4/18 リートフェルト

ユトレヒトに来た目的、それは9年前に来たとき見られなかったセントラール・ミュージアムのリートフェルト・コレクションを見ること。シュレーダー邸は見れたけど、移動の時間が迫っていたので後ろ髪引かれながら片手落ちにて失礼した記憶がある。思えば欧州は4回目で、それにしてもこんな可哀想な英語しかやりとりできない自分が哀れでならない。
折角だからということでシュレーダー邸も行くことにし、朝11時に予約。歩いて行けそうなので朝の散歩がてら早めに向かうことにする。いかにもオランダらしい建物が立ち並ぶ通りの真ん中に美しい並木道が走っていて、嫌みではない現代彫刻が点々と置いてあり、街に対する意識の高さを思い知らされる。30分ちょっと歩いてシュレーダー邸に着くと、まあ一種の楳◯かずお邸のような異質さがあるが、さすがにあれとこれとを一緒にしたくない。景観に対する意識の高さは一方で排他的で保守的な方向に走りがちで、周囲の冷ややかな目もあったかもしれないが、これを貫き通せたのはリートフェルト以上にシュレーダー夫人(未亡人)の理解と意志の賜物だろう(オーディオ・ガイドによれば、実際夫人の娘は幼少期に「私はあの風変わりな建物には住んでないよ」と友達に言っていたそうだ)。夫人の嫁ぎ先が名士だったなら尚更その意志は固かったのだろう。リートフェルトにとって初めての建築だったわけだし、名声でゴリ押しできたわけでもない。この家をこうさせたのはやはり夫人の意志が大きいのだ。エラスムス通りの土地が売りに出された時にそれを買ってリートフェルトに家を建てる機会を与えようとしたのも彼女だし、目の前に高速道路ができた時にリートフェルトが「この家はもはや意味をなさないから壊すべきだ」と言ったのに対し、それを残したのも彼女だ。施主だったこと以上に彼女の生き方に対する拘りを感じる。
9年前と変わっていたのは、まず隣の家がチケット・オフィスになっていたこと。そして内観が撮影禁止になり(昔は確か撮影できた)、確か前はミュージアムからのバスツアーになっていたが、今回は現地集合でオーディオ・ガイドつきの訪問になっていたことだ。そしてエラスムス通りのアパートにも入れない。門戸は広く開かれるようになったのだろうが、その分厳しくなった気がする。まあ私は9年前に見たからいいけど。ムッフッフ。値段はセントラール・ミュージアムとディック・ブルーナ・ハウス含めて € 14 なので良心的。
内観、もろもろ記憶を確認するように見たが、リートフェルトの工房にリシツキーとマルト・スタムと記念撮影した写真が置かれていたのが感動的だった。憎いことしますな。生活の要請を微笑ましいほどのデザイン・アイデアによって乗り越える。職人的知恵と空間思想を併せ持った「生きられた家」として非常に貴重な例だと思う(水木しげるが自宅改築マニアなのがなぜか思い起こされる)。本当は他の家も見られるべきだが、当然ながら所有者がいるので叶うべくも無い。
そして9年振りの雪辱を晴らすべく向かったセントラール・ミュージアム。別にリートフェルトが大々的に展示されていることを期待して行ったわけじゃないが(されていたら嬉しいけれど)、これが惨憺たる結果に。11世紀からマニエリスム、カラヴァッジオ主義者を経てモダニズムに至るまでのユトレヒト美術史の展示の床に、説明の為のポップなイラストを描くのはまだ許す。見ないから。しかしその中に突然21世紀のインスパイア作品を放り込むのは如何とも許し難いし、とにかくその他の展示部屋の大部分を占める企画展の現代アートが諸々酷すぎる。もうこれじゃあ現代アートなんか技術も見る目も無いくせに芸術作品ぶった観念論者の手慰みにしか思えない。あなたのちっぽけな霊感とやらを信じる前に、あるいはその直感が何なのかを突き詰める為にこそ、他人の作品や論考を研究したらどうですか?世の中にはそうじゃない真摯な作品もあるはずだが、もう気分的には最悪。お前なんか才能無いんじゃ。モダニズムばっかり展示するわけにはいかないかもしれないけどちゃんとリートフェルトとドゥースブルフを恒久的に展示せいや!と言いたくなる(たった6畳程度の一室でモダニズムおしまい)。ツーリストの我が儘かもしれんが、これがあのドゥースブルフの分厚いカタログやリートフェルトのモノグラフを作った組織とは思えない。ちょっと信じられない。
許し難い気分で美術館を出て、ミッフィーちゃんでも見て心を鎮めようと思ったが当然の如くがきんちょが騒いでたので早々に退散。ブルーナさん、そういう気分じゃないんだ、ごめん。
明日はフランクフルトに移動する。

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Gerrit Rietveld at CIAM I (La Sarraz)