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10月某日 台湾旅行の余白に

旅行を時系列で語ることの限界を感じる。事実を追って書くべきなのか、あるいは回顧として書くべきなのか。一日を「現在」の連続として書くべきなのか、あるいは一日ないし旅全体が終わった地点を「現在」として「過去」をナレーションしていくべきなのか。「現在」を前者にとれば自ずと語りは長くならざるを得ないが、ここでの記述はそのような二つの思いを抱えたアンビバレントなものとして今後も続いていくような気がしてならない。ともかく、日記、特に旅日記は毎日のインプットの量をこなしていくだけのアウトプットの速度が求められるので、不完全な記述があって然るべきだし、誰のためのものでもないので、ダラダラ書いても良いのである。では公開するなよ、と思う方々に対しては、公開でもしないと続かないのだよ、と強く抗議しておきたい。
それはそうと、台湾に行って強く感じるのは「漢字」という視覚的な共通言語の貴重さである。何を今更、と思われるだろうが、台湾に繁体字が残っているおかげで日本人にもある程度の意味を想定できるし、大陸の中国人にとってもそうであろう。簡体字もコツさえ掴めば読めなくはないが、あれは本来の形とかけ離れてしまっていて、ひどくドメスティックな感覚を覚える。「漢字というものが中国の発展を阻害している」という論調を耳にするが、過去から現在まで同じ字体を使い、国を超えて意味が(少なくとも視覚的には)ある程度理解できることは、不便さをもって上回るほどのメリットではないだろうか。西洋人が漢字に寄せる幻想を含んだ驚きと、そこに見出した普遍言語の夢を、今更ながら実感しつつある。
今回はとにかくエドワード・ヤン展を見るための旅であったので、想像の10倍もの収穫があった。この密度で学びを続けていたら身体が滅ぶのではないかと思えるほどに。生きた社会について歴史的なパースペクティブと現代的な社会生態学的視線を併せ持ち、さらにそれをたった2、3時間という長さの中で視覚的に語るための知見と技術を持ちつつ、ある程度経済的に破綻しないような開かれた作品として世に問うていくなどという高度な芸当ができる、映画監督という人間たち。彼の言う「儒教社会」がどのようなものなのかはまだ私には実感できないし、西洋と東洋が、あるいは東洋の中であっても「分かり合える」と断言できるほどの人間讃歌をまだ私は自分の中に持っていないけれども、彼が生涯を通じて成し遂げようとしたことを考え続けることが、しばらくの課題だなと思った。
台湾にまた来たいかと問われれば首肯するが、すぐにかと問われれば、少し待って欲しいと答える。W君のような前のめりの熱情をもはや持つことのできない私は、次こそはよく準備して来たいものだと思いながら、また性懲りも無く何の準備も無しに来るのだろうという諦念も併せ持っている。少なくとも胃袋は「行きたい」と言っているから、そう遠くない未来に再訪するのであろう。ともかくも、大学という現実を中断して、長時間の鉄道旅行という贅沢を楽しめたのだから、幸福な5日間であった。

10月某日 台湾日記5

旅行最終日であるが、少し寝坊したため急いでパッキングをし、10時前にホテルを出る。台北駅のロッカーにスーツケースを預け、メトロで士林まで行ってカフェで朝食を摂った後、バスで故宮に向かう。なぜ故宮はこんな山の中に作られたのか。国防の観点からか?地図で見ると異様である。
台北の故宮は「大陸の故宮より良い」という話を頻繁に耳にするものの、前回訪問した時には「意外と見るものが少ない」という印象が強く、本当に全ての展示を見たのか確信がなかった。今回再訪することにしたのもそうした理由からであり、また、この間に中国人留学生たちのおかげで中国美術に対する知識を少しながら持つことができたので、前よりは楽しめるだろうという算段があったからである。
いざ見始めてみると、やはり展示物は絞り込まれているという印象である。宗教美術など、30平米ほどの展示空間しかない。陶器や玉、書画に多くのスペースが割かれていることを思うと、不当とも思われる配当である。
最も興味深かったのは、『真禪內印頓證虛凝法界金剛智經』と第された経典で、儒教、仏教、道教の教えが描かれたものらしい。明時代の著者不詳のものであるが、彩色が美しいだけでなく、さまざまな宗教的シンボルが画中、文中に散りばめられていて、それぞれが何を表しているのか知りたくなる。隣で見ていた西洋人からも思わず「beautiful」とため息が漏れていた。アッシジの聖フランチェスコ伝壁画にも匹敵する、と言っては言い過ぎだろうか。
その他にも、書や山水画、地図類も非常に興味深いものだったが、もう少し量を見ないとなかなか鑑賞のチャンネルが合わない。定期的に来たいところであるが。
士林に戻り、量り売りの素食店で遅めの昼食をとっていると、昨日から台湾入りしている教務補助のW(本物の方)から連絡があり、松山文化創園区で待ち合わせし、合流しようということとなる。たまたまやっていた展示はよくわからなかったが、「The Anne Times 安妮新聞」という子供向け新聞の図解が興味深かった。「みんなのトイレ」の前で「ピクトグラムがよくわからないね」と話していたら、係員のおじさんが話しかけてくれて、Wが華語で会話をするのを横で聞いていた。その後、台北101に行き、フードコートで豆花を食べ、再び寧夏夜市に行って同じ店で食事をした後Wと別れ、空港へ向かった。飛行機が出るのは夜中の3時であったため、芸祭で展示をする学生のプログラミング作品を手伝っていた。

