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8月某日 パリへの帰還

朝5時過ぎのトラムでフィレンツェ空港に向かう。トラムの駅ではおじさんがティッシュも使わず鼻をかみ、地べたに鼻水を叩きつけていた。そこに泥酔した男がラップを歌いながらやってきて、脳が死滅するような光景が展開する。
格安の航空会社vuelingのカウンターに行くと、おねえさんがワンオペで回していて、朝5時半にもかかわらず長い列ができている。そこにプライオリティーを持った人がやってくるので、全く順番が回ってこない。40分ぐらいしてようやく別の職員が来て、荷物を預けることができた。搭乗口に向かう途中では朝6時なのに全ての店が空いていて、グッチだかフェラガモだか知らないが、女性がブランド物の試着をし、店員がそれを眺めてお世辞を言っていた。繰り返すが、朝6時である。
パリに着いてその足で友人宅に荷物を預け、一緒にマルシェに向かう。3年ぶりに見るマルシェの人々はあまり変わっていなかった。セイダカアワダチソウのような黄色い花がまるでミモザのように咲き誇っていて、印象的だった。心から植物を好きな人が育てた野菜を見ると、生き返るような心地がする。
その後友人の言葉に甘えてニョッキを食べ、昼過ぎから買い出しに出かける。まずは本屋で友人が関わったエリゼ・ルクリュとニコラ・ブーヴィエの本を買い、その後は食料品店をはしごしてお土産を買い込む。
夜はチュチュカ、きゅうりのベジヨーグルト和え、じゃがいものガレットなどをいただく。イタリアではさぞやうまいものを食ったのであろうと言われたのだが、ほとんど食いっぱぐれる旅であったので、血の通ったご飯が非常にありがたかった。

C’est Paris.

8月某日 イタリア地図史博物館

イタリア旅行もついに最終日であるが、早朝からオンラインで面談と打ち合わせをこなす。そうしていると数日前に訪問の申し込みをしていたイタリア地図史博物館の方から返信があり、来ても良いとのこと。ただし閉館が13時なので、急いで向かう。しかし方々で工事がやっていて、近くに着くはずのバスがあらぬ方向に走り出し、途中で飛び降りる。工事で半分封鎖された道を延々と歩き、10時半に博物館に着く予定が、一時間も遅れてしまった。
博物館は軍の施設のようで、入り口で迷彩服を着た青年にIDをチェックされる。メールには「私を呼び出して」と書かれていたので、それを彼に伝えたが担当者女史の内線番号がわからないらしく、一悶着ある。結局、たまたま通りがかった同じ部署の人が彼女に直接伝えてくれて、わざわざ迎えに来てくれた。海外でのこのような悶着はよくあることで、嫌いではない。
博物館の入り口では、いきなりカッシーニ家のジョヴァンニ・マリア・カッシーニによる巨大なイタリア全土地図を見せられる(ちなみに彼はピラネージの弟子らしい)。「幾何学的にあまり正確ではない」と言っていたが、それでも非常に精密な地図である。1860年代の制作であるにもかかわらず、海に怪物がいるのが印象的であった。海上には船のデッサンがあり、マストの先からひたたれのようなものが垂れていて、「これは何?」と尋ねると、「私が思うには風の方向を示しているんじゃないかな」と言われる。
次に大判のフィレンツェ地図、ナポリの景観地図、パドヴァの巡礼地図を見て、「この博物館はとっても小さいんだけどね」などと謙遜されるが、その後、カッシーニ時代の測量器具や、空中写真から地図を興す器具、ローマ時代の測量器具などが置かれた廊下に通される。既に小さくも何ともない、と思いながらついていくと、その廊下の突き当たりで、ヴェネツィアはマルチャーナ図書館に実物のある「フラ・マウロ図」の精細な写しを見せられる。写しでもかなり興奮するのだから実物は相当なものであろう。さらに「フラ・マウロ図」の隣の扉から入る部屋には、壁面の本棚にずらっと本が並び、奥にはカッシニ家の作った地球儀と天球儀が置かれ、その間には銅版画地図とその原版が置かれている。地図の銅版画原版を見られることはほとんどないので、「えっ、こんな原版をコレクションしているのですか」と尋ねると、「そうね。でも原版の前で喋ったり、触ったり、息を吹きかけただけで錆びちゃうから、展示や保存が難しいの。」とのこと。いつかじっくりお目にかかりたいものである。
最後にはガラスキャビネットに貴重な地図学書がずらっと並んだ廊下を見て、「ここで終わりよ」と言われる。もっとじっくり見たかったが、時間も時間であるし、いずれ研究の名目で来られたらと思う。
女史の説明によれば、ここはイタリア統一時にそれまでトリノにあった地図学制作部門を首都であるフィレンツェに移設したもので、首都がローマに移った際もここに残すこととなったという。軍と民間の半々の施設らしく、彼女は民間から雇われているらしい。私のようなマニアックな人しかこなさそうな施設だが、「結構来るわよ。授業で学生さんがよく来るし」とのこと。世に地図の博物館はもっと増えてほしいと思うので、とても嬉しかった。
それにしても1時間で超濃密なものを見たという思いが残る。
地図史博物館が想定より早く終わり、14時閉館のStibbert博物館に滑り込みそうなので、炎天下の中ずんどこ歩く。最後の上り坂がきつく、最終入館時刻の10分前になんとか辿り着いたが、受付の婦人に「あと1時間で閉館よ。そして展示はものすごく広いわ」と冗談混じりに脅される。ここは武器・甲冑がずらっと並んでいる恐るべき博物館で、ヨーロッパだけではなくペルシャや日本の鎧兜までかなりの数が並んでいる。日本でもここまでの数が一堂に介している場所はそうそうないのではないだろうか。父が英国人のフレデリック・スティッベルトが、東インド会社の司令長官だった祖父から莫大な遺産を受け継ぎ、このコレクションを成したらしい。庭には小さなグロッタもあり、甲冑好きの友人のために来たが、なかなか興味深い場所であった。
もはやイタリアでやることもやり尽くしたので、昼飯を求めて街の中心を彷徨い歩き、教会のファサードだけ見たりして、前回の訪問を思い出そうとする。前回は一週間いたのに、記憶の彼方である。イタリア最後の日であるからレストランぐらい入ろうと思っていたが、目当ての場所は例の如くバカンスのためどこも閉まっており、巨大なスーパーに行ったが、もう出来合いのパスタなんか食べる気がせず、イタリア人までこんなものを食っているのかと怒りすら湧いてきて、何も買わずにホテルに帰る。こんな均一なものばかり見ていたら脳みそが腐るんじゃないか。

