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5/6-13

5/6
仕事。

5/7(土)
朝、テレビにてアフガニスタンの美術についてのドキュメンタリーを見る。中東の美術については全然無知で、関心はインドやチベット止まりだったのだが、ヨーロッパ人が中東について話すときのある種神秘めいた熱意のこまった表情や、ブーヴィエの旅における記述などを読んでから自分の中の興味が高まっていた。フランスにはいい人も悪い人もどちらかわからない人も含めて色々な中東の人がいた。だが興味を持った頃にはその文化は急速に失われつつあり、略奪されたアフガニスタン国立博物館の人が語るように自国の歴史を失ったという感覚はどのようなものなのか、想像すら容易くない。
昼から仕事し、夕方名古屋駅まで行く。

5/8(日)
朝、桜天神社へ。「名古屋三天神」なるものがあるらしく、そのひとつは我が家から至近にあって初詣に行ったりした天満宮だったらしいのだが、それらで「鷽(うそ)」という木彫り(または陶器)の鳥の置物(?)を毎年交換して縁起を担ぐならわしがあるらしい。全然知らなかった。ここはその一つで陶器の鷽。もちろん私が集めているわけではない。
夜、Skypeフラ語講座。今日は主に文法の説明をしてもらったが、我々の用意しておいたクロワッサンマフィンとフィナンシェドーナツを食べてみるコーナーを設けた。向こうは「そんなもん食えるか!」と言っていたが、日本人的にこういう珍料理を生み出す精神は理解できなくもない。よくも自国に全くなかったような食べ物を想像力と少ない情報だけで作り上げ、それを本物だと思い込んで食べ、挙句にはそれら同士を組み合わせて新しいものをでっち上げてしまう。とりあえずその努力は世界でも珍奇なものではないかと。でもちょっとフィナンシェドーナツは食えたもんじゃなかった。

5/9(月)
フランスからの食生活がたたり、今日、初めて胃カメラを飲むことに。辛い。聞いてたのと違う。
昼、ここぞとばかりに寿司ランチを食いに行き、雪辱を果たす。

5/10(火)–5/11(水)
書類書き及び仕事。

5/12(木)
父を除く家族全員で三重の祖母の家。正月以外に行くのは何年ぶりか。何もない田舎の村だが、この季節は良かった。花も咲いているし麦が実っている。昔石を放り込んで遊んだ穴で姪・甥も遊ばせる。
夜は弟のそっくりさんが店長をやっている居酒屋で魚を食いまくる。

5/13(金)
昼頃、高速バスで千葉へ。バスがダブルデッカーのため、高速の外の景色がよく見えるが、新緑が美しく、よくもまあこんな渓谷に集落を作ったものだとか、よくもまあこんな河口堰を作ったものだとか、関心しきり。この時期の日本は意外と(ではないかもしれないが)素晴らしいのかもしれない。

4/28-5/5

4/28(木)
昨日泊まっていった姪・甥と一緒に雨の中モーニングへ。朝からゆで卵を2つ食べる姪。
区役所まで車で送ってもらって保険証を受け取り、既に診てもらった病院と薬局をまわって診療代の払い戻しを受ける。栄で買い物をして帰り、夜はまた姪と甥に無茶苦茶にされる。ゆで卵を2つ食べた後で、人の顔の前に尻を持ってきて放屁するのはやめなさい。

4/29(金)
昼、蕎麦を食べてから松坂屋創業者の伊藤次郎左衛門の別荘を見に行く。軽井沢の帝国ホテルの意匠を模した玄関があったり、修学院離宮の橋を模した橋があったり、様々な種の竹が生えていたり、地下にインド風の意匠のダンスホールがあったり、謎の地下トンネルがあったり……。不思議な場所であった。
その近所にある、幼いころ遠日でよく連れられていった日泰寺に再訪。タイから寄贈された仏舎利を納める寺院だったらしく、日本唯一の超宗派の寺院とのこと。なつかしいみたらしを食べるが、これはみたらしというより醤油だんごだ。
その後、七尾天神で嫁が「うそ」をもらい、そのまま名古屋城見学に付き合う。初めて見た「おもてなし武将隊」は、かなりKOEIと『花の慶次』入っている気がする。同級生とか近所の人がやってそうでちょっとハラハラするが。その後、改装した大名古屋ビルヂングを冷やかす。
夕方、Fさんと会って沖縄料理。帰って深夜にSkypeでフランス語講座。疲れて寝る。

