12/11-1/10

粛々と作業。どうせ退屈なフランスの年末年始をいかに何事もなく無心でやり過ごすかを考えていたら、風邪を引いて寝正月になった。といっても所変われば風邪も変わるのか、喉が腫れて鼻水が出るので蜂蜜檸檬を作って飲んでいたら大して熱も咳も出ず回復。単に氷点下前後の寒さと空気の汚さが問題だったのだろうか。風邪と言うのも気がひける。しかし妻には伝染った。この国はハーブを元にしたフィトテラピー(植物療法)の薬が充実しており、冬用のエッセンスを友人Bに勧められる。ラベンダー、燕麦、ユーカリ、トウバナ、桂皮なんかが入っていて、冬の初めに気温が下がった頃に続けて飲むらしい。いつもタイムはじゃがいもと合うとか、生のセージやローズマリーを少しだけお湯に入れてお茶として飲むとか、ジャムを作るときにも果物だけじゃなくて少しのハーブを入れるとか、最初聞くと少し驚くが実際食べたり飲んだりしてみると単純な美味しさがある。パスタやピザに入れるぐらいしか使い道を知らない日本人にとっては毎度目から鱗である。いや日本だってハーブは紫蘇だけじゃないし、本草学や漢方のことを考えてみれば大いに発展した思想があるのだが、「ハーブ」というそれそのものが西洋的な概念として考えてみると、やはりこの国の考えは発展している。インドの香辛料と同じで、その国には理由のある植物の使い方があり、拡散される「レシピ」などというものとは全く別の次元の、土地特有の思想がある。さらには我々の体はかなり深くその土地と深く関わっており、そんなにすぐには新しい土地に適応されない。いつから我々は他国の文化を容易に理解できるなどという誇大妄想を持ちうるようになったのか。翻って見れば、外国人がそう簡単に寿司や日本料理のことを理解できるとは到底思えないではないか。この手の誇大妄想が世界に蔓延していることは、ここに来る世界の芸術家の話を聞いているとすぐにわかる。いやまあ日本人が自分たちのために作ったカレーを食おうが、フィンランド人がタンゴを国民的な文化としようが、誰もそれを「本物」だと勘違いしないかぎり問題はないのだが。

ビブリオテークの帰りにシネマテークに寄るという習慣が律動として悪くなく、単に橋を一つ渡るだけなので、周辺がいかに酷い景色だろうが、私的には楽園である。しかし上映技師がありえないほど酷く、以前書いたように上映するべき短編映画を飛ばして上映して全く気づかないわ、サタジット・レイの静謐な映画の最中に上映室でおしゃべりするわ、35mm上映で天井に上映の光が引っかかるほど上下左右をはみ出して上映するわ、とにかく職業倫理として理解不能。単に作品に対する侮辱でしかない。しかし私もいつも真ん中に座ってしまうので、人を押しのけて文句を言いに行くのも憚られ、誰か代わりに行ってくれと祈るものの観客もどうかしてるのか誰も言いに行く気配はない。ここは日本人らしく暗殺して帰国するのも悪くないが、思い直して文明人として呪いを込めた抗議文を送付することにする。私がタランティーノだったら世界の映画館の酷い上映技師を抹殺する脚本でも書くだろう。再び登場の友人Bに話したら、トロカデロのシャイヨー宮からこのフランク・ゲーリーの惨憺たる建物に移ってから運営も観客も全く変わってしまい、昔いた真のシネフィルたちはもういなくなってしまったと嘆いていた。B級映画のスタッフロール15番目の端役の名前を覚えている人や、映画を巡って喧嘩をしたり上映室に飛んで行って上映技師を引き摺り下ろす人もいなくなってしまったと。話を聞くと昔のシネフィルの凄さは本当に特別だが、とりあえず観客の質はいいから真っ当な上映だけはしてほしい。これが現代フランスの映画人のレベルだと思われていいのか?安売りスーパーの店員と同じレベルだぞ。