イタリア地図史博物館。「ここだけ撮っていいわよ」と言われた。

8月某日 巨人庭園

今日は朝食を食べる暇もない早い時間からアッシジを出発し、フィレンツェに移動した。もうここからはパリへの帰り道なので、フィレンツェはその経由地点にすぎない。数年前に行ったところであるし、とにかく観光客に揉まれるのが耐えられそうにないから、教会や美術館などは巡らない予定である。
予約したホテルはフィレンツェのS.M.N.駅と空港を繋ぐトラムのちょうど間にあるようで、最終日の空港移動に便利そうであった。チェックインを済ませて、さて何をしようかと考えて思い至ったのが、フィレンツェの北の方にある巨人の彫刻がある庭園(Villa Demidoff)である。非常にアクセスが悪そうだが、Google先生に聞くと、2本のバスを乗り継げば行けるらしい。便利すぎて何の旅情もないが、時間もないのでたまにはその便利さに負けてみる。
庭園はバスの終点であるPratolinoにある。途中でフィレンツェ市内からは飛び出し、車内に残されたのは、我々と現地人らしきおばさん一人だけであった。こんなところにまで来るアジア人もそうはいまい。物数寄万歳である。
バス停から庭園までは歩いて10分ぐらいで着く。イタリアの夏の太陽が燦々と照りつける中、庭園に入る。広大な敷地の中、ベルギーのアトミウムのようなエコ実験施設を過ぎると、蓮の花の咲き誇る池の向こうに髭の巨人「Colosso dell’Appennino」はいる。海底での長い眠りから覚めたかのように岩や植生と一体化した彼は、泉に水を吐き出すのであろう巨大な亀の頭を押さえつけている。それはアペニン山脈を象徴しているらしく、16世紀に彫刻家Giambolognaによって考案されたという。巨人の下にはグロッタがあるらしく、ぜひ入ってみたいと思う。
庭園の各所には多孔質の石灰石で作られた彫刻が置かれており、それが海を思わせる。同じく園内のグロッタには牡蠣やホタテの貝殻も埋め込まれており、まぐわいないし女性期の隠喩、すなわち生命が生まれる場所という意味合いが込められているのであろう。また、オリジナルのプランには巨大な水路が貫き、パースペクティブを提供していたようで、すでに水路は消失しているがその面影を見ることはできる。そもそもここはメディチ家の別荘の一つで、ボーボリ庭園やウフィッツィ宮で知られるブオンタレンティが設計したものらしいが、そのほとんどが後世に改修されてしまったらしい。イタリア人のこのような大胆さと、人を驚かせようという精神に私は惚れる。
夕方ホテルに帰るが、日曜かつバカンスという論理式の結果どこもやっておらず、少し歩いたピザ屋に行く。太ったおかみさんに「今立て込んでるから50分はかかる」と言われるが、他に選択肢もないので待つこととする。待っているとフードデリバリーやら電話で持ち帰り予約の客がひっきりなしにやってくる。ウディ・アレンを思わせる背の低い旦那さんは、注文を間違えてしまったために、ピザを焼いている太った息子とおかみさんに怒鳴られてしまい、店内は阿鼻叫喚の様相を呈する。居心地の悪さを感じながら無の境地で待っていると、30分ほどでピザを渡された。しかしホテルに帰って開けてみるとなぜかサラミが乗っていて、絶望に絶望を重ねる夜であった。

