日記 20190605

京マチ子氏の訃報。3日ほど絶望を禁じえず。他のどんな女優の訃報よりも深く響いた。彼女はフィルムの中でいつも誰かと戦っていた。男とも、女とも、そして自らの運命とも。演じるとは何か、女とは何かを教えてくれたのは彼女であった。強さの奥底にいつ切れるともしれない細い糸のような弱さを湛えている人だった。画面の中央にバストでおさまり台詞を言うだけで画面全体をふるわせられる存在だった。『浮草』『あにいもうと』『赤線地帯』。もうこのような女優は出ないであろう。一つの時代の終わりに喪失感を感じずにはいられない。合掌。

なんとか連載最終回を脱稿し、宇都宮の勝井先生の展示へ。武蔵美での退任展では監視バイトの特権を利用して作品を隅々まで眺めたし、富山、筑波など折に触れて展示に足を運んで先生の作品の全貌は見渡した気になっていたけれども、今回もまた、予想通りと言うべきか、驚かされることとなった。確かに先生の作品には科学的モデルやアルゴリズミックな構成から取られたものが多い。しかしそれは単なるベースでしかなく、その構成を解き明かしたところで先生の作品の魅力に到達できたとは言えない。どうやって発想しているのか、どうやってディレクションしているのか全くわからない部分にこそ先生の作品の凄さはある。勝井先生には宇宙が見えてるとしか思えない。それにあのポスターで展開される作家性と、ブックデザインに求められるような、作者のテキストを活かす裏方的な仕事の双方が、全く矛盾なく両立されているところ。猛省を促されると同時に、お前にもこのような感覚があるのだと胸の奥を揺さぶってくるような体験だった。
私はヨーロッパでデザインとデジタルメディアが感覚世界を破壊する様を見てきた。なぜヨーロッパでそれを感じたかというと、日本では既に死んでいるからであろう。しかしながら勝井先生は常に現在を肯定し続け、未来を描き続けている。「デザインする」ということが未来を作り出す思想であることを先生は体現しているのだ。先生が政治的意見を表明しているところなど見たことがない。デザインに徹することが慎みであり職業的務めであると言うかのように、先生は美しいものを作り出し続ける。しかしながらその背後には、国境を超え、科学的分業さえ超えた全人類的感覚によって新しい世界を生み出すのだという思想が確かにある。そのような信念がいつから先生に芽生えていたのか。教育大での教えであるのか、世界デザイン会議なのかはわからないが、それが先生のエンジンの1つになっているのではないか。絶望などしている場合ではない、世の中を変えることができるのがデザインなのだと先生は言っているようであった。

2年の連載を終え次はどう動くかを考えながら数日が経った今日、目を覚ますとスイスの友人Aから朗報が届いていた。ニコラ・ブーヴィエのテキストをまとめていた仕事が終わり出版されたという報せと、フンボルトについての彼の新しい論文が添えられていた。彼は地理学のアカデミズムに背を向け、中学で地理を教えながら執筆・出版活動を続けている。ルクリュのように子供たちに未来を見ているのだろう。最近は気候変動に対する子供たちのデモに寄り添って書いた記事を送ってくれた。いつも彼の報せには助けられる思いがする。いつかお返しができたらと思う。