カテゴリー別アーカイブ: diary

夏休み

『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』は本当に酷かったので、お詫びとして次のジェームズ・ボンドはジェイソン・ステイサムにしてください!

気になる

所謂「百科全書派」は「アンシクロペディスト」と呼ばれるのに、ウィキペディアの投稿者は「ウィキペディスト」ではなく「ウィキペディアン」なのはなぜなのか。

2022年5月

黄金週間はひたすら書類を書いていたが、最後の土日にヤケになって長野行きの新幹線に飛び乗る。ご開帳の善光寺を詣でた後、「日本三大車窓」と謂れる姨捨(おばすて)駅へ。棚田が有名で「田毎の月」として古くから歌に詠まれるほどの月の名所でもある。路傍に生えているペンペングサやヨモギなどを見ながら、子供の頃はこういうものが身近にあったよなあ、と懐かしむ。この辺りは「更級(更科)」という地名で、蕎麦屋の息子には非常に親しみのある名前であるが、実際に蕎麦の産地ではあるものの「更科蕎麦」の発祥の地ではないそう。むしろ「白い」というイメージのある「さらしな」という言葉から、実の中心だけを使った真っ白い蕎麦のことをそう呼ぶことになったようである。芭蕉の句碑や月見堂のある長楽寺には、既に平安時代にはそこにあったという巨大な岩があり、登ると周囲を見渡すことができる。「姨捨」という名前から連想されがちだが、高齢者を捨てたという事実はないし、『楢山節考』とも無関係だということが強調されていた。洒落た本屋で旅行中に読めもしない本を買い、帰京。

いつぶりかわからないが、映画館に赴く。セルゲイ・ロズニツァ監督『ドンバス』(2018年)。事実と解釈、ドキュメンタリーと演出との境目を揺さぶるシニカルな内容。結局これもいわゆる「虚構」でしかないことを最後のシーンは描き出す。事実と客観性の問題はどこの分野でもクリティカルな問題である。それにしても自国が内紛に晒されながら、ここまで冷静に物事を相対化できる監督の精神に恐れ入る。しかも大規模な観客の動員が見込める内容ではないだろうに、これだけの人や兵器を動かし、爆破シーンも織り込んでいる。相当なバジェットが必要だったと思うが、そういう意味でもタフな映画である。見逃したらしいスターリン国葬のフッテージから再構築した映画を見てみたい。

毎週金曜日は朝からウクライナ戦争とペットショップとジェンダーとドロップアウトについて考えた後、アップルパイの食感とケチャップアートの描き心地とアニサキスの人生について考える。きっと専任ってこういうことなのだろう。

2022年上半期所感

苛々する言葉
・ほぼほぼ
・エモい
・推し
・自己肯定感
・深掘る(New!)

2022年4月

というわけで(何がだ)4月から専任になることとなった。色々ここに書けないことも多くなるだろうが、これまでも頻繁に書いていたわけではないので大して変わらないだろう。思えば若い頃はなんでもかんでも書き記していたもんじゃが、あんまり書きすぎると現実世界で人に会った時に話題がなくなるし、自分で書いているくせに人に監視されている感じが強くなるので、自然と減ってきた。全てを書いているわけではないのに「お前のことは全部知っているぞ」的なマウントを取ってくる人も稀にいて、嫌になったこともある。そもそも仕事が忙しくなると1日家でパソコンをいじっていることも多くなり、家での雑談もままならないほど話題に事欠くのである。まあ唯一続いていることだから適当に続けようと思うが。

某日
いよいよ入学式。天気は予報通り雨。私の中にある最強の雨女のDNAが覚醒し始めている。
式典では学科を代表して「若い衆」3人がスピーチ。N先生に「専任になるとこういう『晒され仕事』が増えるよ」と言われる。
初勤務日にして既にポストに書類がパンパンに入っていた。紙地獄にまみれる予感。

某日
丸一日オリエン。久しぶりに対面する喜びからか、異常に温まる会場。同じ空気を吸うという行為には、言いようのない一体感があるのだな。
楽しみにしていた個人研究室というものに初めて入るが、第一印象は「寒い」であった。他の先生に聞くと、皆同じ悩みを抱えていると言う。おまけに物がなくて心も寒いので、早く備品を揃えたい。