4/30(土)
朝、妻が東京に帰り、私は仕事する。

5/1(日)
終日、仕事。

5/2(月)
終日、仕事。

5/3(火)
書類書き、調べ物。夜読み始めたサミュエル・フラーの本が面白くて止まらなくなり、深夜まで読みふける。

5/4(水)
仕事。

5/5(木)
仕事。
夜、焼き鳥食って帰ってきて、Skypeでフランス語講座。主にサミュエル・フラーの話とクロワッサンマフィンの話。

12/23-25 クリスマス

12/23(水)
朝、寿司の仕入れ。
昼、ポルトガルの友人Aの部屋にお別れの挨拶に行く。ちょっとお茶するつもりがバカリャウのリゾットまでいただいてしまい、出発直前なのに非常に恐縮。しかしうまかった。スイスの友人Sやアルゼンチンの友人Fも来て一緒に食事する。アルプス出身というSの旦那さんの料理の話も興味深い。それにしても飛行機間に合ったのだろうか。
夜、モン・ドールをフォンデュ状にして食べる。まあまあうまい。

12/24(木)
今年いっぱいのフラ語の予定回数がすでに終わっていたため、今日は先生Bとお茶の会。動物愛護の話とユーロ圏特有の話になると私にはどうにも話すことがない。
ドイツの友人Lの家でクリスマスディナー会。ドイツ、イスラエル、アルゼンチン、オーストラリア、ルーマニア等々、手作り料理が持ち寄られる。我々は手巻き寿司とちらし寿司と饅頭。「スーシー」「アンコ」「モチー」が飛び交う。ルーマニアの人のロールキャベツが異常にうまく、余りをいただく。ここでしかできないようなクリスマスであった。つい日本には裸まつりがあるとか、正月にはモチを食べるが老人が喉に詰まらせて死ぬとか、そういう話をしてしまう。

12/25(金)
昼からサン・ジェルヴェ、サン・トゥスターシュを回る。朝来ればクリスマスのミサがあったらしい。夕方、日本の友人の働く某パン屋のカフェにひょっこり遊びに行く。おすすめのモンブランなどいただく。
その後、帰り道でペレ設計のベンジャミン・フランクリン通りのアパルトマンとイエナ宮/公共事業博物館(Palais d’Iéna/Musée des Travaux)、マレ=ステヴァンスの消防署を見る。
夜、デヴィッド・O・ラッセル『世界にひとつのプレイブック Silver Linings Playbook』を観る。『ザ・ファイター』も『アメリカン・ハッスル』もそれなりに良かったけど、これはちょっと奇跡的に良かった。ドキュメンタリーチックな撮り方をしてるくせに、ジェニファー・ローレンスが家に乗り込んでくるあたりで急に映画になるところがなんとも図々しい。賭けの相手になるじいさん、ずっとアラン・アーキンだと思ってたら違った。

11/29-12/5

11/29(日)
午前中、マルシェ。
夜、『M:i-III』。全く打ちのめされることのないJJA映画を「面白い」と表現していいかどうかはわからないが、トム様活劇としてやっぱり見入ってしまう。初見と同じく、フィリップ・シーモア・ホフマンがあまり活かされていないと思う。誰でもいいのでは。

11/30(月)
図書館地図部門にて作業。パリ地図の続き。今日も一人。
ファスビンダー『デスペア』。いつものファス組のドイツ人俳優の中にダーク・ボガードを放り込んで、英語劇。似ても似つかない赤の他人をそっくりだと思い込んで替え玉自殺しようとするチョコレート会社社長の錯乱模様を鏡だらけの部屋で演出。スイスの宿屋に警察が踏み込むところが途端に映画らしい。
その後トニー・スコット『トップガン』で不意に号泣。でもトム様はなんですぐ現役引退して教官になっちゃうの?

