2008年7月アーカイブ

洗濯が終わるまでの時間が空虚なので、ログ。

「白い馬/赤い風船」
「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」
を立て続けに。
ポエジーだかロマンチシズムだか知らないが、「心の交流ですよ」といわんばかりに子供と馬を切り返しで見せるところなど、どうやっても食えない「白い馬」。馬は演技をがんばっていたが人間は馬に振り回されるばっかりで、「これが続くのはつらいなあ」と意気消沈していると、「赤い風船」はパリの町並みの助けも手伝ってか、幾分か見れる物になっていて、とりわけリマスターの色彩調整は最高に美しいが、風船を擬人化されるのはやっぱりダメだと呟かざるをえない。
そんなこんなで期待した「レッド・バルーン」は、もうファースト・カットから魔法にかかってしまう。風船の繰り方も抜群に巧いし、何しろ風船を擬人化などはせず、うまい表現が見つからないが座敷童や地蔵に近いものとして扱われている。「オマージュなどこれぐらいのイタダキでいいのだ」と言わんばかりの割り切り。後はもうただマーク・リー・ビンビンの繰るキャメラと共に、スクリーン上の肌理の変化にただ身を任せるしかない。ストーリーや辻褄などどうでもいい。いつ終わるかなどもどうでもいい。恍惚に浸っていると、「The Forgotten Times」と共に映るパリの町並みの俯瞰に感極まる。

既に洗濯は終わり、でかけて帰ってきたところだが、続き。

芝浦にて建築家・北山さんの講演。タワーに代表されるアイコニックな建築よりも、人間と人間の関係性を建築によって作っていくようなダイアグラミックな建築の方をやるべきで、それが高じてアイコニックになっていけばよいという話。久しぶりにデザイナーさんの話を聞いたけど、すごく刺激を受けた。少なくとも形式至上主義ではなく、利用者のことを考えてる時点で信用できる。個々のプロジェクトに関しては色々思うところがあるけど、とりわけ白石の小学校のプロジェクトで、「制度」で定められている1クラス40人を、本来集団として望ましい100人以上へと改善していくために建築的解決を行ったという話は、(氏が語られていたように)ノイラートが「建築家は未来の社会に対して責任を持たなければならない」とかなんとか言った話やらジードルンクの議論やらを思い出して、感銘を受ける。

ダグラス・サーク「翼に賭ける命」
父親が飛行機レースで墜落しそうになっている時に、レース場隣の遊園地で、乗っている飛行機の遊具から降りたくても遊戯中は降りられず泣き叫ぶ息子。不倫が善だとか悪だとかいった紋切り型の倫理観を超えた複雑な心情を表現しつつもいたってシンプルな脚本。アクシデントで飛行機が墜落し、主役の一人であるパイロットが死のうとも、むしろ重要なのはその後残された人々の生き方であるというポジティヴさ。ハリウッド50年代の完成された画面づくりとビシビシとした頽廃感。これしか観に行けなかった自分の鈍重さを悔やむ。

既にこれを書き始めてから三日は経っているが。

おさむさんちで実家から送ってきたという讃岐うどんのパーティー。サマーでスロウな良い夜でした。しかし最近枝豆ばっかりゆでてる気がする。

明日から研究室旅行で香港に行きます。

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とにかくビールがうまいという日常。

「ターナー賞」@六本木ヒルズ
「家の鍵」@シネマヴェーラ
「アカルイミライ」DVD
「シェイディー・グローヴ」DVD
「エミリー・ウンガワレー展」@六本木新美術館
「崖の上のポニョ」@ヒルズ
足立区花火大会@梅島

ポニョは普段出さない感情(「かわいい」)がフローして疲れた。大嫌いな恒例のイケメンは出てこないし、シンプルで良かったです。ちょっとしたギャグも。水の表現のどの辺に賭けてたかは今イチ読み取れなかったけど。みんなが好きらしい宮崎駿的なドタバタワクワクアクションはあんまりないけど、もっと些細な動きに微笑まざるを得ないというか。クラゲ大量発生は直前に見た「アカルイミライ」を必然的に思い出した。