10月某日 台湾日記4

ホテルで粥と炒め物の朝食を摂る。素食対応でありがたいが、朝から油物は慣れない。午後からスタバでzoomをする予定だったので、午前中少し散歩しようと駅方面に繰り出す。軒先で枝豆を剥いている家族を横目に見ながら、小さな廟に参る。半立体で聖典の一場面を描くスタイルが定番のようだ。
その後歩いていると葬式らしきものに出くわす。はじめ、これも廟かと思ったが、何某先生の等身大写真が中央に飾られているので多分葬儀なのだろう。皆普段着なのだが、受付を担当している黒いスーツの女性だけがやたらめかしこんでいて、対比が面白かった。
ガードをくぐり、線路の反対側に抜けると、巨大な市場があった。やたらと原付が多いなと思っていたが、なんと彼らは原付に乗ったまま野菜を物色しているのだ。気になる店があればそのまま原付を店頭に突き刺し、商品の入った袋を手に取ってはまた別の店へと走って行く。日本なら普通に脇見運転で捕まるところだが、あまりにも市場が広いので黙認されているということだろう。白いゴーヤがたくさん売られていることが印象的だった。
長時間のzoomをした後、駅に向かう。電車の形をしたキオスクで念願の素食駅弁を買い込み、台北行きの列車に乗り込む。フェイクの排骨とえび、それに紫芋の天ぷらや椎茸の煮物、蕪菜炒めなどが入って450円。五時間半もの間鉄道に揺られ、九時過ぎに台北着。
同じホテルにチェックインし、もう外に出たくはなかったが、何か食べないとやってられないので開いてる素食屋を探す。最初にやっていたのは双連にある鉄工所の閉店後に開いている店。陽春麺というラーメンと、肉風に巻いた湯葉に甘いタレを絡めたものを頂く。この辺りは工場街なのか、建物の雰囲気が周りと全く異なっていた。
その後、欲が出て寧夏夜市に足を伸ばし、素食屋で素魯飯と米粉麺を食べる。少し食べ過ぎの腹でホテルまで歩いて帰り、日付が変わる頃眠りにつく。

