3/30-4/6

3/30(水)
現地時間15時頃仁川空港到着。恐ろしく商業的なこの空港。搭乗ゲートはターミナルの突端で、延々と続く商店街を通らされた。スイスのある空港はわざと買い物させるように設計されていると聞いたが、ここもそんな気がする。
仁川=名古屋便はボーッとしているうちに到着。チンピラみたいな見た目の名古屋人を観察しながら実家に帰る。標準語より先に名古屋弁が聞こえてくるのがなんとも言えない。煮豆と冷奴と胡瓜のぬか漬けなど食べて獺祭飲んで寝る。

3/31(木)
朝早く目覚め、ボーッとしたのち家族でモーニングを食べに喫茶店へ。エッグスラットなる謎の食べ物を流行らせようとしていた。当たりの柔らかい日本の珈琲を懐かしみながら飲むが、これも私には悪くない。3歳になった甥っ子がペラペラ喋るようになっており、ゆで卵を2つ平らげるのに感心す。
その後、清洲城へ花見に向かう。五条川の土手に無数の桜が咲いていて、明媚。財布に入っていたなけなしの日本円500円から200円を出して土手煮と串カツを買う。姪、残りの土手味噌をぺろぺろと舐める。その後フランス人がやっているパン屋に連れて行かれ、おにぎりパン、桜あんクロワッサンなど珍妙な日本化パンを興味深く観察する。夜は高級スーパーの刺身で宴。久しぶりに家族と会うからか、まだうまく話せず。

4/1(金)
したいわけでもなく早起きして、喫茶店で奴隷のように働く日本の接客サービスを観察しながらモーニングを食べ、埃っぽい衣類をクリーニングを出す。もはや無意識化されてわからないが汗の臭いもするのだろう。あちらでクリーニングを出す勇気がなかったためまるごと1年分である。銀行で下ろした日本円が直ぐに消え失せる。
昼頃SIMフリー携帯向けのキャリア(MVNO)に契約しに行くが、証明書類が必要だと突き返される。そういえば日本にはそういうものが要るのだった。日本は電話関連はかなり書類の重要さが残っている。家まで取りに帰り、免許証を携えて再訪すると、開通したら連絡するからまた来い、とのこと。時間は開通センターの混雑具合に依るため携帯屋を後にし、穴の空いたセーターをテレビに出たというかけはぎ屋に出し、喫茶店でデータ整理などする。夜に帰るが携帯開通は明日になるとの伝言あり。親父が市場で買った初鰹、美味也。

4/2(土)
朝MVNOから連絡があったため自転車漕いで取りに行き、喫茶店でSIMカード装填す。途中で買った漫画2冊を時間をかけて読み干す。1年いない間に色々出ていたが金もないので保留。しかし続刊が出ない某週刊誌の少年漫画も有り。

4/3(日)
早朝起きる。喫茶店でデータ整理など。夜、あまり気が進まないが焼肉に同行し、雨の中走って帰る羽目に。

4/4(月)
朝、割と通常の時間帯に起きるが猛烈なダルさで再び床に就く。昼過ぎ、パリで知り合ったO夫妻がうちの家族の店に食べに来たのでご一緒する。徒歩10分のところにあるギャラリーを運営しているそうで、うちの常連さんの兄弟がオーナーらしい。世の中は本当に狭い。
夕方、街の中心まで行き、財布を新調す。フランス渡航前に少し奮発して良いものを買ったがブリュッセルで盗まれたため、もはや何でも良しの心境なり。仮に欧州の友人がこの街に来たらどう思うか、何か見るべきものはあるのかと思いあぐねながら街を歩くが、ひどく商業的なこの街は彼らを幻滅させるのであろうという思いは払拭できず。特に私の家の最寄り駅の周辺なんぞは私ですら目を伏せたくなる俗悪さ。救いは徳川美術館だけ。あとは珍妙な食事ぐらいか。外国人観光客などいるのだろうか。

4/5(火)
夜中、体が熱くて起きる。暑くて寝てられない。どうやら単に時差ぼけなだけではないようだ。腹の調子も悪い。しょうがないので本など読んで過ごすが、朝になってもどこにも行く気になれず、そのうち床に就く。いつもすぐ寝られるからわからなかったが、寝たい時に寝れないというのはしんどい。小津の蓼科日誌、ボグダノビッチによるオーソン・ウェルズのインタビュー、杉浦日向子の文明開化ものなど並行して読む。何を読んでも没頭できず、読む姿勢さえ定まらないのだから読書というのは生来向いていないのだと思う。

4/6(水)
また夜中に起きる。風邪なのか、ひょっとして花粉症なのか。地に落ちているであろう免疫力に、突然日本の濃密な花粉が襲いかかっているのだから無理もない。昼間友人が蕎麦を食いにきたようだが、私は失礼して寝続ける。
夕方、少しましになってパソコンを開き、各方面にメールをしたり、ゾフィー・トイバーの年譜を訳し始めるなど。