Teatro Puccini

8月某日 ポルチウンコラ

今日は本格的にアッシジの街を見る日である。
ホテルの朝食は、甘いクロワッサンとケーキだった。やはりイタリア人は甘党なのだろうか。別に期待していなかったが、マシンで提供されるコーヒーはドブ水のような味だった。インテリアといい、朝食の提供方法といい、昭和のホテルを思い出す。
昨日と同じサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会横の停留所からバスに乗り、昨日と同じサン・フランチェスコ教会近くの停留所で降りる。朝だから上堂は静かなもので、静寂の中ジョットーを鑑賞する。他に誰もいないというのは最上の価値である。
以降は詳細を書くときりがないが、サン・ルフィーノ教会、新教会、サンタ・マリア・マッジョーレ教会などを巡る。
最後に下の町に降りて、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会を拝観する。ポルチウンコラという小さな礼拝堂があり、それを覆うように聖堂が建っている。サン・ルフィーノ教会にはサン・フランチェスコの最期を描いた絵があり、そこでは洞穴のような場所で弟子に囲まれて横たわるサン・フランチェスコが、山の上の旧市街を指差していた。その洞穴のようなところがこのポルチウンコラなのだろう。本当に小さい空間だった。
予定を消化したのでホテルに戻り、ベッドに寝そべりながら調べ物をしていると、シモーヌ・ヴェイユがポルチウンコラで啓示のようなものを受けたということを知る。私には啓示は降りてこなかったが、何か感じるものがあるのもわかる静謐な空間であったと思う。
日記をつけながら、旅とはいったい何であるかを思う。旅で何かを完全に理解したという経験は実は少ない。旅とは、何かを考えるきっかけを得るためにするものではないだろうか。「見聞を広める」とはよく言うが、より正確に言えば、自分は新しいことを考えるぞ、という目的意識を持って旅先を決め、そこから得た気づきをもとに、新たなことを考えていくプロセスの一環なのである。その気づきが考察に変わるには数年ないし数十年かかることも珍しくない。仮説を確信に変えるための旅も必要だろう。だから、今の時点で無理に何かを日記に綴る必要はないのだ。何しろそろそろ疲労していて言葉を紡ぐのも億劫になる頃なので、あとからまとめる気力もないのである。
そういえば書き忘れていたが、私の中で「アッシジ」という地名は、手塚治虫の『ブッダ』に出てくる「アッサジ」という人物(ブッダの弟子)と重なっていて、音以外に何のつながりもないけれども、何か仏教的な価値観が聖フランチェスコに通じているのではないかと思ってしまう。「アッサジ」はわが幼少期の精神を形成した漫画の一つ『三つ目がとおる』の写楽保介と同じ造形をしており、すっとろくてブッダの足ばかり引っ張っているのだけれども、自分の死期を予知し、自己犠牲をもって罪を償うという人物である。同じ『ブッダ』には虫を踏み殺さないように四つん這いで歩く人物も登場し、私の中でそれらが混然となって聖フランチェスコ像が形成されてしまっている。とんでもない勘違いであるとしても、強ち間違ってはいないのではないかと思っている。

