9/12 ユニテ・ダビタシオン、ニース

朝、ホストのAに駅まで送ってもらう。安い宿代なのにここまでしてもらって本当に恐縮。

今日は旅の最終地点であるニースに移動するのだが、昼過ぎにマルセイユのユニテ・ダビタシオンのツアーを申し込んでいたので朝から移動。懸念事項はスーツケースで、まさかガラガラ引きずりながらツアーに参加することはできないだろうと思うので、どこか預けるところが必要なのだが、フランスの駅はほとんどコインロッカーが無い。スイスには日本のようにたくさんのロッカーがあったが、テロ対策もあってかこの国には無いのが普通である。ただ、SNCFのサイトで調べたところマルセイユの駅には有人ロッカーがあるらしいのでそこが頼みの綱で行ってみた。無事に駅でロッカーの入口を発見し、さあ預けようと入ったところ、X線検査のコンベアーのところで係員に止められ、「C’est complet !(満員!)」と突き返されてしまった。だったら増設しようとか考えないのかよ。だからお前の国は◯◯なんだ。と思いながら路頭に迷う。

ひょっとして預かってくれるかもしれない、と思ってメトロに乗り数日前泊まったホテルに寄ってみるが、なんとフロントが閉まっている。そういえば週末の昼はフロントが閉まるのだった。アパートホテルの難点。でもひょっとしたら近くの別のホテルが有料で預かってくれるかもしれない!と思って当たってみるが、「非常に申し訳ないけど宿泊客じゃない方の荷物は預かれません」と丁重に断られる。まあ至極当然である。タクシーに預けて待たせておくか?いやそんな金は無い。しかしひょっとしたらガイドツアー用の倉庫ぐらいあるかもしれない。一縷の望みを託し、ユニテまでバスで向かう。玄関ホールで点呼を取っているガイドのおばさんに、「あなたたち、スーツケース持ってるの?そうね、じゃあちょっとこっちに来て。」と言われてガーディアンのところまで連れて行ってもらい、交渉してなんと預かってもらうことができた。「テロ以降警戒レベルが上がってて普通は預かってくれないんだけど、彼は特別に預かってくれるみたい」と好意で預かってもらえた。これで無事に訪問できると胸をなでおろす気持ちだった。

ようやく訪問できたユニテ・ダビタシオンは、原寸大模型を森美のコルビュジエ展とパリの建築・文化財博物館で見ていて大体の寸法感覚は知っていたが、割と広いと思っていた。しかし実際の部屋に入ってみると、メゾネットにより2分割された天井は思ったより低く感じる。船室をモチーフにしているためかなりファンクショナルにできているとはいえ、それぞれの室空間もフランス人にとってはかなり圧迫感を感じるのではなかろうか。細長い部屋ユニットの両側に開けられた窓からはそれぞれ海と山が見え、山側の吹き抜けになっている空間(居間?)は開放感があるが、それでも必要最低限より少し窮屈な感じだ。これはあくまで主観であるが、私の身長はモジュロールとほぼ同じなので、建築家の意図とそれほど外れてはいないだろう。共用の廊下は「rue(通り)」と呼ばれていて、ここが単なるアパルトマンではなくて垂直に積み上げられた都市であるというコンセプトを表しているが、そのために通りの幅はかなり広く取ってあって、部屋の狭さを鑑みるともう少し部屋を広くしたらいいんじゃないかと思ってしまう。空間のエコノミズムを売りにしながら、そうした理想に身を委ねるのは彼の矛盾の一つである。何か業の塊のようであり、それはある種の魅力でもあるだろう。
彼がよく建築に添えた書物/説明書には、その立地が歴史的に持つ神話性、アプローチから動線、日々の生活、1日の時間の推移までが物語のように語られている。それはある種の自己弁護でもあるが、この建物もそれぞれの場所を通過するごとにコルビュジエの綴る物語が聞こえてくるようだ。それが住人に共有されるロマンチシズムかどうかは別にして。

ツアー後、せっかくなのでユニテの一室をホテルにしているところのロビーでコーヒーを飲んだが、テラスに座っていると彼がコンクリートの建築家だったのだということが改めて思い出された。そういえば彼はオーギュスト・ペレの弟子だった。建築家諸氏ならこういうところに勘が働いてすぐ気がつくのだろうが、このコンクリート的造形感覚とでもいうべきものは、彼の数多の建築的キャッチフレーズ以上に、彼の性質を体現しているように感じられる。私は専門家ではないからこれが技術的にいいのかどうかはわからないが、とにかくこれはユニークだと思う。

