3月16日 EURと教会巡り

観光最終日。
しかしローマに向かうわけに行かず、ここでEURを見ておかなければならない。ムッソリーニの構想による万博都市で、現在はニュータウン化している。「EUR」と名のつく駅は3つある。とりあえず「EUR Fermata」で降りる。
駅を降りると地図があるが、現在地が全くわからない上に、目的の場所もよくわからない。そのため、行ってみればなんとなく手がかりがつかめると思って「EUR PalaSport」駅へ移動する。駅前には湖があり、水面に張り出している板の薄さとか、階段とか橋とかいちいちかっちょよい。あちらこちら歩くと、目的の建物のファサードが見える。あとは写真参照。

かっこいい

かっこいい

かっこいい

かっこいい

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テルミニ駅に戻り、ミケランジェロ設計の「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会」へ。
その後、近辺を散策しながら、旧市街にある「サンタ・マリア・マッジョーレ教会」。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会

サンタ・マリア・マッジョーレ教会

地下鉄に乗ってコロッセオへ。運良く10分待ちぐらいで入れる。

フォロ・ロマーノの前を通って「Giotto」と書いた看板の建物へ。しかしこれが食わせ物で、よくわからない無料の美術館(市庁舎?)の中をたらい回しにされて「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」の頂上へ。そしてわからないうちに「サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会」へ。「聖幼な子」は見れたが一向にジョットーは見つからない。そして一回降りて外に出ると、別の建物でジョットーの展覧会がやっていた。思わず時間を食ってしまい、既に夕方である。

未来派グループ

ヴェネツィア広場の前を通りながらパンテオンに流れる。このドームが鉄骨なしのコンクリートでできているとは信じ難い。

そして「サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会」にカラヴァッジョを見に行ったのだが、なんと修復中で見れず。まあこんなものだと今回の旅行の観光を終了する。

最後にナヴォーナ広場ぐらい見ておくかと思い、歩いて行くと古版画屋を発見する。観光客向けではないのか、物も良く、レンブラントの銅版画なんてものも飾ってある。ついつい1時間ぐらい費やしてしまった。途中、外から発狂気味のおじさんの声が聞こえ、店番の女性と談笑する。祖母に送る物を買って店を出て、ナヴォーナ広場をチラ見してホテルに帰る。結局、バチカンもルネサンスもろくに見れなかったが、ローマの現物をいくつか見れたことは学習の助けになるし、ぜひもう一度時間をとって来てみたい。都市的イメージの源泉を遡れたのが一番よかった。

3月15日 街道好きの受難

いよいよ観光できるのもあと2日である。固いパンの食べ過ぎでヨーロッパに飽きかけた前回に比べると、短い。パンで思い出したが、イタリアのパンはまずい。というか水分が少なく、固くて素朴だ。風土なのかもしれないが。
今日は昨日綿密にチェックした休館日・開館時間表をチェックしながら行動するはずである。何しろ観光最終日は月曜日だからだ。
まずは、という感じでフォロ・ロマーノに向かう。地下鉄駅で降りるとすぐ目の前にコロッセオがある。小学生の頃に絵に描いたことがあったものが眼前にあると感慨深いが、本物はそれほど神々しさはない。もちろん僕のロマンチックな夢よりも実用的だったということだろう。
フォロ・ロマーノはまさにピラネージの世界だ。ガウディ以来の「マジ?」という感覚が襲う。丘に住んでいたローマ人が、紀元前6世紀頃から湿地の低地を干潟して作ったもので、古代人がこれだけのボリューム、これだけのシンボリズムのなかに暮らしていたと思うととてつもない。そして、エブラールやらジュリアン・ガデやらプロストやら、20世紀はじめのヨーロッパの都市計画家がローマ賞として滞在して復原を行い、それを後の都市計画に活かそうとしていたことを思い出すと、都市に関わろうとするものとしてここを見れたことは非常に感慨深い。
フォロ・ロマーノを歩いていると、小学生の団体がサッカーをしている。どうしてここでサッカーをしなきゃいけないのだと頭に来るが、生徒がアホなら先生もアホで、ヘラヘラ笑って注意しない。見た目からして欧米人だが、こいつらにはアホが蔓延しているのだなと差別してやる。パンテオンでもギャーギャー騒ぐ馬鹿学生がいたが、外部の人に注意されるまで先生は止めなかった。「軽率にローマに来るな!」とでも言ってやりたかった。
パラティノの丘、ドムス・アウグスタナなどを見て結局2時間ぐらいそこにいたことになる。
次はフォロ・トライアーノへ。言わずもがな、トラヤヌスの戦勝記念柱があるところだが、記念中にはあまり近づけず、肝心の碑文は見れなかった。