8月某日 アッシジへ

旅の最後の目的地であるアッシジに、朝も7時台の電車で移動する。イタリア国鉄のシステムもすっかり電子化されていて、スマホで切符を買ったりチェックインしたりできるようになっている。それもそれでややこしくて、「ようやく慣れたかなあ」と思っていた頃だったのに、車中で妻がEチケットを見ながら「最後の乗り換えは電車じゃなくてバスではないか」と言い始める。「そんなバカな」と思ったが、確かにそこにはバスと書いてある。はるか昔、ラ・トゥーレットに行く際にリヨン駅でTさん夫妻と構内を疾走し、バスに飛び乗った苦い思い出が蘇る。スマホで調べると、イタリアの特急に乗った人専用の接続用バス(名前はフレッチャ「リンク」)で、フィレンツェ駅周辺の「どこか」から発車するらしい。その「どこか」は着いてみないとわからず、直前まで不安だったものの、フィレンツェ駅に着いたら看板を持った職員が立っていて、出口を出てすぐのロータリーに発着することを教えてくれた。無事にバスに乗り込み、アッシジまで揺られることとなった。
途中、海のようなものが見えて、「え、そんなに海に近いはずは…?」と思ったら、ラーゴとのこと。中部イタリアにもこんなに大きな湖があったのですね。
昼過ぎにアッシジ駅に到着する。だいぶ南下したこともあり、やはり暑い。炎天下の中、ホテルまで20分は歩く。宿に着いてみると団体客や合宿生が泊まりそうなところだったが、まだ部屋の準備ができてないので2時まで時間を潰してくれと言う。早く到着した我々が悪いので、近くのカフェバーで茶をすることにする。店員のおじさんは英語を話さないが、色々気配りをしてくれて嬉しかった。ホテルに戻って案内された部屋は狭く、かなり質素なものだった。外の音は丸聞こえで、思わず、聖フランチェスコの気持ちになれるな、と呟く。
アッシジの中心は山手の方で、ホテルからは離れているが、バスで一本でたどり着ける。外から見ると大聖堂下の基壇部(おそらく修道院)がまるで砦のようで、チベットはラサの写真を想起させる。宗教の大本山とはかくあるものか。
到着したバス停はサンフランチェスコ大聖堂の近くなので、途上の気分の盛り上がりもなく、一直線に大聖堂に向かうこととなった。アッシジはもう少し静かなところだと思っていたが、それなりに観光客だか巡礼客だかでごった返し、お土産屋がズラーっと並んでいる。まあ高野山や比叡山みたいなものか、と思いながら大聖堂に出る。大聖堂前の広場は傾斜がついていて、左右のポルティコ状の回廊が遠近効果を引き立て、大聖堂へのヴィスタを構成している。
大聖堂は下堂と上堂の二層に別れていて、ジョットーによる聖フランチェスコの生涯を描いたフレスコ画があるのは主に上堂とのことだが、下堂の壁画・天井画もすでに相当なものである。私のアッシジへの興味はまず聖フランチェスコにあり、彼が動物を愛し、動物に説法をしたという逸話に惹かれていたということにあったので、ここに来て壁画を見たことには大きな価値があったと思う。ジョットーについてはここだけ見たところでたいそうなことは言えないが、思うに、まず聖フランチェスコという対象そのものがそれまでの中世キリスト教絵画にない主題を切り拓き、ジョットーも彼に向き合う中で新しい描き方を開拓しなければならなかったのだろう。明日もう少し静かな時間帯に再訪することにする。
なんとかと煙は高いところに登りたがるので、アッシジの町を高い方へ高い方へと登っていきながら、眼下の田園地帯の風景と、オレンジ色の瓦屋根を楽しむ。聖フランチェスコに師事した聖クララを祀った教会まで歩き、バスでホテル方面に帰る。