夜、TGVにてニースへ向かう。途中から車窓はずっと海と別荘風の家ばかり。まるで伊豆だな、と言うと妻に怒られる。しかしこれだけ美しい風景がずっと続くのだから、ヨーロッパ中、あるいは世界中のバカンス地になっていることが納得出来る。コート・ダジュール、さもありなんである。深夜ニースに着き、ケバブで夕食を取って寝る。

9/11 ファーブルの家、古代ローマ遺跡

オランジュへ来た目的は2つで、ローマ遺跡とファーブルの家である。それを一日で回らなければいけない我々は、朝イチのバスでファーブルの家へ向かう。言わずもがな虫好き某氏の強いリクエストである。

ファーブルの家はオランジュからバスで3、40分程のセリニャン(Sérignan)という小さな街にある。現在はミュゼになっているが、彼がそう呼んでいたのに倣って「Harmas(プロヴァンス語で休閑地、荒地の意味) de Fabre」と名付けられている。家の中には無数の虫の標本や特製の観察器具に加え、化石、植物標本、キノコの自筆図譜などが展示されており、彼が有名な『昆虫記』の著者であるだけでなく総合的な自然科学者だったことがわかる。彼は貧しい家庭でで育ったが、教職を得ながら科学の教科書を無数に執筆して生計を立て、晩年はここに家族とともに住んでいたという。庭は想像した以上に広く、そこは植物園と菜園になっていて、中央にある噴水が生命の溢れ出る様を象徴しているようだ。考えてもみなかったが今年はファーブル没後200年らしく、各種のイベントが開かれているらしい。何やらこういうものに当たるのが多い。

午後、オランジュへ戻り、古代ローマの凱旋門、劇場、丘を巡る。疲労が溜まっているのか、劇場の観客席で数十分爆睡。陽射しを浴びると眠気が襲ってくる。そういうもの?しかしこれだけ大きな規模でローマ遺跡が残っているのはイタリア以外ではなかなかないのではないだろうか。劇場は現在も使われているらしく、天井だけ新しく付け足されていた。

夜は再びタイ料理。開店前から並び、少し遅れてきた店員のおじさんに「また来てくれたね」みたいな感じで同じ席に通され、今日もパッタイなど満喫。パリにあったら週一で行くよ、おじさん。メニューに「saké (40°)」って書いてあったから「これ、中国のサケでしょ?強いんだよね?」って聞いたら「そうそう」と言われたので「じゃあやめとく」って言ったのだが、最後帰り際ににこにこしたおじさんが厨房からやってきて、サービスで出してくれた。そしてお猪口は酒を注ぐと器の底に女性のヘアヌードが見えるというバカバカしい仕掛けつき。妻のは男性のヘアヌードであったが、それ見ながら飲みたい人いるのか、おい。でもおじさんありがとう。ここのためにまたオランジュに寄りたい。

9/10 ビベミュスの石切場、エクス→オランジュ

今日で早くもエクサンプロヴァンスを発つことになるが、午前中はセザンヌが絵を描くために足繁く通ったという「ビベミュスの石切場」へ。ここも没後100年の際に整備され、ガイド付き訪問ツアーができた。なんでもかんでも要予約なのは勘弁してほしいが(おかげでユニテ・ダビタシオンのためだけにマルセイユに再度寄らなければならない)、ここは何しろ山だから勝手に歩き回らせるわけにも行かないのだろう。見せてくれるだけでありがたく思うべきである。

9:30 頃に町外れのバス操車場に現地集合、というなかなかハードなスケジュールだが、やはりフランス、オンタイムにガイドは現れない。しばらくすると自家用車でガイドのおばさんが来て、それからまた小さなマイクロバスが来るが、あきらかに全員は乗れない。ガイドのおばさんと運転手でなんだかもめているが、予約の時点でわかるだろ、それ……と心の中で呟く。結局2往復することで落ち着いたらしい。我々は2回目の便になったので、その間ガイドのおばさんが英語で概要を説明してくれる。結果的にはありがたかった。