某日
丸一日オリエン。学生の自己紹介で出てくる固有名詞が全くわからず、時の流れを感じる。「フォーロック」ってなんだと思ってたら「邦ロック」だったらしい。じゃあ「邦ポップ」とか「邦ノイズ」とか言うんだろうか。「J SOUL BROTHERS」は……?そんな発想が既におっさん。
自分が学生だった時の自己紹介で覚えているのは、「グリーンマイル!」と叫びながらマイケル・クラーク・ダンカンのモノマネをしたやつのことぐらい。

某日
朝からZoomで2本打ち合わせをし、そのまま夕方に大学院生向けオリエン。院部屋でアットホームに茶飲み話でもするイメージだったが、大部屋で総勢30名近くの学生たちと自己紹介をし合う、というちゃんとした会だった。「院生は金もないし、なかなか理解もされないし大変だよね」みたいな話をしたが、よく考えてみると金はあるのかもしれない、と後から思う。だとしたら全く刺さってないな……。

某日
いよいよ授業が始まる。週間天気予報を見ると、私の出校日だけ見事に雨マークばかり。申し訳ない。「お祓いに行け」と言われる。

某日
昨日大学の自販機で清涼飲料水を買ったのだが、今日会った旧知の学生に「先生、昨日○○飲んでましたよね?」と言われる(銘柄は私の名誉のために隠す)。専任になるとそんな些細な事柄までもが光の速さで伝わるらしい。

某日
オムニバス形式の座学の授業で「自分のやっていることについて」話す。作品を次々見せるよりも、その時の状況や、作品の所与の条件に対してどう考えたを話す方が重要だと思い、「疑うこと」というテーマを立てる。自分語りをする気はないけれども、「自分の周りにはこういう人やこういう物があった」ということも含めて話してみた。授業後に書いてもらったレポートを見ると、こちらの思った以上のことを汲み取ってくれたようでホッとする。

不安と過ごした90日間

1月某日
代官山蔦屋書店での鼎談イベント。その一週間ぐらい前から腹部に筋肉痛のような痛みがあり、歩くと響いていた。腹痛かと思い、消化器内科に行ってエコーまでやったが全く胃腸は綺麗とのこと(いつものパターン)。気のせいかと思ったが、ついでに腰も痛いのでカイロに行ったところ、「背中にブツブツが出ているよ。帯状疱疹かもしれないから早く皮膚科に行った方が良い。」と言われる。その足で皮膚科に行ったら、もう治りかけてはいるがやはり帯状疱疹だろうとのこと。念の為薬をもらう。高い。思えば脇にも変な痛みがあったし、それもこれもウイルスの仕業だったのか。ずっといたんだね、君は。
そんなこんなで病院をたらい回しになりながらイベント当日に雪崩れ込んだため非常に緊張感ある配信となったが、三中・中野両先生の素晴らしいフォローのおかげでなんとか乗り切れた。私はどうしてもスライドを作るのが好きになれないのだけれど、これからこういう場面を幾度となく乗り越えていかないことを考えると、なんとかして折り合いをつけないといけないのだろうなと思う。

2月某日
4月から生活が大きく変わるので、どうにも不安な日々を過ごす。フランスに行く時だって全くプレッシャーなんて感じなかったけれども、言いようのない漠とした不安に襲われる。おまけにその原因を人に言えないと来ているからタチが悪い。
クライアントワークと研究のバランスを大きく変えないといけないし、これまで学びたいことしか学んでこなかったという我儘な研究姿勢も変えざるをえないだろう。案じても始まらないのではあるが、けじめはつけておかなければならない。

2月某日
日常的に私と「濃厚接触」している友人がコロナに感染したとのこと。私はたまたまその時期会っていなかったというだけで接触を免れたが、突然身近な問題となったことに驚きは隠せない。
それにしても1日数万人の感染者が出ていると、どこかに旅行に行く気も起きない。行きたいところに行けない、やりたいことが進められないというのはストレス以外の何ものでもなく、鬱々とした日々が続く。

3月某日
パリでも日本でもお世話になっているK島さんの紹介で、ほぼ同世代の写真家の方、デザイン史家の方とお会いする。出会いの少ない日々の中で、こういう出来事は嬉しい。全員海外在住経験者で、呑助。ひたすらビールを飲み続ける。