8月某日 パルマの教会群

朝はパン屋に行き、揚げたポレンタやらほうれん草を詰めた薄焼きのパイやら、興味深いものを買う。
昼から日本と学生面談および会議をし、夕方から教会を見て回る。昨日見られなかった大聖堂の礼拝堂。多角形平面の小さな礼拝堂だが、アンテラーミによる壁の意匠には独特のものがあった。
その後、サンジョバンニバッティスタに行く。こちらもコレッジョの天井画が有名で、昨日と同じくお金を払うとライトで照らせるのだが、天井だけでなく側廊なども照らせるらしい。クーポラと内陣だけ照らしたが、コレッジョっていうのは綺麗なルーベンスみたいなもんかな、という印象を受けた。ものの本にはバロックの始まりだと書いてあるが、そういうことなのか。
最後にサンパオロへ。こちらも部屋の一室の天井画がコレッジョの手によるもの。知らなかったがギニョル(イタリア語で言うと何か)の小博物館があって、イタリアの劇に明るくないので誰が何だかはわからず、いろいろ想像を膨らませながら見た。一部だけアジアの人形が遠いてあったが、やはり憤怒や見えない怪異のようなのを描かせたらアジアには敵わないだろう、と思った。
帰り道に新刊本屋があったので覗いてみたが、ペーパーバックばかりで、造本としてはあまり惹かれなかった。2件目の大型書店を覗いた時、試みにカルヴィーノがどのような扱いになっているか見てみたが、新装版でほぼ前作が並んでいた。挿画が現代風ではあるがなかなか興味深かった。漫画では手塚、永井豪、池上遼一などが人気そうだったが、水木さんは『昭和史』しかなかった。イタリア人には妖怪はわからんのかなあ。
夕食はスーパーのサラダと、昼飯の残りで済ませる。

8月某日 ボドニ博物館

パルマ。午前中は洗濯に充てていたので、朝からコインランドリーに行く。待っている間にカフェで朝食。フランスのカフェはクロワッサンがあったりなかったり程度であまり重視されておらず、料金もカウンターとテーブルで全く違うので、もう少しイタリア寄りにしてくれるとありがたいんだがな、とつくづく思う。
昼からボドニ博物館へ。パルマに来た最たる目的はこれである。昨夜通った煉瓦造りの城砦のような建物の中だが、これはファルネーゼ家が作りかけた「ピロッタ宮」という宮殿らしい。
ボドニ博物館には、ジャンバティスタ・ボドニの活字のパンチ、母型、印刷物、それに実際の鋳造器具などが置いてある。博物館は部屋の仕切りがいらないほどで、プランタン=モレトゥスのようなものをイメージしているとかなり小さく感じる。デジタルアーカイブ開発者としては興味深いことに、最後の空間に100型はあるだろう巨大な光学式タッチパネルのデジタルアーカイブが設置されていた。選択した書籍のスキャン画像を全ページ見ることができるが、書籍のビューアを拡大できて、このサイズのモニタで見るとそれだけで結構面白い。サイズというのは案外重要な要素なのである。イタリアの機械にしてはよく動いていると思う。
ピロッタ宮の上階にはまず古い劇場がある。何度かの改装を経ているが古典的な様式を残し、現代まで使われているものだという。舞台は奥に行くほど高くなるよう軽く傾斜がついていて、客席からのパースペクティブを計算して作られていることがよくわかる(当たり前のことなのだろうか?)。
劇場の裏には美術館があり、地元の作家パルミジャニーノやコレッジョの作品、Jan Soensの創世記、カラッチ、コントラストの強いバルトロメオ・スケドーニ、ダ・ヴィンチの「ほつれ髪の女」、カナレットなどを見ることができる(それにしてもカナレットはどこにでもある)。ヴェネツィア絵画やフランドル派の影響を受けてスタイルが変容したこと、またファルネーゼ家の支配からスペイン、フランスブルボン朝の支配を受けてこの地の文化が二転三転したことを見て取れる内容であった。
その後、サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂、サン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタ教会などをまわる。前者はクーポラにコレッジョの天井画があるが、2ユーロ払うとそれがライトアップされる仕組みになっている。子供の頃にあった、動物園で100円払うと動物の説明を聞ける装置を思い出した。アンテラーミという人物がキリストの復活を描いたレリーフが有名で、隣の礼拝堂も彼の意匠・設計によるものらしい。しかしもう閉館間際だったので出直すこととなった。後者の教会も開いてはいたが、僧たちが経文を唱えている最中だったので、詳しく見ることは控えた。
夕食はこの旅で初めてレストランに入り、Testaroliというクレープ状に伸ばして焼いただけの生パスタ(状態としては蕎麦がきみたいなもんだと思う)と、トロフィというチョロギみたいな形のパスタを食べる。前菜でひよこ豆のクレープを頼んだら、ふかふかで分厚いのが出てきて面食らった。粉もんは奥が深い。
帰ってテレビをつけると、今日は『続・夕陽のガンマン』がやっていた。『Il buono, il brutto, il cattivo』をなぜそう訳してしまったのかと訝しんでもしょうがない。イタリアの人々は母国語でウェスタンが演じられるのをどう感じるのか。