ここは石切場になったものの、あまり建材として適していないことがわかり、また別に良い場所が見つかっため、使われなくなったという。セザンヌは青年期にただ楽しみのためにこの石切場に来ていたそうだが、また晩年になって小さな家(俗に cabanon=小別荘、小屋と呼ばれているが、正確には bastidon と呼ぶらしい。bastide=邸宅、館の小さいのを bastidon と言うそうだ)。エクスから画材一式を持って麓へやってきて、そこから山道を登りこの家に滞在して絵を描き、疲れたらそこで眠ったらしい。実際に絵を描いた場所が数箇所わかっていて、そこに絵のパネルが埋め込まれていて実際の風景と照らし合わせながら見ることができる。石切場だからもう既に風景がキュビズムなのだが、絵とその風景を照らし合わせると、彼が現実の模写ではなく、あくまで絵という枠の中で風景を成立、現実化(réaliser)させようとしていたことがよくわかる。印象派的な色彩の使い方、同系色の連続的配置と寒暖による差異化、ストローク/タッチの方向性で画面を秩序付けたり動かし、全体でパースペクティブを構成したり、細部に幾何学的要素を発見したり、視線の連続性を発見したり。また、彼は実際その場所で絵を描いたというよりは、その場所で見たものを記憶して、その記憶を元に別の場所で再構成したと考えられていて、あくまでもキャンバスの上での構成なのだということがわかる。ピカソやマティスの絵を思い浮かべれば彼らがいかにセザンヌが体系化した方法論に拠っているかがよくわかる。彼もまたモダニズムの父でありながら、あくまで方法のみに依存することがなく総合的な現実化に拘った、偉大な画家だったのだなと感じる。

2時間強のツアーの後エクスの駅に戻り、昼食を到着時と同じセルフ式のカフェで取ってマルセイユ経由でオランジュへ向かう。今回初めてAirBnBを使ったのだが、ホストのAが駅まで車で迎えに来てくれるという。非常に恐縮だがお言葉に甘えることにする。駅に着くと、なんとオープンカーでやってきてくれて、おそらく人生初のオープンカー体験。中心部から少し行ったところのおうちの離れに泊まらせてもらったのだが、とても綺麗なプール付きで、喜んでいたら「明日は寒いから今日泳いだほうがいいわよ!」と言われ、到着早々プールに。少しだけ肌寒かったが小一時間泳げた。

もう観光には遅いが夕方から市中心部まで歩き、少し散策した後もう小麦粉食に疲れていた我々はタイ系中華料理屋を見つけ(この国ではベトナム系中華とか、カンボジア系中華とか「どっちもできまっせ」的な店が多く、果てはベトナム系日本料理なんてものまで存在してわけがわからない)、メニューと店構えを見たところぼったくり系の店ではなさそうなので入ってみる。唯一の店員のシェフ兼ホールのおじさん(タイ系のお顔立ち)がとても優しく、本当のアジアン・スマイルを見せて接客してくれる。チキンのカレー煮込みとヌードルなどを頼んでみると、これが本当にうまい!いやあ、この旅いろいろ食べたけどここが一番うまいわ……。接客も気持ちいいし、大満足した我々は明日もここに来ることにしてお宿へと帰る。

9/9 グラネ美術館、ヴァザルリ財団

午前中、グラネ美術館(Musée Granet)を見る。特別展はアメリカのドリス・アンド・ドナルド・フィッシャー・コレクションから来たごくアメリカ的な解釈による「現代アート」の展示。なんでエクスまで来て現代アート見にゃならんのよ、と思いつつ、リキテンシュタインやトゥオンボリーなど見るべきものはあった。常設は美術館の名前になっているフランソワ・マリウス・グラネ(François-Marius Granet)、彼と知己のあったアングル、プロヴァンスの画家エミール・ルボン(Emile Loubon)、そして地下にセザンヌの小品9点ほど。それにレジェ、クレー、ジャコメッティ、タル・コートなど。ショップにて昨日迷ってたセザンヌの書簡集の簡易版を買う。

昼からヴァザルリ財団に向かうが、途中でセザンヌの父が所有していたジャス・ド・ブッファン(Jas de Bouffan)の別荘を見る。予約できなかった時点で知っていたが、セザンヌ関係の映画の撮影で中には入れず。セザンヌとゾラの友情関係を描くらしいが、面白くなかったら許さない。庭を少し回ると、なんと野生のハリネズミ発見。モグラかと思ったらハリネズミであった。得した気分。

