ひさびさにほぼカンテツで仕事に行ったら自分が何言ってるかよくわかんないけど面白くて良かったと思う今日この頃です。
というのもY研OBのOギさん含むメンツで非公式かつ部分的な忘年会をやったら、やはりなぜかY研の飲み会には微妙に体育会系の雰囲気があって、新橋でガブガブとビールを飲み、アニメだのYouTubeだのかなりディープな話をし(K山のせいだが)、極めつけに朝の4時からラーメンではなくモツ鍋を食う事になり、そこにも漂っている「ここで食わなかったら人間じゃない」的な暗黙の了解はバカバカしくて好きだけれど、そのおかげでプリン体とコラーゲンたっぷりのお腹で始発に乗って、学校で寝ようかと思ったら先約がいたみたいで、起こすのも悪いのでモスバーガーまで歩いて1時間座り寝。なんか最近飲み会の後1時間レベルで歩くことが多くて、なんかもう身体と環境の境界が曖昧に溶けてく感覚がやみつきになりつつある。
一昨日はOサムちゃん家でM-1を聞き流しながら実家から送ってきた自然薯をスリスリし、とろろごはん、まぐろ山かけ、椎茸のカサに自然薯詰めて揚げたやつ、などを作った。ばあちゃん家がある三重県一志町の特産品だそうな。知らんかった。
今日は最終日で激混みのアンドリュー・ワイエス展へ。寺さんのブログで知った「K20」のコレクションであるクレーとピカソの展示は、年明けに名古屋からブンカムラへ巡回するそうな。内容はさておき、こういう混雑した美術館で絵を見させられるのは大ッ嫌いなので、ポイントだけ見て回る。なんかあちこちでクリスマス街頭コンサートみたいなのをやってて辟易。
その後、ユーロスペースで「チェチェンへ アレクサンドラの旅」。ロストロポーヴィチの妻であったロシアのソプラノ歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(御年80)を実際のチェチェン最前線へと導き、ひたすら歩かせつつも、ソクーロフは再び、「チェチェン」とは一度も口にさせず、場所を匿名化し、状況を普遍化させる。いつものように、といってもいささかも刺激は衰えないが、あちこちでザワザワガチャガチャと鳴るフレーム外の環境音がただならぬ雰囲気を行き渡らせ、なんとも形容しがたい呟くような会話の「音声」と決して帰結することなく回避・逸脱する会話の「内容」が徐々に映画の体系を形作っていく。ガリーナと「マリカ」以外は実際の兵士やチェチェンの住民であるが、時折用いられる過剰なぐらいのクローズアップが異化作用というか、ひたすら「顔」を地域性・個別性を持った「顔」として捉える。戦場に舞い込んだ滑稽にさえ見える「祖母=ガリーナ」は、ふらふらふらふらと歩いたり立ち止まり、戦車に乗ってみたり空の銃をガチャンと撃ってみたり、兵士にピロシキをあげてみたり、敵国の市場に繰り出して睨まれてみたりしながら、徐々にそこにいる若者たち全ての「祖母」へと変容していく。列車から戦地へと降りる、空の銃を撃つ、戦車から降りる、市場で現地の人たちと視線と会話をやりとりする、文句を呟きながら行われるそれらひとつひとつの祖母の言動が丁寧にカット割りされ、なめらか、しかし過剰に語られていく。「太陽」はいただけなかったが、「牡牛座」以来のソクーロフはノってきてるのではないだろうか。しかし列車に乗って去っていく「祖母」を見送る「マリカ」が見つめる逆方向の視線は何を物語っているのか。
年末の目標は、太らないことです。
あ、今年は実家で紅白を見ながら奇行をしたりしないように気をつけないと.....。
というのもY研OBのOギさん含むメンツで非公式かつ部分的な忘年会をやったら、やはりなぜかY研の飲み会には微妙に体育会系の雰囲気があって、新橋でガブガブとビールを飲み、アニメだのYouTubeだのかなりディープな話をし(K山のせいだが)、極めつけに朝の4時からラーメンではなくモツ鍋を食う事になり、そこにも漂っている「ここで食わなかったら人間じゃない」的な暗黙の了解はバカバカしくて好きだけれど、そのおかげでプリン体とコラーゲンたっぷりのお腹で始発に乗って、学校で寝ようかと思ったら先約がいたみたいで、起こすのも悪いのでモスバーガーまで歩いて1時間座り寝。なんか最近飲み会の後1時間レベルで歩くことが多くて、なんかもう身体と環境の境界が曖昧に溶けてく感覚がやみつきになりつつある。
一昨日はOサムちゃん家でM-1を聞き流しながら実家から送ってきた自然薯をスリスリし、とろろごはん、まぐろ山かけ、椎茸のカサに自然薯詰めて揚げたやつ、などを作った。ばあちゃん家がある三重県一志町の特産品だそうな。知らんかった。
今日は最終日で激混みのアンドリュー・ワイエス展へ。寺さんのブログで知った「K20」のコレクションであるクレーとピカソの展示は、年明けに名古屋からブンカムラへ巡回するそうな。内容はさておき、こういう混雑した美術館で絵を見させられるのは大ッ嫌いなので、ポイントだけ見て回る。なんかあちこちでクリスマス街頭コンサートみたいなのをやってて辟易。
その後、ユーロスペースで「チェチェンへ アレクサンドラの旅」。ロストロポーヴィチの妻であったロシアのソプラノ歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(御年80)を実際のチェチェン最前線へと導き、ひたすら歩かせつつも、ソクーロフは再び、「チェチェン」とは一度も口にさせず、場所を匿名化し、状況を普遍化させる。いつものように、といってもいささかも刺激は衰えないが、あちこちでザワザワガチャガチャと鳴るフレーム外の環境音がただならぬ雰囲気を行き渡らせ、なんとも形容しがたい呟くような会話の「音声」と決して帰結することなく回避・逸脱する会話の「内容」が徐々に映画の体系を形作っていく。ガリーナと「マリカ」以外は実際の兵士やチェチェンの住民であるが、時折用いられる過剰なぐらいのクローズアップが異化作用というか、ひたすら「顔」を地域性・個別性を持った「顔」として捉える。戦場に舞い込んだ滑稽にさえ見える「祖母=ガリーナ」は、ふらふらふらふらと歩いたり立ち止まり、戦車に乗ってみたり空の銃をガチャンと撃ってみたり、兵士にピロシキをあげてみたり、敵国の市場に繰り出して睨まれてみたりしながら、徐々にそこにいる若者たち全ての「祖母」へと変容していく。列車から戦地へと降りる、空の銃を撃つ、戦車から降りる、市場で現地の人たちと視線と会話をやりとりする、文句を呟きながら行われるそれらひとつひとつの祖母の言動が丁寧にカット割りされ、なめらか、しかし過剰に語られていく。「太陽」はいただけなかったが、「牡牛座」以来のソクーロフはノってきてるのではないだろうか。しかし列車に乗って去っていく「祖母」を見送る「マリカ」が見つめる逆方向の視線は何を物語っているのか。
年末の目標は、太らないことです。
あ、今年は実家で紅白を見ながら奇行をしたりしないように気をつけないと.....。

