ムードン

1月初頭、友人M夫妻とパリ近郊のムードンを一日歩く機会があった。既にジャン・プルーヴェの工業化住宅のプロトタイプと、ジャン・アルプとその妻ゾフィー・トイバーの住宅兼アトリエを訪ねたことがあったが、今回は幸運にもデ・スティルのテオ・ファン・ドゥースブルフと妻ネリーのアトリエ兼住居の訪問ができた。正確に言えばその辺りはムードンとクラマールの境に当たるところで、テオが妻とパリに移住した後、さらに移転してきたところである。彼らの移住はストラスブールの「オーベット」で協働するアルプ=トイバー夫妻が引っ越してくるきっかけともなった。テオはやがてこの家を設計するが竣工前に死んでしまい、彼の彫刻を置くはずだった白無垢のソックルは前庭にそのまま残された。ドゥースブルフの作品は好きだがどちらかといえば理論家だと思っていたし、通りから見える正面ファサードも青赤黄の3つの扉が作り出すリズムと、そのうちの一つである青い扉が日本式の2階に宙に浮いているように見えて何か謎かけのように感じる以外は単なる白い箱に見えて無愛想に感じていた。しかし入ってみれば印象は大きく変わった。簡潔に言えば頭でっかちではなく「よくできている」のだ。アトリエ、居間、パーティールームを兼ねた主要居室は2階分の高さを持ち、劇場ともなるよう階段とコンクリート造りの机(舞台)が設けられている。壁は藁を圧縮して束ねた当時の新素材でできており、換気が必要になるために方々に穴が開けられている。階段の薄さも伴って若干不安になるほどの脆弱さを感じるが、今まで保っているのだから実験としては十分である。アトリエ=劇場=居室に入るまで通ってきた回廊は、両側の壁を押せば扉のように回転し、アトリエに入る入口を塞げば空間が閉じてそこが副室に変わる。作り付けというかコンクリート打ち付けのサイドテーブル、壁と床が接する角の部分の面取り、要素主義的構成の天窓のステンドグラスなど細部のこだわりを見るのも楽しいが、その片隅にある冗談のように小さい暖炉は使われた形跡がなく、真意は謎だという。1階のキッチンに降りると今まで2階にいたのが嘘のように感じ、それは2階があたかも1階のようであり、1階があたかも地下のようであるからだが、しかしそこは確かに1階で庭と直結しており、キッチンの窓を開ければ内外の空間が一体化し、まるでカウンターキッチンのように庭ないし2階の下のピロティ空間と物の出し入れや会話が可能になっている。要するに外で食事をしたり寛ぎながらキッチンとやりとりができるようになっているのである。やはり理論家では片付けきれない人だと確認させられた。家具や空間に複数の機能を与えることを楽しみ、それが押し付けがましいアイデアの展覧会になることなく、単調な無機能空間になることもなく、また単なる実用性と経済性に堕することもない軽快な遊戯的建築となっている点でバウハウスやコルビュジエの建築と一線を画している。ちなみに今はオランダのアーティスト・イン・レジデンスになっており、財団から美術関係者が送り込まれてくるようになっているらしい。案内してくれたおばさんも元レジデントだった模様。しかし「私はオランダ人だけどもう長いことパリジェンヌ」と言った時のフランス人達の殺気を見逃すことはできなかった。語義的に言えばパリに住んでいればパリジェンヌだが、20年住んだぐらいで京都人と言い張るようなものである。
ここは坂の中腹にあるが駅の辺りは谷になっていて、ずっと上り坂になっており、さらに登ってアルプの家を超えて行けば森があり(その手前にある現代建築群がなかなかぶっとんでいるのだが)、天文台や採石場跡などもあって美しくも興味深い地形を持った場所である。坂の上から町全体を見下ろすように建っているまるでシャトーのようなサン=フィリップ孤児院も美しかった。
ところで「ドゥースブルフ」っていう表記はこれでいいのだろうか。「ドゥーシュベリ」「ドゥーシュベーリヒ」に聞こえたりするのだけど地域差があるのか?