それでもちゃんと上映された映画には打ちのめされるばかり。現代フランス(パリ)にいくら幻滅させられようとも、ルノワールとデュヴィヴィエを見れば20世紀前半のフランスの芸術性、教養、人間性、そしてユーモアがいかに高いレベルにあったかを見せつけられる。これを見れば開きかけた批判の口も閉じるしかない。それにしてもフォードの遺作は私を殺し、2日に渡って生き返ることはできなかった。悲劇は日本の特産品だと思われているが、『楢山節考』なんかより全然きつい。私にもその辺のグラスで酒をグイッと飲んで投げ割る勇気が欲しい。

サタジット・レイ
・『Grande Ville(大都会/ビッグ・シティ)』
・『La Maison et le monde(家と世界)』
・『Charulata(チャルラータ)』
ロバート・アルドリッチ
・『El Perdido(ガン・ファイター)』
・『Faut-il tuer Sister George?(甘い抱擁)』
・『Le démon des femmes(女の香り)』
・『Qu’est-il arrivé à Baby Jane?(ジェーンに何が起ったか)』
ジョン・フォード『Frontière chinoise(荒野の女たち)』
ジャン・ルノワール『Tire-au-flanc(のらくら兵)』
フランク・キャプラ
・『La grande muraille(風雲のチャイナ)』
・『La blonde platinum(プラチナ・ブロンド)』
・『Amour défendu / Forbidden』
ジュリアン・デュヴィヴィエ『Un carnet de bal(舞踏会の手帖)』
フェデリコ・フェリーニ『Ginger et Fred(ジンジャーとフレッド)』

11/18-12/10

久しぶりに辞書片手に(実際はスマホ片手に)英語の文献に取り組む。書き物はやっぱり鉛筆と紙がやりやすい。幼少期、若干狂った私塾の先生の薦めにより三菱鉛筆の Hi-Uni でしか勉強してこなかった私はステッドラーじゃ全くしっくりこないのだけれど、この国にはそれしかないので甘んずるほかなし。それから来年度の計画の下準備もしなくてはならず、相変わらずこういうことを段取り良くやるのが苦手だとつくづく思いながら、ウンウン頭を捻って言葉を絞り出す。しかし思いついた主題は今までにないぐらい楽しいので(というか海外まで来てやりたくないことをやりたくないし)、国立図書館に通ってやや暴走気味に調査に耽る。その後、某図書館のコレクション担当者の方々と海外で初の形式的「打ち合わせ」。なんとか仏語で切り抜けられたが、計画を絞り込むつもりが逆に爆発するはめに。アリババの洞窟の呪文はわかったが、中が巨大すぎて何を選んだらいいかわからず。やり取りを続けながら明確にすることに。しかしこの国の図書館員の方々はあくまで教養高く、各コレクションとその裏側にある歴史についても精通していて、こちらが何か名前を出すとかならず返事が返ってきて、頭が下がる。
合間に友人の展示3本。ゼメキス『Alliés』は予想通りの大惨事だったが、顔面の全然動かないBPを横にするとあのMCさえまだ人間に見えるという成果が得られた。あらゆる点でシラけきったが、BPに(明らかな吹き替えで)フランス語を話させて、その訛りをMCが「ケベック人さん」と揶揄する(ケベックではフランス語由来のケベック語を話す)、というのが重要な台詞になっているのだが、これがまたフランスで見ると一層シラける。それを見たことを友人Bに伝えると「お前はなんてマゾヒストなんだ」と言われる。
大気汚染により4日間公共交通が無料に。「薪暖房のせい」とか書かれているが、パリではそもそも禁止だし、そんなもののせいじゃないことは誰の目にも明らか。セーヌ河畔の車道の歩道化とか、古い車の入市規制、ナンバーの偶数奇数で入市規制とか、表層的なエコ政策のおかげで実態はより悪くなっている。体感的にはオリンピック直前の北京より酷く、昼間でも100m先は真っ黄色。最近導入されたハイブリッド型のバスのデザインも酷くて、安い便座カバーを貼ったトイレみたいな座席、すれ違えないほど狭い通路、収容所に送られる列車のように鮨詰めにされる立ちスペース、そしてひどいサスペンション。もともとのバスも酷いけれど(特にメルセデスとMAN)、もう呆れて半笑いになるほど。何がCOP21だ。