8月某日 岩絵公園おかわり

昨日の岩絵巡りがあまりにも楽しかったので、予定を変更し、今日も別の公園に岩絵を見に行くこととする。
昨日乗れなかった9時の列車に乗ってカポ・ディ・ポンテに行く。車内は1時間半喋り倒すイタリア人老夫婦4人組。突然大声を出すジジイ。勘弁してほしい。
ナクアーネ国立公園までは坂道を20分ほど登る。受付に着くと、今日が聖母被昇天祭だからか、14時までしか開いていないらしい。昨日のセラディナ=ベドリナ公園よりもお客さんが多く、こちらの方が有名なところなのだろう。昨日買った冊子にも、こちらは視認性の高い岩絵が多いと書いてあったので、ビギナー向けでもある。巨大な人間、走る祈祷師、鹿の神などを見ていると、3時間ほどで見終わった。立ち入り禁止エリアが多かったので、意外とこじんまりした印象である。
その後、町の方まで降りて食事を探すが、どこも閉店している。仕方なく昨日のジェラテリアまで行ってみると、食事と呼べるものはかろうじてクレープだけだったが、それを注文してかきこむように食べる。この街は英語は全く通じなくて、最初は皆ぶっきらぼうに思えるが、最後は優しくて、おまけまでつけてくれる。これが本来のイタリア人気質なのかもしれない。良い町だと思う。
運良くブレーシャ行きの電車に滑り込めたので、2時間ほど散歩する。広場の隣にあった教会に入ると、女性が磔刑になっている姿を本陣に祀っていた。マリアではないし誰のことかと思っていたが、パンフレットを見ると聖アガタという女性らしい。領主の誘いを断ったら嫌がらせを受け、最後には乳房を切り落とされて磔刑になったという。その乳房がパンに似ているからパン屋の守護聖人にもなっているというのはなんとも変な話だとは思うが、権力を持った男のくだらなさというのは今も昔も全く変わらないなと思う。
その後、サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂と、その隣のロマネスク様式のロトンダを見る。あまり観光地化されていないが非常に良い教会である。
夕方、ブレーシャからパルマまでちょうど2時間電車に乗り、20時に着く。もう暗くなっていたが、宿までの道すがら長城のように巨大な煉瓦建築を見かけ、イタリアのスケールの大きさに圧倒される。チェックインを済ませ、空腹なのでスーパーを探すが見つからず、「ピアディーニ」という薄焼きのパンに具材を挟んで食べるファーストフードに出会った。イタリアは本当に小麦粉の使い方にバリエーションがあるなと思う。パスタとピザとフォカッチャしか知らない外国人としては、感心させられるばかりである。
それにしても街の中はサラミやハムばかりが並び、所構わず視覚と嗅覚に訴えかけてくる。肉の匂いが鼻について離れず、これでもかとばかりに豚の片足や太腿が天井から吊られている。この川には血が流れているとしか思えない。長居できる場所ではないと感じる。
ホテルに帰ってテレビをつけるとヴィスコンティの『山猫』がやっていた。イタリアで見るのも一興だと思ったが、テレビが安物すぎて色が全く再現できておらず、B級映画みたいだったのでやめる。

聖アガタ教会(Chiesa di Sant’Agata)。

サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂(Cattedrale di Santa Maria Assunta)。

