFに黄昏に行く。

閲覧室までは行かなかったが、この建築は悪くない印象。あんまりありがたがろうとは思わないけど。ここに行く途中に通った橋の周辺も大々的に再開発やってたけど、ただ奇をてらっただけの建物が羅列する。明らかに下らない方向に進んでいる。

図書館の後は宿に戻って寺さん夫妻と合流し、近所で見つけたというラーメン屋に行って、パクチーたっぷりのラーメンに興奮し、シメに「グラン・トリノ」を見る。これについてはもう書いたので省く。
最後の夜はワインで酔っぱらいながら3時ぐらいまで映画の話をしてた気がする。とても良い夜でした。

素晴らしきチャイニーズ・グローバリズム!世界中に進出しつつ、リージョナリズムに根付いた味を出す。そして安い。

3月10日 唯「影」的な修道院 Couvent de La Tourette

この日は朝からコルビュジエのラ・トゥーレット修道院を見に行く予定である。
その朝からいきなりハプニングがあったが、とりあえず着けたので今となってはどうでもよいことだ。全てはフランス国鉄が悪い。つくづくJRはがんばっていると思う。
朝10時過ぎ、最寄り駅のラルブレール駅に到着する。しかし今回、地図も何も持ってきていない我々は、とりあえず進行方向を決めなくてはならない。フランス国鉄は最低でも、フランスの田舎の人達は本当に優しい。ツーリスト・インフォメーションの場所を教えてもらい、町の中心にいくと、ラ・トゥーレットは今来た道を戻ってひと町越えた2km先にある言う。この2kmというのが曲者で、山道をおそらく直線距離で2kmである。「ラ・トゥーレット修道院」と書いた矢印のある聖像で曲がったが、そこがまだ中間地点で、実際45分ぐらいは歩いたんじゃないかと思う。
ようやく着いて、レセプションで入り口のキーを貰う。修道院には今の時期、誰もいないという。

研究室ではない。

写真にいちいちコメントを入れようと思っていたが、こうしてアップロードしてみると言葉はほとんど必要なく、宗教性の無い、唯光的(あるいは唯影的)な修道院である。モデュロール、コルビュジアン・カーブ、数列、カラー・コンポジション、ブルータリズム、闇と採光といったあらゆるコルビュジエ的建築言語をコラージュしたかのような建築。外観はほとんど宗教建築に見えず、ひたすらファンクショナルであり、伝統的審美眼によるファサード配慮はほとんどされていないように思える。修道僧の住居部分はほとんどユニテ・ダビタシオン、あるいはシテ・ユニヴェルシテールのようなユニットである。それに対し、宗教建築にとって重要な螺旋階段部分は絵画的・彫刻的なカーブを用い、野蛮である。最重要部のクリプトはロンシャンで使った彩色採光窓(「光の大砲」)を使いながら、より瞑想的、しかしファンクショナルである(ドアはほとんど潜水艦のそれである)。
それぞれが矛盾しあっているようで、調和とギリギリの間を保っている。コルビュジエの求めた個人的生活と共同生活の調和がそれだったのだろうか。微妙に判断しかねるものを残した建物だった。
ラ・トゥーレットを見た後は、リヨンに戻り荷物を取って、その日のうちにTGVでパリ入りする。
しかしこのカメラは「曇り」のホワイトバランスが悪い。