ホテルのあったLaurentina駅

フォロ・ロマーノ

フォロ・トライアーノ、トラヤヌス帝のマーケット

地下鉄でテルミニに戻り、カラカラ浴場へ。浴槽が2,000から3,000設置できたというからそのボリューム感覚や恐ろしい。当時のタイルが少し残っていた。

カラカラ浴場

カラカラ浴場からは、「アッピア旧街道」と呼ばれる、紀元前4世紀に作られた道が残っていると言う。旧街道と聞いて僕の食指が動かないはずは無く、今日の予定はそこだけに定めて歩くことにする。しかし道の途中までは新しく舗装された石畳で、5キロ程歩かないと本来の光景には達せないという。

アッピア旧街道へ

街道を1時間ほど歩くと、「サン・カリストのカタコンベ」がある。初期キリスト教徒の共同墓地で、深さ4レベル、長さ20kmに渡る、周辺で最大のものである。アジア顔のガイドさんの話を聞きながら回る。ここは火山岩だから彫りやすく、埋めても無臭だそうだ。まず部屋を作りそこに棚状に穴を掘って埋葬し、フロアの部屋がいっぱいになると、どんどん地下へと掘り下げていったという。当時の碑文や埋葬品のかけらを見ながら思いを馳せる。
カタコンベを出た後、また街道を南下する。しばらくすると舗装が荒くなり、道脇にはローマの象徴であるマツが並び始め、突如として紀元前・紀元数世紀のレンガや石の量塊が出現する。ピラネージだと思いながら合計2、3時間歩く。どうせバスの駅か何かにぶつかるだろうと思って歩いていたが、一向に見つからない。日も暮れかけてきたのでやばいと思って引き返す。途中でバス停があったがいつ来るかわからないし、この際歩いてしまおうと思って結局カラカラ浴場まで引き返す。合計で5時間ほど歩いたのではないだろうか。靴が合わなかったのか、膝裏の筋肉が痛み始め、最後は引きずるようにして歩く。翌日にも響いた。

サン・カリストのカタコンベ

テルミニ駅に戻り、旧市街のスーパーでピザを買い、ホテルに帰って食べる。いつも通り写真を転送しながら寝る。

3月14日 ローマ!

今日はローマに泊まらなければいけないのだが、ミラノに後ろ髪が引かれる思いがするので、昼過ぎまでは残ることにする。
まずは「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ」に次ぐミラノの代表的美術館「ブレラ絵画館」(大きさから言えば一番だろう)へ赴く。中世からバロックの宗教画、マンテーニャの「死せるキリスト」をはじめ、ラファエロ「聖母の婚礼」(修復中)など。企画展と言えるのかわからないが、カラヴァッジョが4点公開されていた。「果物かごを持つ少年」「コンチェルト」「エマオの晩餐」(同名2点)である。やはり次に来るときはイタリアに1ヶ月ぐらいは割いてフィレンツェ、ヴェネツィアを含む各都市を回らなければいけないなと思う。そんな機会があるかどうかは別にして。
その後、歩いて「アンブロジアーナ絵画館」へ。ここではレオナルドの「音楽家の肖像」、カラヴァッジョ「果物かご」、ラファエロ「アテネの学童(デッサン)」。ルクレツィア・ボルジアの髪の毛なんて珍品もあった。やたら金持ち趣味の美術館だが、物は良い。
ホテルで荷物を受け取り、ミラノ中央駅からエウロスターでローマへ。
ローマの駅が近づくと、新古典主義の駅舎が見え興奮する。フラットな石屋根の薄さ、モザイク、ガラスタイルのアーチ屋根、無柱のホール空間、やたらかっこいいのである。やはりムッソリーニは美意識が高すぎたのだと確認する。
その日はミケランジェロの「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会」に滑り込むも、ほぼ真っ暗。やってるはずのディオクレティアヌス浴場跡は閉鎖されていた。
近くのスーパーで買い物し、地下鉄終点のEURのホテルへ行き、部屋で夕食。いつも通り写真を転送しながら睡眠。テレビでランボーの最新作をやってたのはこの日だったか。「戦場にポリティカル・コレクトも糞もない。敵か見方だけだ」とでも言いたげなスタローンは現代映画らしからぬ血みどろの風景を映し出していた。ビールにはアクションが合う。