3月某日
日本生態心理学会第9回大会で招待講演。主に拙著の話をしてほしいという依頼だったのだが、せっかく生態心理学会という場でお話しするので、拙著の内容をもう少しアカデミックに整理しつつ、「エコロジー」概念の発展と絡めた発表にした。
特定質問者の染谷昌義先生からはヴィジュアライゼーションの効果と危険性の両側面について鋭いご指摘をいただき、またギブソンがヴィジュアライゼーションについてどう捉えていたかについて、示唆に富むご教示をいただいた。
そのほか、以前お世話になった方々に(オンラインではあるが)お会いしたり、初めての方から積極的な質問をいただいたりして、私にとっても非常に刺激的な機会となった。この発表のためにギブソンの画像知覚論を読み込んだり、パース記号学との補助線を引こうとも考えたが、所詮付け焼き刃だと認識するに至ったので、最終的には引っ込め、寝かせることとした。
翌日の大会2日目には私もオーディエンスとして参加する。久しぶりに全くわからない言葉をシャワーのように浴びる経験をし、何やら清々しい気持ちになる。人生においてこういう経験は絶対に必要なのだ。また、その日の午後に開かれたシンポジウムでは、近年出版されたアンソロジーについての激しい討議が繰り広げられ、健全な言論空間というのはかくあるべしだということを実感させられた。特に「depiction」の問題は私の研究テーマとも重なるところであり、これからも考えていきたい問題だと思っている。

20220326

遅くまで飲んだ夜の帰り際、妻より青山真治氏の訃報。しばし絶句。お会いしたこともお話ししたこともなかったが、氏の映画から、あるいは書かれたものから学んだことは計り知れず、特にまだブログというものが有力な文字メディアだった2000年代後半の氏の日記には、新作が撮れないまま酔って醒めては映画を見、また酔って醒めては映画を見るアルコホリックな日常が赤裸々に綴られており、まだ何者でもなかった私に日々の生きる力を与えていたと思う。『サッド ヴァケイション』を新宿武蔵野館で見た時のことも、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』『こおろぎ』『ユリイカ』を爆音映画祭で見た時のことも、鮮明に思い出せる。マイケル・チミノについて教えてくれたのも氏の文章だった。また新作を撮ってくれると信じて疑わなかった。ショックというほかない。人の死というものは消化すべきものなのだろうか。私には喉につっかえて飲み込むことができない。

2021年を振り返り

もうすぐ今年が終わるらしい。今年の思い出といえば、夏に蟻に追われて全速力で走る毛虫を見て、「毛虫も本気出せばあんなに速く進めるんだな」と思ったことぐらいだ。いや、本当は色々あったんだろうが、同じ街での生活ルーチンを繰り返すと、経験は「思い出」にまで消化されないようだ。まあそんなことはどうでもよい。

多分、学生と関わることがなければ最近の流行など追ってみようとは考えもしなかったと思うが、『鬼滅の刃』など読んでみながら、理解はするけれども魂としては理解しえず、どこかで聞いた「流行っているものをその時代の代表として理解しようとし始めたらおじさんである」というような言葉(超・意訳)を妙に納得したりした。仮に「流行っているもの」が時代の代表だとしたら、自分が若かった頃の代表は小室哲哉だということになるが、本当に「好きだ」と言っているやつなど今まで見たことはない。ただし、今流行っているものの中にも「面白い」と思えるものがあるのも事実である。しかし一方で、自分の若い時にあった文化だけを繰り返し味わうこともおじさん的症状だろう。若者に迎合するでもなく、自分の些細な少年期を反芻するでもなく「おじさん化」から免れるためには、現代を超えた歴史的観点を培い、そこから現在を逆照射することこそが必要なのだ、などと正論をぶっても始まるまい。おじさんはおじさんである(ゴダール風トートロジー)。まあ、こちとら子供の頃から「おじさんくさい」「老けている」と言われ続けているので、ようやく年齢相応に見られるのだなと思っていたのだけれど、最近はそれを通り越して「じいさん」と呼ばれるようになってしまった。はて、どうしてこんなことを書き連ねてしまったのか。

今年何をやっていたかというと、ほぼずっと書籍の執筆に費やしていた。家だと部屋もなく集中できないので、毎日喫茶店などに行って原稿と睨めっこする日々。子供の頃、地元のドムドムバーガーでいつも同じ席に座っているおじさん(多分近くの大手予備校の浪人生ではないかと思うが、子供にはおじさんに見えていた)がいて、その長髪の風貌から「宅八郎」「宅さん」と渾名されていたのだが、すっかり私も「宅さん」化してしまった。近所で噂されているかもしれないが、こちらものっぴきならないのでやめられない。元気しているかなあ、宅さん。これも何の話だ。

