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フランスに帰ってくると「生活」が待っていて、思うようには進まない。図書館の使い勝手も違うし、この勢いでいけるんじゃないかという目論見は大きく下方修正されることとなる。
そうするとジョン・ハートが死んだとの報せが目に飛び込んできて、朝から思わず声を上げてしまった。私にとっては『エレファント・マン』でも『エイリアン』でもジム・ジャームッシュの映画でもなくて、チミノの『天国の門』でのアル中に堕ちていくかつてのハーバードの生徒代表、ペキンパーの『バイオレント・サタデー』の復讐鬼、ヒューストンの『華麗なる悪』の超楽観的怪盗役なのだ。シリアスな役よりはコメディアンとして演技をしていた方が生き生きとしていて好きだった。生きている最後のアイドルだった。
フランスの友人から「なぜかわからないがジョン・ル・カレの作品の脚色を初めて見てみようという気になった」というSMSが届いたため、今まで避けていた『裏切りのサーカス』を私も見てみることにした。ジョン・ハートも出ているためだ。最近の映画にしては絵作りに感心させられたものの、演出とシナリオと、あと髪型が全て台無しにしていた。説明的ではない作り方は良かったのだけれど、結局回収されない台詞と画面の細部が多くて、ただ思わせぶりなだけに終わった。友人は途中で放り投げたらしく、「スウェーデンは我々に謝罪するべきだ」と憤る。早々に死んでしまったジョン・ハートも空回りしていたし、ゲイリー・オールドマンはただ滑稽だった。
次の日、ようやく気が向いて成瀬の『山の音』を見に行った。階段と上映室の間に仕切りのない変な映画館で非常口ランプが上映中も煌々とついていたし、デジタル上映だったがそこまで気にならず、これは好きな映画であった。原作は川端康成で話はかなり辛いが、不倫の黙認、男の暴力と中絶、離婚願望と家庭維持との葛藤、不倫相手の妊娠とシングルマザー化など主題はかなり現代的で驚かされる。夫婦あるいは家族というもの確かさが揺さぶられる中で、嫁と舅の他人であるがゆえに深くある愛情を、多くを語らせない中で浮かび上がらせている。西洋的生活(会社やダンスホール)と日本的生活(家庭)を衣装・美術で対比させ、そのどちらにも対照的な女を配置したのもよく効いている。見ながらサタジット・レイの映画を思い出し、サリーと洋服で伝統的家庭と西洋化された資本主義的経済活動との葛藤を描いたインド映画に対し、日本人は和服からだぶだぶな背広を着て会社に向かい、いつしか洋服にも会社というものにも何も疑問を感じなくなるほど自ら進んで西洋化していき、当たり前にスーツを着て働いているのが非常に奇妙に映る。おそらく西洋人にはもっと奇妙に映るだろう。この国で見るとそういうことが嫌でも気になってしまう。
最後のヴィスタがどうのこうのという台詞のところで無意識に別のことを考えていて、思わずセリフを聞き逃してしまった。大事なセリフだったように思えるので非常に残念である。
夜は中華街に食事に行ったが、太陰暦の新年のため、獅子舞や龍舞の集団がタイ料理店の前でお祝いをしていたのに出くわす。中国かどこかから呼んでいるのだろうか、それともパリの中華街の有志で結成されているのだろうか。数十分やっていたが、最後は極太の爆竹を鳴らしてようやく終わった。皆嬉しそうで、普段見ない顔を見るのは良いものだった。