その後、ヴァザルリ財団へ。途中、マルセル・パニョル通りなんて名前の通りを通る。いかすじゃないか。ヴァザルリ財団は中が美術館になっていて、六角形の部屋の各辺に巨大なヴァザルリの平面/半立体作品が。それぞれタイル、タピスリー、ブロック、などでできていて、ブロック作品なんかはちょっと信じがたい精度で組み立てられている。また、ヴァザルリは今まで本でしか見たことなかったけど、シルクで刷られたものを見るとかなり印象が変わる。これは全然別物である。2階の展示スペースでは現代のヴァザルリ達のオプ・アートが展示されていた。あまり知られてい無い場所のようだが一度訪れる価値のある場所だった。

9/8 何もしないデー

連日の強行スケジュールで暴動が起きたため、今日一日は何もしてはいけないこととなった。かといってホテルにずっといるのも辛いので、マルシェだけ出かける。スイスでもいくつかマルシェに出くわし、リヨンやマルセイユでも遭遇したが、地方のマルシェは大体町の中心に大きなのがあって、白人系の生産者らしき人たちが売りに来ている(パリは移民系のところが多い)。買ったわけではないから印象に過ぎないが、鮮度も良いし安い。もちろん郊外に行けば色々あるだろうが、物価も高くて鮮度も良くない、金儲け主義の店が多いパリから見れば羨ましく思う。それが都会に住む前提条件なのかもしれないが、もう少しなんとかならないものか、とついつい思う。

マルシェの帽子屋でパナマ帽をかぶったら、まあ似合わないこと。

日中、列車とホテル、訪問場所の予約だけ済ませて、読書や物書きに徹する。

9/7 エクサンプロヴァンス到着

マルセイユから小一時間電車に乗り、エクサンプロヴァンスへ。泉の街、セザンヌの街。思い返せば10年前に水道橋の語学学校に通ってた頃の先生がここの出身であり、いつしかここが憧れの町になっていたように思える。とても小さな片田舎の町を想像していたのだが、ホテルをネットで探している時、既にここが決して小さくはなく、街の中心はかなり観光地ナイズされていることを知った。車を運転しない我々にとって、公共交通機関で行ける憧れの片田舎なんてものはほとんどないのだろう。ここに行けば静かな暮らしがあるという想像は甘いのである。

しかしマルセイユから来た我々にとっては、町は小綺麗で、駅前でランチに適当に入った店も美味しく、かなりの好印象である。宿にチェックインし、セザンヌのアトリエに歩いて向かう。

セザンヌのアトリエに着くと、とてつもない人でごった返している。見れば皆、無線レシーバーのようなものを耳につけ、大学名の書いた名札をつけたご老人ばかりである。どうやらアメリカの高学歴の大学OBを対象としたバスツアーのようだ。こんな人ごみの中でアトリエを見たくなかった我々は、座って彼らが去るのをしばし待っていたが、やってきたバスに一団が乗り込んだはいいが、また別のバスがやってきてずらずらと人が降りてきた。これではまるでテロである。人はなぜ集団で旅行をするのか。とりあえずここは後回しにして、セザンヌがサント=ヴィクトワール山を描いた場所へと向かう。

サント=ヴィクトワール山を描いた場所(Terrain des peintres)は、アトリエから20分ほど丘を上がったところにある。数年前のセザンヌ没後100年の際に整備されたらしく、周りは新興住宅地、そこだけ散策路と見晴台になっている。ここにはテロリストがおらずホッとしたが、なぜか一番いい場所で雑誌を読み続けているおばさんがおり、何もここで読まなくても……と思うのだが、観光客の邪魔をするのが趣味なのか、セザンヌの気持ちで雑誌を読むのが趣味なのか、どっちかであろう。誰がどこで何をしようと勝手だから、我々が正直心の中で「おばさん、めっちゃ邪魔や……」と思っても詮無きことであるが。あと、植栽に問題があると思う。

小一時間経ったので、アトリエへ戻る。今度はアメリカン・テロリスト達はいなくなっていて、我々もゆっくり見ることができた。ここは1902年の最晩年に新築されたアトリエであるが、別段すばらしい建築ではないものの、絵を描いたり運んだりするために機能的にできていて、ここを買い取ったセザンヌ研究者のおかげで当時使われていた道具も残されている。天井まで届くような脚立。彼が着ていたマントやパラソル。静物画に使われた机や椅子、皿、壺。外からキャンバスを出し入れできるように空けられた縦長の窓。庭では『大水浴図 Les Baigneuses』を描いたという。

