建築/都市計画をするに当たって、雇用などを変数として割り出される必要将来人口を算定し、現在の1人当たり平均床面積からに必要なボリュームを算定し、配置アルゴリズムを通して「インスタントシティ」や「5分間都市」を計画することは可能であるけれども、それが果たして最適解かどうか、言い換えればリサーチから自動的に計画は生まれるか、という議論はエーステレン=ローヒュイゼンやノイラートの時代から始まり、MVに至るまでなされてきたが、ただ優等生的なボリュームだけが並ぶ最小公倍数的な都市を是とするか、もっと主観的な、極論とすればプロパガンダ無き計画など意味があるのかという議論、あるいは徹底的に客観的な計画こそ素晴らしいとするか(それが可能か不可能かという議論も含め)、作家的飛躍こそが必要なのだとする議論に分かれ、最終的に思考停止に陥る、というのがいつものパターンだった気がする。私的意見を言わせてもらえば、インスタントシティが持つ価値はそれをそのまま建造すべし、という現実的有用性というよりも、ビジョンとしての参照価値は大いに持っていると思う。それがあるパラダイムにおいてクリティカルだった場合はコルビュジエこのかた存在してきた。ただそれを最適解とする、という矮小的な見方に対しては断然、否定的である。
また、この問題は、「建築家がなぜリサーチをしなければならないか?」という根本的疑問や、「リサーチは都市計画家のレトリックの道具として従属するか」という問題とも読むことができる。前者に対しては、社会的な需要を全く無視した建築など社会性を欠いた反動的行為だという簡単な結論を出すに止めておくが、後者に対しては、実践家としてふざけるなと思う。建築/都市計画家が自分のプロパガンダを遂行するレトリックのために都合良い統計データを集めて利用するのは結構だが、そんな手口は戦前の社会主義・共産主義国家と何の変わりもないし、そもそもリサーチ結果とその視覚化は、それだけで独立し、そして多様な解釈の幅を持ったものであり、それを元に誰がどう解釈しようと構わないし、単一のメッセージしか読めないようにガチガチにデザインされた図表など誰も読みたくないだろう。最小公倍数を求める変数のためだけに使われるのはあまりにも矮小だし、もう21世紀なんだから色んな見方・生き方を許容していいじゃないか。ついでに言ってしまえば、単一アーキテクトの都市計画(それはプロパガンダ的にも、意匠的にも、その大規模さにおいても)なんて今さら誰も求めていない。もっと、色んな意見を持った人達が、それぞれの考え、それぞれの利益、それぞれの野望をもって個々の建築を建てていけるような社会。そしてそれを可能にするもっとメタな計画としてのインフラ、プログラム、レギュレーション、あるいはもっとダイナミックな仕掛けを設定してやること。そしてそれぞれの人間が都市をイメージし、意見を組み立て、関与していくために活用されるヴィジュアル・イメージを作ることがこれからの課題ではないだろうか。僕はもう、20世紀はじめから60年代頃までにかけて作られた「単一都市計画家(≒スターアーキテクト)のマスタープラン」には、過去のものとして、あるいはヴィジョンとしては評価するべきだが、現在において無批判に称揚することには意味が無いと思う。また、「個人の自由は国家の利益のために服従しなければならない」という皮肉主義や、「ビッグネスは制御不能である」みたいな開き直りとも手を切るべきだと思う。まあ、これは軽く脱線しそうな話なので、また今度にしようと思うけど、個人の日常的生活や楽しさのために建築は服従するべきじゃないのか???
今日は寺さんと仕事の打ち合わせと研究の相談、世間話などをした。帰国してからまともに時間をとって喋るのは初めてだけど、僕がどうしようもないことしか言えない時でさえ、根気強く話を引き出してくれる存在は先生ぐらいしかいないなあ、と感じながら話をする。久しぶりのゼミをやってもらったような気分だ。恩師が日本にいるというのは心強いものだ。これからの活躍で恩返しをするのが義務だけど、恩は相当たまってるなあ〜〜。
また、この問題は、「建築家がなぜリサーチをしなければならないか?」という根本的疑問や、「リサーチは都市計画家のレトリックの道具として従属するか」という問題とも読むことができる。前者に対しては、社会的な需要を全く無視した建築など社会性を欠いた反動的行為だという簡単な結論を出すに止めておくが、後者に対しては、実践家としてふざけるなと思う。建築/都市計画家が自分のプロパガンダを遂行するレトリックのために都合良い統計データを集めて利用するのは結構だが、そんな手口は戦前の社会主義・共産主義国家と何の変わりもないし、そもそもリサーチ結果とその視覚化は、それだけで独立し、そして多様な解釈の幅を持ったものであり、それを元に誰がどう解釈しようと構わないし、単一のメッセージしか読めないようにガチガチにデザインされた図表など誰も読みたくないだろう。最小公倍数を求める変数のためだけに使われるのはあまりにも矮小だし、もう21世紀なんだから色んな見方・生き方を許容していいじゃないか。ついでに言ってしまえば、単一アーキテクトの都市計画(それはプロパガンダ的にも、意匠的にも、その大規模さにおいても)なんて今さら誰も求めていない。もっと、色んな意見を持った人達が、それぞれの考え、それぞれの利益、それぞれの野望をもって個々の建築を建てていけるような社会。そしてそれを可能にするもっとメタな計画としてのインフラ、プログラム、レギュレーション、あるいはもっとダイナミックな仕掛けを設定してやること。そしてそれぞれの人間が都市をイメージし、意見を組み立て、関与していくために活用されるヴィジュアル・イメージを作ることがこれからの課題ではないだろうか。僕はもう、20世紀はじめから60年代頃までにかけて作られた「単一都市計画家(≒スターアーキテクト)のマスタープラン」には、過去のものとして、あるいはヴィジョンとしては評価するべきだが、現在において無批判に称揚することには意味が無いと思う。また、「個人の自由は国家の利益のために服従しなければならない」という皮肉主義や、「ビッグネスは制御不能である」みたいな開き直りとも手を切るべきだと思う。まあ、これは軽く脱線しそうな話なので、また今度にしようと思うけど、個人の日常的生活や楽しさのために建築は服従するべきじゃないのか???
今日は寺さんと仕事の打ち合わせと研究の相談、世間話などをした。帰国してからまともに時間をとって喋るのは初めてだけど、僕がどうしようもないことしか言えない時でさえ、根気強く話を引き出してくれる存在は先生ぐらいしかいないなあ、と感じながら話をする。久しぶりのゼミをやってもらったような気分だ。恩師が日本にいるというのは心強いものだ。これからの活躍で恩返しをするのが義務だけど、恩は相当たまってるなあ〜〜。
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