2度目の文化村詣で

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中学の女友達が神戸でファッションデザイナーになったらしく、ブランドのセールの応援で東京に来ていたので、数年ぶりに再会。大学では全然別のことをやっていたのだが、卒業後にファッションの専門学校に3年間行き、去年就職したそうな。
で、暇だからどっか連れてけというので、美術館でも行くかということになり、「上野のフジタか渋谷のピカソかどっちがいいんだ」と言ったら「ピカソ」というので、二度目の文化村へ。
ピカソは折に触れて見ているが、いつも違った顔を見せる。所謂ピカソの典型的な各「時代」の作品の彼方に、果てしない数があることは今更ここで述べるまでもないが、それにしても、似ていない。しかしこれだけの数の実験と習作を重ねても、あくまで彼自身が「芸術」であり続けたことに、ごく個人的には乗り切れないものを覚える。それは現代に生きる自分たちが美術教育としてピカソと出会ってしまったからかもしれないが、絵画でも芸術でもないところに行こうとしたアヴァンギャルド達の方に僕の重心は偏る。しかしそれでもなお眼を閉じれば浮かぶ「二人の座る裸婦」の肉感は衝撃的であった。そして過去を清算するようにキューブを踏んづける足。
そんな中、あらゆる絵画史の上で飄々とダンスを踊るゲオルグ・グロッス(英名で読んだ方が正しいのか)。抜群のドライなウィット。やはり社会がどんなに劣悪になろうとも、カラカラと笑い飛ばすべきものなのだ。「無題(構成)」でそれを取り囲むマネキンや工場・住宅と真逆の光が照射されたキューブは絵画への反骨か、あるいは希望のようにも見える。
マグリットももちろんgoodだった。カンディンスキーはまだ僕にはよくわからない。マックス・エルンストも。クレーは好きだったし偉大だと思うが、アヴァンギャルドがドンパチやってる中で憎たらしいほどのポップさ(キャッチーさ?)に走っているように見えるのはなんとなくムカつく(印象論)。それはグロッスのウィットとは全く別の、「僕は関係ない」とでも言うような距離の置き方。おそらくそれは晩年の難病との闘いや困難な政治的状況に大きく関わりがあるだろうと思うと泣けてくるが。それにしてもクレーも年を経るに従いこれほどの変容ぶり。逆に言えば、それがわかるようなコレクションの選択眼の鋭さ。良い美術館であることが想像される。もっと膨大に個人史レベルで作品を見ていかなきゃいけないのだなと思わされた。

今年の卒制パンフにも書いたのだが、ザッピング的、インターネット的な、「情報は常に存在し、いつでも引き出せるもの」といった考え方を改めようと思う。今、ここで見た絵画は、今、ここで見ることのできた絵画であり、二度とは到来しない。その「機会」の意味を自分としても深く受け止めようと思っている。平たく言えば、多少思い込みの激しい人間になろうということだ。

あと、追加の抱負としては、食事についてよく考えようと思う。ちゃんと料理しよう(あくまで素人レベルだが)。

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