8月某日 岩絵地図

今日はいよいよカポ・ディ・ポンテという駅に岩絵地図を見に行く日である。
朝、ブレーシャの駅に行くと、我々の列車は「2西」というプラットフォームだと書いてある。2番線の西側のことだろうと思って律儀に待っていたが、発車時刻を過ぎても電車の来る気配がない。やがて電光掲示板から我々の電車の表示は消えてしまった。鉄道会社のウェブサイトを見ても、「定時に発車」したとのこと。怪しんでもう少し西側に歩いてみると、「1〜15」番線の並びとは全く別に、遠くに「1西〜3西」の並びのプラットフォームがあるのが見える。哀れにも我々は列車をみすみす逃してしまったのである。地元の人には当たり前なのだろうが、新参者にはこのぐらいの洗礼があって然るべきだというのがイタリアの暗黙のコードなのだろう。サモアリナン。
次の電車までは2時間。しょうがなく我々は2度目の駅カフェに行き(既に朝一度行った)、茶を飲みながら作戦を立てる。旅行にこういうハプニングはままあることだから、落ち着いたものである。幸い、旅のメインイベントである今日だけは余裕をとってある。
2時間待ってようやく乗れた電車は、キャンプや登山をするような格好の客がいっぱいで、意外にも混雑していた。電車はしばし湖のすぐそばを走り、渓谷をすり抜けていく。ルガノからイタリアに抜けるルートと同じような光景だが、途中温泉駅などを通り、そこにも岩絵の写真が使われていたので、岩絵が見られる場所は複数あるのだろう。車窓に見惚れながら1時間半ほど揺られると、カポ・ディ・ポンテ駅に着いた。
駅の外に出ると、並木道が作り出すパースペクティブが眼前にあり、その消失点の上方に、教会が見える。その教会は崖の上に立っていて、夢のようとしか言いようのない光景に、思わず歓声を上げる。こういう光景が稀にあることを、私は経験的に知っているようだった。
街には至る所に聖母マリアのイコノロジーがあり、北イタリアの信仰心の高さが窺える。中心地を抜けると橋があり、そこから川を見下ろすと、白濁した水が豊富に流れている。そこからしばらく石畳の道を歩いていくと、セラディナ=ベドリナ考古学公園の入り口に至った。
園内は山道になっていて、岩絵地図は一番上にある。例えるなら奥多摩の登山道を300mぐらい登ったところに目的地があるのだ。腰痛を抱え、真夏の陽射しを浴びながら登っていくと、途中で上からおじいさんに声をかけられる。地元の常連客かな、と思って話を聞くと(イタリア語はほとんどわからないからカタコトだが)、指を指してそこに妊婦の絵があることを教えてくれた。それを見ていると「こっちにおいで」と手招きするのでついていくと、普通は観られない区域の岩絵を見せてくれた。途中で奥さんらしき人も現れ、井戸水も汲ませてくれ、生き返る心地がする。小屋はあるし、畑で何かを育てているから彼らはそこに住んでいるように見えるが、そうではなく、近くの家から毎日通ってきているという。管理人みたいなものだろうか。大変ありがたかった。
お目当ての岩絵地図はそのすぐ先にあったのだが、書き出すと長くなるし、言葉にするのも野暮だと思うので、秘めておこうと思う。
地図を見終えてからは、取り残している岩絵を巡っていった。岩絵を見ているとタイムの香りがするので足元を見やると、野生のタイムがいっぱいであった。岩肌だからほとんど土なんてないのに、こんなところに自生するのか、とひとつ勉強になった。また、歩いているとスイス人らしき人たちが草むらから何かをつまんで食べているので、その先を見てみると、黒い野苺が生っていた。山道で汗をかいて疲れた身には非常にありがたく、自然というのはよくできているな、と思う。
岩絵公園には閉園時間ギリギリまでいて、その後、駅から見えた岸壁の教会を訪ね、カポ・ディ・ポンティ駅を後にする。あまりにも楽しかったので、明日別の公園に行ってみようということになった。