10月某日 台湾日記3

朝、自然に目が覚めると既に時計は8時をまわっている。屏東行き列車の発車時刻は10時なので急いで身支度し、地下鉄で台北車站に向かう。四時間近い旅路だったが、車内で日記などつけているうちに着いてしまった。昨日のエドワード・ヤン展がそれほど濃密だったということだろう。
高雄を超えて屏東なる街まで来た理由はほかでもなく、『牯嶺街少年殺人事件』のロケ地を見ることである。頼りになるのは、90年代に作られたオールドスタイルのロケ地探訪ウェブサイトだけである。『牯嶺街』の舞台は台北であるが、多くのシーンをこの屏東で撮っており、特に台糖屏東総廠という砂糖工場の敷地内で重要なシーンが撮られているらしい。台湾南部は前回訪れていて、広い車道に巨大な看板、檳榔を売る店、突如現れる寺、といった典型的な風景を懐かしみながら歩いているうちに、台糖屏東総廠に着いた。
台糖屏東総廠は無料開放されている公園部分とセキュリティのいる工場敷地部分に分かれている。コンサートのシーンなどが撮られた「冷飲部」の建物を探すと、台糖のアイス売り場が目に入る。写真と見比べるとどこか違うような気もするが、リノベでもされたのだろうと感傷的に見ていると、やはり柱の位置などが明らかに違う。「冷飲部」は工場敷地の中かと思い、セキュリティのおじさんに身振り手振りで入場したい意思を伝えると、「ちょっと待て」と言われ、英語の話せる職員を呼んでくれる。すると出てきたのは教務補助のW君そっくりの若者で、こんな台湾の僻地まで来て知り合いそっくりの人に遭うものか、と心の中が矢庭に沸き立つ。「なんで敷地に入りたいのか」と言われたので「映画に撮られた場所が見たい」と言うと、「うちは砂糖工場だから映画は作ってないよ」と言われる。経緯を伝え、映画のタイトルを示すと「これは台北が舞台だからうちじゃないよ」とも言われる。インターネットが使えるのでスマホでロケ地巡りサイトを開き、幅200px程度しかない写真を見せると、ようやく納得してくれたようで、「冷飲部」の建物は多分あれだ、と先ほどのアイス売り場の隣の建物を指している。ただ、今は土地を貸していて、建物は珈琲の焙煎所か何かに変わり果ててしまい、見る影も無くなってしまっていた。「じゃあ大木を知らないか」と写真を示すと、「大木はたくさんあるからどれかわからない。あっちの方にかなりの大木があるけど、あれは大きすぎると思う。」と言われる。しょうがなく自分で探し回ることにし、礼を言って別れる。去り際もWにそっくりだった。
紹介された大木の方に歩いて行くと、それらしき別の大木があり、きっとこれだと確信して写真を撮る。これはガジュマルの木だろうか。映画史上、木陰で恋人たちが安らぐシーンは無数にあるだろうが、この木は特に印象的である。思えば、枝葉の作り出す柔らかな闇は、心を打ち明けるのにちょうど良い避難所となるのだろう。その気になれば木の裏側に回り込み、姿を隠すこともできる。実物は何気ない大木であるが、それを選び出した『牯嶺街』撮影クルーの選択眼を思い知る。
敷地をもう少し歩き回って本当にこれが例の大木なのかを検証したり、野良犬に追いかけられてアイス売り場に逃げ込んだりした後、先にチェックインしておいたホテルに戻る。
夜は素食の粽屋に入り、おばちゃんおすすめの「花生粽(ピーナツ粽)」と「養生粽」を頼む。前者は蒸した粽に甘辛いみたらしのようなタレがかかっていて、その上にピーナツ粉とパクチーが乗っている。後者は黒米などさまざまな米が入った体に良さそうな粽であった。おかわり自由だと言われた味噌汁にもパクチーが入っていて、なかなか良い経験だった。華語を理解しない私におばちゃんは一生懸命話しかけてくれ、四十年ここをやっていること、旦那さんと富士山に行ったことなどを写真を見せながら話してくれた。
その後、まだ夜も早いので明日のテレワークの下見を兼ねて「太平洋百貨」の方まで散歩し、チェーンの珈琲屋でお茶を飲みながら日記の整理をする。途中、雨が降ってきて、ガラスのカーテンウォールごしに見える風景はまさに台湾映画のようであった。
二時間ほど滞在した後、駅近くの聖帝廟と、5階建ての道教寺院を見学し、ホテルに戻る。

