EOの苦い涙

学務の合間に映画を見に行くと頗る調子がいい。
有楽町の商業施設の映画館にて、スコリモフスキ監督の『EO』を観る。ロバの一人称映画と聞いていたが、監督が唯一涙した映画だというブレッソンの『バルタザールどこへ行く(ちなみに原題のAu hasard Balthazarのほうが韻を踏んでて好きなのだがそのことはとりあえずどうでもよい)』とも違う。あれはどちらかといえば少女に災難が降りかかる田舎の悲しみ映画だったように思う(『少女ムシェット』とやや記憶が混濁しているかもしれないが、ヴィアゼムスキーがしょうもない輩に絡まれているのはなんとなく覚えている。いずれにせよ視線としてはブレッソン的なロリコン趣味だったように思える)。『EO』(ロバの名前になっている「イーオー」という言葉は、ディズニーくんだりに取り込まれてしまったクマのぬいぐるみの物語に出てくる「イーヨー/Eeyore」を想起させるが、これはロバの鳴き声に由来している・らしい)では、サーカスで団員の少女に愛されていたロバに、数々の災難が降りかかる。それはブレッソンよりももっと動物目線に近く、現代の様々な動物事情(サーカスからの解放運動、食肉・毛皮等のための家畜産業、それに伴う輸送従事者と移民問題等々)を反映しており、とりあえずの主人公である「EO」は野生動物(蛙、狐、狼)、家畜(馬、豚、牛、狐)とすれ違い、彼らと行動を共にしたりしつつも、何を考えているかは本人(本ロバ)しか知る由はない。彼の周りに現れては消えていく人間は押し並べて愚かに見えるが、そこに殊更の誇張はないように思える。EOはそれなりに生きているだけだが、様々な場所に運ばれ、時には奉られたと思いきや、その夜には立てなくなるほどの暴行を受け、その傷が癒えたと思った途端に毛皮農場に連れて行かれ、あわやというところで脱出したと思ったら、放蕩息子の随伴者に勝手に指名される。この映画に何らかの「メッセージ」があるのかはわからないし、本当にこの映画が動物を全く傷つけていない(No animals were harmed)のかもわからないが、ここで起きていることはどこにでも、人類の人口などを超えた動物の生命に起きていることだということは否が応でも伝わってくる。時折挿入される、「美しい」というほかはない自然の光景の中で、人間は勝手に歓喜し、落胆し、いがみ合い、奪い合う。動物たちからしてみればそれは愚かであるか少なくとも不思議なことであり、そのことだけは映画的事実として理解されうる。
何週間か後、ファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』の4K修復版が上映されるとのことで、新宿まで見にいく。なぜ上映されるかというと、フランソワ・オゾンが『ピーター・フォン・カント』なる題名で翻案したからなのだが、オゾンくんだりがファスビンダーについて語る資格など全くないと思うので、そんな枠組みはどうでもよい。しかし、武蔵野館(に行くのも10年ぶりぐらいな気がする)に着くと客席はいっぱいで、皆がどのような関心を持って集まったのかはわからないが、ひとまず喜ばしいことだと思う。前に見た時は10年ぐらい前だったのだと思うが、DVD鑑賞だったせいか、あまりしっくりこなかった記憶がある。しかし、猫の佇む階段を正面から捉えたオープニングから最後のスーツケースのシーンまでほとんど憶えておらず、憶えていたのはカーリンとペトラのとても似合っているとは言い難い珍奇な趣味の服装と、あのアメリカかぶれの娘の髪型と服装ぐらいであった。富と名声、女性としての自由は手に入れたが「結婚」と搾取に悩むペトラ(マーギット・カーステンゼン)、若さと無知と素直さだけが取り柄の無学なプロレタリアートのカーリン(ハンナ・シグラ)、才能はあるが愛する人にこき使われることだけが生きがいの哀れなマレーネ(イルム・ヘルマン)の繰り広げる、資本主義社会下で「愛すること」の不可能性を巡った愛憎劇。こんなことを思うようになったのも、歳をとったせいか。戯曲がベースとなっているこの密室劇で、プッサンの宗教画が壁に描かれた一室だけを舞台に映画が成立できるのは、ひとえにファスビンダーのダイアローグの素晴らしさと、ミヒャエル・バルハウスの工夫を凝らしたキャメラワークのおかげなのだと思う。好いた惚れたの話しかしない凡庸な恋愛ドラマばかりが横行している現代において、恋愛の社会性を突きつける、大変刺激的な2時間であった。それにしても猫はどこに行ったのだろう。マレーネが出ていってしまったら真っ先に死んでしまうのではないか、ということだけが気がかりであった。