文脈から離れて?

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ここのところ、よくライブに行く。多くは講座の鈴木監督のそれであるが、それ以外もある。音楽によって快楽を求めに行っているという感覚はなく(少なくともそれらに「音楽」というレッテルを貼っていいものかどうかもわからないし)、非常に刺激的で考えさせられるものが多くて純粋に面白いからだ。観客は多くない。しかしここで起こっていることは(わけがわからない時がほとんどであるが)私にとって重要なことだという直感だけがある。どう計算したって食っていけるアガリが出ていないのに(あるいはそれが故に)やりたいことを曲げない彼らの姿勢に身につまされる思いになる。それは自己満足ではなく、観客との問題意識の共有に近い。
そこでよく考えることがある。ここで行われていることは所謂「シーン」であるとか(手垢がつきすぎた言い方であるが)「文脈」とは距離を置いている、という感覚である。実際彼らがどう考えているかは知らないが、普段、私がいる場、所謂「アカデミック」と呼ばれる場は「文脈」に自分の研究をどう位置づけるか、ということ(だけ)が全てである。純粋に自分の興味だけで押し進めたものは「それは趣味でしょ」とバッサリ切られ、「これまでにやられたこと」と「新しいこと」を如何に明文化して定着するかが評価のポイントである(この「評価」という言葉もあまり好きではない)。作品発表の場である「シーン」、たとえば「デザイン」でも「アート」でも良いが、それもその場限りの「新しさ」ばかりが求められ、がんじがらめになっている(その「新しさ」も単に「最先端」と言ったような空しいものが多い)。もちろん、自分のやったこと、作った物は社会に置かれ、何かと関連づけられ、比較され、評価されるということを避けられない。それは社会に生きる中での大前提である。しかしもう少し落ち着いて、本当に自分が対象の中に見つけたもの、あるいは本当に興味があるものにじっくりと腰を据えて対峙する方が長い目で見れば必要なのではないか。一過性の「新しさ」や、気移りな「文脈」(、あるいは「商業性」)とは距離を置き、とりあえずやりたいことをやってみる、というのが最も重要なことではないかと思う。かといって深遠ぶることはそれと限りなく遠い。それは偽りのアンポップである。そういった(この表現はあまり好きではないが)実験的な作品/表現の発表の場所がアンダーグラウンドにあり、少ないといえどもそれを見つめる観客がいる、というのはこの上ない幸福な場所ではないだろうか。
いや、小難しいことを言いたい訳ではない。実際、小難しくもなんともない。どちらかと言えばわけがわからない、に近い。ただ、やっている方も多分わけがわからない。それは文脈から遠いからだ。しかしこれは面白い、という感覚だけはある。そしてなぜかそれは「アート」という文脈によくある思考放棄とは感じない。だって純粋に面白いのだから。それが何だったのか考えるのは後でよろしいのではないか。そんなことを思う。
大学を出て、就職して、自分のやっていたことをやらなくなってしまう人をたくさん見た。食っていけないからと言って作品制作をやめて仕事だけに従事してしまう人も多くいる。当然、企業の中で自分を活用することも必要だ。目の前にある仕事に対してプロフェッショナルとして最大の回答を出すことは当然である(もちろん自分もそうしている)。しかしそれで100%満足である、と思えない人間に対しては小さいながら発表の場があり、少ないながら寛容な観客がいることは大きな可能性である。
そんな場に出入りする中で、私の制作意欲も増すばかりである。

こんなことを書きたかったわけではない気がするが、とりあえずさて置く。

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