ブレラ絵画館

アンブロジアーナ絵画館

ローマでも未来派展がやってるらしかったが、行けず。

3月13日 コモ、記憶のマテリアル

この日は、ファシズム建築の本拠の一つであるコモへ向かう。イタリア北部の湖水地方でコモ湖がありリゾート地として有名である。
コモはコモでも駅がいくつかあって、ファシズム建築のことなど当然「地球の歩き方」には乗っていないので(癪に障っても「ヨーロッパ建築案内」買っとけば良かった)どの駅かわからず、とりあえず終点の「Como Lago」で降りれば何とかなるだろうと高をくくる。ホテルのあるBovisa駅からLeNORD線に乗る。電車が駅に近づくにつれ、徐々に合理主義っぽい建築物が目に入り始めると、あっけなくも「カサ・デル・ファッショ」が目の前に現れる。本物はそんなに緊張感が無い、と感じる。
とりあえず駅を降り、「カサ・デル・ファッショ」に行く。後ろを向けばドゥオーモが見え、そちらへ歩く。ドゥオーモは昼休みらしく入れなかったので、周りを歩いていると「i」がある。数年前にテラーニ生誕100周年が行われたのは聞いていたから、通じるだろうと思って「テラーニを見て回りたいんだけど」と言うと、「テッラーニー」と言っておばちゃんはテラーニ関連の地図をくれる。カサ・デル・ファッショは前日に予約しておけば入れたみたいだが、特にそんな気も起きなかったので、町にあるファシズム建築を見て回ることにする。
サンテリア=テラーニの「戦没者慰霊碑」を見にコモ湖岸に向かう。ヨットやボートなど、確かにリゾートらしき雰囲気が垣間見える。湖岸の緑地帯に入ると、情報に無いモニュメントが見える。一見、リベスキンドかカラヴァンのようである。見れば三つの階段が放射状に置かれ、その中心部には三枚の鋼板が組み合い、地面に向かって斜めに刺さっている。それぞれの鋼板には何か文字が書いてあるが最初は何かわからなかった。しかしその鋼板に向かう道の脇には各国語でナチやファシズムに抵抗した者達の「最期の言葉」が記されている。これはどうやら、慰霊碑らしい。サンテリア=テラーニのものとは別の、である。そして鋼板に向かう全部で3つあるうちの一つの道の脇には4本の鋼柱に挟まれたいくつかの石が縦に並び、その横にはどうやら強制収容所があった場所の名前らしきものが記されている。そして、後ろを振り返ると「HIROSHIMA」と書かれたモニュメントの中に広島のものらしき石が挟まれている。やはり、ファシズムと第二次大戦の記憶を持つマテリアルを使った慰霊碑なのだ。この「記憶を持った素材」と鋼板の使い方はカラヴァンに通ずるものを感じるし(どちらかと言えばカラヴァンは「記憶を持った場所」であるが)、派手さは無いもののリベスキンドに通ずるものも感じる。「i」でもらった地図にも何も無いしなあと諦めたが、帰国してから調べると「Gianni Colombo」というミラノの彫刻家の作品で、「ヨーロピアン・レジスタンス慰霊碑」と言うものらしい。先に言うのもなんだが、コモで見た他の建築よりも胸を打つものであった。
その後、一応テラーニを巡礼する。

ミラノに戻って美術館回りをつづけることに。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ記念科学博物館」に閉館1時間前に滑り込む。いきなり入った部屋が各種印刷機械・製紙機器の歴史を展示した部屋で、「フェストスのディスク」(レプリカ)、「シュメールの板」「北エトルリア碑文」などレプリカであっても初めて目にするWriting Spaceの資料があった。
他の部屋には時計の歴史、音楽の歴史、通信の歴史などが実物をもって展示されており、やはり日本とは教養として見ているものが歴然としていることに茫然。いくら情報が国際化してると言ったって、それは依然として限られたものである。そして、加えてレオナルドが設計していたものを模型に起こしたものが廊下にはズラリと並ぶ。時間を取って見に来たら果てしなく面白いところだが、今回はコモに足が向いてしまったのでしょうがないのだ。
科学博物館の後は、夜までやっている王宮を再訪し、「マグリット 自然の神秘」展を見る。ベルギーのマグリット美術館から来ているもののようだが、ベルギーにあれだけいたのに一度も詣でなかった自分はやはりアホなのだ。
昨日の未来派展でも感じたが、平気で時間軸を混ぜ合わせる展示方法は、流行ってるのかもしれないがあんまり成功しているとは言えない。同じテーマやモチーフを異なる年代で扱っている物を横に比較するのは良いのだが、慎重にやらないと混乱をきたすのだ。とはいえマグリットそのものはすこぶる面白かったのだが。展示されていなかったと思うが、裸婦が瓶詰めになったボトルを手にするマグリットのセルフポートレイトがベストだった。あんなポートレイトを撮ってみたい。

ようやく見つけたスーパーで某フタ収集家のためにフタ基準でビールを買い込み、ケバブを買って晩餐。翌日はローマに向かわなければならない。