荒川北岸(梅島)から見た足立区花火大会は、あの寛ぎっぷり(ギリギリに行こうがベスポジ確保できる)と打ち上げ発数と演出のバランスが絶妙で、過去に見た花火の中で最高でした。BGMに合わせて花火を打つというのは想像よりかなりイケてた。

あとは、日常的に就寝前のチミノ監督作品DVDの見直し。

何かを噛むと左顎関節部が痛む。虫歯なのか関節が悪いのかよくわからない。歯医者に行くべきか、整体に行くべきか.....。

私信:
ここ二ヶ月ぐらいあれこれ落ち込んでおりましたが、レスポンスの悪い私に愛想をつかさず連絡とかしてくれた方々、ありがとうございました。我ながら、こんなに感情の上下があったのは初めてです(汗)。研究やら仕事やら体調やら人間関係やら、色んな波の振幅が大きくなって、最悪の時は最悪が重なったりしました(身内に不幸があったわけでもないのにね)が、もう大丈夫です。

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特に書くこともないが一週間経ったので先週のこと。

「ほんとに何にもやりたくない」と呟いてしまった状態から、腹痛を経て、「読むべき本たち」を読んだらなんとなくはモチベーションがあがってきた。というか、強迫観念のように研究・制作してきた流れを断ち切って、「何もしなくてもいいんじゃない?」ぐらいの余裕で数日間本を読むだけの日々を送ったら(なんだか懐かしかったが)、逆に意欲がわいてきたというか。かといって作業は何も進まないけど。英語学校でwell-organisedとかself-disciplinedとか習って、今の自分にはあてはまらん、スイマセンとしみじみ。

ふと検索で気になった『チルドレンズ・ミュージアムをつくろう』を買って読む。何やら権威ぶった数多の「博物館学」の本よりも、この真摯な本の持つ刺激と言ったらない。「チルドレンズ・ミュージアム」の発端であるアメリカのチルドレンズ・ミュージアムの広範囲なレポートから始まり、そこだけでも刮目するが、あくまで伝えることを目的としたミュージアムのあるべき姿やその必要条件を導きだし(「ハコではなく中身からミュージアムは作られるべき」、「hands-on 参加体験」型のアトラクション、運営方法、ワークショップ、地域性など)、実際に福島県霊山町にチルドレンズ・ミュージアムを作るにあたってそれらの分析をどう翻案していったかという、非常に勇気が湧くレポート。日本におけるワークショップの先駆者・実践者としてうちの主任教授が出てきたり、大先輩たちが関わっていたりするなど、個人的な驚きも多々。モノとしては実際行ってみないと分からないけど。やはりいつかはミュージアムを持ちたいという気持ちを確認する。

あとは、「マディソン郡の橋」(不倫ものがこんなに許せるなんて....魔術)と「マイ・ボディガード」(クリストファー・ウォーケン様!)を観て、ようつべでAl Greenとか聴きまくったぐらい。あ、「歩いても 歩いても」観たか。
先週で勤務が終わり、数日先まで何も縛られていないと思うと、俄然やる気が出てきた。夏休みは危機感が充満しているけど

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体調絶不調の先週。何か悪い物を食ったらしい。勤務日以外はサウナ化する自宅でクルーグマンとコールハースと中原昌也を読んで過ごす。「あらゆる場所に花束が」で饒舌にフローするブサイク論が最高。

6割方回復した日曜(このくそ暑いのに寝てられるか)、久しぶりに上野。
「バウハウス・デッサウ」展。
今さら感たっぷり。寄せ集めで第一部の「ワイマール」編をつくり上げるぐらいなら、やらない方がましだ。あのキャプションと年表では何も伝わらないし。第二部の「デッサウ」編は、それなりに物はあったが、やはりエディティングは貧弱で、あれではただの造形教育の部分しか伝わらないではないか。「ああ、バウハウスの造形教育をいまだに引きずっているのね」ぐらいしか思えない。校長同士の社会的イデオロギーの違いが造形教育に反映していることを差異化して示すべきではなかったか?「ただある物をそれなりに並べて展示すればそれなりに客が来るんじゃないか」というあの上野エリア全体を覆う国立・都立の怠慢主義がそこに現れていると呟かざるをえないじゃないか。変に大衆に迎合しようとするのも、大衆を馬鹿にしているだけにしか見えないよ。入館料たけーし。