ショップにてセザンヌの書簡集(仏語)を買おうかどうか迷っているところに今度はコリアン・テロリスト達がやってきたため、押し出されるように私は外へ。世の中の人たちはそんなにセザンヌが好きなのだろうか。どちらかというと激渋だと思うのだが、価値がわかっていらっしゃるのか、と訝しみながらアトリエを後にする。

9/6 ラ・フリッシュ

宿がプール付きであったため、午前中泳ぐことにする。しかし行ってみたら水が恐ろしく冷たく、凍えるようにして30分ほどで引き上げてしまった。水温を見たら7度で、どうりで冷たいわけだ。

昼、別の友人Pの家でNと再び合流し、昼食。ノートルダム・デュ・モンの駅前の広場のすぐそばのアパルトマンに住んでいて、屋根裏部屋でテラスがあるのでとても眺めが良い。

その後、ラ・フリッシュ(La Friche Belle de Mai)という横浜赤レンガのようなアート・スペースに行く。展示スペースとアート組織、それにレストランや本屋の集まった複合文化施設で、旧タバコ工場をリノベして(あんまりされてないが)使用している。展示自体はあまり見なかったが(開始時間が遅すぎ)、こういうところもあるんだな、という感じで見て回る。帰り道では「寄ってく?」ぐらいのノリで美術史美術館に入ることになってしまった。なぜか無料。驚くほど小さいところだが、ピュジェ(Pierre Puget)、ムット(Alphonse Moutte)、ボンパール(Maurice Bompard)など南仏系の作家の作品が見られるのがユニークである。コローの小さいコレクションもある。

夜、浜松の某工場でピアノの調律研修をしていたというフランス人Aと4人で飲む。しゃぶしゃぶの話になったからついノーパンしゃぶしゃぶを説明してしまった。彼らに「パリは汚い」と言うと、「マルセイユに長く居た後にパリに行くと、なんて綺麗な街なんだ!と思うよ」と言われたが、我々には信じ難い。3日間丸ごとお世話になってしまったNにお別れして、ホテルへと帰る。

 

9/5 受難

旧慈善院(Vieille Charité)にて「未来」がテーマの美術展を見る。ラング『メトロポリス』の抜粋から始まる展示の最初、サンテリア、バッラ、モホイ=ナジのモジュレーター、マレヴィッチの建築模型など、未来派をはじめとした良い作品を置いていて、ここには知的なコミッサールがいるのだろうと思っていたが、徐々に雲行きが怪しくなり、ついに宇宙旅行の絵の横にミロやマティス、カルダーを置き、部屋に「宇宙旅行」と名付けたところで頭に来た。あまりにも観客を馬鹿にしている。未来=メトロポリス、ロボット、宇宙というバカバカしい連想もいいが、そこにクラシカルモダニズムの作品を押し込める愚行。大衆迎合も甚だしい。固有名詞のチョイスには知性を感じるし、外からわざわざ作品を沢山借りているのでコミッサールは馬鹿ではないとは思うが、この並べ方はちょっと、無い。金と数字が欲しいのは同情するが、これでは死者に失礼すぎる。その上階にあったエジプト、ギリシャ美術の展示はとても良かっただけに、非常に残念である。

昼食後、Nと合流し、慈善院の展示について話すと、マルセイユに住む人も、マルセイユに来る人も、心から芸術に興味がある人は少ないので、キャッチーにせざるを得ないのも少しわかるとのこと。3人で海を見に非ツーリスト的な海岸まで連れて行ってもらうが、暴風のため早々に引き上げる。これが地中海特有の風、ミストラルだという。これだけ風が吹いたら日本なら暴風警報だが、毎日のことらしい。単葉機が飛んで行ったのが印象的であった。