12/1(火)
風邪かアレルギーかわからないが喉が痛い。
しかし寝るほどでもないのでフランス語に行き、後は深夜まで仕事。

12/2(水)
風邪気味続く。30を超えてから風邪もしゃっきりしない。引くなら引けよ、という感じ。午前中から図書館にてパリ地図の続き。夜、『M:i ゴースト・プロトコル』。レア・セドゥーもっと出せ。

12/3(木)
昼、フランス語。夕方、チュリルリー庭園まで散歩。落葉しているとル・ノートルもなんだかわからない。
夜、私がこの世で最も影響を受けたであろう作品のひとつである『18h39(18:39)』の作者達に会いに行く。素晴らしい人たちであった。

12/4(金)
図書館にて仕事および大学に出す滞在記を書く。
夜、トニー・スコット初長編監督作『ハンガー』。全く違う場所で同時に起こっていることを次々につなぎ合わせる彼の編集的野心がよく見える。そのままジョエル・コーエン『バートン・フィンク』。そのまま変な人ばかりに囲まれる映画としてやりつづければよかったのに(でもそれに頼りきるほど変だとも思わない)、途中で殺人とか戦争とか持ち出してきてそれに対した説得力もなく、怖くもないし面白くもない。私には食えない。

12/5(土)
図書館にて少し作業。
大学に出す滞在記を書き上げる。

7/3-7/5

7/3
暑い。他に言うことがないぐらい暑い。日中部屋にいられないので買い物に行き、ついでに植物求めてMadeleine寺院の花マルシェまで行ってみるが規模が小さいし欲しいものが売ってない。

7/4
午前中、いつものマルシェ。食材のついでに植物を買う。
本日も猛暑により各地を転々とするが、ついにBnF新館が空調が効いてることを発見する。唯一のいいところだ。
寮を去った友人Hにもらったブレンダーでタイカレーをペーストから作る。エビを捌いてる時に一番蕎麦屋の息子だということを感じる。蕎麦打てないので(多分)。

7/5
天気予報が変わって急に涼しくなる。ああいい気候だと思って仕事していると突然後ろのドアが開いて若い男性が入ってきた。びっくりしつつ「何?」と言ったら「扇風機もう一個いる?」と言われ、「タダならくれ」と言ったら「ちょっと待ってて」って言って出て行ったが帰ってこなかった。よく考えたら日曜日なのにスタッフが働いているなんて変だ。本当にスタッフだったのだろうか。
昼、手伝いでバスティーユのマルシェについて行く。質はピンキリだが安さで言えばこれまでで最安。歩いてこれるし乗り換えも考える。
昼過ぎからカフェにて粛々と仕事する。涼しいうちにやっちゃわないと暑い日は無理。夜はE夫妻と飲む。

6/12-14

詳細に書いた日記が消えてしまって非常にショックなのだが、要点だけ書き記そうと思う。

6/12

早朝ゲントに向かうためにメトロに乗るが、技術的な問題が発生とやらで降ろされる。しばらく待ったがTGVに乗るのに危険な時間帯に差し掛かってきたのでタクシーに賭けることに。似非先進国め。渋滞もなくギリギリでTGVに滑り込む。

まだ朝の時間帯にゲントに着き、街並み、大学植物園、公園の銅像などを見ながら無意識にパリと比較していることに気づき、外国に来たのだと思っていることが(つまりフランスがホームになっていることが)少し嫌だった。

