New sights,

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今日の発表は、もう変貌とも言える程、班員の人達の思考の結果が見えたため、一応のリーダーとしては感極まるものがあったが、しかしまだ自分を含めて作業は端緒についたばかりである。私が今回言いたかったのはつまり、もはや「計画」に「リサーチ」は奉仕する必要は無い、ということであって、「役に立つ」リサーチだとかある予定調和を前提とした理論武装のためだけにされたリサーチなんて、何にも面白くない、ということである。しかし同時にシミュレーションの持つ危うさも露呈していて、コレクトな未来を描いても大して魅力的ではないということである。それは映画を作るようにフィクションで成り立つフィクション然とした社会像を作り出すほうへと向かうべきことを示す。フィクションなんだからありえないかもしれないものを図々しくやってのけるべきなのだ。
また、今回は「東京を東京圏規模で定義する」と銘打ってはいるが、それは定義するとほぼ同時の瞬間においてそれを崩壊させ、また再び新しい指標によって定義する、というプロセスの繰り返しであり、それは定義へと向かうよりは、都市の複雑さを複雑なまま露呈させようという試みと言った方がいいかもしれない。どんどんわからないほうへ向かっていく。私としては、今はそっちの方が刺激的である。

ゼミではほとんどコメントがなかったけれど、「リサーチとデザインは歩み寄る必要は無いんじゃないかなあ」とポツリと言われたK地先生の言葉にだけは、心揺さぶられるものがあったと書いておく。


特に食欲もないけどみんなで弁当を食い、朦朧としながら東京駅まで歩き、帰って泥になる。

視デ研の方々からもらった小津DVD-BOXから、「晩春」を見る。1週間程前に見ようとした時は、その過激なショットのひとつひとつにビリビリしてしまって「もう無理!」と小1時間で中断する。「晩春」、こんなに凄かったっけ?いや、前回(5年ほど前)に見た時は、あの京都の夜の旅館のシーンや、そのメロドラマに涙したことを覚えているが、そんなものではなくて、もうほんとにひとつひとつショットが切り替わるたびに慟哭する。そしてあの笠智衆の乾燥し、話のテンポを作らないような発話のひとつひとつ、原節子の菩薩のような笑顔からフリッツ・ラング映画に出てきそうな恨みの顔まで切り替わる表情のひとつひとつ、疾走する電車や自転車、直接プロットに関与しないけれどもそれを抜いたら映画が崩壊するかのような何気ない世間話。全くあり得ない。そしてのあの能のシーンといったら、この間のアサイヤス「冷たい水」のパーティーシーンにつながるかのような音の現れ。泣いてる暇もなかったよ。途中、父の再婚が疑われ始めた瞬間から、もう笠智衆と原節子の関係は父=娘という設定を超越し、ひたすら唯物的な存在として二人は会話を始める。こんなことあり得ないけどあり得てるんだからタチが悪い。
小津だけはザッピング的に片っ端からDVDを見るような真似が許されないなあ。


あ、昨日拍手くれた方々、ありがとうございました。
またそのうち、あの画像変えときま〜す。

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