その後、中心部にバスに乗るが、ここで事件が起こった。我々がバスに乗ったところ、犬を連れていてズボンが腰まで下がっただらしない身なりの男がスマホのスピーカーで音楽をかけながら、周りの人に見せびらかして騒いでいる。あまり関わりたくないやつだなと思って混雑の中バスに揺られていたら、突然その男が別の貧しそうな身なりのアラブ系の男に殴りかかった。最初友達と戯れているのかと思ったが、どうやらそうではないらしく、本気で殴りかかっている。車内は騒然とし、間に入って男を止めようとするおばさん、アラブ系の男の隣でベビーカーの子供を守ろうとする父親、警察を呼ぶよう叫ぶ女性。我々も近くにいたので押しつぶされたり、お互い目を見合わせて合図を送り合ったり。そうしているうちにバスは停留所に停車し、2人の男と一緒に我々も外に押し出された。わけもわからず逃げるアラブ系の男は、信号にある車止め用の杭に押し付けられ、倒されてしまった。車掌にもう一度乗り込むように促された我々は急いでバスに再乗車し、2人を置いて発車した。3人とも無事であったので一息ついて車窓を見ていたら、今度はさっきの男が走って追いかけてきて、バスにタックルしてきた。まあ当然ながらバスはびくともしないので、男は転倒して置き去りにされた。少し経って、隣に立っていた男性が「マルセイユにようこそ」と冗談を言ってくれたが、あまり笑えなかった。後で落ち着いて考えればみればアラブ系の男はあの後どうなったのだろうか。Nに聞いてみればいかれた男はナイフを持っていたらしく、最初「俺は金持ちなんだ」と言って嬉しそうだったが突然「俺の金を盗んだのはお前だ!」と言ってアラブ系の男を襲い始めたとのこと。恐らくただのジャンキーだろう。マルセイユはフランス第二の人口を持つ都市だが、最も貧しい都市でもあるとのこと。中心部には貧困層・失業者が多く、郊外に住む富裕層はあまり中心に来ないためお金を落とさない。彼らのようなジャンキーを作ってマフィアが生きながらえているとのことである。バスに乗るのはあまりいい考えではなかったね、と苦笑しながら中心部に着く。

夜、Nの打ち合わせを待っている予定だったが、心理的に疲弊した我々は先にホテルに帰り、寝ることにした。

 

9/4 MuCEM

マルセイユ。今日もとりあえず旧港まで行き、魚の直売マルシェを見つつ、地中海・ヨーロッパ文明博物館(Musée des Civilisations de l’Europe et de la Méditerranée / MuCEM)へ。昔の要塞から入り、そこから橋を渡って水面模様(もずく模様?)のファサードの現代建築へと入る。この模様はなんとコンクリート製。遠くから見るとまるで金属である。建物の中に入ると水面下から地中海を見ているような感じになる仕組みである。まあ、ハリボテといえばハリボテなのだが。

それにしても地中海文明・ヨーロッパ文明、と銘打つには如何なるコンセプトあらんや、と疑問に思っていたが、特別展を見る限り、ギリシャ、ローマ、エジプト、etc. を一緒くたに捉えて比較文化論的に展示する、ということのようで、一見面白そうに思えるが、それぞれ全く違う文化のものをあたかも「ひとつの地中海」あるいはそこに透けて見える「ひとつのヨーロッパ」のように捉えるのはいかがなものかと思う。エジプトはヨーロッパであった試しなどないし、何の知的戦略もなしにただ並列に置いてみただけでは何もわからない。実際展示も小さく、そこに「並べて置いてみた上で見えるもの」はなかったように思える。単にスペクタクル建築を建てて、観光客を呼び込みたい、という意図が先行し、内実は伴っていない。どういう経緯でこれが建ったのだろうか。少なくとも、カッティングシートの展示キャプションにライト以下のウェイトを使ったらうまく貼れないだろ、とは突っ込みたい。

美術館を後にして、サン=ローラン教会の方に歩き、名前はわからないが20世紀文化財扱いにされてあるアパルトマンを見ながら、カテドラル・ドゥ・ラ・マジョール(La cathédrale de la Major)へ。デュマの『モンテ・クリスト伯』の舞台にもなった場所らしく、関連スポットの場所が一覧となった地図が置かれているのが面白い。ところで作詞家の松本隆氏のナイアガラ関係におけるペンネーム「江戸門弾鉄」は、この小説の主人公の名前から来ていることを今更ながら知る。学がないと洒落がわからないんだよなあ。

そのまま旧慈善院(? La Vieille Charité)の方に歩き、妻が事前に(ダジャレじゃないよ)調べていたサントン人形屋を物色。待ってても終わる気配がないので周辺を散歩するが観光客向けの店しかない。もちろん我々も観光客なのだが、ヨーロッパの「観光客向けの店」はどうしてこんなにバカっぽい物しか売っていないのだろうか。もう少しあるでしょう、地域の特産品とか質の高い工芸品とか。地名書けば売れると思ったら大間違いだぞ、と言いたくなるが、買う馬鹿もいるのだろうな。

