体調絶不調の先週。何か悪い物を食ったらしい。勤務日以外はサウナ化する自宅でクルーグマンとコールハースと中原昌也を読んで過ごす。「あらゆる場所に花束が」で饒舌にフローするブサイク論が最高。
6割方回復した日曜(このくそ暑いのに寝てられるか)、久しぶりに上野。
「バウハウス・デッサウ」展。
今さら感たっぷり。寄せ集めで第一部の「ワイマール」編をつくり上げるぐらいなら、やらない方がましだ。あのキャプションと年表では何も伝わらないし。第二部の「デッサウ」編は、それなりに物はあったが、やはりエディティングは貧弱で、あれではただの造形教育の部分しか伝わらないではないか。「ああ、バウハウスの造形教育をいまだに引きずっているのね」ぐらいしか思えない。校長同士の社会的イデオロギーの違いが造形教育に反映していることを差異化して示すべきではなかったか?「ただある物をそれなりに並べて展示すればそれなりに客が来るんじゃないか」というあの上野エリア全体を覆う国立・都立の怠慢主義がそこに現れていると呟かざるをえないじゃないか。変に大衆に迎合しようとするのも、大衆を馬鹿にしているだけにしか見えないよ。入館料たけーし。
「ムーラン・ルージュ」(dvd)は、ニコール・キッドマンの現役最強ぶりを確認した以外は、もはやミュージカルなどまともには撮れないのだなという哀しみになんだか同情したくもなったり、んー、特に言う事もなし。
「ミスティック・リバー」(dvd)は、イーストウッドの「許されざる」ストーリーの系譜の中でも、何とも後味が悪く、腑に落ちない。「デイヴ」の死は運命論で片付けられていいのか?あるいはそういった現状が社会的に存在しているということを表象しているのか?「許されざる者」のジーン・ハックマンもイーストウッドも死なず、ただモーガン・フリーマンが死んで、その二人が「しょうがないよね」と言っているような.....(そこまで不謹慎ではないか)。「デイヴ」の死に対する善悪判断の問題が宙吊りにされたままなんとも不吉に進行する最後のパレードシーン。もはや誰も感情移入を許されない。何もなかったかのように時間を過ぎさせようとするショーン・ペンとケビン・ベーコンに対して困惑の眼差ししか向けられず、さらにそれを助長させるのはショーン・ペンを全面的に肯定する妻の存在で、それを見つめるただ唯一の弱者かもしれない「デイヴ」の妻の、憎しみとも哀しみとも解釈しづらい表情の前に、ただこちらも困惑せざるをえない。
「ゲゼルシャフト」で行われている視覚的操作の分析を中心にして、学会論文を書いてみようと決めた次第。日常的に統計の視覚化をやってみると、「ゲゼル」では理解のために様々な視覚的配慮が行われていることと、そのためのかなりの簡略化(とごまかし)もあり、よく見ていけばもう少し分かりやすい表現もあったのではないかと思われる箇所もあり、ノイラート至上主義から離れ、「統計を視覚化する」という行為を一般化した中で行われる視覚的操作をまとめてみようという次第。
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