一時間ぐらい散歩した後にゲント美術館に辿り着く。ジュリア・マーガレット・カメロンの展示。言わずもがな素晴らしい。写真を積極的に撮っていた20歳前後の頃、写真史の本で小さく扱われていた鈍いピンボケしたような女性のポートレイトが彼女のもので、妙に心に引っかかっていたのだけど、先日のフラ語の授業で友人のEがこの展示のことを話し、約10年以上ぶりにそのことが蘇ったのだ。人に見せられるようなものではないものの私の人生の中で写真はいくらかの部分を占めていて、経済的な事情や効率性からデジコンで無制限に写真を撮るようになってから諦め半分で撮る写真に退屈さを感じていたここ数年間に、ふとアジェ、ザンダー、カメロンといった写真史的マスターピースへのアクセシビリティが到来したことで、ふつふつと何かしらの感情が私の中に湧き上がるのを感じる。大人としてこの感情をどう受け止めるべきか、私にはまだわからないけれど、そのことを呼び起こしてくれたこの展示と友人に感謝したい。

ほぼ寝ていなかったため美術館のソファで巡回警備員の目を掻い潜って爆睡。別の友人の薦めるレストランで昼食を摂ったあと、ホテルにチェックインして爆睡。起きたら22時で、全てが閉まりかけている街を回ってハンバーガーにありつく。帰って再び爆睡する。

6/13

朝重い体を無理やり引き起こして教会、伯爵の城、デザインミュージアムを回る。ミュージアム近くのカフェでふと目に入った新聞にヘルマン・ツァップの一面記事。見れば没年が書いてある。彼が死ぬこと自体考えたこともないぐらいタイムレスな存在だったのだが、ひょっとして近々亡くなったのだろうか(後で妻に確認すると一週間ほど前に亡くなったとのこと。合掌)。

フリーパスに付いていた運河クルーズの特典の恩恵に授かり、パリで嫌悪しているボートツーリズムにてゲントの町並みを見たり、Copyrightという素晴らしい建築・デザイン書店で小一時間過ごしたり、ゆったりとゲントでの時間を過ごすが、悲劇はこの後やってくる。非常に笑えない話ではあるが、お土産を買おうと入ったショコラティエにて自分用に買ったチョコチップアイスを食べた途端、神経を抜いて仮止め中の歯が割れたのである。恐ろしく意気を削がれた私は、ホテルに帰ってレセプショニストのおばさんに歯医者や救急病院に電話してもらったところ、明日の九時まで待つしかないとのこと。意気消沈してもはや何もする気になれず、部屋にて寝る。

 6/14

朝になり、少し歯茎が疼くものの痛いというほどでもなかったことに安心しながら、シフト交代したレセプショニストのおじさんに病院に電話してもらうが、痛くないならやめとけ、300 ユーロかかるし、と言われ、もう諦めることにする。かといってもう何もする気になれず、切符を買ってしまったのでどのみち行かなければならないブリュージュに行き、歯に優しいカフェのスープランチをありがたく食べながら手紙を書いたり最近のことをまとめたりしながら過ごす。ベルギーは何しろカフェが素晴らしく、古臭いパリと比べたら遥かに現代的で「デザイン」がちゃんと確立されて浸透していることを感じる。物価も安いし最高である。もはや観光する気にはなれず、マイナーな通りを散歩してふらっと無人の教会に立ち寄ったり雑貨屋で安い皿を買ったりして夜を迎え、TGVにて臭い街に帰る。懐かしくも何ともない。

6/8-6/14 受難

6/8
友人に展覧会のフライヤーを頼まれたはいいが、納期がたったの1日で、せっせこプログラム書く。

6/9
シーツ交換、フラ語、月イチ恒例レセプションパーティー、フライヤー打ち合わせ、村山さんとギオネさんのコンサート、展覧会メンバーの討論会、等々忙しい日。フライヤーはとても好評。寮のコミュニケーション担当のCに聞いたところ、こちらのデザイナーは修正をお願いしても「俺の作品だから嫌だ」という人が多いらしく、トラブル続きで依頼するのをやめたそうで、素直に修正した私は「素晴らしい!」と褒められた。まあ外国人なので勝手がわからないのでいくらでも修正しますよ……。