「ムーラン・ルージュ」(dvd)は、ニコール・キッドマンの現役最強ぶりを確認した以外は、もはやミュージカルなどまともには撮れないのだなという哀しみになんだか同情したくもなったり、んー、特に言う事もなし。

「ミスティック・リバー」(dvd)は、イーストウッドの「許されざる」ストーリーの系譜の中でも、何とも後味が悪く、腑に落ちない。「デイヴ」の死は運命論で片付けられていいのか?あるいはそういった現状が社会的に存在しているということを表象しているのか?「許されざる者」のジーン・ハックマンもイーストウッドも死なず、ただモーガン・フリーマンが死んで、その二人が「しょうがないよね」と言っているような.....(そこまで不謹慎ではないか)。「デイヴ」の死に対する善悪判断の問題が宙吊りにされたままなんとも不吉に進行する最後のパレードシーン。もはや誰も感情移入を許されない。何もなかったかのように時間を過ぎさせようとするショーン・ペンとケビン・ベーコンに対して困惑の眼差ししか向けられず、さらにそれを助長させるのはショーン・ペンを全面的に肯定する妻の存在で、それを見つめるただ唯一の弱者かもしれない「デイヴ」の妻の、憎しみとも哀しみとも解釈しづらい表情の前に、ただこちらも困惑せざるをえない。

「ゲゼルシャフト」で行われている視覚的操作の分析を中心にして、学会論文を書いてみようと決めた次第。日常的に統計の視覚化をやってみると、「ゲゼル」では理解のために様々な視覚的配慮が行われていることと、そのためのかなりの簡略化(とごまかし)もあり、よく見ていけばもう少し分かりやすい表現もあったのではないかと思われる箇所もあり、ノイラート至上主義から離れ、「統計を視覚化する」という行為を一般化した中で行われる視覚的操作をまとめてみようという次第。

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グラフィック・デザインのことなんか「愛している」なんて決して言えないのだけれど、どこまで言っても最終的にはグラフィックの人間だという立場を自覚するしかないし、それを武器にしなければ食ってはいけず、手が勝手に動く方ではないので、「これだけは必要だ」というものをなんとか捻りだして今に至っている。都市リサーチというのは、数理分析の出来る理系でも空間に直接手を下せる建築家・都市計画家でもないいちグラフィックデザイナーにとって結構絶望的な状況で、「単なるヴィジュアライザー」に甘んじるのでない限りは、What can I do?状態で.....と書きかけたけど、なんか自分の範疇を限定している気がしてやめた。もっと勉強すればいいじゃん。

先週見たもの:
チミノ「サンダーボルト」
チミノ「シシリアン」
ファスビンダー「哀れなボルヴィーザー」
同期の展示@G8
橋口「ぐるりのこと。」

「シシリアン」の大して重要な意味があるとは思えないが過剰に執拗なバーバラ・スコヴァの出演シーンに、「ディア・ハンター」の結婚式や「天国の門」の円舞に通じるチミノ的逸脱を見た。

「ぐるりのこと。」は、「サッド・ヴァケイション」の光石×齋藤のアドリブ的でフランクな生活的会話が、作品全体を通じて行われるような生活映画であり、ここでも弁護士だか検察官だかの役の光石研が、チョイ役ながら最高に弱々しい台詞回しをしておられ、幼児バラバラ殺人の裁判シーンというシリアスな場面ながら、一人で含み笑いを押し殺した。絵に描いたようなゆるーいプレカリアート軽メタボ中年を地で行くリリーと、流産を重ね夫とのコミュニケーション不協和の中で次第に思い詰めていく木村多江。もはや神の領域に達した柄本明と、スレた元ホステス役の安藤玉恵、どうしてもうちの弟とダブる新井浩文と、グッドキャスティングのオンパレード。完璧に感情移入してしまい、「もう許して」と心の中で叫ぶ。ガラにもなく「家族っていいなあ」と呟き、(一見)生活と剥離された自らの研究を思い直す始末。おかげで半日は茫然自失。

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