8月某日 一番長い日

朝早くザンクトガーレン駅でクリスチャンたちと別れた後、ローカル線でチューリヒ駅に着いて乗り換えようとすると、電光掲示板にはMilano Centrale行きの表示がなく、同じ時間にあるのはChiassoという見知らぬ都市行きの列車のみ。きっとミラノより先にある街なのだろうと列車に乗ってみると、自分たちの席には別の家族が陣取っている。「あの、そこの席なんですけど」と聞くと、イタリア系のお父さんが、この電車はミラノまで行かないことになったから席の指定は無効になり、Chiasso(キアッソ)駅でイタリアの列車に乗り換えなければならないのだ、と言う。礼を言ってその辺の空いている席に座るが、スピーカーにされた電話で何かを捲し立てる若い女性、咳き込む老人、暴れる子供といった風情で既にイタリアのカオスを感じる。とはいえ何駅か過ぎると人も減ってきて、アルプスを超えてイタリア側まで抜けるのはそんなに多くないようだ。渓谷を走る列車の車窓に喜ぶのも束の間で、疲れからか眠りに落ちる。
目が覚めるとルガノの手前で、湖にはヨットが浮かび、岸辺では日光浴を楽しむ人々が見える。建物も高地ドイツ風からイタリア風に様変わりし、植生も荒々しくなる。フランスに親しんだ者にとってはこちらの美学の方が肌に合う。
終点のキアッソは国境駅で、コントロールを素通りしてイタリア側の列車に乗り換える。車内のドアも西部劇のような手押し式の両開きのものに変わり、気温が暑くなったからか冷房が効いている。トイレに行ってみた妻によると「レベルが低い」とのこと。以前ファシズム建築を訪ねたキアッソの隣のコモ駅では、労働者風の移民が4人で乗ってきたが、途中で蓮舫と相原勇を足して2で割ったような短髪の女性車掌に捕まり、あえなく切符代を払わされていた。
この電車はミラノ中央駅ではなくミラノ・ポルタ・ガリバルディという駅までしか行かないのでそこからはメトロに乗り換えなければならず、中央駅に着いたのはもう17時だった。
今日の宿泊地であるブレーシャ(Brescia)行きの電車まで2時間あるので、ドゥオーモに行く。メトロの出口を出ると、眩い大伽藍と共に、強烈な日差しと、ストリートミュージシャンの爆音カンツォーネが聞こえてくる。ファサードの装飾を眺めているうちに曲は「ゴッドファーザー 愛のテーマ」に変わり、それはアメリカ映画だろ、まあモリコーネだけど、と苦笑する。オンラインでチケットを買うことを勧められるので試してみると、中途半端に翻訳されたサイト上に、無数の種類のチケットが並んでいる。一番安い、屋上まで登らないチケットを買おうとするが、これまた怪しいカード決済画面に誘導される。手数料まで覚悟して決済を試したところが、待てど暮らせど何も起きない。結局チケットオフィスまで行って買う羽目になった。ようこそイタリアへ、だ。
ようやくドゥオーモに入るとミサ中で、日曜日だったことを思い出す。月並な感想だが、これだけ巨大な建築を石で建ててしまうヨーロッパ人の技術に脱帽する。また、これだけの彫刻を無名の人々が作り上げてきたことに驚嘆する。現代人にどれほどの能力が受け継がれているというのだろうか。エセ大理石の作り方をスイスで教わったからか、妻は床の石材に夢中だった。
ブレーシャ駅で降りたのは10人ほどで、中には楽器を背負ったアジア人もいた。何か音楽に縁のある場所なのだろうか。駅の裏側にあるホテルから食料を求めて旧市街に繰り出すと、華美ではないが最小限で非常に美しい街並みを通る。イタリアの街路は非常に狭く感じるが、ふと階段を登ると泉のある小さい広場に出て、一気に空間が広がる。そこからスーパーの見える方に向かうと、さらに広い広場に出て、噴水から地面に流れ出した水で遊ぶ親子が見える。既に20:30で夕暮れ時だが、最も美しい時間帯かもしれない。とはいえゆっくり楽しむ暇もなく、Italomarkという大型スーパーで水と食料を買い込み、近くのジェラート屋で今回初ジェラートを食べる。1日の疲労が報われた瞬間だった。

以下、ドゥオーモ付属の博物館。意外にも広く、修復で取り外された彫刻などが所狭しと置かれていた。

ブレーシャ駅。