今日も自宅の外からは絶唱が聞こえる。その自己陶酔気味でただ音がでかいだけの絶唱の主は、性別が男であるということ以外は、今日も知れない。今までは歌っている曲の名さえ班別がつかず、おそらくは色々な曲を歌っているであろうその声は、いつもあまりにも同質過ぎて、固有名詞のない次元に達し、ただその振動を中空に霧散させているだけであった。今日の収穫と言えば、歌っていた曲の一つがGLAYの曲(あれは、なんという曲だったか)だということだけだが、そんなことを考えていたそばから、17時を告げるジョン・レノンの「IMAGINE」が、近所の大学から聞こえてきて、言い得て妙な齟齬感を生み出していた。
そんな午後であるが、最近と言えば、黒沢清監督の「トウキョウソナタ」が紡ぎだす、絶望感と諦念に満ち満ちた世界の中で生きていく希望を見いだそうとする姿勢に心洗われた。カラカラという音を立てて舞う新聞紙。ベランダに向う開けっ放しの窓から入り込む突然の夕立に気づき、窓を閉めて水たまりとなった窓際を慌てて拭くが、ふと手を止めて再び窓を開け、夕立を見つめ恍惚とする女性、というオープニングシークエンスから、優しさに満ち満ちたキャメラの眼差しは、リストラを隠しながらあくまでも父としての威厳を保とうとする父親、それを空しいことだと感じつつも母親役に徹しようとする母親、いつも守られてばかりの日本と自分をダブらせるように苛立ち、米軍に志願する長男、教師の嘘、父親の空威張りに疑問を感じ、父親の反対を押し切ってピアノを習い始めるが父母にはそれを言いだせない次男、というどこにでもありそうな家庭の、目に見えないような小さな亀裂が徐々にひび割れと貸し、不協和音を奏で始める過程を見つめ、偽りも虚勢も崩壊し再び食卓についた家庭に生まれていく小さな希望をただひたすらに見つめ、聞き入ろうという姿勢に、現代を生きるということの全てが表象されているように感じられ、スクリーンを見つめている者達にも希望を浸透させていく。線路の真横に設定された嘘のように美しい家のセット、嘘のように曲がりくねった坂を始めとする、フィクション性を際立たせるような「帰り道」、ハローワークのいつ終わるとも知れない螺旋階段の途方もなさ、自由を叫びながら橋の下の川に放り捨てられるチラシ、公園で配給された食事にすがりながら、虚勢を張るように呟かれる「これ、まずいよな」「ああ、まずい」の言葉、映画的記憶がフラッシュバックする海岸の小屋、なんとも滑稽な津田寛治とその家族の身振り、前日の天ぷら油で揚げた、食べてもらえないドーナツ。それら細部が和音となって、敗けた後に希望を見いだせることの美しさを物語っている。久しぶりに、いい映画を見た、と思った。
そうだ、あのGLAYの曲は「HOWEVER」だった。そして、今歌っているのはなぜか、「天城越え」だ。
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