1/18-22

1/18(月)
数日遅れで妻の誕生日会を開く。語学で長いこと一緒のドイツのA、スイスのC、そして先日パリに帰ってきたアイルランドのGを招き、魚臭くなった部屋で手巻き寿司を食べる。皆が地元のお菓子を持ってきてくれて、お互いの国のことを話す。『静かなる男』を見たよ、とGに言うと、先日パリのアイルランド文化施設からフラ語に顔を出しに来た方がまさにあの舞台となった辺りの出身らしく、あんな場所、あんな暮らしが地上にまだ残っているのかとアイルランドへの憧憬を強くする。ビール飲んで、フィッシュ・アンド・チップス食べて、ウィスキー飲んで……。
ケーキだけは買いに行ったのだが、買いに行った時にちょっとした事件があった。というのも値段に怯えながら私が思い切って注文したタルトが、店員さんがそれを箱に入れた拍子に箱ごと落っことしてしまい、替えを探してくれたのだが在庫が一つしかなかったのだ。別の店員さんが「他に欲しいものはある?」と店員の決まり文句で笑わせてくれたのだが、本当に他のを選ぼうとしていたら、なんと落としたケーキを無料で私にくれたのだ(箱ごと落ちたので少し壊れてはいるが汚くはない)。なんという幸運!でもだったらもっと高いのを頼んでおけば良かった……。そしてスーパーで適当に買ったロウソクが、消してもまた復活するタイプのやつだったらしく(そんなのあるのかよ!)、みんなで全力で吹いても消えず、結局Cが指で消していた。珍妙な誕生日会であった。

1/19(火)
パジャマも着ずに寝ていたらしく、朝、半裸の自分に気づく。そして既にフラ語の時間が迫っており、急いで風呂に入って講座に出かける。アキオ、赤ワインはあなた向けじゃないのよ!と言われ、苦笑しながら席に着く。妻によるとなんと4人で8本を空けたらしい。けろっとした顔で授業に来ていた飲酒のプロ、アイルランドのGも、流石に苦笑いしていた。後でGに「ドイツ語圏の人たちはダメだな。君には名誉アイリッシュ・マンの称号をあげよう」と言われ、嬉しいやら恥ずかしいやら。
夜、妻と2人でカフェに出向いて手紙を書きまくり、帰って私は作業をする。フランス語を InDesign で組んでいたら、Sabon Next のアクサン・グラーヴ(è)とアクサン・テギュ(é)の位置が気になりはじめ、オリジナルの Garamont(d) のアクサンは前寄り/後ろ寄りなのか中央なのか調べているうちに深夜に。感覚的にはアクサンが中央にある方が「jusqu’à」なんて組んだ時に読みやすいのだが、でも Sabon Next 設計したのはフランス人だし、確かに気にしてフランスの印刷物を見てみるとアクサンは前後に寄っているのと真ん中にあるものと2種類ある。日本だとアルファベと約物の設計ばかり議論しがちだけど、それ以外のエレメントについては疎いし、「欧文」と一括りに言っても結構そこには各国間で慣習的な差があるような気がするのだがなあ。これは図書館案件だ。

1/20(水)
夕方、国立図書館新館に行くが予約の日にちをなんと1日間違えていたので、見られず帰る。別にまた来ればいい話なのだが、フランスに来てからこういう凡ミスが増えたので、ちょっとショック。
夜、出し巻き卵を作っていたら火災報知器が作動する。多少煙が出ていたのでその可能性もあるなと思ったが止め方が分からず、試しに妻が真ん中のボタンを押してみたら止んだ。しかし夜中の5時、寝ていたらまた火災報知器が作動する。煙なんかどこにもない。だいたい鳴ったところで誰も電話してこないし、ノックも無い。ついてる意味ないだろ、これ。今年の夏から法令によって設置が義務付けられ、突然寮の従業員がやってきて設置していったのだが、別にスプリンクラーの一つもついていないし、どこかに連絡が行くわけでもなく、ただピーピー鳴るだけ。馬鹿なの?

1/21(木)
朝、フラ語。火災報知器の話の流れで「フランスの機械なんか大嫌いだ」と言ったら「なんで?」と言っていた。フランス人的には自覚ないのかな。かつてスイス人に「あらゆるものがちゃんとデザインされてるね」と言ったら、「そう?」と言っていたし。そんなものなのか。消防隊員が火災元を見つけられるように設置が義務付けられたそうだが、えーと、消防隊員が来る頃には我々は死んでいるし、だいたい彼らは入り口のゲートとか開けられるんでしょうか?
フラ語終わりで急いでシネマテークに行き、短編3つを見る。オランダのJoris Ivens / Mannus Frankenの『La Pluie  Regen』、ジャン・エプシュタインの『Le Tempestaire / テンペスト』、ジャン・ルノワールの『Une partie de campagne / ピクニック』。ルノワール、撮影が途中で頓挫してしまったため短いものの、非常に美しかった。ふざけた人ばかり出てくるのに途端に人生の真髄に触れ、美しい自然が描き出される。結婚前の田舎での一時に自らを解放させた地元の男に結婚後再会し、あの頃に戻りたい気持ちをこらえて別れ際にやる一瞬のシルヴィア・バタイユの目の動き、打ちのめされる。

1/22(金)
朝9時、再び火災報知器が作動。ふざけやがって。こんなもの意味ないから取り外してやる、と椅子に上って弄っていたらポロっと剥がれた。ただ糊で貼り付けてあるだけで電池式らしい。このまま倉庫に放り込んでやろうとも思ったが、留守中にまた鳴られても迷惑なので、レセプションにたたき返す。
朝飯がてらカフェのカウンターでコーヒーを飲んでたらドイツの友人Aがやってきた。「昔うちの火災報知器は電池がなくなって鳴ったことがあるわ。彼らにはそれしかコミュニケーションの方法がないのよ。」と言っていた。赤ん坊か、お前は。
国立図書館新館に出直し、調べ物。50年代のフランスの書体見本帳を読む。
夕方終わったので、隣の映画館で『CAROL』2回目。1回目よくわからなかったややこしい撮り方が2回目にして理解でき、脱帽。子どもの頃親の本棚で見つけた本を開いてみるなんとも言えない感じに近いというか、ミニチュアの世界の中で行われている劇に入ってみている感じというか。観客はいつもガラス越しや隣の席、柱の影や階段の下など2人の登場人物の外から覗かされいて、重要なシーンだけポンと登場人物の前に置かれる。伏線もきちんと画面に収められているが強くほのめかされることもなく、50年代初頭の赤狩りの時代にいつもお互いが監視し合っている感覚がしっかり画面に定着されている。屋外のシーンになると映り込むものがこれで大丈夫かと思うシーンもあったりしたし、現代の街の中に古い車が走ってるだけのように見えなくもなかったが、衣装や室内は非常に凝っていて、窓の無数の擦り傷が印象的である。あとはこのどこか変な色調、粒子感で、デジタルで粒子をつけた感じには見えないよなと思い、帰って調べてみたらなんと Super 16 で撮ってるらしい。デジタル化に争いながら大判の 65 mm で撮るタランティーノやP. T. アンダーソンらの選択とは逆を行って、高精細性(という言葉はあるのか?)を捨てて粒子感を強調しているようだ。上映はデジタルだったが、稀に 35 mm で上映されるそうで、是非見てみたい。