10月某日 台湾日記2

朝8時頃に起きて身支度を済ませ、チェックアウトをする。時差のおかげで1時間余計に寝られた気分になる。出発ロビーまで降りると当たり前のことだが人でごった返しており、昨夜の静けさが嘘のようであった。
台湾版Suicaと言えるEasyCardを購入。MRTで台北車站に移動する。車窓に見える南国の植生をヨーロッパのそれと比較しながらフンボルトの言っていたことの意味を考えたり、点在する溜池のようなものが何であるのかを推測したり、妙に勾配のある高速道路や日本名がつけられた高層マンションなどを眺めているうちに台北に着いた。
民権西路駅のホテルに荷物を預けに行く。小雨が降っているので交差点にある歩道橋の軒下や、ポルティコ状の歩道が大変ありがたい。後者は日差しや降雨を避けるために意図的に作られたのだろうが、前者のような何気ない雨宿りアフォーダンスも見逃してはならないと思う。歩道のレベルが一様でないのはご愛嬌であるが。
「とりあえず腹拵え」と隣駅双連にある朝市に向かう。朝からかなりの盛況で、肉を捌くエキゾチックな匂いと喧騒に慄きながら、自分の食べられそうなものを探す。昔、台湾素食店のマダムが「日本は野菜の種類が少ない」と言っていて、その時は「そうか?」と思っていたが、確かにかなりの種類の青果が並んでいる。青菜など、同じようなものが無数にあり、興味深い。ほぼ唯一と言っていい素食の屋台で粽を買って、隣の公園で食べる。
腹も膨れたので、いざ出陣、と士林に移動し、台北市立美術館に向かう。言わずもがな、目的は「一一重構 楊徳昌 / A One & A Two Edward Yang Retrospective」展である。途中、『ヤンヤン 夏の想い出』の舞台である圓山大飯店が見え、否が応でも気分は上がる。
ここで見たことを書き始めるとノート数十ページ分にもなるので圧縮するが、展示は卒業アルバムなどの実物を埋め込んだ年表から始まり、映像インスタレーションの部屋を抜けると、いきなり『牯嶺街少年殺人事件』の展示へ。目の前にあるのは撮影風景を収めたスチール写真帖。近づいてみると、制服姿のリサ・ヤンがカメラに向かって微笑む写真が貼られている。これを見た瞬間、台湾まで来て良かったと思う。さらに、その写真帖を全ページスキャンしたスライドショーが設置されており、オフショットでくつろぐ撮影クルーの姿が次々と開示される。こんなものはまず日本では拝めなかったので、至福に包まれる。
張震演じる小四の3人の姉妹まで細かく服装の指示を入れたスケッチ。『牯嶺街』の原案となった映画・演劇の脚本。人物相関図や「順場表」などの設定資料。小道具やヤンのレコード・コレクション。『牯嶺街』だけでもこれだけの密度の展示が展開される。全仕事を網羅し、映画遺作となった『ヤンヤン』、3Dアニメーション『追風』まで濃密な展示を見ていくと、4、5時間は経っていた。日本なら多分クロサワが死んだ時だってこんな規模の展示はしなかっただろう。
白眉だったのは、魏徳聖(『海角七号』『セデック・バレ』監督)による37分にもわたるヤンのインタビュー映像である。『指望』から『台北ストーリー』までの作品について語り下ろしたものだが、台北の社会地理、商業主義が支配的になりつつある現代の経済、儒教社会の脆弱さなどについて鋭い分析をしていく彼の姿は、まるで社会学者のようであった。ここまで理知的でありながら、人間を信じ続けた芸術家はいただろうか。何十年分かの宿題をもらった一日であった。

10月某日 台湾日記1

午前中まで毎日型授業の最終講評を行い、午後に貴重書閲覧会を行なったその足で成田空港に向かって台北行きの飛行機に乗る。台湾桃園国際空港に到着したのは現地時間の深夜3時だった。peachという航空会社は機内持込手荷物まできっちり計量するがめつさで、チェックイン時だけでなく搭乗時まで係員が計量をしており、保安検査場通過後の免税品店でお土産を買い込んだ台湾人観光客が苛められていた。そのような光景はヨーロッパでは見たことがないので、同胞人の融通の利かない正確さに気の滅入る思いがする。
そのこととは関係がないが、学校を出て台湾に着くまではひたすら気持ちが沈んでいた。また言葉の通じない国に行くことに気が進まないからなのか、前回の渡航で感じた言いようのない虚しさが蘇るからなのか、自分で航空券を取っておきながら「家に帰って寝たいな」という思いが募る。20代の頃は「行ってみたい」「行ってみれば何とかなるでしょう」という無謀な楽観視だけで旅行していたのだなと改めて思う。そんな感傷に浸りつつも、残務処理をしているうちに機体は台湾に到着してしまった。
異国に着いてしまえば乗り越えなければならない障害が次々に襲ってくるし、できるだけ旅行に来た価値を高めなければならないという貧乏性も持ち合わせているので、すぐに現実主義モードに切り替わる。我が身の凡庸さを嘆く。現に、深夜3時の空港で、カプセルホテルのあるターミナル2に移動するためにシャトルバスを待っていたら、小型のバンに乗ったおっちゃんがやってきて、「ターミナル2だろ?乗れ!」(雰囲気訳)と手招きしてきて、乗るかどうか決断を迫られる。どうみてもぼったくりとしか思えないので躊躇していたら、後ろに並んでいた日本人女性3人組の1人が中国語を流暢に話し、同行者に「お金は取らないから乗れってさ」と言っているので、ままよ、と思ってバンに乗り込む。彼女と運ちゃんの話を聞いていると、どうやら今日は利用客が異常に多いらしく、正規のバスでは間に合わないのでおっちゃんが動員され、小型のバンで一日中ターミナル間を往復する羽目になっているらしい。疑って悪かったよ、おっちゃん。台湾はそういう熱い国だった。
ターミナル2に着き、無人の空港をさらに無人の方向へと歩いていくと、ビバーク組が横たわっている5階フードコートの一角に、件のカプセルホテルはあった。騒音を立てないよう慎重に動いて着替えをし、眠りに就く。