霜月

目標をセンターに入れてスイッチ…。

目標をセンターに入れてスイッチ…。

夏休み

執筆、デザイン、事務、執筆、デザイン、事務。自分で立てたスケジュールの目処についていけない。これが歳というものなのか、単に疲れているだけなのか。これが終わったらゆっくりしたいなァ、と思っているうちに後期は容赦なくやってくるのだった。

ついにオリンピックというものが遂行される。遠いところでソファに腰掛けてTVを見ているやつと、その中間でポケットに金を入れるやつのためだけに、この一年半全てがうやむやにされ続けた。そもそも、同門だから、同郷だから、同国人だからという理由で赤の他人を応援する気持ちになんかならない。国が一緒だからという理由だけでチームを組む必要性も、現代には最早ない。H氏が「私はスポーツが好きだから、オリンピックは好きではない。」と言ったのにも肯ける。社会というものはかくも簡単に人を殺しうるという教訓だけが私には残った。ばかばかしい、と呟いてやりすごすべきものなのかもしれないが。

少しだけ映画を見始めた。

7月
ペキンパー『ダンディー少佐』。最初は南北戦争版『ダーティー・ダズン』か?と思わったが、規律正しい軍人がやがて狂気を孕み、自由意志に基づいて行動する人間へと変化していく様が、『地獄の黙示録』を思わせる、と言えば失礼か。やはりオリジナルの編集で見たかった。あと、南北戦争の戦闘ってあんなにクラシックなのね。

8月
ベネット・ミラー『マネーボール』。『カポーティ』も『フォックスキャッチャー』もそこまで好きではなかったけれど、請負い仕事で撮ったのであろう本作の方が私は好きだった。ありし日のフィリップ・シーモア・ホフマンが見られて嬉しい。

ヘルゲランド『42 世界を変えた男』。よくもまあこんなに憎たらしい白人俳優を集めたものだ。アメリカというところは恐ろしいところだな…。そういえば『ブラックパンサー』も『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』も見たけど、チャドウィック・ボーズマンという人は、人に希望を与える顔をしているな、と思う。

ザイリアン『シビル・アクション』。ロバート・デュヴァル萌え。しかし、アメリカの裁判というものはこんなにもマネーが全てなのか。裁判の途中で出てくる小道具がやたらと凝っていたのが良かった。ザイリアンは年長者を出すのがうまい。

ザイリアン『オール・ザ・キングスメン』。南部というところは恐ろしいところだな…。

シェリダン『ローズの秘密の扉』。この邦題はないわ。

シェリダン『マイ・ブラザー』。疲れているときに見る映画じゃなかった…。

ジェイムズ・グレイ『アド・アストラ』。宇宙の果てまで親父を探しに行くだけ、というめちゃくちゃパーソナルな映画で、前作『ロストシティオブZ』でいなくなった親父を探しに行く息子の物語にも思える。アメリカ映画的には既に宇宙に住むことは当たり前で、そこでの生活や社会をどう描くかというフェーズなんだろうか。いやまあSFなんていくらでもあるのだけど、そこに凝っていた。年相応に見えるブラッド・ピットに初めて好感を持つ。意外とウィリアム・H・メイシーに似てるのね。

シャマラン『ヴィジット』。誰かシャマランにNOと言うやつはいないのか…。

イーストウッド『ハドソン川の奇跡』。イーストウッドを最後に見たのは多分『アメリカン・スナイパー』までで、やっぱり『インビクタス』ぐらいからもう自動運転モードに入っているというか、マルパソの職人たちが勝手に作っている感があったのだけれど、本作も、ああ、こんな画で大丈夫なのか、トム・ハンクスの顔もこんなので良いのか、と思っているうちに引き込まれてしまい、という手際は、なかなか真似できるものではないだろうな、と思う。原題は『サリー』というらしいが、最初の墜落シーンで「サリー」とつぶやいた副機長のさりげない言葉がだんだん生きてきて、それにつれてトム・ハンクスの顔もだんだん引き締まってほかでもない固有名詞になってくるところが、『父親たちの星条旗』と同様に、素晴らしい。流石に画面に力がなくなってきているとは思うけど、イーストウッドならではのものはあるな、と感じる。