6/10
午前中、B銀行の口座開設のための面談に行ったが、「寮とのパートナーシップは終わった。公共料金の領収書がない人は作れない。ごめんなさい。」と言われる。大学にもらった説明書に書いてあることがことごとく out of date だな。一週間近くも待ったのに!寮に聞いたら「L銀行にしろ」とのこと。行ったら再び「一週間後」と言われた。なんでそんなに人を待たせるのに従業員を増やさないのか、まったく理解不能。この件に関しては理解停止しました。
昼過ぎにK原さんのアトリエでwebの打ち合わせ。建築関係の情報を沢山いただいた。こちらの人はこうして普段から「あれは行った?これ知ってる?」みたいに情報交換をする。ウェブより口コミの世界。オフィシャルな情報もたいてい間違っているか、気まぐれのように変更される。そういう意味では人的ネットワークが重要のようだ。
帰ってまたフライヤーの打ち合わせ。

6/11
フラ語の後、再度フライヤーの手直し。市立施設のオフィシャルなレターで、スポンサーも付いているのでレギュレーションがボークーボークーである。日本から来た急ぎの仕事もあってこの一週間とても忙しかったが、夜お礼に近所のバスク系バーに連れて行ってもらった。全てが美味しく、楽園のようだった。パラディーソパラディーソ。

6/12-14
いろいろ書いたのだが消えてしまった。
要約するとゲントに行ったら歯が割れた。

「プログラミング言語をつくろう その1」

1月18日(日)
プログラミング講座 pro·gram 0x17
「プログラミング言語をつくろう その1」

@大崎l-e
18:00-21:00
ドリンク代のみ
(終了後、新年会を予定していますが、初めての方もお気軽にお越しください)

発表会を終えてひと段落ついたところで、新しいシリーズをはじめます。
簡単なプログラミング言語をつくりながら、言語を作るっていったいなんなのか、言語を使って作品やパフォーマンスを行うことって一体何なのか、一緒に考えてみたいと思います。とはいえ、実利的な言語を作ったり、難しいことをやるつもりは全くありません。お気軽にお越しください。

対象: プログラミングを全くやったことのない方。これからプログラムを使って何かやってみようと思ってる方。ちょっとやってみたけど「わかんないし!」と諦めてしまった人。話だけ聞いてみようという方。

コンピューターは不要ですが、ノートパソコンをお持ちの方はご持参いただくと理解が進みます(その場合は予めProcessingをインストールしておいてください http://processing.org/download/)。

※講師の私用のため、2015年4月から2016年3月まで、この講座はお休みになります。

講師: 大田暁雄
1981年生。美術大学在学時にプログラミングを使った作品を制作し始める。2012年より大崎l-eにてプログラミング講座「pro·gram」を開催。

講座ホームページ
http://esporre.net/program/

さよならアメリカ さよならニッポン

こういう時勢だからか、はっぴいえんどの「さよならアメリカ さよならニッポン」という曲が無性に聴きたくて。特に再結成コンサートの時の映像をいつまでも見ている(動く大瀧氏が見れる!)。解散アルバムのためにアメリカでレコーディングし、ヴァン・ダイク・パークスやローウェル・ジョージ(リトル・フィート)が参加した曲だが、作ってきた曲が無くなった大瀧が困って2つだけのコード進行の曲を弾いていたら、そこにヴァン・ダイクがやってきていきなり「プロデュースさせろ」と言い、短時間で作り上げた曲だという割に、それまでバッファロー・スプリングフィールドというアメリカのバンドに影響を受け、ロックに日本語を載せようとしてきたはっぴいえんどのメンバーが、実際にアメリカに来て感じた二つの母国への複雑な感情が音にも詩にも純粋に現れているように思われる。問題なのは、松本隆の詞である「さよならアメリカ」は受け入れやすいのだけど、その後に「さよならニッポン」が続くところである。アメリカだけでなく日本にも訣別を。しかも「日本」ではなく(海外から見たところの)「ニッポン」というところが、この曲の不思議などこでもない感じを作っている。単にことばの音だけで決めたのかもしれないけれど。
政治的な歌では決してないが、さよならアメリカさよならニッポンな状況が曲の発表40年後にも続いていて、妙に意味を重ねてしまうのが哀しい。でも例えばデザインにしても状況はあまり変わってないよなあ。しかしこれはいくらでも聴いていられるいい曲。