ヨーロッパ再訪記

随時更新

8月某日 3年半ぶりの匂い
8月某日 ギメ博物館再訪 その1
8月某日 3年前の後始末
8月某日 地図と皿
8月某日 国立図書館の「ミュゼ」
8月某日 ギメ博物館再訪 その2
8月某日 不在のジュネーヴ
8月某日 見知らぬ町の景色
8月某日 地名の喚起力
8月某日 スイスのジミ・ヘンドリクス
8月某日 旅の小休止
8月某日 休止の終わり
8月某日 一番長い日
8月某日 岩絵地図
8月某日 岩絵公園おかわり
8月某日 ボドニ博物館
8月某日 パルマの教会群
8月某日 アッシジへ
8月某日 ポルチウンコラ
8月某日 巨人庭園
8月某日 イタリア地図史博物館
8月某日 パリへの帰還
8月某日 最後の再会
8月某日 あまりにもな別れ
旅の振り返り

旅の振り返り

今回の旅の第一目的は、パリに残してきた荷物を処分することであったし(実際は一時間で終わったが)、色々と世話になった友人たちに(コロナ禍のドタバタでろくな挨拶もせずに別れて以来)久しぶりに会って、お礼参りをすることであった。そういった点においては、目的を達成することはできたと思う(一部の友人には会えなかったが)。でもせっかく行くのだから、締め切りに追われずにゆっくりヨーロッパを見直そうと思っていて、特にギリシャやあるいはトルコあたりまで遡って見ていきたいと思っていたのだが、7月の終わりに「40度の猛暑」というニュースを聞いて、夏に地中海に行くのはやめておこうという決断をした。そして7月末までは学務と課外研究旅行が切れ目なく入っていたので、結果として目的地を考えながら旅をすることになって、旅そのものが一つの思考のプロセスになっていった。カモニカ渓谷の岩絵地図などは碌な資料がなかったこともあり、一度この目で見たいと思っていたから、この旅一番の興奮をもたらした(結果として、洞窟壁画から石器・青銅器・鉄器文化に至るまでの図像の変遷を辿らなければならないという思いは強くなったが)。ルネサンスの先駆けとも謂われるジョットーと、その主題となった聖フランチェスコを訪ねてアッシジに行けたことも、今後の考える糧となるだろう。そして最後にアクシデント的に訪問できたイタリア地図史博物館でも、近代西欧地図学の凄みに改めて衝撃を受けた。
しかし帰ってきてから妻が酒の席で「この人あんまり楽しそうじゃないんですよ」と私を指差しながら言っているのを聞いていてふと思ったのだが(まあもともと無表情ではあるのはさておいて)、ヨーロッパについてはある程度こちらの知識も成熟してきているので、未知のものに接する体験があまりなかったのは事実である。パリでもアジアの宗教美術ばかり見ていたし、無意識に何か別のもの、もっと根源的な問いに対する事例を求めているのかもしれない。2004年に初めてヨーロッパに行って以来(もう19年か…)、基本的にはずっと近代のことばかり考えてきたから、もっと視野を広げないといけないフェーズに来ているのであろう。情報が溢れ返りすぎている(かといってアプリやGoogleに頼らずに旅行するのもかなり難しい)のと、グローバリズムのおかげでどこに行っても同じような光景を目にすることになるので、旅自体がつまらないものになっているのも確かである。とにかく、ここからは少し頭を切り替えていこうと思った旅であった。