周りを小一時間歩いて戻ってみたところ、ようやく腹は決まったらしく購入するところだった。近所の移民系パン屋で超ゲスいピザ(一面に凝固した真っ赤なトマトソースがかかっていて、その上に一本だけアンチョビフィレが丸ごと乗っている)を食べ、南仏まで来て泳がなくては元スイミングスクール通いが廃る、と水着を買いに行く。既に9月で大半の店が水着を撤去していたため、いっそのことデカスロン(大手スポーツショップ)まで行き、購入。安くて助かった。

夜、パリの寮で会った友人Nと再会。シェアスペース的なカフェ(Association、だと言っていたがうまい和訳が見つからない)で飲みながら話し、彼女が上に住むことになっているというケバブ屋で食べて帰る。先のMuCEMは「欧州文化首都」というオリンピックの真似をした制度によってマルセイユが選ばれたために建てられたのだが、内実が全く伴っておらず、他の建物も建てられる予算があったはずなのに汚職はびこるこの街ではあれが建っただけで終わってしまい、住民は非常に不満だ、との話を聞く。我々が感じた違和感はそういう経緯があったからなのか。なんとも虚しいことだ。

9/3 リヨン→マルセイユ

リヨンからマルセイユへの移動日。移動は昼からだったが、観光はできず。それは SNCF(国鉄)の OUIGO(ウイゴ)という格安 TGV に乗るため、サン=テグジュペリ空港まで移動する必要があったからである。OUIGO は TGV の荷物置き場を減らし、食堂車もなし、2階建て車両に座席を寿司詰めにし、チケットは自宅プリントのみで、なおかつ郊外の駅から発着させて超格安の値段で提供するサービスらしい。パリならディズニーランドのあるマルヌ=ラ=ヴァレ、リヨンなら空港のあるサン=テグジュペリである。その分値段は超破格で、リヨンからマルセイユまでたったの10ユーロである。ただパルデュー駅からサン=テグジュペリ空港まで急行トラムに乗る必要があってこれは16ユーロぐらいするので、合計すると26ユーロぐらいになるのだが、それでも十分安い。ただ、大きな荷物は5ユーロの追加料金がかかる。車掌は回ってこず、駅でチケットと荷物のチェックがある。サン=テグジュペリ空港に直結されたTGV駅はサンチャゴ・カラトラバの設計だそう。彼の建築は初めて見た。

乗ってみると車両は荷物スペースが少なからずあり、空気はもんわりしているものの不快なほど狭くはなかった。10ユーロなら全然許せるレベルである。山の岩質が変わっていくのを眺めながら南仏に向かっているのを実感していると、小一時間で到着。思っていたより暑くはなく、肌色・褐色の街並みが空気の乾燥を一層強調している気がする。「マルセイユは危ないよ」と言われていたので少し警戒しながらメトロに乗り、ペリエ駅のホテルにチェックイン。安い割に極めて快適なアパートホテルである。

ホテルに荷物を置き、とりあえず土地勘をつけようと旧港に向かって歩くことにする。途中、ノートルダム・ドゥ・ラ・ガルドという看板を見つけて向かってみるが、どんどんどんどん上に向かって歩かされている。足がついつい高い方に向かうのか、それとも高所が私を呼んでいるのか。15分ぐらいすると丘の上に到着し、マルセイユの街が360度一望できる場所であった。南仏は私にとって伝説的な場所で、いつか行ってみたいとずっと思い続けていた割に、その実態については全く知らず、単なる憧れでしかなかったのだが、マルセイユというのはこういう地形の街であったか。見渡す限り遠くまで街が続いているが、フランス第二の都市という割にはそれほど大きく見えない。パリ、マルセイユ、リヨンを頭の中で足してみても、それほど大きくは感じない。その割に総人口は6千万以上あるのだから、不思議である。教会はこれまた見たことのない様式。横縞模様と天井から船が吊ってあるのが印象的である。壁には航海に関する絵がびっしり貼られている。『白鯨』の説教のシーンを思い出す。

丘を降って旧港まで歩き、ひとつだけ砂浜を見て帰る。マルセイユといえばブイヤベースだと思っていたが、少なくとも25ユーロするらしく、やめる。しかし結局いい飯を食べてしまった。生魚、久しぶり。

今日はカメラを忘れたためTGV駅の写真だけ。