10月某日 台湾日記3

朝、自然に目が覚めると既に時計は8時をまわっている。屏東行き列車の発車時刻は10時なので急いで身支度し、地下鉄で台北車站に向かう。四時間近い旅路だったが、車内で日記などつけているうちに着いてしまった。昨日のエドワード・ヤン展がそれほど濃密だったということだろう。
高雄を超えて屏東なる街まで来た理由はほかでもなく、『牯嶺街少年殺人事件』のロケ地を見ることである。頼りになるのは、90年代に作られたオールドスタイルのロケ地探訪ウェブサイトだけである。『牯嶺街』の舞台は台北であるが、多くのシーンをこの屏東で撮っており、特に台糖屏東総廠という砂糖工場の敷地内で重要なシーンが撮られているらしい。台湾南部は前回訪れていて、広い車道に巨大な看板、檳榔を売る店、突如現れる寺、といった典型的な風景を懐かしみながら歩いているうちに、台糖屏東総廠に着いた。
台糖屏東総廠は無料開放されている公園部分とセキュリティのいる工場敷地部分に分かれている。コンサートのシーンなどが撮られた「冷飲部」の建物を探すと、台糖のアイス売り場が目に入る。写真と見比べるとどこか違うような気もするが、リノベでもされたのだろうと感傷的に見ていると、やはり柱の位置などが明らかに違う。「冷飲部」は工場敷地の中かと思い、セキュリティのおじさんに身振り手振りで入場したい意思を伝えると、「ちょっと待て」と言われ、英語の話せる職員を呼んでくれる。すると出てきたのは教務補助のW君そっくりの若者で、こんな台湾の僻地まで来て知り合いそっくりの人に遭うものか、と心の中が矢庭に沸き立つ。「なんで敷地に入りたいのか」と言われたので「映画に撮られた場所が見たい」と言うと、「うちは砂糖工場だから映画は作ってないよ」と言われる。経緯を伝え、映画のタイトルを示すと「これは台北が舞台だからうちじゃないよ」とも言われる。インターネットが使えるのでスマホでロケ地巡りサイトを開き、幅200px程度しかない写真を見せると、ようやく納得してくれたようで、「冷飲部」の建物は多分あれだ、と先ほどのアイス売り場の隣の建物を指している。ただ、今は土地を貸していて、建物は珈琲の焙煎所か何かに変わり果ててしまい、見る影も無くなってしまっていた。「じゃあ大木を知らないか」と写真を示すと、「大木はたくさんあるからどれかわからない。あっちの方にかなりの大木があるけど、あれは大きすぎると思う。」と言われる。しょうがなく自分で探し回ることにし、礼を言って別れる。去り際もWにそっくりだった。
紹介された大木の方に歩いて行くと、それらしき別の大木があり、きっとこれだと確信して写真を撮る。これはガジュマルの木だろうか。映画史上、木陰で恋人たちが安らぐシーンは無数にあるだろうが、この木は特に印象的である。思えば、枝葉の作り出す柔らかな闇は、心を打ち明けるのにちょうど良い避難所となるのだろう。その気になれば木の裏側に回り込み、姿を隠すこともできる。実物は何気ない大木であるが、それを選び出した『牯嶺街』撮影クルーの選択眼を思い知る。
敷地をもう少し歩き回って本当にこれが例の大木なのかを検証したり、野良犬に追いかけられてアイス売り場に逃げ込んだりした後、先にチェックインしておいたホテルに戻る。
夜は素食の粽屋に入り、おばちゃんおすすめの「花生粽(ピーナツ粽)」と「養生粽」を頼む。前者は蒸した粽に甘辛いみたらしのようなタレがかかっていて、その上にピーナツ粉とパクチーが乗っている。後者は黒米などさまざまな米が入った体に良さそうな粽であった。おかわり自由だと言われた味噌汁にもパクチーが入っていて、なかなか良い経験だった。華語を理解しない私におばちゃんは一生懸命話しかけてくれ、四十年ここをやっていること、旦那さんと富士山に行ったことなどを写真を見せながら話してくれた。
その後、まだ夜も早いので明日のテレワークの下見を兼ねて「太平洋百貨」の方まで散歩し、チェーンの珈琲屋でお茶を飲みながら日記の整理をする。途中、雨が降ってきて、ガラスのカーテンウォールごしに見える風景はまさに台湾映画のようであった。
二時間ほど滞在した後、駅近くの聖帝廟と、5階建ての道教寺院を見学し、ホテルに戻る。