8月某日 あまりにもな別れ

朝6時に友人宅を出て、RERの通っている駅まで20分ほど歩く。空港には時間通りに着いたが、セルフ・チェックインの端末で搭乗券を発行しようとすると、「すみません、搭乗券を発行できません。係員に尋ねてください」と出る。スーパーマーケットのセルフ・レジでも結局スタッフを呼ぶ羽目になることがよくあるので、何のために機械があるんだろうね、と思いながら係員に尋ねると、「もう一回やれ」と言われる。もう一回やってみても案の定同じことが再現されるだけなので、係員がスタッフ専用の端末で搭乗券を発行し、「あそこで荷物を預けろ」とセルフの荷物預けカウンターに並ばされる。順番が来て、今発行された搭乗券と、今発行された荷物のタグのバーコードをスキャンすると、「すみません、荷物を預けられません。係員に尋ねてください」と出る。係員に尋ねると、「こうやってやるんだ」と自らスキャンしてみせるが、結局同じエラーが出る。馬鹿かと思いながら見ていると、「あっちの有人カウンターで預けろ」と言われ、犬やゴルフバッグを預けようとしている人たちが並ぶ列に並ばされる。いい加減にしろと思いながら待っていると、別の女の係員が「あなたたち!何してるの!そっちじゃないわよ!」と言ってくる。完全に頭に来て、「あっちに行ったけどうまくいかないんだよ!てめえの会社の糞みたいなシステムをどうにかしろ!」とキレる。テストもろくにしていないポンコツなシステムを実用するから結局人間が対応する羽目になって、しかもその人間はもう頭を使わなくてもいいよう仕込まれているから全く使えず、客がキレる羽目になる。なぜこんな国が先進国ぶっているのか。「ごめんなさい」の一言も言えないエゴの塊ばっかり生み出して、「議論」という名の罵り合いしかできない。こんな国は本当に滅びればいいとすら思った。空港というところはおしなべてストレスフルなのであるが、それにも限度があるだろう。
機内ではあまりにも暇だったので『ロッキー』の続編である『クリード』を見る。決して冴えた監督ではないと思うが、やるべきことを心得ているとは思う。主人公からは「貧しさ」というステレオタイプを除去し、ドブ板物語になることを避けたのが懸命といえるだろう。なにしろクリードを応援する恋人役と母親役の女優が良いし、「自分が生まれたことが過ちではなかったことを証明したい」と言って敵に立ち向かっていくクリードには思わず涙腺が決壊した。パンチをもらいすぎだし、こんな腰が引けたボクサーがいていいのかとは思ったが。
羽田に着いて外に出ると、文字通りまとわりつくような湿気。日本にいた友人たちには申し訳なく思う。

8月某日 最後の再会

いよいよヨーロッパ旅行も最終日で疲労の極みであるが、今日はケルンの友人がわざわざ我々に会いに来てくれるとのことなので、眠い目を擦って北駅に向かう。彼女とは3年前、コロナ到来直前の『ベニスに死す』状態のパリで会って以来で、久々の再会となる。ケルンは25度ぐらいだがパリは35度ぐらいになるのでTシャツで来たらしい。私の用事があった2区の調理道具屋の近くまで歩き、朝食がてらカフェで近況報告に花を咲かせる。
そのあとはルロワ・メルランやBHVのブリコラージュを冷やかしたりしながら、我々の住んでいたシテ・デザールの近くまで歩く。なじみのカフェに行こうとしたが、「コーヒーだけならあっちに座ってくれ」とタトゥーだらけの店員に英語であしらわれ、頭に来たので別の店で昼食を取る。
彼女は18時の電車で帰らなければならないので「もうあと3時間だ!」と焦りながら、結局ずっと散歩をし続け、最終的には北駅まで歩いてしまった。
彼女と別れた後は、最後の買い物をして友人宅に帰る。最後の夕食はバスマティライスと、ココ・ド・パンポル(豆)のスープ、ベルガモットとフェンネルの煮物、チュチュカ、きゅうりのヨーグルト和え、クレポネだった。
明日は朝6時には出発しなければならないので、事前に別れの挨拶を告げ、荷物のパッキングの目処だけ立てて床に就く。